少年Aは孤独だけ

@PostalUK

少年Aは孤独だけ

「しょうねんAはこどくだけ」。



・1


では、あらためて、一つ、舞台を頭の中に思い描いてほしい。


誰しも一度くらいは何か舞台を観たことがあるだろう?

ない? ふざけるなよ、ジェス。

例えば学生時代に芸術鑑賞という題目で観たような、内容を一切覚えていない県営劇団の舞台だとか、同じく隣で眠りこける同級生のいびきの方が高らかに聞こえた文化会館でのカルメンだとか、いつどんなきっかけで観に行ったのかも覚えていないような世界的だと誇大広告を打たれるパントマイマー達の公演だとか一つくらいはあるだろう?

いや、ジェス、お前はともかく、確かに一度も舞台を見たことがない人間がいて、そういった客に配慮しろって言いぐさもわかるけど、今、俺にとっての客は君だけなんだから少し黙っていてくれないか?

この話の中の君は舞台の上にいるんだ。俺の噺の中に現れる君を含めた登場人物は、彼らは、舞台の上に現れて、場面が終わればその都度、暗転と共にさっぱり壇上から消えていく。舞台の上思い思いに立ち回る彼らは色彩豊かな照明に照らされて、そのバックグラウンドでは常に音楽が流れている。

どんな音楽が流れているか? ね。

いや、今回は『Sing, Sing, Sing』じゃないよ。音響は俺の管轄ではないから、そうだな、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのベストアルバムじゃないか? タカが君たちの出会った町の気象台に置いていったものだからとかそんな理由で。シリアスリー、俺はマジで彼らの音楽が好きだったから、そうだったなら何の文句も言わない。

音響班との詳しい打ち合わせなんてしていないけれど、ひとつだけ確かなのはここで俺が人差し指を上に向けるとブザーの音が鳴ること。

ほらな、はじまりだけは稽古したんだ。

ブザーの音を合図に俺を照らしているピンスポットライトが消えて、舞台上が明るくなる。君の人生の中に居た人々がそれぞれの立ち位置についたまま時間でも止まったみたいで、皆セリフが回ってくるのを待っている。緞帳が上がり、拍手がやんだあと、舞台は君の前口上のような長ったらしいセリフから始まる。

いいはじまりだろう? ほら、拍手をしてくれ。

 

「故郷から見える海だけが、唯一僕の元に真っ当な物語を運んできた。海流に乗った世界中の本が浜辺に打ち上げられるようにして、僕らの生まれた港町に住む人々はいつでも物語を語って聞かせる。船乗りたちは映画に出てくる囚人たちなんかよりよほど雄弁に女性たちについて語り、カモメは季節と気候の変化を知らせ、漁師たちは海で出会った捕まえることのできなかった巨大な獲物についての話をする。タンカー船の船長は経済紙の世に出るよりも早くに景気を言い当て、輸送船がその景気を追いかけるようにいつの時代も様々な新しい物資を港へと運び込んできた。

客船は港に、人を、異国を旅した人々から生まれる物語を運んできて、少年に西洋への憧れを残した。海上保安官たちが密漁者よりも幽霊やUFOを怖がるのを聞いて僕らは笑い、同級生たちは対岸の港が異国の夜景のように光る税関の前で少女たちに愛の告白をした。そんな風に少年だった僕の日々はいつでも物語に溢れていた。海は詩人たちよりも激しく、小説家たちが一生をかけても書き切ることのできない程多くの物語を少年の下へ運んできた。なんの嘘もない、海辺の住人達による演劇祭。僕の故郷の港町はいつでも賑やかで、いつでも誰かが笑っていた」。


・2

山の麓から登山口にたどり着いた時から雪は風にあおられて横殴りに僕らの上に降り注いでいた。山を登っていくほどにそれはひどくなり、僕ら二人の行く手を阻むように白い壁となって押し寄せてくる『雪崩にでもなればいい』そんなことを思いながらにらみつけるように前を見る『そうしたらここで立ち止まっても、誰にうしろめたさを覚えることもないのに』と。

雨ならば、どんなに強い雨が降ろうともこの時間なら、見上げれば曇天の空はそこにあるというのに。この降雪の中ではどれだけ遠くを見つめようとしたところで、真っ白な雪が僕の視界を遮るばかりで、ろくに自分の進む道さえ見えやしなかった。

防寒着の上、ゴーグルの上、山への侵入を防ぐように絶えず雪は打ち付けてきて、僕らを押し返そうとする。登り始めてから時間がたてばたつほどに疲れから体の感覚が少しずつ希薄になってゆく。歩いているというよりも、掘り進んでいるという方に近い。なるべく後ろを歩いている先生に負担をかけないよう、重たい雪をかき分けながら進む。

真っ白な海を進む。ナイトダイビングのようだった。狭い視界の中、確かに彼らの腕は雪の壁を押し開け、自分の腕に力を込められているという実感もない中、ひたすら白い壁の中を進み続ける。徐々に頭がぼうっとしてきて。一瞬だけ、水中を漂っているような浮遊感を覚える。

視界の中に広がる、真っ暗な海中自分のライトだけを頼りに進み、昼間よりも活発に生き物の行き交う夜の海を観察して、海底でとどまりながら、ほんの出来心でライトを消してしまう。光を失って、上も下も分からない闇の中何も考えず波にゆられる。その時の自分自身は、何にも抵抗することのできない海の中にある一つの形でしかないとか、そんなことを考えながら、何百年も前に沈んだ船に積まれたヴィーナス像のように、全てを諦めて、ただ海底に刺さっている間、海はとても優しかった。

これから生まれてくる子を待つ母のように僕を甘やかしながら、ゆりかごのように揺られながら、僕を包んでいる。それでも海底の中にあったなんの事象も起きない安らかな暗闇が、突然牙をむいて僕を襲ってくるのではないか、僕はここでわけもわからないまま命を落としてしまうのではないか、と、そんな不安が芽生えてしまう。


同じようにこの吹雪の中で抵抗することを止めたのなら、たちまち降り続ける雪に生き埋めにされて、後世に残ることのない氷像になって、無残。この山に打ち捨てられただけで終わってしまう。それは言葉だけを並べた時、疲労を越えて歩き続けるよりも魅力的な誘いのようにも思えてしまう。このまま腕を動かす必要もなく、どこに進む必要もない。ただ目を閉じて暗闇の中吹雪に吹かれるだけで終わってしまう。

寒く痩せた土地で作られる白いアイスワインの甘い風味が口の中に蘇った。

そうやって犬死できるチャンスは実はそう多くはない。悪くない話だ。

例えばバイクで走る中、もう避けられない衝突が目の前に差し迫った時に思い切りアクセルを開いたところで、月面歩行のように宙を舞い、ヒキガエルのように地面にたたきつけられたところで、死ぬことは出来ず、何事もなかったように起き上がるだけだ。

『今回は違う。諦めればそれだけで終わることが出来る』もちろん、その結末を選ぶつもりはなかい。捨てることの出来ない目的と、ここに来る前に先生とした破ることのできない約束がある。

僕は後ろにいる老人をどんな形であれ故郷へとかえさなければならない。それだけは誰にも託すことができない、もしもこの吹雪の中で僕が倒れてしまったのなら、誰がその願いをかなえてやれるというのだろう? ここで二人とも倒れてしまえば、誰もこの山で僕らが遭難したなどということは知る由もなく、僕の死体も先生の死体も、次の夏が終わるまで誰に、きっと腐ってなくなってしまう。

そんな不義理を僕は自分に許したくはない。

先生何も文句を言わずに歩き続けているのに、自分が止まれる理由はない。

僕らは故郷を同じくした。同じ、雪の降らない温暖な港町で幼少から青年になるまでを過ごした。準備はしてきたものの雪の中を歩くことには不慣れだ、だからと言って泣きごとなど言ってはいられない。雪中行軍のようにひたすら前へと進むしかない。


歩き始めてどれくらいの時間が過ぎたのだろう?

いつしか長い歩行がたたり、先生は左足を半ば痛めていた。引きずりながら自力で歩くことも困難なほど痛めており途中からは僕のほうにその体重のほとんどを預け、それでも必要以上の負担はかけまいと。残ったほうの足に渾身の力を込めて雪中を進んだ。

気の遠くなるほど歩いた。

僕の足も限界が近いのか小刻みに震え続けており、踏み出す一歩の長さを間違えたら足がつるか肉離れでもしてその場に倒れ込むしかなくなる程に疲労がたまっている。もう意志を貫こうという思いだけでどうにもなりそうもない……と、いよいよもって限界にたどり着こうという頃になって、ようやく視界が開けた。

打ち付けていた吹雪は弱まっていき、真っ白な壁を掘り進んでいるようだったな視界も見通しのきくようになってきた。雪は完全にやんだわけではいないが、見上げると雲の切れ間から青空が見える。

いるのは、大きな岩のゴロゴロと転がる高原のようだ。平坦で、傾斜のある斜面とは違い歩きやすい。大きな岩は、影に入れば雪と風をしのぐことが出来そうだ「先生、あそこで休憩できるかもしれません」そう言うと、僕に体重を預ける先生は無言で岩を指し、僕にそこへ行くように指示をする。


体を必死に動かしながら、高原の中を歩く。先生の示した岩は4メートルを超えていそうな大きな物で、自然に生まれたというよりも石切り場の中、取り残され、放置されたような、綺麗な切り口の台形をしていた。

と、その場所にたどり着こうかというとき、先生が何か口を開く。先ほどまで言葉も発しようとはしなかったが、何度も口を動かして何かを伝えようとしている。だが雪は弱くなっていようと標高の高いせいで風が強く、僕は必死に師の言葉を聞きとろうとするが、何か言葉を発するたびにその音ごと横にさらわれ、どうしても聞き取ることができない。


ようやくその岩陰にたどり着くことができた。風も遮れ、会話もいくらかはできそうであった「なんていったんだ? 先生?」この山にたどり着くまでに大方、必要な話は終えているのだが、何かを今になって言おうというのなら、聞いておきたい。思い声を張り上げて聞き返す。

風は岩にぶつかると低いうなりを上げ雪原の向こうへと消えていった。老人の口が開くたび、風はうねりを上げ、いつまでたってもその言葉は耳へと届かない。いくら耳に手を当てても、その音は消えることがなく僕らの周りを駆け巡るようにして、その場に留まり続けた。

そんな僕の様子に、自分の言葉が届いていないことを知った先生は半ば胸ぐらをつかむようにして僕を自分のほうへと引き寄せた。耳の近くまで顔を持っていゆき、まだ整わない息の中、どうにか言葉を伝えようと一番底から空気を絞り上げるように声を出す。

「ここでいいと僕は言ったんだ。わかるな? タカ」

いつもの艶のある、客席の奥まで通るような声を出す体力はもうどこにもないのだろう。

洞窟の奥から風が抜けてくるかのようなかわいた声で短くそういうと、僕を突き放そうとする。僕の肩を突き放すように押しながら開こうとした先生のこぶしを、僕は上から握った。

「先生、なんといいましょうか」言い残した言葉がある。

あるはずなのだが、後に続く言葉を見つけ出すことが出来ず、目の前で僕の吐いた息が、煙草の煙のように空気の流動に飲まれて消えてゆく。思い当たる言葉をいくつも頭の中に浮かべるたび、それは違う、と、消し、言うべき言葉を探し続ける。

今まで幾度となく語り続けてきたはずなのに言いたいことが多すぎる。今この瞬間に言うべき一番大切なものなど選べるはずがない。感謝は、今言うべきではない。やはりここで彼を説得して山の麓まで連れ戻すべきだろうか……万感の思いをもって目の前の老人を見つめていた。

「春に」

(そんな彼の逡巡が手に取るようにわかるからこそ、老人は沈黙を破らなければならなかった。後進たるこの青年をここにとどまらせておくわけにはいかない。

自信の言葉をもってして彼を遠ざけねば、自分についてきたこの愚かな若輩を自分がいなくなった後にも一人で歩んでいけるように、迷いなく前だけを向くことが出来るように導かなければ、そのために彼に言葉を送らなければ)。

「春になったら迎えに来てくれ。そうして必ず私を故郷の海へとかえしておくれ」

(その状況の中に在って、老人は短くも力強くかつての自分自身に対してそう告げた)。



「ありがとう」

老人の言いつけ通りに振り返らずに来た道を戻る青年のその姿を満足そうに見つめていた。やがてその姿も見えなくなると雪の上に座り込み大きく息を吸い込む。ずいぶんと体は疲れていたが反面その心持ちは穏やかで、なぜだか高校の卒業式を終え、一つ明確に人生に区切りがついたと実感しながら、帰り道晴れ渡る空の下、川沿いの桜並木を自転車で進んだ時のことを思い出した。

気持ちを切り変えるため、老人は氷点下の外気を肺いっぱいに吸い込んだ。肺が広がり、感覚が鋭くなっていく。自分の体が震えているのがわかる。疲れ切った体とは関係なしに頭だけがどんどんさえてくる。心臓が聞いたことのない音をたてて脈打っていて太鼓の音のように聞こえる。視野が広がっていく……老人のその瞳は痩せた土地に巣食う猫のよう今にも倒れそうなその姿とは裏腹に力をもって煌々と光っていて、降っている雪の一粒一粒粒でさえはっきりと視界の中に捉えることが出来るほど意識はさえわたっていた。老人は立ち上がり、背後にあった岩を登りはじめる。その上には音が何もない無音の空間が目の前に広がっていて、今まで、何千、何万と語り手として過ごしたその時間を思い出したながら、自分自身の人生を全うしようと、声を張り上げた。自分の声がどのように響くのか、今の自分のか姿が観客にどんな風に見えるのかそれがわかる。

観客など一人もいない。誰もこの場所には来ない。

客席の一番前で彼を見ているのは彼自身だ。自分がどんな姿をしていて、どんな声で語っているのかがわかる。彼は嬉しくてうれしくて仕方がなかった。そこにいるたった一人の観客に自分の訴えを届けるために、自分がいかに愚かであさましい人間であったのかを伝えるため、自分の人生が一体何のためにあったのかを語るため、彼は声を張り上げる。


青年は唸りをあげて自信を追って斜面を下ってくる風の中、自らの師の声を聴いた気がして一度だけ振り返った。もしかしたら老人が自分を追ってきたのかもしれない。と、だが立ち止まり目を凝らすもそこに師の姿はない。それを確認するとまたすぐに山を下りはじめた『春に必ず帰ってきます』と、心の中で呟いて、彼は遥か彼方に消えた雪原を背に風の音だけを聞いて進んだ。






・3

上手舞台袖から現れた男が中央へ向かっていく。

目鼻立ちの整った老齢の男。頭髪が少し寂しくはあるが、白髪の隙間に地肌がところどころ見えている程度でまだ禿の目立つほどということはない。ぱすっ、ぱすっ、と空気を抜くようにして木目を靴下のなぞる音がしては聴衆のいない客席の綿布の隙間に消えてゆく。

それが僕の走馬灯の果てに観た光景だった。

「やあ、ジェス。まずは頭の中に一つ、舞台を想像してみてくれ、得意だろう? そういうの?」

一目見ただけではわからなかったが、声を聞いてそれが僕の高校時代の学友だと気が付く。

長い間会っていないはずなのに、僕の過ごしたのと同じ分年を取っている彼の姿に驚いた。

「得意、不得意、以前になぜそんなことをならなければならない?」

「これから、話をするうえでその方がイメージしやすいからだ」

「そう言うのは語りで相手に想像させんだ。マクラの部分で引き入れるんだよ。へたくそ」

「ジェス。頼むよ。俺からしたらこうして畏まって話すこと自体久しいんだ」

「映像なんてものに逃げていたからだろ」

「いや、そもそも俺と君は目指していたものが違うからね、逃げていたわけじゃない」

「そういうのを言い訳って言うんだ。僕はどっちにも本気だった」

「君はいつでも不器用なんだよ。ジェス。昔っからそうだ」

「お前は昔から器用貧乏なんだよ。昔から逃げるのだけがクソみたいに下手だ」

「下手も何も俺は何かから逃げたことなんて、一度もないからね」

「そういうところが貧乏なんだよ。認めちまえば楽なのに、普段から練習しないから、結局、最後も逃げられず潰されることになるんだ」

「まあ、それは残念に思うよ。あの時は必死に逃げようとはしたけれど無理だったね、そのせいで君の最後の作品を観ることは叶わなかった」

「それは今からながすぞ、こっち来て座れ」

「いや、それとは別のやつだ。俺が死んだ年に封切りしたやつ。故郷の、清水の映画館で君と並んで観たかったな」

「いやだよ。何が楽しくてジジイが二人で里帰りした挙句に並んで映画観なきゃいけないんだよ」

「いいじゃないか、何にも拘らずに高校生の時みたいに気楽にさ……それが出来なかったから、こんなだだっ広いホールの中に二人だけになってしまったのかもしれないね。俺の未練なのか、君の未練なのか、なんにせよ会えたのは僥倖だった」

「本当にな、なんでこんなところにいるんだろうな、というかこっちに降りて来いよ。話すにしても遠い」

「会えるかどうかはわからなかったけれど、確かに俺は君を待っていたんだよ。ジェス。この場所で君が来るのをずっと待っていた。君に、君の噺を聞かせるために」

高校三年生の春の夕暮れ。校舎三階、職員室の上にあたる場所のルーフバルコニーでベンチに寝転び文庫本を読んでいたこの男の姿を思い出した。

「今日のお前は取り立てて変だな。僕の噺?」

「そう、ジェスの噺」

「待っていてくれたというのなら悪いが、今更僕の噺なんか聞きたくないぞ、それにどうでもいいけれど、僕のことをジェスって呼ぶのやめてくれねえか? 僕まで西洋かぶれしているみたいで嫌なんだよ」

「いいじゃないか呼び方くらいは俺の好きにさせてくれ、君のことをそう呼ぶのは俺だけなんだから、俺といるときくらい我慢してくれよ」

「西洋かぶれしているみたいだってのもあるけど、久しぶりに会った幼馴染に変なあだ名で呼ばれるみたいでこそばゆいんだよな、そう呼ばれるのはいつ以来だ? タカに初対面の時に呼ばれたのが最後か、あれも何年前だったか思い出せない程昔だ」

「いいから聞いてくれよジェス。君の噺だ」

「いやだよ。何で僕の噺を僕自身が聞かなけりゃならないんだ。そしてなぜお前が、その僕の噺を語るんだ?」

「君の話を君が聞かなければならないのは君にとって必要なことだからだ。そして、こうして俺が話すのは、こうして舞台に立つことこそが叶わなかった俺の子どもの頃からの夢だからだよ」

舞台上に立つ男はどこまでも自分勝手な暴論をぶつけてきて譲ろうとはしない。自分の過去を知る人物と自分の知らない場所にいて、ずっと前に死んだはずの彼がなぜか僕と同じくらいの老けた姿で目の前に立っている。出来損ないの明晰夢をみているみたいだと、どこか楽しく思えた。その夢が一体どこへ向かうのか僕は成り行きに身を任せることにした。どうせもう目を覚ますことはないのだから。

「そうか、わかった。聞いてやるよ」

自分のわからないものを知れることはいくつになっても楽しい。決意のうちにたどり着いたこの夢の生末がどこになるのか僕は興味があった。積み上げてきた自分の生が僕に何を見せてくれるのか、ただただ期待だけをして僕は客席の中、ふんぞり返って舞台を見上げた。 

・3

置かれたマイクの前に立ったタカは、君のたった一人の弟子は、目の前広げた式辞用紙に目を落とした。俺が一度も見たことのない礼服姿で弔問客の注目を集める彼は間をとるために両の手で支えるようにして持った紙を確認するフリを念入りにしてから顔を上げる。

 何があるわけでもない空間、幽霊でもいるかのように、タカだけが見える誰かがいるかのように一点だけを見つめる。その瞳の先にはきっとジェス君がいるんだろう。

「まったく、言語のつたなさとはそのまま幼さだな。

先生の口癖の一つでありました。私が先生に巡り合ってからどんな噺を覚えるよりもどんな作法を盗み取るよりも先にその言葉について考えるようになりました」

君は早くして若さを失おうとしたのに、タカはそれには習わなかったな。君の周りに居たのに誠実で純粋で濁りなく清んだままで出会った少年の時と何も変わっていない。

顔を上げ、言葉を紡いでゆく彼は、書かれた文字を読んでいるわけではなく記憶の中に在るものを呼び起こしているだけのようで、手の中で開いた紙に目を落とすことはなかった。

「先生はため息でも吐くかのようによくそんな言葉を口にしていまして、酔いの席で煙草を吸いながらなんの話題も見つけることがかなわない時の穴埋めに、何かの会合終わり心底疲れた顔のまま乗り込んだタクシーの車内で愚痴でも漏らすように、出番前の舞台袖こなれた風を装いながら何度も体を揺らしているのを私に見られて、照れ隠しのように……それは所場面を問わず、私が最後にあった日にも。

頭の片隅に残っているお気に入りのメロディーを口ずさむようなものだったのかもしれませんが、最期までその言葉は私と先生の周りをついて回り続けていました。出会って最初の五年間、教えを乞うために彼の傍をついて回った私は何度も何度も先生がその言葉をつぶやくのを聞いて『ああ、また言っているな』と、聞く度、意識して、言葉の意味を考えるのです。ただ、当時の私にはまるで意味が解りませんでした。その言葉にどれほどの意味があるのか、なぜ先生がそんなことを口にし続けるのか、自分の中で答えを出すだけなのに私は随分と長い時間をかけてしまいました。

なにせ貴方はつかみどころのない人でしたし、私と出会う以前の事は結局、断片的に聞くばかりでそれを知るであろう誰かも先生の周りにはおらず……先生のそう言った性質もあって、どう言った意味合いでそれを言っているのか知る術はなく。単に言葉の意味を理解するにも当時の私は若すぎました。それでも何度も口にするものですから真面目な私は何か芸をするうえで重大な意味を含んだ言葉なのではないかと思案しておりました。

五年間、何もない時間に聞かされ続けたからでしょうか、先生のもとを離れ一人で仕事をする機会の増えた後になっても、あなたの癖が移ってしまったようで、なんでもない隙間の時間が生まれるたび、何もない無音の時間が訪れるたび、先生の声が頭の中に浮かんできて、ずっとその言葉の意味を考え続けていました。解けない物事について考え続けるというのはなかなかに楽しくはあったのですが、ある時、ふと、貴方はずっと何かを悔いていたのだとそんな考えに至ったのです『先生はずっと自分自身をせめ続けているのではないだろうか』とそんな仮説が私の中に生まれて『自分が発しなかった言葉のせいで達成できなかった事柄に対する後悔があるのだ』と。そんな意味を孕んだ言葉なのではないか? と、そんなことを思いました。

何百何千と人前で言葉を紡ぎ、とても数えることの出来ない程多くの人間と関わった後になって実感として得られたものを言葉の意味としてあてはめた時、すとんと私の胸に落ちてきたのがその説でした。本当に伝えるべき時に伝えられなかった言葉こそ、先生の心の隅に残っているもので、先生はその何かを思い出すたびに自分自身を責めていたのではないか? と。名前もつかないような罪状を過去の自分自身に言い渡して、そのことに対して思いをはせていたのではないか? と。

その言葉に対して……最後に顔を合わせたその時まで、先生は同じ言葉を口にしましたが、私にとっての後悔は自分なりに答えを出したことを先生に一度も言わなかったことです。確かめて、もし私の考えが正しかったとして、その言葉を否定するため、真っすぐ感謝を述べるということをしなかったことです。

いつでも、貴方は私を正しい方へと導いてくれました。私が生きるための目標でした。落ち込んでいる時や道に迷った時、くれる言葉の一つ一つが私にとっての救いでした。貴方のくれた言葉がどれほど私の助けになったのかわかりません。ふざけているようで、おちょくっているようで、時には腹を立てることもありましたが、先生が間違ったことを言ったことなどただの一度もありませんでした。

貴方の瞳はいつも真っすぐ正しい方だけを見つめていました。決してブレることなく、どこまでも強く。そんな貴方についていたこの十数年がどれだけ幸せだったのか、そんなの、言葉で表せるものではありません。どれほど感謝を述べようと与えてくれた幸せを返しきれるはずがありません。だから、貴方の最後の我儘を聞こうと決めたのです。

もし先生が最期まで囚われ続けた過去とそれでようやく向き合えるのなら、何も言わずその背中を押そうと、私はそう決めたのです。

しっかりと送り出せたのかどうか、いまでも私には分かりません。

先生が旅立ってしまう前に言うべき言葉はいくつもあったと思います。

それを言い切ることが出来なかったことこそ、それこそが私のつたなさです。

ですが……それでも、先生、貴方に出会ってから私の人生はずっと幸せの中にありました。先生との出会いを、過ごした日々をこの先に何度も思い出す度、私はそれを実感するでしょう。貴方に出会えて私は本当に幸せでした。どこを切って思い出しても貴方には感謝しかありません。本当にありがとうございました。

どうか安らにお休みください。

202x年 2月3日 柳葉隆人」。

一礼、黙とう。

『貴方が自分自身の過去と正面から向き合えることを祈っております』と、タカは心の中でそう君に語りかける。とはいえこれはタカが表向きにそう言っただけだ。

俺たちがこの言葉の続きを聞くことが出来るのはその日付から数か月が過ぎた春の日のことで

「この先生という人物は、まるで信仰心など持たない人でしたから、それはなぜそんな人間が仕事とはいえとある宗教の聖地ともいえるような場所にいたというのが、不思議なんです。単に街並みが綺麗だからそこに行くことを選んだと言えばそれまでですが。それどこか心に引っかかっているんですよね。そこに行く前に先生の胸中に何か変化でも生じる出来事でもあったのかと疑問に思っておりました。それは都市伝説の中で語られる多くのピラミッドの謎ように明らかにされることのない疑問だけを孕んで、今なお私について回っているのですよ。

きっと大した理由などないのだろうし、正しい答えすらない物なのかもしれませんが、それを聞くことを忘れてしまったからこそやはりどこかすっきりとしないんです。何気なくでいいから聞いておくべきでした。先生がその町に居たのと同じ時期、若さからくる青さと言おうか、私自身が色々と自分自身で答えを出すことの出来ない思いに悩んでいたこともあって、話を振ってまで思い出したくはなかったのです。

いつかその理由を聞こうと思って忘れていた。その理由に対して不確ながらに関心のようなものが湧いたのは先生が初めて私に自分作った噺の一つを教えてくれた時のことで……少しそれにお付き合いをいただければと思います」。

タカは舞台の上でそんなことを語る。喫茶店で友人と話でもするように、さっきとはうって変わって気楽なものだ。気楽に言葉を紡ぐ。

「まず、この物語の一番初めに舞台に立つのは少女です。

言語のつたなさとはそのまま幼さである、と常々思う。

何の引用でもなく作者そのままの言葉でした。そしてそのままこの言葉を頭に添えた後、彼はこの物語から失踪しました。作者不在の物語は何処までも自由。末広がりに青天井。と、何の形にとどまることはなく。多くの人間が横柄闊歩、勝手気ままに動いているようで、ただ風に揺られて飛んで飛行船のようで一体、何処に行くのか?と


でも、行方は一つでした。


作者の手を離れた、何処にでもいけるはずだったこの物語は結局、予定された通りにひとりの少女のために。と、そんな形を選びました。

色彩も、悲しみもその音と彼女とともにあれたのなら、作者不在となってなお最後までその形だけは保たれました。どこにでも行くことはできた。登場人物たちも物語の行方も、できただけでなく、そうするべきだったのです。始まる前にここから離れるべきであったのに」。


少女の目線の先くたびれた様子の男が現れます。


『できたからと言って、そうするべきだったからと言って、ただの背景の楽団の一員である、僕はその場で楽器を置いて、始まってしまった楽曲を投げ出して、観客の目を振り切って、そのホールを離れる度胸なんてありはしなかったんだ』と、意味を持たない注釈のような文字列を口にしまう。

そこから物語は始まりました。

十代のころに作ったと本人がいう通りに、恥ずかしい詩作のような鼻につくオープニングです。先生、どうか貴方のいないこの場所にて先生を辱めることをどうかお許しくださいな、元はと言えば私の中にそんなものを遺すから悪いのです。燃やして捨ててしまえばどこにも遺らなかったのに、これも私にとってはこの場で人に語りたい絆の一つなのです」。


「これは元々からしておかしなところの多い話ではあるのです。思わず笑い声をあげてしまうような類のおかしさでなく。話として成立していない発展途上の物だといったような。聞いている途中で妙に気になってしまい。その場でこれは一体どういう話であるのか、と、私は先生に尋ねました。先生はいつも通りの落ち着き払った表情で、これは自分が若い時分に練り上げたものだ、本当のところは自分自身にもよくわからない。ただ何年も生きてくるとこうして若いころに思っただけの話が、積み重ねてきた経験のせいで、ただがむしゃらに練り上げただけの文字列が、急に自明の理のように誰の手も離れたところで完成された物語のように口をついてでてくる。物語自体が語りはじめるのだ、と。先生は最初にその部分を私に教えておきたかったとそう言いました。いつか私が書いたなんでもない文章が、時間を積み重ねた先、勝手に私の手を逃れ、自身の内面にて物語として舞台の上に現れるのだと。

『これはただの素だ。月日を重ねて別の物に変わっていった』。

その時の私はそれを一つの精神論や与太話の一つとしてしかとらえることは無かったんですが、今ならばわかります。こうしてここで話す思い出ですら先生と一緒に積み上げてきた物語の一つなのですから。


・5

老人は一人、声を張り上げ続ける。発するその声に共鳴するかのようにどこからか風が起こって、積もったばかり誰にも踏み固められていない雪が風と一緒に野山を駆けていく。

「それにしても困るのはこの話自体のことで、全く何人もの制作者がバラバラに過去を語ったものだから、俺の手に負えるところではなくなってしまっていることだ。登場してくる誰もが、主観と偏見をもってして、互いを見て、各々の記憶の中の過去を語るものだから、伝言ゲームでもしているみたい、物語が進む度に少しずつ少しずつ何かがずれていってしまうんだよ。ショービジネスだから、ジェス、観客である君に楽しんでもらえればそれでいいとは思うのだがね。君の友人二人を含めた周りの奴らが厄介だ。こいつらは誰もが主役を張ろうと舞台の中央に立って大げさにアピールしてくる。少しでも観客から目立つことをしようと、言葉尻を取りセリフを合い潰しあいながら立ちまわる。一番まいったのはそれだ。なんとか仲を取り持とうとしたけれど、結局は力及ばず。君が異国で出会った女の子を忘れないために書いた15分の文書は、ジェス、ただの君自身の物語となった。愛されていたんだなお前は。そうして脚色をされた物語はもう誰も止めることはできず、行方知れず、突き抜けていったよ」。

 一人、雪原にて楽しそうに叫ぶ彼は全くの別人に見えた。

「老人は広い劇場の中にひとりぼっち。赤い布張りの客席に腰かけていた。

じっと舞台の緞帳を見つめる彼は落ち着き払っていて。リビングルーム、カウチに腰かけた老人がそこを自分の終の居場所と決め、もう動くものかと居座るような態度で、放っておいたのなら窓から降りる陽だまりの中ゆっくりと老衰してそのまま眠るように天国にでも旅してゆくんじゃないか? と、思えてくるような佇まい。

そりゃ、劇場に日の入るような窓なんてありませんが。収まりがよさそうに見えた。

安らかに消え去ってしまいそうにみえた。今すぐ旅立ってしまいそうに見えて、まあ、老後の楽しみで旅をするのに金も体力も浪費しないのですから、天国ほどいいところはないですな。家族も喜んで送ってくれましょう。

放っておけばきっとそのまま消えていくのだろうとわかって。

本来なら止めるべきではなかったんでしょうが。

でも私は尋ねたかったんだ。それでいいのか? お前が語るべきことはもうないのか? と、なんでだか、彼に今一度聞いてみたかったのです」。

 老人の目はブレもせずに一点だけを見つめている。そこに声を届けるべき対象でもいるかのように。話す度表情を変え、身振り手振り動きながら、それでも視線だけはそこから動くことはない。

「いや、ね。本来ならたどり着くはずのないエクストラステージの様なものですし、聞いたはいいけれど彼にとって説明する必要なんてないんですよ。彼はそりゃ立派に生きましたから、約束通り幸せな結末を迎えるんでしょうがね、私が知りたかったんです。彼の事を。私と、それからもう二人。いや、私の願望も含みますがね、きっと彼も知りたいはずですよ。すっきりしておきたいはずだ。私とそれからもう二人。

いいや、思えば彼なりに整理はついている事なんでしょうが、いいじゃないですか、せっかく場があるんですから、付き合ってくれたって」。

・6

今から十数年ほど前だ。若かりしタカは秋葉原の小さな小屋で舞台に立っていた。キャパシティーは30ほど、駅から徒歩五分ほどの有名なコーヒーチェーンの隣に建つ古びたビルの地下。

ジェスと出会ってから三年たっても彼は先の見えない生活……というか自分の目指しているものが何か具体的には分からないまま、とにかくライブシーンを盛り上げることに若さを燃やしていた。演劇もしたしスタンダップコメディの真似事の様な事もした。コンテも舞踏も踏んだしタップダンスなんかも習ってみた。

「次に覚えた話の中で一人の偏屈な男が出てきた。先生の作る話の中、物語の外側を宇宙遊泳のように全く別の視点から自由に闊歩する人物が時々いる『彼らは現実にここにいるわけではないから、君がもしこの話を公にするようなことがあったとして、何かの事情があって改変をするのなら、彼らのことは忘れ去ってしまっても構わない。彼らはただの観客で、物語の進行には一切関与しないのだから。ただのナレーターか狂言回しのようなものだ』と、先生は彼らをそう評す」。

その日は現代口語というか、どこかで観たような形式の会話劇をしていて、これはひどく退屈だった。

「偏屈な男は退屈を嫌う。初めて登場した彼は横浜の劇場で草の影に映る獲物を見逃すまいとする狩人のように鋭い目つきをもって緞帳の上がらない舞台をにらんでいる。何かが始まる前の劇場に霧散する意味をもたない聴衆が生む感情の霞の中で異質な存在感をもってそこに居る。主人公はそんな彼の事など気にはしない。

やがて開演のブザーが鳴って、沈黙を切り裂くように劇場に音が響く。音は和弦楽器であるが曲はパガニーニのヴァイオリン協奏曲『ラ・カンパネラ』である。十代最後の誕生日にたった一人の友人からもらった本に登場する年老いた博士が異常なまでにラヴェルのボレロを好んだように、先生はこの曲が大好きだ。本当にありとあらゆる話の中にこの曲は登場する。しかし、物語の結末を知っている身からすると……出てくる男が何のために研鑽しここで何を語ろうとするのかを知る私には、幸福の鐘という題の中で登場させられる彼がいくらか哀れに見える。先生は何を思ってこの曲を選んだんだろうかってそんなことをついつい考える」

劇も中盤を超えたところでタカの役どころはそんなことを語る。劇の中で現実の話をしていた。知らない人間からすればあくまで演劇の中のことで彼が演じる役が勝手にいっていること、その男の作るフィクションの上塗りなのだとあえて強調する。

「偏屈な男はステージの中央に登場した男に目を向けていた。彼の姿を観るために観客席に腰かけているのだから当然だ。舞台に立つ金蘭の友。彼の聴衆としてその場に存在するために金を払った。舞台に立つ友人の姿を偏屈な男がじっと見つめている。私はこのシーンが好きだ。先生の話の中でろくに語られることのない。たった一言で片づけられる二人の関係が好きなんだ。例え先生がそうしろと言ったところで彼らを物語から決してしまうことなんてできない」

舞台の上に老人が登場するけれど。と、続けて。

「でも初めに語りだすのは舞台の上に登場した老人でも、その偏屈な男でもなく主人公だ」

タカがそう言い終わるよりも早く少年のセリフが始まる。

「とある海沿い、白い建物だけがずらっと立並ぶ白い町。そこに少年は一人きりで立っている。彼の他には誰もいないのに、空っぽに向けて話し続ける。その言葉が黒板に書かれたチョークの粉が夏の教室、開けっ放しの窓から飛び去って行くように、海風にどこか遠くへと消えていった(黒板に残る文字とは違い、飛び散る粉には何の意味もないんだ)。

言葉を放つたび記憶だけは夏の盆の終わりに現れる蛍のよう。不確かな軌跡を描いて少年の周りを揺蕩って……ついつい、そんな風に優しく光る昔の思い出に手を伸ばして捕まえてみたくはなるけれども(そんな思い出にすがりたくなるけれども)」。

同じ舞台の上、君の書いた言葉をどことも知らない少年が話すのをタカは聞いて。

「捕まえてしまえば蛍はたちまち弱ってしんでしまう。と、少年は手をひっこめるんだ。彼の放つ言葉は夏の海風に巻かれて遠くまで届くのに、その本当の意味は消えてしまう。

膝を折ってその場で泣き崩れたいのに、そんな気持ちを抑えて一人で立っているしかなかった。そんな風に佇む彼に私は出会った。

そんな言葉を改めて聞いて、どことなく悲しくなるのは、だよ。大人になって教室を離れてしまった今、鼻先なのか海馬なのか、どこかにあったはずの残り香さえ消えてしまったからだろうな……ジェス。君の物語の中、白い町に一人残って話す少年の言葉に偏った思想なんてなかったが情熱はあったよ。

感情豊かに話す彼の視線の先には誰もいない。きっと彼がその姿を忘れたふりをしているから、いつか着るだろう、と、クローゼットの中に仕舞い込んだ思い出の服についぞ袖を通すことがなかったような……覚えているのに、胸の内に確かにいたはずなのに目を向けたりはしなかったんだ。所詮そんなものかもね、例えば高校時代の友人であの時の屋上? 校舎の半屋上のような場所で話した俺との話すら君は別の物に作り替えようとした。しまい込んだ本当の言葉を全部吐き出そうとはしない人間だった。

君には語るべき相手が必要だったのかもしれない。だから俺がここにいるのかもしれない」。

舞台の上に立つタカはぼんやりと宙を見つめるようにして、そんなことを言うんだ。


・7

「その舞台の中でタカはそんなことを言っていた。まだ出会って長い年月が経っていたわけでもないのに、タカはそのあたりの事にはちゃんと気が付いていたんだよな。そういうところに関してアイツは子供の頃から良い目を持っていた。それは君も認めているところだろうけれど、もっとしっかり面と向かって褒めてもよかったんじゃないか?」

舞台の上で話す男がそう言って、老人の言葉を待った。

「いちいち話しかけてくるな。脱線ばかりしないで早く続けろ」

客席から彼を見上げる老人はそう悪態をついた。

「しかしね、ジェス。君は今目の前にいる俺のことを白昼夢か走馬灯か限界状態で観る幻覚の類だとでも思っていて、本当は雪山の中に一人寂しく、誰にも話すことの出来なかった思いを大声で語っているとでも思い込んでいるのかもしれないけれど実は違うよ? このタカの演劇にしたって君は観ていないはずだし、俺はお前に噺をするためにちゃんとここにいるんだぜ? いい加減にそれぐらいは認めてくれてもいいじゃないか? お前は本当に不器用というか融通が利かないというか……そうなってくると果たして自分に厳しいのか、自分を痛めつけるのが好きなのか、どっちかわからなくなってくるな。


まあ、なんにせよ次か……舞台上から老人は客席を見渡す。横浜の大ホール、誰も観客のいない館内。老人はほとんど怒鳴り声。日本ではあまり見慣れないようなそり立つように、迫りくる波のように広がる赤い布張りの客席が不気味に見える。自分の想いを語りたい場所と自分自身のたどり着いた場所の違いを彼は心の中で笑う。


『なんにでも、忘れられない思い出というものがございまして。とはいってもなんでか自分にとっていいことってのを私はすぐに忘れてしまう立のようで、改めて思い返すと悔しさばかりが残っているんです。中にはそれがひどい人間もいましてね、負けず嫌い? そういうもんでいでもないのでしょうが、悔しさ以外にも人への恨みをずっと残している。どんな瞬間にでもその恨みが頭の中をよぎって、この世からこの身が消えようともそこに関与した人間に遺恨だけは残してやるって位の人がおりましてね。

私はそこまでの物を持ったことがないけれどこうなるとひどいですな。でも、現状が幸せなはずなのに悔恨やなんやに囚われて印象が強すぎて、それを忘れてしまうってのはおろかですね。ひとしきり嫌なことを考えた後に残った搾りかすのようなものが愛情だった、とか気づければいいですけれどそれが出来ないとドツボにはまる。忘れちまえばいいとわかっていてもそうもならない時がある……同じ忘れるにしても賭場に入り浸る人ってのは不思議なもので自分の賭け事の負けってのはすぐに忘れるんですよ。それでいて、自分は勝っていると思い込もうとしている。それが果たしてそれが幸せなのかと問われると答えに窮してしまいますが、くだらない後悔をいつまでも引きずるよりは余程いいのではないかとそんなことを思いますね。

いつまでも年を食っただけの子どもみたいに前に進めなくなって、いつか後悔をする羽目になると』。

ジェス。君はある時こんなことを言っていた。なんてことのないその後に続く話へのつなぎの部分だけれど、俺は君がそう言ったことが印象に残っている。

俺がこうしてここにいるのは単に夢をかなえたかっただけだけど。いろんな思いがあった。俺は君ともう一度向かい合わせで酒を飲みたかったし。酒なんてなくても、少年の頃のようにくだらないことを語り合いたかった。君が最後にあの海沿いの町でとった映画を観てみたかった。

それは素直な俺の想いなんだよ」。

自分だってそうだったと老人は言いかけてやめた。それを言ったところでなんの意味もないと「知らねえよ。お前が勝手にくたばったんだ」代わりに吐き捨てるようにそんな言葉を口にするが、舞台上の男には届いていないのだろう。彼は老人の言葉など何も気にせずに話を続けた。


・8

タカは外苑前にあるカフェの中にいた。彼の向かいの席にはスーツ姿の男女が腰かけていて。テーブルの上に置かれたボイスレコーダーとにこやかに笑う女性、事あるごとに手帳にペンを走らせるその男性に対峙し、タカは他愛のない話を続ける。見開き2ページのインタビュー記事を雑誌に掲載してくれるという2人がその日の客だった。タカは旅の話をしていた。旅の話というよりか、ジェス、君と出会った時の話だ。あの町にたどり着くそれまでの話。

「出会いのきっかけが何だったのかといえば徹頭徹尾の偶然で、たまたま縁があっただけです。偶然同じ人の死に心を痛めていたことと、偶然同じタイミングで同じ場所にいたことと、故郷を同じくしたこと。

ええ、現実から逃げるために旅をしていたんですよ。自分探しってやつです。

二十歳、当時大学生だった家族や友人に何も言わずに姿を消した。きっかけは子供のころからずっと私によくしてくれた教授が交通事故で亡くなってしまったことでした。彼の死それ自体に悲しんだのもそうですけど、それに付随するようにして身の回りに起こったいくつかの出来事に嫌気がさしてしまって、不条理……というにはあまりに些細な、日常によくあること、きっと教授がなくなっていなければ簡単に飲み込むことのできる事柄に嫌になってしまったんですよ。潔癖になったかのように、些細なことが許せなくなってしまった。そんな状態でいつも通りの生活をして、勉学に励んだところでいい方向には向かわないような気がして、落ち着くまでの間は、大学だとか、家族だとか、そういう小さい枠組みから逃げてしまおうと、教授の告別式が終わるとすぐに荷物をまとめて旅に出ました。でも、今なら絶対にそんな選択はしないでしょうね、きちんと大学の講義に出席してきちんと勉強をして、個人的な感情なんて表には出さず淡々と日々を過ごすことを選ぶでしょう。一時の衝動に任せて行動しても何もなくならないって信じていたんですよ。若かった。

若かった私は胸中の小さなほころびに正面から向き合わないためなのか、なるべく人里離れた場所を選んで住み込みの仕事いくつか渡り歩きました。幸い海沿いや山沿いの辺境には旅館があり、農園があり、工場があり、住み込みの仕事には困ることがなかったので私が旅に困ることは一度もなく、また、それぞれの場所で働くことにやりがいと単純な労働の喜びを見出すことができたのもあって生活自体に苦はありませんでした。そうした派遣形式のアルバイトは期間が決まっているのも多く、大した理由がなくとも三か月すれば引き留められずに次の土地へと旅を続けることができたのも都合がよかった。

少しでもとどまると自分の過去が、その幼稚な抵抗をあきらめて日常に戻った後で感じるだろう心の敗北というか、後に何度も振り返ることになるだろう先の後悔につかまってしまうような気がして、一つのところに長くはとどまらず、疾く疾くと決められた期間が終わった後は逃げるように別の土地へと向かった。


そんな生活を半年近く続けた頃に海外に出てみようと思い立ったんです」。


きっかけは一時期を過ごした農場で私と同じように派遣の仕事に来ていた青年がオーストラリアを旅した時の話をしてくれたことだった。彼の話を聞いて特に深く考えず、この機会に海外に出てみるのもいいかもしれないと思った。

「二十五のときに会社を辞めて、ワーキングホリデーのビザでオーストラリア旅してさビザを延長させるために農場で何か月か働いたんだ。日に当たって作物の世話をするってだけでなれるまで、毎日滅茶苦茶疲れるんだけれど、充実していたんだよ。終わった後でふと空なんか見ると達成感があるんだよな、子供のころ日が暮れるまで遊んで家に帰るときとか、部活帰りにくたくたになりながら歩いた中学時代とかそんなときに経験したような体の疲れも心地よく思えて、デスクワークばっかりだったそれまでの仕事よりも性に合っている気がしたんだ。楽しかった。朝早くに起きて、農場に行って、午後はのんびり過ごす。帰ってからもそんな仕事がしたくてね、だから今農業の勉強してるんだ」ってそんな話を聞いた。それから彼の話を詳しく聞いていく間に、今まで意識すらしていなかった海外渡航ってものが急に現実を帯びてきた。働き詰めだった一年間のおかげで旅費としては十分な貯えがあって、自分自身を納得させるための言葉がいくつも頭の中で浮かんで、そうなると途端に行かない理由がないように思えた。幼少期にタンカー船や大型船舶を故郷の港で眺めて遠い海の向こうに憧れた記憶がよみがえってきた。教授がなくなってからの一年、前向きに次のことを考えることが出来たのはその時が初めてだった。

そこからすんなりと事が運ぶ。二か月後、その農場の同僚から必要な手続きの仕方や情報、お金の話などを聞き出し、いざ出発するときには初めのころ感じていた不安のほとんどは消え去っていた。

「でも、いったいどうして?」と最後に会ったときに彼は私に疑問を投げかけた。けれどやっぱりそこでも自分の本当の想いは言わなかった。自分で勝手に不貞腐れて若いながらに追っているはずの親や周りの人間に対して負っている責任から逃げているだけだなんてとても恰好悪いことだとは理解していたんだよ。

私は農場での仕事が終わるとトビウオが海面を跳ねるよりも早く成田へと向かい、そのまま日本を背に飛び立った。

今まで見たことのない文化に触れ、名前を聞いたこともない町で暮らす。なれない言葉を使って書類の手続きや仕事探しをしている間に、自分の中に燻っていたものがどんどん流れて過去に変わっていく気がした。沖に向かって真っすぐに進む船がいつの間にか水平線の向うへ消えてしまうように次第に落ち着いていった。


数ヵ国をめぐる旅をした。冬の長い北国の夏、日の暮れていかない山間の町と、大陸の西端、せり出した半島の山に隠れるような港町、古くから残る宗教の聖地そのほかにもいくつかの場所を回った。

北欧で私は初めて夜の来ないことの怖さを知った。四方を山に囲まれる自然の作り出す強固な牢獄のような土地で上手に眠ることが出来なかった。時間を問わず空に居座り続ける日の光のせいでなぜか常に舞台の上で照明に晒されているような気になった。夜の時間になるとベッドに入って、遮光カーテンをおろしはするがそのカーテンの隙間からも日光は漏れ出て、逃げるわけにはいかない客前を後ろから照らすような光の中、自分の持つ感覚のすべてを研ぎ澄ませながら言葉を紡ぐその舞台上が目をつむる度に浮かんで、深く眠ることが出来なかった。白夜が終わるまで約一か月、常に意識がさえわたっていて、頭の中でずっと自分がどうすればいいのか考え続け、短い睡眠時間に入ったとしても、夢の中、舞台の上でひたすら話を続けていた。

ほとんどの指名手配犯があたたかい地方に逃げるという話に、なるほどと思った。冬の寒さや昼の長い場所というのは逃げるのにはむいていないな、と。冬の寒さのせいで春を待たずして衰弱してしまう病床の老人であるとか、生まれながらに体を弱くして母猫に見捨てられてしまった子猫が一晩で死んでしまうのと同じように、精神と肉体に対して優しい場所ではない。

ふと鏡を見ると随分と体の衰えが見えた、眠れぬ夜が続き、ものを食べる量が減り、やせ細り、目は血走っていって、回り続けたレコード盤の針がいつしかすり減ってしまうように私の肉体は健全さを失っていた。暖かさのピークを越えてまた夜が少しずつ長くなり、眠ることが出来るようになってからも体は痩せたままだった


通常通りに眠れるようになると、眠るたび港町の夢を見た。


煌々と照る日光の下、タンカー船や大型船舶の地ならしを踏むような汽笛を聞きながら何も疑いもせず、自身の目の前にある問題にだけ挑んだ少年の私が海を見ている夢だった。暮れ行く夕日の向こうに広がる駿河湾に向かっていたかと思えば、鳥になって太平洋を飛ぶ。飛んだと思えば、離岸流に乗って海を漂っていて、航海中の船へと引き上げられる。船の乗組員となった私は何人もの魅力的な大人たちから生きることへの喜びを教えられた。毎晩のように私は船に乗っていて多くの場合、彼等は自分がどれだけ海の仕事を愛しているのか言葉を多くして私へと語ってくれた。

カツオ漁船の船長からどれだけ多くの恵みがそこからもたらされるかと魚の一番うまい食べ方と彼が家族をどれだけ愛しているのかを聞いた。時代錯誤な木造船の航海士から時折見せる海の狂気と、静かで穏やかな月夜に優しく響く歌声が聞こえる不思議な現象について聞いた。舶整備の現場で下働きをする少年と将来の夢の話をして、海洋博物館の研究員から誰も解明できていない深海の神秘を聞かされた。そして夢の中、世界中の海を見て回って、気が付くと故郷の港にいた。そこには幼いころの私がいて、春の柔らかな日差しのもと両親と祖父母に連れられ、兄弟たちと楽しそうにはしゃぎながら遊覧船乗り場に向かって歩いていく。連日、夢の中に海が出てきて、海が恋しくなった。その国にも海はあったけれど、どこか暖かい場所の海が見たくなって、ポルトガルまで飛んだ。

ユーラシア大陸の一番西を見るっていう行為が何か意味のあることに思えたんだ。単に観光のために、ロカ岬を目指すためだけに飛んだ。よく澄んだ大西洋が広がっていて、それが日本から眺める海と何か特別な違いがあったかと言われると疑問だけれど、気分がよかった。東アジアの端っこからユーラシア大陸を丸ごとまたいで西の端に出たというだけで当時の私は大いに満足した。ポルトガルには一週間だけ滞在をして、それからまたまた水切りの石のようにいくつかの国々を巡る。

短期労働ビザを取得できた国があって、その国の港町で四か月間だけ働くことにした。半島の外周にある小さな港町で、港から海風が昼間の熱をすべて洗い流すように常時吹いていて夏でも過ごしやすい場所だった。その町の夜、白く重なり合う石灰壁の家々が月明かりの下で青白く光っていたその風景が今でも印象に残っていて、今でも時々思い出す。

町に住む人々は岬や海には神様がいるのだと信じていた。移民が多かったし、個人的な考えは多様だったけれど、それでも私の周りにいた人物はみんなが根底では同じような考えを持っていたのが面白かったな飲みの席でその話をすると皆、神様がそこにいると言って、口々に自分の意見を述べていた。彼らは夢の中で出会った人々と同じように港での仕事を愛していた。私は季節労働者としてフォークリフトを運転して魚の運搬をしたり、サーモンの解体ラインでの作業や、時に漁船に乗り込んで沿岸漁の手伝いをしたりだとか、曜日や月によって色んなポジションの仕事をし、カジュアルワーカーとしては悪くない額の金銭をもらいながら生活をしていた。日本の農場で出会った青年が語ってくれたような心地の良い疲れっていうものがそこにはあったし、楽しかった。毎日少しずつずれて沈む夕日を見ながら暦のことを思い、港でもらえる市場価値の低いハズレの魚を日本風の調理で食べ、週末には国籍も年齢も英語のアクセントも全てが不揃いの同僚たちと連れ立って酒を飲んだ。そこでの生活は美しくも楽しく、活力に満ちていた。中学生の頃、将来のことなどまったく考えず必死に部活動にのめりこみ、仲間と戯れ、笑っているだけでよかった日々の様な心地のよさがそこにはあった。

そこに来てようやく心の余裕が戻ってきたと言おうか、自分自身が前に進まなくてはならない。そのために何かをしなくてはと思うようになった。逃げていたところでどうにもならない。大学に戻ろう。と、ようやく逃げることをやめる決心をした。

無駄な遠回りして、勝手に回復をして、私は無為に旅を続ける必要がなくなっていた。


「そして最後に観光のために宗教的にも文化的にも歴史のある地へ向かった。港町を出て東へ。私の元居た場所から国境線を超えて数百キロ、飛行機とバスで3時間半の位置にその町はあった。旅の中で触れ合った人たちが大切に信じている文化の、その一端に触れてみたくなった。この先もう一度迷うようなことがあったとしても、旅の記憶とともに街灯でもともすように助けてくれるような気がした。不確かでもいいから最後に信じることのできる何か。神様という存在について自分なりの考えが持てればいいとそんなことを思った。海沿いにありながら地形は元いた場所とは異なり、起伏が激しく小高い丘やそれに伴っていくつもの坂道がうねりながら折り重なっていた。

単に観光のつもりで、旅情に付け加える一つのおまけのつもりで訪れたその街で一つ古い記憶を思い出すこととなる、小学三年生のとき社会科見学の一つ、小学校の芸術鑑賞のプログラム、学年全員で見に行った地元の公演で一人の芸人を見たのだ。

当時、彼のことは知る由もなかったが、芸人という肩書から派手でわかりやすく面白いものがみられるのだと思っていた私たちは期待を裏切られた。暗く閉ざされた緞帳の向こうから現れた彼は、なんの派手さもなくホテルマンのような暑苦しく地味な厚手のジャケットをはおり、袖から現れる。コツコツと乾いた靴の音だけが観客の席の上から降ってきた。大人たちは息をのんでその挙動を見守る、その時点で子供たちは見限ってしまった。『ああ、これはきっとつまらないものだ』と、体育館で聞かされる、大人たちのありがたい講話と同系統であると、リビングルームで見る冗談にあふれた動画コンテンツとはかけ離れたものだと。早々に興味を失い私たちのいる一角の緊張の糸が切れたのがわかる。ごそごそと、自分の周りから衣擦れの音やささやき声が聞こえ始め、次第にそれが大きくなってゆく。

舞台の中央にたどり着いた彼は、一つ大きく息を吐くと深く頭を下げた。舞台には初めからパイプ椅子が一つ置かれていて、丹念に場所を確認するように背もたれを撫でたのち、そこに腰かけると一度うなだれたように頭を下げる。

『さて』と短くつぶやき射貫くように顔を上げ、正面を見た彼の視線にひょうきんさはかけらもなく、恐怖すら感じさせるもので、直接目を合わせなくても大人に対して余計な反抗心を持たない私にはその視線だけで居住まいをただすには十分だった。


それが私の初めて見た生の舞台芸術の記憶だ、演芸とはかけ離れた彼の冷たい視線とそこから、滔々と語られた彼自身の練り上げた講話のような話、それを見た九才児の脳みそにはそれはなんともつまらないものでしかなく。その時点で何だこんなものかと見限るうえで十分な、退屈を極める話であった。自身のことを語っていながらどこか説教臭いその男のことがどうしても好きになれなかったのである。

だがその話は確かに説教臭いのだが、ふと思い出す場面が来ることがある話でもあった。彼が語ったのは明確な彼自身の過去であり、故郷の話でそれが自身の体験と偶然にも重なることがあるたび、そのたびに薄れかけたその講話を鮮明なものとして思い出すのだ。


そして、またこの遠い異国の地でその彼の姿を見たのだ」。


「それが先生との出会いでした」青年はインタビュアーに説明を始める。


そんな昔話をしながら私は物語の中へと歩きだす。自身の記憶をたどりながら赤いレンガ造りの街を歩く、路上にはたくさんの花が生けられていて、今でも時々馬が街道を歩いてゆく、港町が近くにあり山の上にある道路を見上げると、いつでもベンツのトラックが走っていた。正面から海を見ると左手、南西には魔女の鼻のように大きく曲線を描きながらに突き出た崖と、その上に建つ教会が町の象徴だというように海岸線のどこからでも見ることが出来た。夜には驚くほど静かになりずっと波の音が聞こえ、私たちの故郷と同じように海を主体としていながら、そのかかわり方は全く異なる、美しい街であった。



(歌の話をしてくれた老人のことを思い出した。故郷の海岸線に立ち、海を出たまま二度と帰らなかった友人たちについて、彼の人生の中で二度と巡り合うことのできなかった、たった一度だけの夜明けについて語ってくれた一度だけ酒を酌み交わした老人のことを私は思い出した。彼のいう歌を一度でいいから聞いてみたい)。

 


・6

老人は渋谷のスタジオに来ていた。時おり入るナレーションの仕事で、その日は旅番組だったか散歩番組だったか、いくつかの映像に合わせ決められた尺で決められた言葉を録っていくだけの老人にとっては慣れた特別でもなんでもないものだったのだが、防音室の中、黒いマイクロフォンが立っているその向こう、壁に埋め込まれたモニターのなかに映る自身の故郷の風景を見てから、少しばかり勝手が違った。

置かれたマイクの正面に立って、渡された台本にいま一度目を通した老人は『甲子園の試合中に流れる高校紹介みたいだな』と思って、そこからは仕事とは関係ないことばかりをばかりを考えていた。そういえば故郷の同じ有名な漫画家が先日亡くなってしまったらしいだとか、この商店街のアーケードはずっと変わらないなとか、この道は高校の帰りに毎日通ったなとか。事前に故郷が取り上げられることを老人は知っていたし、幾度となく帰省や旅行で訪れているのに、その日に限ってどうしようもなく懐かしく思う。

『次の休みにでも帰ってみるか』

収録自体は滞りなく終わり一度外に出ようとしたのだが、それからはどんな話の流れだったかその場でネットに投稿する用の動画の撮影をしようという話になって、短く故郷の思い出でも語ってくれと老人はブースの中に押し戻された。スタッフの何人かも同時に入ってきて、先ほどまで流れていた故郷の映像が消えて簡単な映像撮影用の設備が整えられる。照明やカメラの設置がされ、中央に椅子が置かれ、先ほどとは別のマイクが床の上にコードを伸ばしてつながっている。

老人は自分が話をするための場所が出来上がっていくのをぼんやりと眺めながら、頭の中で先ほど目の前に流れていた故郷の風景をもう一度だけ思い出した。


「ある日の原風景の一つとして、最終学歴を迎える故郷の高等学校からの景色を見ることがあるんですが、ただ、僕の高校時代になにか取り立てて語るような面白いエピソードがあるってのとは違うんです。印象に残った出来事を思い出すといいうのとは……そんなものがあったら、ただその瞬間のことが強く残っているだけで原風景なんて呼べやしないじゃないですか。当たり前のようになんでもなくそこにあったからこそ、ふとした時に思い出して、似たようなものをどこかで見て『懐かしい』と改めてそう思う。そうした風景の一つにあるのが、僕は今でも残る母校の旧校舎、古くなった四階建て鉄骨造りの一番上の階の端にあった中屋上の空気をよく思い出すんですよ、当時はそこにあるテラスに腰かけて、部活をさぼるのを日課にしておりましてね、どれくらいの時間かというのは練習のメニューなんかで変わってくるんですが、10分や20分、日によっては2時間以上、文庫本片手に活字を目で追いかけて、夏の暑さが夕日の傾くのを見届けた後に海風にさらわれるように消えてゆくのを感じて。僕がまだ十代をなくす前、終わることなんてないだろうと思っていた、十代の僕の人生のほとんどだった学生時代のおわりが一歩一歩と近づいているということについてぼんやりと考えていた時期のことで。映画館にてひどく心を打たれる映画を見た後、流れるエンドロールをみながら、あとどれくらいで館内が明るくなるんだろうと思う時に喪失感と覚えるのにどこか似ていて。どれだけ今が楽しかろうともずっと同じ場所にとどまっていることはできやしないのだと。いずれはそこからは出ていかなければならない、座り心地の良いシートに座ったまま、ずっとスクリーンに映る世界に浸っていたいと思っても決して許されないのだと知るように。エンドロールの十分が終われば、薄暗いオレンジの灯だけだった館内が明るくなったのなら、此処から出ていかなければならないのだなと改めてそれに気が付いたみたいに、どうしようもない物なんだな、と。

映画館を出た後は、トイレに行って、簡単な昼食をとって、とそんなことを考えるのと何ら変わらないように……学生時代が終われば、自分の行き先は自分で決めて旅に出ていかなければならないとかそんなことをその場所でよく考えていたせいか、似たような心情になる度その場所から見た景色というものを思い出すんですよ。

マーマレードみたいな色の空をみながら夜が近づくにつれてなぜだか濃くなる緑のにおいを吸い込んで、校門の往来へと目をやる。

文化部や委員会を終えた生徒が帰宅をするのが、僕のサボタージュのタイミングと同じくらいで校舎から校門までの空間はいつも賑やかだったんだ。自転車に乗って帰宅する生徒もいれば部活の備品を集団で運んでいる者たちもいるし、往来に目を向けずに楽器を吹き続けるパート練習中の吹奏楽部員も、外周を走り終わった後のテニス部員が楽しそうにはしゃぎまわってもいる。

ついこの間。同郷の漫画家の先生がなくなったという話を聞いてね、そこで見ていた景色を思い出したんですよ。記憶の中での景色は少しも変わらないのに、実際の僕の故郷の景色は変わっていく、僕が学生時代の最後を過ごした母校は合併でなくなってしまって、跡地には大きなホームセンターが建っている。変わっていく故郷をみてワクワクしながら同じ時代なんて二度と来ない。過ぎ去った時間と同じ風景が目の前に現れることなんてありはしないのだから、常に変化の中に身を置いて止まることもできないのだからたまにそういうなんでもない景色を思い出して、自分の心をいやすくらいはしてもいいだろう。と。そう思ったんですがね、改めて思い出すとそう癒されるものでもないんですよねやっぱりこの歳になっていると酒を飲んでなかったことにしてしまったような思い出もたくさんあって、時間と共にしっかりと忘れていたんだと改めて知ることになりましたよ。


私の隣には様々な人が訪ねてまいりました……。


(早々に大会に敗れて受験勉強に専念するテニス部の女子であったり、ちょうどテラスの真下が図書館でしたから、そこから図書委員の男子生徒が帰りがてら涼みに来ることもありました。他にも仕事に疲れた教育指導の教諭であるとか、画を描きに来た美術部の生徒、愛を告白し告白されに来た男女なんてのも居りましたよ。まだ少年だった私は、夏の夕暮れが残るその時間の中、さまざまな形態をした人たちからそれぞれの持つ話を聞いたのです。

その中に一人、僕にとって親友ともいえる男が居ました。陳腐な映画を撮る映画監督だったのですが、名前を言えば知っている人もいるかもしれません、そうですね、彼とそこで話したことが思い返せばすべての始まりだったのかもしれません)」。


「ジェス、君はよくあの場所にいたな。

あの場所に君がいるのを知ってか知らずかいろんな人が現れた。階下の図書室から上がってくる人間や、三年生の教室から出て帰りに寄っていく人間、自習室から抜け出して息抜きに来る人間、帰り道でもなんでもないのに不思議と人が集まる魅力のある場所だった。その全員と君は言葉を交わしていて、僕もその中の一人だった」

「お前が来る次の日は決まって天気が悪かった」

「そんなことはいちいち覚えていないな、それどころか君と話した内容すらたしかじゃないんだ。それなのに不思議なことに君と話をしたから俺の人生が変わったってことだけは覚えている。なんでもない会話だった。三年生に上がってすぐの五月の事だった春らしい暖かな空気が焼きたてのパンの香りみたいにそこら中に漂っていて、頭がぼんやり日の夕方だった」

「そういえばタカに初めて会った時にその話をしたな」

「この時には話さなかったの?」

「面白い話じゃないし、お前の話はしたくなかったんだ。重たいんだよ」

「君の人生における比重の話かい?」

「いや、それは出会った全ての人間に対して平等だ、ここで言いたいのはトラックに挟まれて死んでしまった高校の同級生の話をあまりぺらぺらとは話したくなかったってことだ。ただ、お前との会話で僕の人生観が変わったなんてことは全くと言っていいほどなかったよ」

「それは何とも寂しいことだね」

「そりゃ、切り取った会話を書き留めた一葉には価値なんてない。でも、出会いは別だ」

「そうか」。


・7

「なあ、ジェス。君のそういうところというか、仲いいがゆえに遠慮なく物を言ってくれるってのは時にうれしく、時に煩わしい。それは俺の気分で変わる問題だからいいんだけれども、いい大人としてさ親しい中にも礼儀ありってやつだぞ、ジェス」

「僕もこういう小言をいう相手が必要なんだよ。それにしても親しき仲か、 いいじゃねえか親しい親しくないじゃなくてお前は俺の一部みたいなものなんだし。言えなかった五十年弱分。その文句ぐらい言わせてくれ」

「そういわれると弱いな。君が今日に限ってそんなにひねくれているのも俺の一瞬の不運のせいってことかね。しかし、なんだ、君の一部とは、 それはぶち抜けて好意的な物言いだね、ジェス」

「違うのか? それ以外の理由でお前の姿が見えるっていうこの状況に説明がつかないだろ、もうそろそろ限界が近いんだろうとは思うが、なかなか」

「そうだと言って思い出話に移れるなら楽だけれど。君は俺の幻影を見ているのだと勘違いしているようだからさ。自分の中に人間を、人との思い出からくる幻影をいくつも飼っていてその中の一つを眺めているだけだと勘違いをしているからさ。だからこうして君の話をしているっていう点を加味するならだよ、ジェス」

「僕の思い出の中のお前はたまにそういう回りくどい物言いをするんだよ」

ジェスはひどく優しい目を俺に向けてくる。しわがれた顔で、祖父がよくそうして見つめてくれたみたいに、優しい顔をして俺のことを見る。

「君は俺に理想を求めているのかなんなのか、あくまでここでこうしている部分は君自身の一部だと? ジェス、こうしてせっかく君と話しているってのに夢幻と思われるってのは互いにとって良くない」

「いいだろ、別に。いくら虚しくても他にお前に会う方法がなかったんだ」

「どこの頭のネジを飛ばしたらこんな方法を思いつくんだよジェス。妄信的に自分の信じたい神を崇める狂信者だってここまではしないぞ」

「それは良いんだ、もう先は長くなかったから、そうだな神を見るってのと同じことだと思うんだ。臨死体験をした人が自分の想像の範囲を超えるものを目にすることがあるように、修験者が自分の体を痛めつけてまで悟りをひらこうとするように、極限まで自分を絞って何かを表現しようとしたときお前らにもう一度会える気がしたんだ」

「そこまでして会いたいと思ってもらえるのは嬉しいけどな、実際にこうして会えたってのに妄想だと思われるのもねえ」

「いいんだ、僕は満足だ、お前とこうして他愛のない話をしているだけで」

「君がそういうやつだから俺は君の噺をしなければならないんだ。何をおいてもまず初めに」

「走馬灯の代りだろ?」

「いいや、これは走馬灯なんかじゃないよジェス。俺は約束したんだ。ジェス、とある女の子に、君をちゃんと引き会わせてあげるって」

「女の子ね、そんな約束をお前とした覚えはないけれど、僕とお前は何か約束をしたのだったか?」

「その質問の答えとはまた別だな。約束は沢山したよ。俺らはいくつかの約束をしてそのどれもが叶わなかった。それは俺のせいだよジェス。君とじゃない。俺は女の子とそう約束をしたんだ」

「女の子? 昔、僕が口説いた誰かか?」

「そういうんじゃない。大人になることさえできなかった女の子だ。君が、僕がトラックに挟まって死んだあの年の夏に巡り合った海沿いの町に住む君の友人」

「リサか? 懐かしいな、僕は会いたいのかな? お前が絶対に出会ったはずのないその名前を出すぐらいだから、きっと心の中にずっと引っかかっていたんだよな」

「そうじゃないと俺が困る。ここで君がその一切を忘れていたのなら何のためにこんなことをしているのか目的を見失うところだ」

またジェスは一人で舞台や映像の中で語っているように、見えない客に語るように居住まいを正す。

「そうだな、お前に対してと同じように何にもできなかった。あの出会いに関してはねふとした時に思い出す。なんの意味があったんだろうなって、お前のこともそうだけどさ覆せないほどの大きな流れとか、足りない時間とか突発的に起きる出来事に対して僕は無力で、そういうものに対してあきらめたくはなくても目をそらすってことを覚えてしまったんだ。ふとした時に何度も思い出すのに『どうすればよかったんだろうな』ってそんなことを考えることもやめてしまったし、悲しむとか無力な自分に怒るなんてことも年を重ねるうちなくなっていった」

部隊の上にいる俺だけじゃなく、まるで劇場にいる客にいきわたらせるような声の出し方で彼はそう言った。

「君の後悔とかくだらない思い違いをただ否定するだけでよかったのなら楽なのになあ。君は変なところがずれているから困るぞ。

君は知るべきなんだ。色々な感情を、生きて人と関わることの素晴らしさを思い出すのと同時に、君が僕らに何を与えてくれたのかを、君が廻った今生の旅が一体何だったのかをそういったものを君に聞かせるために、それとその女の子と俺がもう一度君と話をするためっていう極めて個人的な理由のために俺は君の噺をするんだ。じゃあ続けるか、また、タカの話だ」

「タカの話が多いな」

「何かと便利なんだ。というか君を除いた場合に……いや、下手したら、ジェス。君より君についての多くを語っているのがタカなんだよ」



・8

「よく晴れた濃い青色の冬の空の下、少女は一人、雪原の中で両手を広げる。風になびく彼女のその髪は標高千八百メートルで枯れたススキのような黄金色をしていて、見るたびになぜだか旅に出たくなってしまう。いい子だった。人を愛し、人から愛され、子供らしい無邪気なわがままを言うくせに、妙に人の心の機微に敏感で、悲しんでいる相手にどうしたらよいのかわかる程の経験も持たないくせに不器用にでも寄り添おうとする優しい子だった。

生まれて初めての雪原の中、子犬のようにはしゃぎながら、飛び跳ねながら立ち並ぶ樹氷の間を抜け、新雪の上、何もさえぎる物がない白い世界の中で心の底から笑っていた」。

陽光に照らされた雪原の中、何も恐れることなく進んでゆく。さながらわたしはボイジャーワンだ『でも、この先に墜落と破滅があるならパリオットと呼んでくれてもかまわんよ?』と若かりし頃にラジオでふざける上田晋也の真似をしながら、一歩ずつを踏み噛みしめた。生まれて初めてだから、雪に触れるのも雪原に足を踏み入れるのも。冬の山は命の一つもないのに賑わっていて、ただ、私が足を踏むたび、風が吹くたび、舞った雪がプリズムのようにはじいた光がそこら中に生まれては消えてゆく。一度だけ銀色に瞬いて、夜明けの星屑みたいに、何もなかったかのように消えてゆく。樹氷となった枯れ木こそが山の賑わいで、白く雪に覆われたそれは山岳のサンゴ、もしくは月夜に光る鍾乳石のように満点の青空に両手をのばす。生まれては消えてゆく銀色の光も、両手を挙げて喜ぶ雪原の枯れ木も、自分が今どれだけ美しいのかを知っているように見えて、だからこそそれを好きにならずにはいられない。

 なんだか天国なんてないものだとあきらめかけていたけれど。きっとここがそうだろう。この白い大地の続く何もない場所こそ、私にとってずっと探していた場所だろう。だが、皮肉なことに、目指した場所を見つけたところでは母国には帰れない。いくらこの発見を、初めて見た雪原の景色をどんなにうれしく、どんなに美しく思っても、生まれた場所に帰ってそれを伝える術をもっていない、ボイジャー一号、あるいはパトリオットミサイルみたいに。

 

そう、思えばずいぶん遠くにきてしまったものだ。と、ありもしない感傷を生み出そうとしてもそうはならない、わたしに自傷癖などないのだから、それならばここは一体どこなのだろう、きっと地図にすら載らない最果ての場所に違いない、あるいは本当に自分でも気が付かない間に夢遊病患者のように歩き続ける間に、どこぞのものとも知れない山を登るという世界中の診療所に遺る夢遊病患者のカルテの記録にも勝るような事態に陥ったのかもしれない「なんて見事なジャーニー」そう呟かずにはいられない。目の前で繰り広げられる体操競技のマットでの跳躍を目に一瞬何が起きたのかも信じられず、目を奪われ、ぴたりと止まる着地を見た後で全く自身の予想の範疇を超えた演技を人間がしたのだとわかった時、我に返る前に漏らすため息のように、そう呟かずにはいられない。

 安い製作費で作られたサスペンスホラーの脚本に従ったように、この場所でいきなり覚醒した。もしかしたら夢かもしれない。もし夢ならばこの稀有な体験を大いに楽しもう。明晰夢なんて見なくなって久しい。

「この旅は一体誰からのプレゼントだろう?」両手を広げて体を慣らす。聞こえる音は風の音だけでコォーコォーと子ギツネが母親でも呼んでいるみたいに寂しげで遠くまで響いた。この肺も凍ってしまいそうな雪だけで作られた湖の上、わたしはなぜだか昔好んできた紺色のワンピース一枚で歩いてゆく。(太ももの半ばくらいに二本の黒いラインが入っていて、その下には長方形を中途半端な位置で二つに区切ったような白い縦長の台形があった。それ以外に私を不思議な気分にさせたのが右肩の少し下にあしらわれた18という小さな数字だったけれど。その数字について、このワンピースを送ってくれた人の弁を借りれば「エースナンバーだ」とのことだったが、なんのことなのかは未だにわからない)寒くないのが不思議で、寒くないからこそ、ここがどこか遠く、宇宙の果てだとか、行ったこともない国の(例えば北欧のスウェーデンだったり、北アメリカのアラスカだったり)夏のような気がしてきて。夏の夜、遠浅の海岸で踊った時のことを思い出して踊る、製鉄所で踏鞴を踏むときと同じくゆっくり足が沈んで、思わず転びそうになりながら。

 急に傾いた体を止めるようにして後ろを振り返ると、そこには雪原にはっきりとわたしの足跡がのこっていた。波に消されることなくそこにあるその足跡はまるで息災の記憶のようだった。それを見た時、自分自身泣きそうになってしまう。大げさに言って自分が初めて世界に会いあれたように感じてしまう。


以前こんなことがあった。私の生まれ故郷で、私はまだ世間の何も知らないティーンエイジャーだったころ。突然現れた男が私に旅路をくれた。


その時の私はどこにでもいる幼さと自己の確立と周囲の変化の間に悩む普通の少女だった。

 あれは、何年前の出来事だったのだろうか、もうそれすらわからない。時間の計り方を忘れてしまったから。というのも時々にこうして眠りから覚めたかと思うと、また長い間眠ってしまうから、次に起きた時に、わたしは知らない時間の知らない場所にいきなり居る。そんな生活をしている間に時間の感覚をなくしてしまった。

エドガワランポという人に言わせれば「現世は夢、夜の夢こそまこと」なのだという。全くその通りだ。


 若いのに年老いていた。そういう矛盾を孕んだ男だった。それは単なる内面と外見の矛盾ではなく、時にひどく若くありながら、年齢からは来ないだろうというような哲学を口にする。すべてを諦めたような、ひどく疲れ果てたような。

 私の母はそのころ街のベーカリーを友人と共同経営していた。家庭で作られるような温かみのあるパンと母の自慢のパイ、サイフォンで入れられるジャズミュージックのようなコーヒー。黄色を基調とした明るい店内に二十席ほどのカフェスペースがある街の中では比較的大きな店で老若男女問わず町の人達の集まる店だった。   

彼は三日に一度その店へときて、バゲットを一本だけ買っていくのだという。母親は「もっと他に拘ったパンだってあるのになんでかしらね、だから私は毎回のようにおまけをしてあげるのよ。一個ずついろんな種類を、甘いものが苦手だといけないからジェンナに頼んでコーヒーを入れてもらうことだってあるのに。あの男は一向にお気に入りを見つけてくれないの」母親は楽しそうに、その時のことを話してくれた。ただ店にきて一度も気まぐれを起こさず習慣のようにパンを買っていくのが不思議なのだという「しかも何も話さないの、本当にひどくシャイなのよ。いつもありがとうっていうとコチラコソってそれ位でね、気立てはいいんだけどね。いつかあの人がもし私たちのカフェのオレンジの椅子に座ってコーヒーを飲むことがあったら、ケーキをホールで出して祝って、コーヒーで溺れさせるまで帰らせないでも構わない、ってジェンナと私はいつも話をしているのよ」と、母親は楽し気に言っていた。「それにしても、日本の老人はみんなあんなに若々しいのかしら」セクシーだと、母はその容姿をほめていた。その言葉を聞いたときに私はなんだか笑ってしまった。母が自分とほとんど年の変わらない男に対して、まぎれもなく年上だと信じているのもおかしかったが、時に近所の子供よりも理解不能な言動を飛ばす彼がセクシーだというその言葉がおかしかった。そんなことを考えているとは知らず、にこやかに笑う私を見ながら母は幸せそうだった。


初めて出会った時の彼は、葬式を眺めていた。大きく弧を描くような扇型の丘が海に向かって突き出していた。海抜でいうと二十メートルくらいで、その上には広く均された公園があり、海側には教会があり広い萌葱色の芝生が生える土地を挟んで反対側、町と山脈が見えるところには町の気象台がある。その気象台の小さな白い建物で中では、おじいさんが一人とそのお孫さんが一人、記録をつけて、機械を管理して、どこか遠くの街との交信をしていた。

その日の私はその気象台で働くおじいさんに本を返すために気象台へと来ていた。来る途中坂を挟むように建てられた家々の前には白い花が並べられ、その横には火のついていないランタンが置かれている。道に迷わないようにと願いを込めて。その風景を見て私は初めて今日が誰かのお葬式なのだと知った。そのころの私は全く外に出ないという生活と、毎日外に出るということを数週間ごとに切り替えるというタイムリープのような生活を送っていたので外のことを前にもまして知らない。

「ああ、フィルの娘さ」おじいさんに、誰のためのお葬式なのかと聞くとそう答えてくれる「3年前から家族で街の方へ移っていたから、お前はよくしらないかもな」名前は知っているけれど町の人にしては珍しく交流のない人だった「まだ23歳だったんだ」おじいさんが寂しそうにそう呟くころ。突然鐘の音が響いた。その時初めて気が付いた。その頃の気象台では誰かから預かったっていう外国のCDをいつもかけていたのだけれど、その日の室内は静かだった。「始まったな」そう言いながら、おじいさんもその孫の少年も教会のほうに手を合わせた。おじいさんの手は強く握られていて、何かに怯えるようにずっと震えている。自身ではどうしようもないものごとに必死で助けを求めるように。


鐘は何度も打たれた。繰り返し、何度も、何度も。鐘の音は天高く響いた。遠くの山に反射して音の波は輪を作るように響きあう。やがてあちこちを跳ね返っていた鐘の音の残響が共鳴したかのように一つのまっすぐな音となって町を覆った。その音に近づくようにして、白い服を着た一団は坂を上って棺に入った少女の亡骸を教会へと運ぶため丘を登ってくる。町の人たちは祈るように手を合わせて、その一団が通り過ぎるのを見送っていた。その光景をよく眺めようと気象台から外へ出る勢いよく開けたドアの先から飛び込んでくる夏の風を全身に浴びながら私は飛び出した。

教会と気象台の間にある緑地の中、結晶質石灰岩のように柔らかい乳白色をした、置かれたばかりのベンチがある。緑地をかける蛇のような石畳の道に対し垂直に立ち。切りそろえられた新緑の芝生の上にあるそのベンチはいくつもの古ぼけた石群の中、新しく建てられた墓石のように場違いな存在感をもってそこに置かれていた。

そこに腰かけていたのは最近この町に越してきたばかりの外国人で、彼は次々と坂を上がってくる一団をぼんやりと眺めていた。


やがて弔いが終わる頃には一番日の高い時間を過ぎて、暑さは徐々に和らいでゆく。海から吹く風はずっと向こうの国から夜を連れてくるみたいに急に冷たく乾いたものへと変わってしまった。ひどく静かだと思って耳を澄ませると、いままで意識していなかった波の音が耳へと届くようになる。いつの間にか街を取り囲んでいた鐘の音も消えていたのだと気が付いた。

人がまばらに散ってゆく中でも、その男は一歩も動くことなくベンチに腰かけたままだった。大人たちは口々に挨拶をかわし、一人、また一人とその場から離れていった。子供は何もわからずに無邪気に広場の中を駆け回る。海沿いの丘には彼女のために新しく建てられた墓碑にここからでもわかる程、色とりどりの花が置かれている。


その景色を彼は微動だにせず眺めていた。それが当時の私はどうしても気になって、理由が聞きたかった。それが私の人生における旅の始まりだった。




(老人の放った声で雪原に一陣の風が吹いた。ニュージーランドで鳴いた羊の声が遠く海を渡ってシベリアの永久凍土を震わせるみたいに、遠く海を渡って響くように)。


・9

海沿いの町だった。名前をもう覚えていないんだ。大まかな場所だけは覚えているからネットで地図を開きさえすれば思い出せるのだろうけれど今はもう名前が変わっている。後ろにそり発つ山の裾野を削ったようにしてぽつんと存在する小さな町で、神様が最後に休むために作られたという伝説を町民全員が大切に抱えている優しい町だった。有名なビーチがあるわけでも有名な建造物があるわけでもないのにそれなりの数の観光客は来るのだろう、昔ながらの景観を風化させることなく保たれた港とレンガ造りの倉庫があり、そこから海に沿って広がる市場とさらにその市場を囲むように商店街が網目状に広がっていた。商店街の目抜き通りには老舗ばかりが並んでいて、街並みを眺めているだけでもどこかワクワクしたのを覚えている。港から西側に進んでいくと大きなビーチがあって、そのあたりまで来るとホテルとそれに併設されたカフェやレストランがあるばかりで市場で絶えず聞こえていた喧騒が嘘かのように、人の放つ賑わいより波音の方が大きく聞こえる。僕の滞在していたホテルはその町から一番近いビーチの西端、突き出した陸地の終わりにあって、部屋の窓から海を眺めているとホテルを囲むように敷かれた道路の上、輸送用のトラックや旅行客のものだろう高級車がハンドルを目いっぱいに切ってカーブを曲がっているのが見えた。

 ビーチは十二分の二か月を除けばいつでも泳げるくらいに海水の温いせいで人々が『夏だから海にでも行くか』と思うことがないのか、ホリデーシーズンの半ばであってもいるのは中高生くらいの若者の集団と家族連れがまばらにいるくらいで、前方を気にせずに散歩するにはうってつけだったので、仕事をする必要のない日の頭に浮かばない何も食べたくない夕暮れ時が来る度、僕は波打ち際を彷徨っていた。


 ただその中で僕は好きになったのは観光地らしく形骸化されたエリアではなくて地元の人間が生活している町そのものだった楽しかろうと悲しかろうと家に帰るために行き来をして、顔を見知った相手と道を挟んですれ違って、決められた時間に学校や仕事へ行くために通り過ぎて、夜には静かに眠ることのできる町。子供たちが示し合わせずとも集まることのできる公園があって、ネットで調べなくても営業時間を把握しているスーパーがあって、誰とも共有したことはなくても自分の好きな景色がいくつもあるような、住んでいる人間にとってはなんでもない町の景色こそが僕にとっては新鮮で、そこに潜んでいる自国との小さな違いやいくつもの共通点について考えることがどうしようもなく楽しかった。自国ではあまり見ることのないよう様式の建物や街路脇に生えている植物を眺めることや石畳の道が随所に残っている様子が新鮮で、余暇を見つけては様々な場所を見て回った。町中のいたるところにバラやピンク色のボンボンだったりオレンジ色の花弁がいくつも折り重なったような花だったり名前の知らないような花のたくさん咲いている時期で『大丈夫だ、きっと何の問題もなくいい仕事ができる』と、進むべき方向に花の咲いているのを見るたび、そんなことを自分に言い聞かせていたのを覚えている。

 その少女に、リサに、初めて出会ったのはいつの日だったか、いつも通りに町を散策している途中の出来事で高台に公園を見つけて休んでいる時で海の見える高台の公園のベンチで休んでいた僕に道を尋ねるような気軽さでもって話しかけてきた。町の中央にある広場から港とは反対方向へと坂道を登っていくと大きくカーブを描くようにして海に面した高台に出る。一堂の教会とそれに面した霊園、緑であふれた公園と用途のわからないいくつかの建物がある場所だった。


・10

 先生を知っているという人物にあった。急にぽっかりとスケジュールに空きが出来たその暇で旅行に来た鳥羽でのことだった。夜に仕事がキャンセルになると連絡を受けて、休日の過ごし方を考えている時のこと、なぜだか急に伊勢神宮に一度も行ったことのないことがとても奇妙なことに思えた。自分の過去を思えばやってしかるべきことなのになぜか避けてきたというような、好きな映画監督の作品の中で一番有名で評価の高い作品を「いつでも観られるのだから」と大した理由もなく避けているような、新作が出るたびに買うビデオゲームのシリーズの中、過去に出た一つだけ「時間がないから」とプレイしていなかったような、そんな感覚に見舞われて伊勢神宮を目指すことにした。

朝にはスーツケースを持って家を出た。

静岡駅から新幹線で名古屋、名古屋から快速列車で鳥羽へと、三時間もかからずにたどり着く。伊勢参りの前に鳥羽と志摩を観光することにして、夜には、前日深く考えもせずに選んだ石鏡という土地にあるホテルに泊まることにした。

 伊勢湾と三河湾、反対に太平洋を見渡すことのできる見晴らしのいい高台にあるホテルで値段も手ごろないい宿だった。

志摩駅から送迎のバスで一時間ほど揺られ、たどりつきチェックインをする。部屋へと案内される途中、着物を着込んだ仲居の女性が渡り廊下のバルコニーの前で簡単に窓の外に見える景色の説明をしてくれた。眼下に広がる海と静かな漁村が見えて、晴れた空にはトンビが私のことを敵か仲間か見定めるようにその上空を旋回していた。飾り気のない、自然のまま、ありのままの海岸線を見ているだけでここが伊勢に程近い、日本の、神道の土地だということを実感できるような景色が窓の外に広がる。海の上、空は広いのに、遠くに続いているというよりはこの土地と湾を包んでいるといった方がしっくりときて、それがどこか奇妙に思えた。

館内は19世紀の洋館のような様相で廊下には赤い絨毯が敷かれていて、畳張りの客室からも同じように海が見えた。浴場へと向かいがてら一通り館内を散策し、夕食の時間にはプランについていた刺身の船盛と懐石料理を食べ、数年前の伊勢志摩サミットで提供されたという日本酒を飲んだ。腹ごなしが済むと急な眠気が襲ってきて、そのまま夜の九時ごろまで眠りこけてしまう。普段、忙しく働いていることなど全く忘れてしまいそうな、その日の全部が幻と言われたのなら信じてしまうほどに穏やかな休日だった。

昼寝から目を覚ますと、夜は異常に静かで車通りの多い道が近くにあるわけでもないからか、部屋の中は波と風の音以外に何も聞こえない。半端な時間に寝てしまったものだと思いながら体の節を伸ばして体を起こした。あたりを見渡すと、障子を開け放った広縁の先に見える海は完全に闇に包まれていて、船場をぼんやりと照らすオレンジ色の光だけが深い黒の中に灯っていた。見下ろした先にその明かりだけが見えて、夢とも現実ともつかないような闇の中、意識が徐々に戻ってくる。暖房をつけたまま寝ていたせいだろうか、それとも酒のせいだろうか、ひどくのどが渇いた。部屋の電気をつけ、備え付けの水を休むことなく三杯飲んだ。

また布団の上に横になり十分ほどぼんやりと天井を見上げていると不意にビールが飲みたくなった。のどの渇きは引いたものの中途半端に酒が体の中に残っているのもあってか、代用品として売られている発泡酒と何ら変わらない風味の国産ビールの味が恋しくなる。

売店脇の自動販売機に売っていたはずだと思い出して、部屋を抜けだす。

廊下のスピーカーからは控えめにドビュッシーの『二つのアラベスク 第二番ト長調』が流れていた。曲からおこるイメージを頭の中で映像にしながら歩いた。

どこまで行こうとも暗い夜の中、断崖の海が追いかけてくるそのホテル内を、小さな女の子が音楽とともに跳ね回ってゆく、かくれんぼでもしながら軽やかに進むように跳ねては立ち止まり、私と一緒に歩き回る。楽しそうに笑い、姿を消して、私の腕をとりながらくるくると周る彼女は私をいたずらに振り回したと思ったら一瞬姿を消してしまう。しばらくあたりを見回していると、くすくすという笑い声がきこえて私を安心させる。女の子はひどく陽気にダンスを踊る。笑顔で跳ねて水面に浮かぶかのように軽やかに、ときに激しくターンをし、ときに上体を大きくのけ反らせる。

唐突に彼女が走り出したので私は突き放されないようにと彼女を追いかけてゆくと、さっきまで聞こえていた足音は廊下の曲がり角でドアのノックのように小さな音を三回だけ残して消えてしまった。曲が終わった先の曲がり角には扉があり、異様な存在感を放っていた。ゆっくりと近づき開くと、その先にあるのは黄金のススキ野原だった。黄金の薄の上を風が走る。曲が切れてしまったホテルには一瞬の静寂の間を縫うように波の音が響く。その二つの音が重なって私の意識がとても深いところまで落ちていこうとする。

私が一度こちらを振り返って、扉の先へと踏み出そうとして、映像は終わる。

フロントフロアにつくと、ラウンジバーにまだ明かりがついていた。看板を見るとどうやら十一時までは開いているようで『ここで飲んでいくのも悪くないな』と中へ入ることにした。

ぐるりと中を見渡す、カウンターの奥には壁掛けのテレビがあって、白黒の特撮映画の映像が流れている。カウンターの反対側はガラス張りになっていて、やはり海が見えた。暗い闇の中に漏れるホテルの灯りが高台から海へと延びるスキーのジャンプ台のよう長く急な斜面を照らしている。

ガラス窓の脇には美術館にあるような説明書きのパネルが壁に貼られていて、暗い宵闇のその坂の先にある海岸線が、その昔ゴジラが初めて日本に上陸した土地だと写真付きで紹介されていた。端にあるブックラックには当日付のローカル紙と数冊の雑誌に絵本、三島由紀夫の『潮騒』と『金閣寺』があった。コーヒーと緑茶のサーバーが中央に置かれていて、席には数組の客が浴衣姿のまま新聞を読んだり携帯をいじったりしている。カウンターにはホテルの制服だろう小豆色のジャケットを羽織った老齢の男性が一人でいて、ようやく一日が終わるという安堵なのか、それとも他に良いことでもあったのか、どこか嬉しそうな表情でゆっくりとグラスを磨いていた。

「まだ平気ですか?」

カウンターにいる老人にできうる限り愛想よくそう告げる。

「ええどうぞ、何か飲んでいかれますか? 部屋に持ち帰ることもできますよ」

男性は笑顔でそう言って縦置きのスタンドに挟まったメニューをさした。

しかしゴジラという生き物は容赦がない、戦争期間中のアメリカでさえ京都へ爆弾を落とすことをためらったのに、いやそれを知っていたからこそ伊勢神宮を有しており日本においては重要な拠点ではないという点で警戒の薄そうな三重から侵入を試みたのかもしれないがだがそんな策を練っていたとしても彼は隠密には不向きだった。放射能事故のせいで生まれたときから見張られていたのだから。

「じゃあ、黒ビールをジョッキでお願いします」

「今日はご旅行で?」

「ええ、気楽に一人旅ですよ。伊勢神宮に参拝でもと思いまして」

「いかがでしたか、大神宮さんは?」

そういってサーバーから注がれたばかりのビールを私の目の前に置く。

「いえ今日は行っていないんですよ。明日に取っておこうと思いまして、今まで行ったことがないもので楽しみですね」

「歩くのにも楽しいところですよ。やはり境内でしか味わえないような空気のようなものもありますし、おかげ横丁もいつ行っても活気があって、どちらも違う方向ではありますが元気をもらえます」

「いいですね、久しぶりの一人旅ですしのんびりしてきますよ。何かおすすめの土産物はありますか」

「そうですね」そう言って老人はカウンターの端に置かれたパンフレットの中から老舗の和菓子屋や珍しいものを買える酒屋、宅配もしてくれる観光客に都合のいい海鮮問屋のことを教えてくれた。


「本当は誰かとこられればよかったんですがね、家族も友人も平日で急な誘いになるということもあって、久しぶりの一人旅にしました。気楽でいいですがね、一人であんまりのんびりとしているといろいろ考えちまいます。次は家族も連れてきますよ」

「気に入ってくださったのなら是非」

「そういえば、さっきひどく懐かしい顔を見かけたんですよ。でも、みかけたと思ったら追いかける暇もなく消えてしまいました。飲みにでも誘えばよかった」

いい気分になって妄想の中のことまでも語って、三杯目のジョッキをした。

「縁さえあればまた会えますよ」

「縁はきっとないでしょうね、先生の思い出の中にしかいない誰かです。私自身が会ったことがあるわけはないので」

「そうですか」老人は穏やかな声で言った「わたし、以前あなたのお師匠さんに会ったことがあるんですよ」

「先生に?」

「ええ、懇意にしていただきました」古く懐かしい、日々を浮かべる老人の瞳に嘘がないことは明らかで、望む、望まないに関わらずに聞かなければならない。どうにもその場から逃げ出すことは日本人として生まれた私には不義理なことに思えて仕方がなかった。

「懇意にというと、何かそういう関連のお仕事してらしたんですか?」

「いいえ、まだ私が今のあなたほどの若さをもっていたころ。遠い外国に小さなレストランを持っていたんですよ。海のきれいな街でね。今ぐらいの時分になると赤茶けたレンガが陽光を忘れることができず足掻くかのように鈍く、白く光る。不思議な町でした。あの方は何やら創作のためにその町を訪れていて、週に一度か二度、夕刻になると私の店に立ち寄ってくださいました。ほとんどの場合一人でしたが、そのうち何度かは娘さんくらいの年の女の子を連れて私の店に食事に来てくださいました」

老人が懐かしそうにそういうのを聞くと、急に今いる場所が現実ではないような気がしてきてしまう。

「それはおかしな話ですね、先生には子供はいないのに」

「娘さんではないのでしょうね、友人だったのでしょう。彼らのことはなぜだか地元の人間たちは皆知っていました。私自身何度か町中で見かけたことがあります。小さな町の人間にとってはそういう、少しばかり自分たちの日常から外れた出来事自体が娯楽のようなものですから、それぞれが勝手な感想なんかを言いながらあの二人の話をしていました。


店は買いたいというもの好きに売ってしまいましたが、時折、海沿いに起きる懐かしい季節のにおいを嗅ぐとあの町のことを思い出して、そうするとなぜだかあなたの師匠のことを思い出して、あの人の撮った映画やら、最近の話をしている映像なんかを見るんです」

あの町は私と先生の思い出と、先生のくみ上げた創作の、虚構の中にだけある場所で、誰も知らないのだと思っていたのでこれには少し驚いた。

「そうですか、そうやって自分なりの思いをもって見てもらえるなら、先生も喜ぶでしょう。あの人は時間というものを切り取るのがうまいんです。人をノスタルジックな気分にさせるとかそういったのが」

廊下の向こうを一人の老人が通り過ぎるのを視界の隅にとらえた。

「そうですね、わたしもあの時分に町にいて、私の見ていた風景も映画の隅に映りこんでいたんです。そうですね、もう、あの時の町はどこにも、ないから余計に。思い出と創作の中にしかないから懐かしくなるたびに見てしまうのかもしれません」私はその男の話に耳を傾けながら、少し気の抜けてしまったビールを飲んだ。焦がしたような味の黒ビールを舌の上で転がし、遠い異国の地で創作勤しんでいた先生がアパートの中ソファーの上、ひどく疲れた顔で眠りこけていた時のことを思いだした。

「寂しい映画でした」

呟くようにそう言うと、目の前の老人は、静かに一度だけ頷いた。


 先生は三度だけ映画を撮った。その最後の映画が海外で賞を取って、業界に認められ、今後も仕事として作品を作る権利を手にした。しかし、先生はそれ以降もう映画を撮らなかった。

 日本で公開されたその映画は海外の映画祭で賞を得たという理由でたちまちウィークリーランキングで四位になったがロードショーが終わると(いくつかの批評家が語ることはあっても)人々からは忘れ去られた。使い捨てるようにたくさんの映画がつくられた時代だった。

・11


映画館の中では、いつかの少年がポップコーンをつまみながらスクリーンに見入っていた。彼の手元に置かれたポップコーンはキャラメルとバターのミックスで、ひじ掛けのカップにはジンジャーエールが入っているのだろう。完璧な組み合わせだ。


久しぶりに訪れた故郷の映画館はいつの間にか商業施設ごと閉鎖されていたようで、僕は長い間そのことを知らなかった。薄闇のなか電気の止まった商業施設の中を、夕方になって傾きかけた陽の光だけを頼りに歩いていく。停止したエスカレーターを登りながら、僕はずっと昔のことを思い出していた。

 初めて映画を見たこと、学生時代の恋人と港を一緒に歩いたこと、幼時に両親と一緒に遊覧船に乗ったこと、高校三年生の初夏に同級生の友人と二人で映画を観に来たこと。


灯りの消えた商業施設を四階まで上がり荒廃し廃墟と化したかつての映画館を進む。解体中なのか半端に崩された天井から覗く空の下、瓦礫と埃をかぶって汚れた布張りの椅子が並んでいた。夕闇の中、むき出しになったスクリーンは劇場が機能していた当時と同じ上映前のオレンジの灯りに照らされていた。すっかりと様変わりしてしまっているのに確かな懐かしさがそこにはあって「電灯に比べたらこの陽光は君には暖かすぎるだろう? 長い年月の本来の仕事を終えて初めて君はぬくもりの感覚を得たのかい? だとしたら私を含めた殆どの老人たちよりも君は幸せだ」夕焼けはだんだんと夜に向かっていく。赤、オレンジ、赤紫と空の色は10分もせずに暗くなっていった。

「一日で一番いい時間だ」

マジックアワーだと薄明の空の下、映画のセットみたいな町で老人は役者に教える。

そんな、かつて観た映画のワンシーンを思い出した。

「もし君が仕事にこだわる一人の老人なら。もう一度だけ僕に映画を見せてくれないか? ほら、だんだんと日も暮れてきた。そうやって暗くなる映画館の中、僕の胸はロードショーへの期待感でいっぱいだ。

君はどうだい? 一つ思うのだけれど、この星明りは私には消えてゆく電球か非常口にしか見えないけれど。君にとっては出会った人々に見えるのかもな。なんせ暗闇で光る君を。何百万、何千万の人間が見に来ていたのだから。上映中、その目の一つ一つに反射した光が輝くのを君はずっと見ていたのだろう」

僕の問いかけに応えるようにブザーの音が鳴った。彼の復帰を祝うように港町のタンカー船の汽笛がそれを追いかける。嬉しそうに、気恥ずかしそうに画面が少し乱れた後で。その映画は流れ出した。

「一つ残念なのは商業的意味を失った映画館ではコマーシャルが流れなかったことだな。僕はあの前時代的に踊る映画泥棒を存外にも好んでいたから」。


・12

 なぜか故郷の映画館で教授と話をしていた。私は教授の座る席の後ろ中央通路に立ったまま手すりに体を預けていて、スクリーンには古い映画のトレーラーが流れていた。これはいつの事だっただろうか、現実だったのかどうかもはっきりとしない、もしかしたら夢だったのかもしれない。

トレーラーが終わり、教授が若かりし頃に撮ったという映像が流れる。教授はひどく陳腐な設定にまみれた派手でわかりやすい映画を多く撮っていたけれど、その映画だけは違っていた。ありふれた、どこかの道端にいくらもにあったようなヒューマンドラマだった。

「ただのホームムービーだったんだ」と私の前に座った彼は笑いながら話す。

「この映画を子供のころから何度も来たこの映画館で流すことが観ることができたら、それだけで俺にとってこの仕事をずっとしてきたことに意味があったような気がすると思ったけれど全国配給はされなかった」キャリアのためでなく、本当の意味で自分のために作った映画を故郷の映画館で観ることが出来たなら自分の足跡を振り返るうえで意味のあることだったのに、その当時には叶わなかったと語る。

「そうか、叶ってよかったね」私がそう言うと、子供のように無邪気に笑う。

何も言わず、少し考え込んだように映画の冒頭に流れるクレジットを眺めながら、たった今思い出したばかりだけれど、と彼は言った。

「これは、たぶんジェスの、お前の師匠の話からきているんだ。内容をトレースしたというんじゃなくて、俺が昔のジェスの話を聞いた時に思ったことを頭の中に浮かべながら最初のプロットを組んだ」

「先生の話? じゃあ、私も知っているものかな」

「確かジェスの公演を見に行く前に、君から内容を聞いたんだじゃなかったかな。ずいぶん昔に演じていた話だ。そうだ、タカが俺におしえてくれたんだ。小学生の時の社会科勉強プログラムで行った芸術鑑賞の時にやっていたとか何とかで話をしてくれて、興味を持って、それがきっかけで観に行ったんだ。あくまでプロットの、下地の部分だけだし、記憶の片隅にある当時の自分の感情から作ったから形状がオリジナルとは違うかもしれないけれど……あんまり先に語りすぎるものじゃないな。サリンジャーも言っていた。注釈というものはいくらか読者をしらけさせてしまう。それに、これでお前につまらないと思われたら目も当てられない」彼はスクリーンへと視線を戻す。

「その先生の話なら覚えているよ」小学三年生の時、社会科見学と銘打たれてかつての級友たちと文化ホールのようなところに連れていかれ、鑑賞させられた初めての舞台作品だった。どこか心に引っかかりを残したもので、忘れそうになるたびにふと思い出す春の桜の風景のような、季節ごとに吹く風のにおいのような作品だった「でもなんで先生だったんだろう? 県営の劇団もあるわけだし、もっとおあつらえ向きなものが他にいくらもあったろうに」。

「さあ? 県内出身者で舞台に立ちながら生計を立てている若者なんてそうそういなかったから、ジェスが選ばれたんだろうけど。そういえば何か言っていたような気がするな。なんで呼ばれたかわからないし、そこまで集客力があるわけではないことも自分でわかっていたけれど、チケットは文化事業として近隣の学校に配られるって言うから恥をかくわけでもなし、なんにせよ金をもらえるのだからいいかと思って受けたとか何とか。

ジェスはテレビタレントにはなれなかったから、舞台で細々と活動をしていた。今みたいに個人で動画コンテンツを作って発表するためのプラットフォームが充実していたわけではなかったし、まだ駆け出しで役者やナレーターの仕事も貰うことがなかったから、全部個人で活動していた。

何になりたいのかって質問にもぼんやりとしか答えてくれなかったな。趣味でやっているだけで二、三年したら就職するって言っていたけれど結局そのままだ。

確固たるビジョンなんてジェス自身にもなかったのだろうけど。俺はあいつの作る話が好きだったし、東京で再会した時にはそれなりにファンもいて、ジェス自身も自分の話を誰かに聞いてもらいたかったんだろうから楽しそうだったよ。分類としては芸人だったけど彼自身、自分が何をしているのかよくわかってなかった。宗教に近かったのかもな」

「宗教か」初めて観た先生の舞台。それを思い出すのは決まって人生における転機の訪れた時だった。中学校に上がるとき、恋人ができた時、部活動から引退するときなど、高校へ上がり、この町を去るまで私の人生が小さな節目を迎えた時に無意識のなか思い出されては何度も繰り返しリフレインをする。昔みた映画のセリフやアニメ、漫画の名言なんかを忘れないのと同じように「本当は全部あの話につながっているんだって思うんだ」その舞台に座る芸人の姿が記憶の中で蘇るたび、そんなことを考える。

「え?」教授は聞き返した。

「後にしよう。始まる。スピーカーはちゃんとつながったかな?」不意に向けられたその表情が子供の突飛もない言動を意味のあるものだと必死に理解しようと思考を巡らせる、まだ映画監督にも大学教授にもなる前の、ただの近所のお兄さんだったころと何も変わっておらず思わず笑いそうになる「不思議だよな、同じ校外学習でも浄水場の微生物の話は全部わすれたのに、先生があの舞台で言った言葉はずっと覚えていたんだ」

 映画監督は私の言葉の意味をしばらくそのまま考え込んでいたが、結局答えは出なかったようで、スクリーンを見つめた。

平生を装いながら、スクリーンを眺めるその横顔はかつての友の姿を本人にしか見えないない空間の中で探す老人のように遠くを見つめていた。

さびれた港に降り注ぐ月の光がひどく明るい夜のことであった。

だがその夜は私の人生の中、本当にあったのだろうか?

一体いつ、彼とこんな話をしたのだろう?

私が先生の弟子になった時には教授はすでに亡くなってしまっていたのに。

「タカ、俺は、あの年のゴールデンウィークまでにこういう映画を作りたかったんだ。こういう、ずっと撮りたかったものでその年の勝負をしてみたかったんだ」

独白のようにゆっくりと話す彼の姿を私は現実のものとして確かに覚えている。

「確かに俺の撮った映画の何本かは興行的には成功したけど、ジェスは、アイツは毎度馬鹿にしてくるんだよ。最初の自分で脚本書いている間は面白かったくせにつまらない仕事するようになりやがって、とか、会うたびにそんなことを言われた。だからどうにか目にもの見せてやろうと思ったんだけどな、死んじまった」。

そう言って笑う教授の笑顔はどこか寂しそうで、その表情のせいだろうか、私が知る姿に比べて随分とやせ細ってしまったような印象を受ける。


・13

黄金色に焼けたすすきだけが山の上、風に揺れている。

昔、仙石原や稲取細野高原の近くの温泉旅館で働いていたことがあるが映像の中に広がるすすき野原はそのどちらよりも広かった。針葉樹も広葉樹もなく見渡せる限り周囲に広がる稜線にはすすきだけが揺れていた。何度も噴火しては固まったのであろう穴ぼこだらけのゴツゴツした岩のあちこちに覗く山の中腹にその場所はあった。すすきの黄金色と空の色、その間を抜けるように山道がずっと遠くまで延びており、切り立った崖の先に至るまで広がるすすきがまるで海の様に風に吹かれ、波を打つ。根本に少しだけある雑草としか呼び方を知らないような草花と赤や黒の火成岩。その中を一人の少女が音楽とともに歩いていく。

カメラが揺れるすすきの波を追っていったその先を追うようにカメラが動いて、山道を歩く少女の姿をとらえた。明るい髪の色をしていた。夏草の中を駆けるキツネのように艶のある柔らかそうな毛並がすすきより一頭分高い位置で風に揺れている。

私が子供の頃にはそういう髪を自然に持つ人間はあまり多くなかった。国籍を得るために血統がどうしても必要だったが原因の一つだっただろう。と、そんなことを考える。彼女はずっと山の奥を目指して進んでいく、そこにいる誰かに会いに行くためにそうしていて、そこに先生がいることを私は知っていた。


年のころは十をいくつか過ぎたくらいだろう。歩いている彼女の映像とともに、少女はぎこちなさとは無縁な語り口で堂々とあらすじを語る。彼女の顔は昔観た映画のラストシーンにサブミナル的に挿入された少女の写真に似ていた。先生が三番目に撮った映画で、私と先生が出会ったあの町が舞台だった。その写真に写っていたのはいつまでも記憶の中に遺り続けるような……進む帆船が遠くに浮かぶ夏の海の風景をそのまま切り取ったような少女の笑顔だった。


・SE(人の声、群衆が小声で喋る声)


 高く晴れ渡る空の元、遠くには山間の町に建つ高いマンションや商業ビルが澄み渡る初秋の冷涼な空気のむこう、ジオラマの様に広がっている。距離感を見失うほど遠いその町がこの山と同じ次元の中に空間とつながっていることを少し不思議に思う。

遠くで狼煙を焚くかのように白い煙が上がっていて、それを見た少女が大声を出すために息を吸う。すすきはその小さな呼吸に吸い寄せられるように、少女の方へつらつらと揺れた。

休日の午後に観る子供たちの野外演劇は、日曜日の茶の間に流れる視聴者参加型のテレビの番組ように間延びした時間の中に在った。観光客からも父兄からも優しく受け入れらていて「完璧さを求められることもなく、誰もその内容について真剣に考えたりはしない。

なんとなしにこれが、在るべき大衆演劇の姿なのかもしれないと、劇を観ながらそんなことを思っていた」


男は何にも追われることのない自由な時間を確かめるために空を見上げた。

「九月でもここは年末の空だ」と、浮かぶ雲の一つもない空を見て思った。どこまでも晴れ渡っていて、上に行くほどに青は濃くなっていく、遠くむこうを航空機が過ぎて行くその機体の形状がはっきりと見えて、何一つ無い空にひこうき雲の白い筋だけが消えずに残った。

山の中腹にある広場の中、ただ空間を区切られただけの舞台の上で様々な年代の子供たちが混ざって劇をつくりあげていた。その舞台を囲むのはほとんどが、彼らの家族や同級生たちだ。彼らは自分の家の子供達の姿を嬉しそうに見つめている。婦人や老人達は時折、舞台を指差し、手を振り、楽しそうにしている。連れてこられただろう兄弟たちの反応はまちまちで、自分達の話を続ける中学生くらいのカップルの姿もあれば、父親の肩の上で物珍しそうに舞台に食いついている幼児や、レジャーシートの上で携帯ゲームに夢中になっている子もいる。ちなみに多くの父親たちはいまいち感情の読めない顔で静かに子供の姿を目やカメラで追っていた。


先ほど山道を歩いていた金髪の少女が舞台の上に登場する。

 舞台の上でも同じように彼女はモノローグを話していた。どのようにしてこの話がここまで至ったのか、彼女自身の旅路の話と、彼女が出会った旅人の話、青年が彼女に話してくれたススキの話。場面ごとに現れては今、舞台の上に建っている少年少女の現在地が一体どこにあるのか、その全てを彼女が説明してくれた。

 それを聞いて、男はなぜか郷愁を覚えた。ずっと昔に旅立ったはずの故郷と、一人の老人のことを思い出す。ずっと昔に出会って救うことのできなかった老人「春になったら迎えに来てくれ、そして僕を必ず故郷にかえしておくれ」そう言った老人の言葉が頭の中でよみがえった。幻聴は現実と何ら変わりなく聞こえた。客席内の誰かがそう発したように聞こえて、男はたまらず振り返る。それでもそこに彼の見知った老人はいなかった。背の高い彼は見物客の一番後ろに立っていて「なぜ、あの男の人は後ろを振り返ったのだろうか?」と、少女はそのことをとても不思議に思った。頂上に向かって伸びる丘陵のずっと先を見上げ、胸の前で祈るように手を組んだ男の姿が舞台上にいる少女の目にはとても不可解に映った。

男を見る少女の横で、劇は止まることなく続いている。

「そう思うとすすきの群れも花火が消えずに残っているみたいで綺麗じゃないか?

夜空で散ったものが、ちりばめた絵の具みたいに固まって、黄金色。ずっと見上げられながらさ、毎年の秋がわる頃に祭りの喧騒と一緒にたくさんの人がみにきてさ。龍勢みたいに、空に浮かぶのよ。白い煙が降りてきて、また一人、また一人って、見上げると、夜空に打ちあがった落下傘と一緒になって願い事が降ってきて、昔いなくなってしまった誰かがその願いを聞き届けたみたいに風がすすきの上を走り抜けて、落下傘がずっと遠くに飛んでいくんだ。それを見ながら過ごすのは悪くないだろ? なんなら本当に神様みたいじゃないか?」

そんなセリフを舞台の上で話す少年の動きはどこか必要以上に大げさだった。群衆を相手に話す政治家の様に、無理にも着飾ってパーティー会場に集う日本人のように、彼は隣にいる女の子の役を笑わせようとしていたのだろう。

少年の隣にいるのは弱弱しい、絹のような女の子だった。美しくありながらも扱いを間違えたならすぐに破れてしまうような雰囲気を持っていて、何かを諦めきれずに物事を受け入れて抗わないその出で立ちが、聡くもあり、美しくもありながら、何かを諦めきれないという幼さなさを持つ女の子だった。


女  「こんなところいやだよ、寂しすぎるもの、やっぱり御影石がよかったな、目を瞑ってあの光る灰色を思いだすたびに、夏の暑さが、開いたドアと一緒に間の前に

冷えたスイカの味と、おばあちゃんと一緒になって笑うたくさんの子供の声に、汗だくになって遊んだ後の夕暮れのさむさと寂しさを思うの。素敵でしょ?ずっと思い出と一緒なんだよ。お盆のたびに帰ってきて、いつまでも家族と一緒にそんな子供時代のことを思いながら静かに石の中で私は眠るの」


少年 「そうかね、俺はこの方がいいけどなぁ何にも無いぜ、高いぜ、風の音しかしなくて静かで遠くのほうに街が見えてさ。誰にけがされることもない。ずっと気高くいられる。それに寂しくなったら会える。俺がせっせと登ってきてやるよ」


女  「独占欲?」


少年 「多分ちがうな、独占なんて……自由でいてくれないと意味が無い。お前が自由だってそう信じたいんだ。でも、俺はこの山に来てお前のことを思い出す。そうしてほかの人と同じようにお前に向かって祈るから、そしたら、思い出している間だけ、気まぐれでもなんでもいいから一緒にいられたらそれで満足だ」


女  「同じことだよ。御影石でも、このススキ野原でも、もう君のほかの人の中に私の思い出なんてきっと無いんだから、お寺の方が君も楽だろうしそれでいいよ」


少年 「死んだと思ったらいきなりそんなことを言うものじゃない。寂しいだろ。

でも、お前を思い出すたびに、お前が俺の思い出の中から綺麗に消えてくれたなら、そっちの方がずっと楽なんだろうとは思うよ。望んでいるんじゃ無いけれどね、時々そんなことを思う」


女  「思っていいよ、君は想っていてくれていい。でも、思ってもそんなことは言わないでよ。それこそ寂しいじゃないの」


・太鼓の音。やかましいばかりの祭囃子。舞台上の二人は驚いてそちらを振り返る。 


・金色の髪の少女と舞台の上の二人の視線がすれ違う。


・落語家は一礼して舞台の上に上がる(彼は新東名でトラックとの衝突事故を起こし、すでに死亡してしまっているようで、客席の奥から主婦たちの噂話のように少しだけそんな声が聞こえた)。


落語家 

「ジェス、いつだったか君に死後の世界というものについて聞いた時、君はそれがどこまでも広がるススキ野原だと言っていた。その中をひたすら歩くのだと、自分の人生について考えながら、どこまでものんびりと歩いていくのだと。それも悪くはないのかもしれないが、やはり旅というものは帰るべき場所にたどり着かないと終わらないんだ。生きてきた人生のその全てを抱えて、もう一度だけ少年時代を過ごした故郷に帰るんだ。それでやっと玄冬の終わりだと言えるんだ。それはある意味で許しなんだよ。いつでも帰ることが出来たはずなのにそれでもずっと帰らなかったのはきっと君が自分自身のことを認められなかったからなんだろ?」。



・14


「本当に何もなかったの?」

その夜、宿に帰ると妻は不思議そうにしながらそう尋ねてきた。

「何もなかったよ。映画館の入っている商業施設は3年前につぶれてしまったようで中には入れなかった」

私は妻と視線を合わせないように窓の向こうに広がる遠州灘を見続けた。

「そう。もういいわ」

私に真実を語る気がないのを悟ったのだろう。それ以上は何も聞かなかった。

「ひどく懐かしい顔に会ったよ」

気が付いた時には教授はもうそこには居なかった。私がスクリーンに夢中になっているその光景を見られたことに満足したように、無言でその場を後にした。彼のいた椅子の上には、古いアニメ映画のパンフレットが置き去りにされていた。



・15

故郷にある海岸線から見える風景が富士山と共に世界遺産に登録された。2010年代のことで、まだ平成は終わっていなかった。決してキレイとは言えないような灰色の砂浜と、いつまでも終わることのない土木工事が行われている場所だった。私とっては二十年分の思い出がそこにつまっていたけれど、文化的、歴史的観点から見てなにか価値がある場所とはどうしても思えず、当時に朝のニュースでその海岸と松原を含めて世界遺産として登録すると聞いてもどうにもピンとこなかったのを覚えている。

 市内に住む私たちにとってはなじみのある場所で故郷に帰るたび気晴らしに立ち寄る場所ではあった。思い出がいくつも残っている。夏になるとそばにある商業プールによく遊びに連れてきてもらったことだとか(そこはもう閉鎖されていたが水の張られていないプールだけがずっと残っていた)、部活動やスポーツ少年団の試合や練習で近くの球場や体育館に訪れたことだとか、新年が明ける日に初日の出を見るため寒い中友人と自転車をこいだことだとか、私にとっては郷愁や原体験と共に思い出す風景の一つではあったが、観光客などほとんど見ない故郷の一部が世界遺産になるなどと言われても実感が持てず。ニュースに映る写真を見て「最近、帰っていないな」と、それだけを思った。

 その海岸での思い出はいくつかあるが、その中に、一度だけ会った老人の話の中にしかない歌というものがある。

大学時代、帰郷した私は地元の私立大学に進んだ高校時代の友人を誘って焚火をした。焚火に必要な物は友達がホームセンターで用意してくれるというので、私は干物や缶詰、練り物や魚の切り身を河岸の市で購入し海岸へと向かった。

そのころの松原は夜になると人は警官も不良学生も含めほとんど誰も来ないようなところで、砂浜で焚火をしたところで誰も咎める人などいなかった。砂の上で燃える薪がパキパキと壊れる音を聞きながら色々な話をした。夏の終わりと大晦日、年に二回、中退するまで四回、中退してから一回。私はその故郷の海岸で友人と焚火をした。


初日の出を待っていると、老齢の男性が通りがけに挨拶をしてきた。幾らか当たり障りのない話をして「それにしても寒いね」というので火に当たることを勧めると、すんなり私たちの対面に収まった。彼としても話し相手が欲しかったのだろう。酒を飲んでいたし随分と昔のことで細部もあいまいだけれど、空が少し白んできた頃だったのを覚えている。毎年ここで日の出を待っているのだと彼は言っていた。彼の顔ももうはっきりとは覚えていないけれど、何を話したかだけは未だに忘れない。

「一杯どうですか?」と友人が湯呑に注いだ熱燗を彼に渡した。

「焚火ってのは懐かしいな。昔はここらに住んでいる仲間と寄り合って、よく騒いだよ。ドラム缶をあっちの広くなってるとこにいくつか持ってきて、酒やら料理やら釣った魚やら各家庭から持ち寄って年の瀬にみんなで飲んだ」知らない男は昔を懐かしむようにそうつぶやいた「俺が若い時だから、もう40年以上も前か」

「聞いているだけでも楽しそうですね。羨ましいです。男二人だけの年越しってのはどうにも寂しい」食材の世話をしながら彼の話を聞いていた。松原で拾った松ぼっくりを炭と一緒にペンキの空き缶に移し網を敷いたその上で食材を焼く。焼きあがりに松の葉を火の中に投げ入れ、香りづけすれば干物や塩焼きは味がよくなる。

「毎年ここに日の出見に来るんですか?」友人がそう尋ねると男は静かに頷いた。

「毎年ではないけれど、何も用事がなくて日の出が見られそうな天気の年にはきとるよ」

砂浜を眺めていた。昼間あんなにも美しさとは程遠い砂浜が、朝焼けの影の中で輝いて見えた「供養みたいなものでよ、俺ァ親やら友人やらたくさんこの町で見送ってきたんだ。初詣行く前にここでそういう人らのこと思い出すんだ」

反応するように顔を向けると、ちょうど登り出した太陽が老人の顔の後ろに見えた。ほんの少しだけ顔を出した太陽の光がまっすぐ目に入ってくる。老人も明るくなったことに気が付いたのか、私の見ている先を振り返った。遠くを見るようなその顔はどこか満足そうだった。

「昔はこの辺りにもたくさん人がいたんだ。男も女も、みんなでここ酒やって歌を歌ってた。船乗りの歌だ。船の上での安全を願って男を豪のままに保たせる歌だ。いまはもう歌わねえ。一人で歌っても仕方がないからだ。それでは迎えに来てくれと言っているみたいら? そんなん情けなくていかん」老人はそう言いながら酒を飲み続けた「誰も帰ってこなくちゃもう歌えやしない」

そう老人が話すとのを聞いた私はそれがどんな歌なのかを聞きたくて仕方がなくなってしまった。曲名を聞いておけばよかったのにそれをせず、一度も聞いたことのないその歌がどのようなものか、どのような場面で歌われていたのか、そのことを考えながら老人に当時の様子を聞いていた。

赤く染まった空の下、砂浜の上、灰になった木材が死んで干からびた貝のように散らばっていた。それをみているといくら思いを馳せようとも聞こえてくることのない実態を持たないその歌が急に美しいものに思えてくる。

酔っ払いだった二十の私は一人で歌うことの出来なくなってしまったという老人の代わりに、歌を歌おうと思いつく、モヤのかかったような状態のまま立ち上がって波打ち際へと向かった。話を続ける友人と老人を置いて千鳥足、遠州灘を挟んだ伊豆半島から太陽が昇るのがはっきりと見えた。



沖から

この夏

一番の

高い波

輝く

少年の目

黄色の

ロングボード


私は冬の灰色の海を見ながら鵠沼サーフ(ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲)を歌った。酔っ払いらしくご機嫌に、恥も外聞も持たず。もうすっかり日の揚がった空の下に佇む海は出産を終えた母親のように静かで、慈愛に満ちた顔で私を見つめているよな気がした。

後ろから友人と老人が腰を上げ私の後をついてくるのが見えた。たった三人私の故郷は新年をむかえた。


 その大晦日に聞いた話の中にだけあるはずの歌。それは一体どんな歌だったのだろうか? と、ニュース番組を観ていた私は改めてそのことを考えていた。




・16

先生の物語の登場人物には一部を除いて名前がない。それはどんな形式をとっていても同じことだった。先生は新しい話をまとめるときには必ず何かの形で文字に起こしこんでいる。形式は気にしていないのだろう多くの場合それはノートの切れ端であったり、ホテルの電話脇のメモ用紙だったり、どこかのレストランの紙ナプキンであったりにいかにも思い付きであるといった風に書き留められていた。自分で語ることを目的としているので他人に読ませるものではないのだから添削など行われずそのままの形で自室に保管されている。彼本人以外の目に触れることの無いはずのその文章を、私は先生の自室を掃除しながら時折読みふけっていた。

 先生は必ず会話の頭に誰が話したかはわかるように名詞を書くのだが、大体は滅茶苦茶に振り分けられた暫定的な呼び名である。「警察」など職業であったり、「白髪」など身体的特徴であったり、推理物の犯人には徹頭徹尾「犯人」と書く(しかし探偵は探偵とは書かれておらず、視点がはげしく入れ替わり矢継ぎ早に事件が起きるその雑文の中、探偵役が誰であるのかを探すほうが難解だった)その場限りの呼び方でしかないのだが、明らかに何度も登場する職業があった「落語家」と書かれた名称である。初めの間は気が付かなかったが先生の編んだ何百編もある話のほとんどに、この人物は登場する。そして、その全てで大したことはせず、つじつま合わせのような尺を埋めるだけのような意味の分からない話をして去ってゆくのだ。だが、先生は便宜上、というか私に内容を話すとき「このじいさん、じじい」だとか「ホームレス」とか「こいつは八王子で通りかかった親切なおっさんだった」とか適当で乱暴な呼称を口にする。しかし、紙を意識してみるとはそれらに対しても落語家と呼称をつけていた。トランプのジョーカーのような存在なのだろうと当時の私は思っていた。ゲームに様々な形をとってその場に存在できる唯一のカードの様に便利に使っている呼称なのだと。

同じ人間が書いた習作の、賑やかしのような人物なのだからそこまで不思議なことではない。だが、落語家だけが特異な点がある。物語の主要でない人物に対して呼称がダブることがないのだ。いくつかの物語の中に通行人として登場する人物やキャラクターには彼はその時々で別の呼称をつける。明らかに思い付きでしかないといったように、職業ですらない暫定的な呼び名「ボルボ」とか「クレー射撃」とか「滑落」であるとか、ひどいところでは「カニ」「モノクローム」「女子トイレ」「巨悪」「元気な男」と節操も一貫性もない。あまりに適当で「ああ、この人物は今後一切出てくることはないんだ」と、すぐにわかりそうな名をつけるのだが何故か「落語家」だけは別だった。

同じ口調、同じ癖をもって複数の話に登場する。それがたとえほかの端役と同じように一言、二言だけであったとしてもなぜか先生はその特定の人物の呼称を「落語家」と定める。

そこに何か特別な意味があるのではないか? と勘繰りたくなってしまうよう。

誰かしら、特定の人物を連想した時にそうつけているのではないか? と。




・17


夜、バイクで箱根山を越えるところだった。その日は新月で暗く、それでいて山中は浅くはあるものの霧がかかっており視界が悪かった。国道一号線に沿って三島からずうっと続く七曲りの道の中でいつも以上に気を付けながら運転していた。暗闇と霧だけが続く、両手両足でバイクの操作を続けながら、いつもならば意識すらしない小田原までの距離を頭の中で常に思い描いており、意識するせいか町の明かりを果てしなく遠くに感じていた。

22歳の私が移動に使っていたのは兄が生まれた1992年に作られたホンダのCB400で思い出すたびにガソリンの残量を心配している間に(1992年製のCB400にはガソリンメーターが付いていなかったため、私はトリップメーターが210キロを過ぎたあたりで給油をするようにしていた)なぜだか芦ノ湖の脇にあるコンビニのことを思い出し、そこで少し休憩していこうかと箱根新道へ入らず芦ノ湖へと向かった。芦ノ湖につく頃になると霧もすっかり晴れていて、湖畔から星空を見上げることが出来た。駐車場の端にバイクを止め、コンビニエンスストアでカップのホットコーヒーを買う。

観光地と言っても夜になると明かりも人の気配もほとんどなく、時折車のエンジン音が遠くから聞こえる以外に音はほとんどなかった。

私だけがこの山の中に取り残されてしまったような気がして、孤独だ。と、そんなことを思っていると私が休憩するのを狙いすましたかのように先生から電話がかかってくる。

「どうした? 随分と遅いじゃないかタカ、もうたどり着いている頃だと思っていたのに、また立ち止まっているのか?」

「ええ、芦ノ湖から見える天球がきれいなんですよ」

「それがこじゃれた言い訳だと思っているなら、お前ただのさむい奴だよ。戻ってくるというから待っているのに。しかも芦ノ湖ということはまた下道を使っているな、たどり着く気はあるのか?」

「もちろん、朝までには必ずたどり着きますよ国道一号線が好きなんですよ。本当は歩きたいくらいなんですけれどね、あんまり急いでもいいことがないってわかっているので、先生がいつも急ぎすぎなんですよ」

「僕は公共の交通機関を使っているだけだから急いでいるつもりはないがな。そうは言ってもいや、モーターサイクル・ダイアリーズのバイクがすぐ壊れるのには本当に驚いたね」

「なんの話をしてらっしゃるのですか?」

「さっきまで見ていた映画さチェ・ゲバラの若いころの話、てっきりタイトルの通りに自動二輪で旅をする話なのかと思ったらわりに早い段階でバイクが壊れてな、それでお前のことを思い出したから、電話をしていることにしたんだ。康則は元気かい」

「バイクを私の兄の名前で呼ぶことをやめてください。でも箱根とか標高の高いところに来るとやっぱりキャブレーターの調子が悪いのかエンジンが安定しないんですよね、オイルとか冷却水とか最後に入れたのがいつだったのか覚えてないから、多分そのどちらかが原因で不調です。まあ、バイクは走るので問題はありませんが、星がなかなかきれいなのでもう少しここにいようと思います」

「そうか、星が……野郎にそんなロマンチックなことを言われると怖気震っちまうな。ま、確かその辺に星の王子さまミュージアムだかがあったし、サン=テグジュペリの小説のパイロットの気分でも考えながら、キャンプするなり野宿するなりしてくればいい、明日の仕事も昼過ぎからだし、墜落した場所で大切なものでも見つけてこい。帰ってこられなくなったら迎えに行くから電話しろ」

「どうかな? 彼らの視界の中にセブンイレブンがあってことなら喜んでそうしますが、そうでないなら今夜中には横浜に戻りますよ」

「星の王子様にはあったよ。人間の土地にはどうだったかな、夜間飛行ではイトーヨーカドーだね、夜には閉まっていた」

「というか、ミュージアムなんてあるんですよね、知りませんでした。ちょっと興味あります」

「感動するようなものは一切ないけれど、時間があるなら行ってみるとそれなりに暇はつぶせるぞ。なんかそのあたりの小説のことを思い出そうとすると、去年のこと思い出すんだよな、僕が乗っていたのはボーイングだし、操縦桿を握ったのは僕にまったく関わりなんてないどこかの誰かで、座っていたのはそれなりに快適なビジネスクラスだった。それに、もちろん墜落もしなかったのにな」

「へぇ。その話はまだ聞いたことがないですね、なんか変なことでもあったんですか?」

「いや……特に変わったことはなかったな、ただ海外旅行をだけか、ああ、そういえばお前にそこで出会ったのか、そのことを忘れていた。ただ海外に出たのが珍しかっただけだな、あと、お前を拾った」

「なんだ、あの国のことですか、私にとっては結構な人生の転換期でしたよ」

「お前は才気ある少年で済ませるくらいが調度よかったようなきもするんだよな。それで放っておけば、こんな夜中にお前がどこを走っているのか気にすることもなかったと思うのにな」

「いま、どうやって国道16号線に乗ろうか、そのルートを頭の中で模索しているところですから、少し待ってください。なんにせよ向かっている途中なんで、そんなに心配しなくても平気ですよ。事故には気を付けますし、まだ眠くもありません」

「ならいいか、それにしても16号線って、何だって無駄に遠回りをしたがるんだ? そのまま1号線でくればいいだろう。それなら何度も来たことのあるはずの道をわざわざ改まって探す必要もない」

「まあ、それに関しては趣味ですね、頭を適度につかいながら、ちょうどいい塩梅で遠回りをしつつ帰るのが楽しいんですよ。どうせ朝になるのはまだまだ先のことなんで」

「そうか、まあお前がそれで楽しいっていうなら他人がとやかく言うことじゃないな、ツーリング楽しんで来い。なんにせよ事故にだけは気を付けて戻ってこいよ。気のすむまで走ってこい」

電話が切れた後は決まって短い喪失があり、電話で誰かと話すよりも以前の強い孤独を感じる。

「さて」と気持ちを切り替えるために短くつぶやき、握りつぶしたコーヒーカップをゴミ箱に投げ入れた。

バイクにまたがりセルボタンを押しながら、徐々にエンジンの回転数を上げてゆく。音の波は徐々に湖畔へと広がり湖の闇を威嚇する。箱根山の夜霧はいつも私の姿を隠すように広がっていた。月の灯りのない暗い道だった。

先生は何年もかけて自分の遺した話を私に聞かせた。そして自分でそれを作ることができるように、五年間もの間、私の面倒を見てくれた。そこに対する感謝をいつも忘れたことは無い。




先生を思いとどまらせることが私にはできたはずだ。でも理不尽に人が死んでしまうことを辛いことだとそう思っていたのに、自ら死にたがっている先生のことを止める理由なんて何もないように思えてしまった。立派に十分な年月を生きた彼の願いを聞きとどけることが正しいことだったのかどうか私にはわからない。最後まで悩んだんだ。雪山で「ここまででいい」とそういった先生の手を引いて山を下りるべきだったのかどうか、本当はどうするべきだったのか、そこに正解があるのかさえ私にはわからない。

「こういうことだったのかもな」と一人つぶやく、先生も同じように過去に正しいのかどうかもわからないような選択をして、答えをくれる誰かにもう一度会いたくなってしまっただけなのかもしれない。



少しずつ先生は衰弱していった。

加齢とは別の要因があるように見えた。肉体的な問題ではなく精神のような。それに気が付いた時にはもう先生は心を決めてしまっていた。仕事の空き時間に何の気なしに先生がネットに投稿した動画を観ていると先生の様子にどこか違和感を覚えた。うまく形容できないが普段の先生の様子とは違う、全てをあきらめた後の人間のような、または肩の重荷をすべておろしたかのような、妙なすがすがしさがあって打てば今にも折れてしまいそうな弱さが見えて、今まで感じたことのない妙な不安が心の中に湧いてくるようで、一体何があったのかと思わずにはいられなかった。

本当の原因がどこにあるのかは私にはわからないが様々な要因が絡みあっているかのように見えた。原因がわからないからこそ、ストレスという言葉で片づけることが出来てしまいそうですらあって、実際、はたから見た先生はきっと正常だったのだろう。会いに行く前に数人に最近の彼の様子やら、何か変わったことなどないかと尋ねたのだが、知り合いのスタッフたちは金銭的な困窮とは無縁で、仕事場での様子もいつも通り、常に周囲に気を配っていたし、最近も数名の仕事仲間と旅行に行ったがとても楽しそうだった、と、はたから見ている分には普段と何も変わらないと言っていた。数人に電話をしたが帰ってくるのはそんな答えばかりで、どうにも納得がいかず妻に相談してみたものの、彼女も「活力にあふれていて相変わらず元気そうにしか見えない」と言うので、それ以上は他人に聞くのをやめた。全員が口をそろえて言うのが「仕事での疲れやら生活やらでいろいろとストレスがあるのだろう」とそればかりで結局のところ本人に直接聞いてみるしかないだろうと、おとなしく先生にいつならあるるかと電話で酒を飲む約束を取り付けた。


それから一月後、先生の家で酒を飲むことになり仕事先で買った珍味と地酒を何本か携えて彼の家を訪ねた。酒を注ぎテーブルに着いたところで彼は口を開く「過去を思い出すことが増えちまった」私が何を聞くよりも先に彼は自らそう言った「こういうのは時間と共に薄れていくものだと思っていたんだがな、どうしても語りたくてね。最近はそんな話ばかり作っちしまう。語る場なんてないし、誰に知られたくもないし、面白いものでもないっていうのにペンを持てば書き続けてしまうし、一人になれば頭の中で常に話を組み立てている。まいっちまうよ」先生は笑いながらそう言った。

「もう長くない。体は元気なんだがな、これ以上は持たない。表舞台から姿を消すことにした。体調不良なりなんなりって理由をつけて動画の投稿も、そのほかの仕事も今受けている分で終えることにした。

うつ病と言ってしまえばそれまでだが、なんだろうな。過去につかまってしまった。忘れたくない思い出と、思い出したくない失敗がセットになっているのがよくない。そうだ、僕がぶちまけたいのはあくまで僕自身の問題で、何を思っても変えることのできない過去のことだ。なんだろうな、これは。寂しさでもないし、後悔ってことでもないと思うんだ。だってこれまであの二人にリサと烏丸に報いるために生きてきたし、それがただの自己満足だったとして原動力になっていたのは確かなんだ。やり切ったってことはないのかもしれないが、誇ってもいいようなある程度の生き方はしてきたと思うんだ。

それが、今になって、あっけなく散っていったあの二人に対して色んなことを思ってしまって、あまつさえ会いたいとすら思ってくる。ボケちまっているんだろうな。無理だってことは頭の中でわかってはいるんだが、これ以上、続けるってことに耐えきれないんだよ。もう十分なんだ」



「もう十分ですか。先生、まだ私にできることはありますか?」

私がそう聞くと、それを待っていたというように、彼は含みのある笑みを浮かべ「タカ、さっきも言ったように僕はもう長くない。悪いんだけれど僕の最後の仕事を手伝ってくれないか?」心底楽しそうな声色でそんなことを聞いてくる。

「もちろんです何だろうと手伝いますよ」と言う他になかった。

「そうか、よかった。もう少しでまとまりそうなんだ。自分の昔のことをまとめるだけだからすぐに終わるだろうと思ったのだが、無駄に長く生きちまったな」

「先生が昔のことを語るなんて珍しいですね」

「誰かに話すことも、話そうと考えることもしてこなかった。そんな機会もなかったし、分かち合う相手はもういないし、誇れるような栄光もなかったから」

「どうしましょうか? 大橋さんに頼んでどこか劇場おさえてもらいましょうか?」

「いや、そうじゃない。この話だけはそうじゃない。いいか、僕はこの冬に遭難する。一人で雪山に入ったことにしてそこでこの話をする。誰も来ないような冬の山に入って語るのにちょうどいい場所を見つけてそこで話をしてくる。修行僧のように。タカ、お前に僕が無事にその場所までたどり着けるように手伝ってほしい。誰も分け入ってこないような雪山を選ぶつもりだ。そして春になってら失踪届を出してくれ、お前が探すか探さないかそれはお前に任せるよ、帰れそうなら自分一人で帰る。でも、どんな結末になっても僕を故郷の海まで帰しておくれ」。



・18


『見るなと言ったところでお前は僕がいなくなったあとで勝手に見だろうから、止める術はないな』先生はあの夜、私にそう言ったけれど、私はまだ彼の最後の話にたどり着けていない。


先生が書斎に使っていた部屋のウォークインクローゼットの中には、彼が今まで書き留めてきたものが様々な形で保管されていた。丁寧にファイリングされたものもあれば、ホッチキスで止められただけのメモ用紙の束だったり、日焼けなのかシミなのか紙の外側だけが黄色く変色してしまったノートブックだったり、第三者の手でしっかりと清書、印刷、調本されたものまで、全てが整然と意図を持ってしまい込まれていた。

 過去に教えられたもの、先生が舞台の上で演じていたもの、ついぞ表に出ることのなかったもの、一つ一つの紙の束を手に取ってめくっていくたびに先生に言われた言葉や過ごした日々が話の内容と重なって、めくるたび先生の姿を思い出す。

初めて会った異国の港で煙草の煙に包まれた姿が、雪国の終わらない冬のように寂しげだった。仕事で寄った数年ぶりだという伊豆への旅で年甲斐もなくはしゃぎ回る姿がうっとうしかった。二人で深酒をするたび、互いに意味の分からないことを言いながら心底笑いあった。人前で話すのなんて慣れているはずなのに、私の結婚式でスピーチをするとき目に見えて緊張していたのがおかしかった。揉めると必ず飯に連れていかれて、気が付けば仲直りをしていた。私の娘をとても大事にしてくれて、生まれた報告をしたときには両親よりも早く病院に来て「よかったな、よかったなあ」と何度も言いながら力強く私の肩を抱いていてくれた。私の身長が自分よりも高いのが不満なようでよく文句を言った。自家製のしめ鯖を冷蔵庫に常に入れていてなくなりそうになるたび、どこかへ鯖を買いに出かける。突発的に二日か三日誰にも何も言わずに行方をくらませてはどこか遠くを旅してくる。旅から帰ると酒を飲もうと私を呼び出して、旅の途中で見たものを無邪気に語っては、疲れたと子供のように眠ってしまう。そうして舞台の上、うわ言のように昔の思い出を語り始め、夜ごと過去へと帰ってゆく。

「老人は過去にいきるものさ」と、あきらめたように笑って。雪原の吹雪の中、強く握った手のぬくもりを最後に、私に未来を託して枯れる。

一枚一枚めくっていくたび先生の過去に会うことができた。


何百枚もの紙の束、その中を自由気ままにタイムトリップするかのように現れる先生の面影が懐かしくて、移動中の暇つぶしのために買ったはずのゴシップ誌を夢中になって読み切ってしまうかのように、気が付けば随分と時間がたってしまっていた。


クローゼットから外に出て書斎の窓を開けるとミミズクの鳴く声が聞こえた。会話をするかのように数羽が交互に鳴いている声が森の奥から段々と近づいてくるようだった。振り子時計が時を刻むように一定の間隔で届くその鳴き声を集中して聞こうとすればするほど本当の距離がわからなくなる。


私は夕闇の迫る薄暮の向こうに広がる森を見つめた。


ぼんやりと広がる夕闇の中の森の中で私は芦ノ湖のほとりに立っていた。先生からの電話はなく、いっこうに明けることのない夜の中にいるその私は、目の前に広がる満点の星空を眺めながら、一人きり、来るはずのない白夜を待っていた。


先生は、もう遠くへ行ってしまったのだろうか?


・19


「レストランから外を眺めるとボンネビルに乗った誰かが海上を走り去っていった。比喩でもなんでもなく水平線を横切っていく。満潮で沈んでしまう道がその場所に沈んでいて、バイクはそこを走っていた。真っ赤な車体があっという間に沖に出ている船に重なって追い越していく。港でやすむ全ての水夫にその存在をひけらかすように、秋の陽光を反射し、岬へと渡っていった。秋晴れの空にその赤はよく映えていた。その姿を見たことで初めて『ああ、夏が遠くに行ってしまったんだな』と、そう思った」

初老の青年はそう言って目の前にある骨付きリブステーキの解体に取り掛かった。

その日に彼が自分から伝えたかったことはそれで全てだった。

「季節なんていつもあいまいだから、自分が感じたものがそうだとしか思わなから、なくなったと思っても夏はきっとすぐに帰ってくるよ。カレンダーの中で24つに区切ったとしても。朝起きて、窓を開けて、そこに飛び込んでくる風のにおいを嗅げば自分が一体どこにいるのかすぐにわかる」

「そうだね、でもそうじゃない時もあるだろう? 今、自分が感じているものが全てじゃない時もある。一日の中で変わるにおいやら、いつかの風景を想起するような出来事がそこにあったのなら……単純に季節ってものを感じるだけじゃ足りないってことがあるだろう?」

存外、骨についた肉をそぐのが難しく悪戦苦闘しながらステーキ肉を切り分けてゆく。

「それだけで物足りない時なんかないよ? いつでも、ふと季節を感じるたびに私は幸せだってそう思う」

「僕にはあるんだ、過ぎた夏のことを思わなければならなかったり、もっとずっと昔のことも思い出さなければならなかったり、ふと香ってくる懐かしいにおいのせいで思い出したくないことまで思い出してしまうってことが」初老の青年はそういうと、どうにか切り終わったステーキの肉をソースに付け込み、口へと運ぶ「おいしい」

「季節を感じるだけでそんなこと思うなんていやだな。ずっと過去に囚われ続けることになりそう」

「いや、そんなことはないよ。こうして食べる食事はおいしいし、君と話しをするのも楽しい。今ある涼しげで歩くたびに甘い香りのする今の季節が好きだけれど」少女は食事の手を止めて、彼の顔を見ていた。続きがあって当然だといわんばかりに「でもね、そのどれもがとても新鮮なことでもね。それでは足りないんだ。その時に感じる思いがどれだけ色鮮やかでもその場だけのもの。物事は過去になってようやく深みを増す。肉が熟成されるように、もしくは何度も噛みしめている間に中から味が染み出てくるみたいに。いつしか深みが増してくると、何度も思い返すことになる。向き合わずに逃げたことなんかがあれば余計にそうだ。だからこそね、思い出すたびに後悔するようなそうした物事にちゃんと答えが出せたならきっとそれはいい思い出になるはずだし、それができたなら、夏のことを今より好きになれるはずなんだ」

「日本人には何か向き合わずに逃げたことがあったの?」

「そうだよ、大人になるとそういう物事の一つや二つ持っているものだからね。後悔していることがある。負けず嫌いな性格のせいで忘れるに忘れられなくて何度思い出しても悔しいと思ってしまうこともある。まあ、そういうのは大概自分が悪いんだ」

「じゃあ、私が逃がしてあげるよ」そう言って笑った少女に、僕は救われた「この町はそういうところでもあるからね。成り立ちからして移民の町と言おうか国から逃れてたどり着いた旅人たちが、その罪を時々思い出しながら祈り続けた場所でもあったから、だから平気だよ。付き合ってあげるから街を回りましょう? 今の時期は欅の街路樹がきれいだし海もただ眺めるには一番いい時期だよ。今は見られないけれど、干潮になったらさっき日本人が言っていた海の上の道も歩こう」

町を回っていれば、それだけで平気だとあの日少女はそう言っていた。

それこそが一つの巡礼なのだと。


・20

腹が立つのは、さも当然だというような態度で彼がそこに座っていたことだ。どれだけ私が幻想的だと思う風景の中あっても、自信に満ちた表情でつまらなそうにそこにいるのだから腹が立つ。私にとっての特別をさも当然だととらえているようなその態度が才能をひけらかしているようにも傲慢なようにも見える。そのくせこちらに気が付きすらしないのだから、つい文句を言いたくなる。積もった雪が地表を隠しているせいで開けたその節減は燎原が消えた後の大地のように何もない。雪に埋もれ切らなかった火成岩だけが転がっていて、日本人はそのぶつぶつと穴の開いた岩の一つに腰掛け、ぼんやり、どこか遠く一点を見つめていた。

「あら日本人、いったいここで何しているの?」

記憶の中と全く変わらないどころか、いくらか若返っているのではないか、と思わせるようなその顔の前に立って問いかける。

「やあ、リサ、君がどこかにいるのだろうとは思っていたけれど」

こちらとしてはサプライズのつもりでいるのに一つも表情を崩さず。笑顔を作り上げる。

つくりなれたような老練とした笑顔がまた気に食わない。随分と久しぶりに会って、盛大に喜びたい気分なのに、そんな平然と挨拶をされては、なんて言っていいのかわからなくなってしまう。

「私は予想外だったけどね。なんでこんなところにいるの? 死んだの?」

「いや、まだ死んではいないよ。ここにいるのは君に会いに来たようなものでもある。相変わらず君は小さいな」彼は首を小さく横に振った。

「もう大きくなれないもの、ここは一体どこなの?」

「どこと言われても正確な場所は僕にもわからないんだよな。ずっと歩き回っているから、大まかな場所をいえば日本の甲信越っていう地方の山奥だけれど、一体どこのなんという山なんだろう」日本人は除雪作業員のように分厚いジャケットを羽織って、座ったまま動こうとはせず、私の姿を眺めている。

「なにさ、そんなにみつめて」私は居心地の悪さに身もだえしながら、その目をにらみ返した。その目は優しさに満ちていて、なんだかいたたまれない。

「いや、なんだろうね。ただこうして君と話すのをひどく懐かしいことに感じてしまってさ。もう二度とかなわないものだと、捕まえようとしても、夏の逃げ水のように逃げて捕まえられないんだとずっとそう思っていたから、感慨深いとそんなことを思ってね」

以前、同じことを感じたことがある。私の故郷で。

彼の外見は私の知っている姿と何も変わらないのに、ひどく弱ってしまっているように見えた。

「確かにこうして話せるなんて、不思議よね。なんだって私はここにいるんだろうね?」

何が彼をそんな風にさせたのか? それが時間の経過だというのならクソクラエだと思う。

「なぜかはわからないけれど、僕は懐かしい人に会いたかったし故郷に帰りたかった。それが僕にとっての最後の願いだったから、誰かがそれをかなえてくれたんじゃないか?」

「そう、ここが日本人の故郷?」

「いや、違うよ。僕の故郷はもっと暖かい場所の海沿いにあるんだ」

「海がどこかはわからないけど、故郷に帰ろうとしたんじゃないの? 帰っている途中中?」

彼の腰掛けている岩は遠目で見たよりもずっと背が高く見えて、そこに腰掛ける彼と話しているとなんだか見下されているような気がしてきた。私は話しながら岩の周りをまわって登れるところはないかと探した。

「まあ、帰っている途中だな。今は自分の作った舞台作品を終わらせようとしているんだ」彼が何を言っているのかまるで分らなかった「でもさ、君とここでこうして話しているのも、結局は自分が書いた話の中、劇中劇でしかないと思うと虚しいよな」

「何を言っているのかよくわからないけど、それで日本人が何かを納得できるならいいんじゃないかな」

登れそうな場所を見つけて足をかけると、日本人が引き上げようと手を伸ばしてきたので、私はその手を握った。

「少しだけ話に付き合ってくれるか?」

「いいよ、時間もたっぷりあるし」

「お前ならそう言ってくれると思ったよ」

「それにほら、いつだったか今度は私が旅行に連れて行ってやるって約束をしたじゃない? その機会がないまま会えなくなってしまったから、いいです。付き合ってあげる」

「ありがとう」

「その舞台ってやつはあなたの予定ではどうなるの? どんな結末を迎えるの?」

「さあ、どこに向かっているのか、基本はアドリブだし、登場人物たちが全て思い通りになるわけでもないから僕にもわからないな」

「なるほどコメディア・デラルッテみたいね」

「コメンディア・デッラルテか、僕の役は何になるんだ?」

「パンタローネ」

「僕ほど清く正しい生き方をした、老人も珍しいと思うけれどね。君から見たらそうなのか」その言葉を聞いてどこかさみしくなった。私としてはそのほうが……彼が老いてなお衰えず自分の欲を満たすことだけに一生懸命だったのなら、そのほうがよかったのかもしれない。全てをなかったことにして自分勝手に生きていてくれたほうがどこか救われたというものだ。そうでないから、私は約束を守ることができなかったのだなと、そう思ってしまう。

「パンタローネみたいにはなれなかったのね。でも、舞台に出ている人が、舞台を作った人が結末を知らないなんて変な話ね」

「そういうこともあるよ。結末がわからないほうが作っていて楽しいってこともある。誰もがどこに行きつくかわからない中、一人の天才の思い付きで予想外の結末を迎えることもあれば、主催者に送り込まれたデウス・エクス・マキナによって無理やりに終わることもある。視聴する側でも初めから決められたものをいかにも演技しているという風な俳優によって見せられることに飽きたときには、そういう舞台なりネットの動画なりのほうが楽しめる時もある。最低限のプロットだけは用意してあるよ」

「そう、それじゃあこのあとはどうするの?」

「君と話して、それがひと段落したら旅に出るだろうな。そのための迎えがくるのかどうかはわからないけれど」

「そのための迎えね、雪原でゴドーが来るのを待つの?」

「ゴドーは待たないな自分の意志で進む。ゴドーは君がいなくなった時点でもう来ないとわかっているんだ。もし、そんなものがどこかにいるんだとしても、僕は待ちもせずに逃げるね、自分で頭の中に用意したいくつかの最低限のプロットすら無視して、今すぐにでも君を連れ出して物語を終わらせにかかる。ゴドーはもう待たない。どちらかというと『わが町』かな、何もおきやしない」

「『わが町』ソーントン・ワイルダーね、確かに二人とも死んでしまっていて、ここはおあつらえ向きに高台だわ、のんびり故郷の話をするにはいいかもしれないね。これだけ綺麗な場所だと迎えに来るのはトトロかもしれないわね、都市伝説的な話があるのだとしら」

「僕はまだ死んでいないよ。トトロはダメだな。リサが思っているよりもあれはアクティブな物語の生き物だから、待っているだけではトトロは来てくれない、追いかけて、必死に妹を探してそうしてやっと助けてくれる。彼はヒーローなんだ」と彼がいうのを聞いて『そこまでした人間に最後のどうしても足りない部分を補ってくれるだけで、人助けで、ヒーローでそれが出来るだけでそれは奇跡のようなことなんだよ。ジェス?君は俺にそうしてくれたんだ』夕暮れの海岸線、男同士で語り合うその暑苦しい風景を思い出した。私は、それを少し遠くから眺めていて、どこか除け者にでもなってしまったかのような喪失感を覚えたのだった。

「じゃあ、くすみ割り人形は? ジェス」

(ジェスというあだ名を彼女は知るはずがないはずなのに、この時の僕は目の前にいるこのリサという愛称の女の子が完全に僕の妄想の産物で、だからこそ僕の昔のあだ名を知っているものだと気にも留めなかった。自分の話す登場人物が勝手な人格を持ち始めて、言いたいことを勝手に言い始める。そんなことが度々あったものだから、幻覚をみながら一人二役を演じているものだと、僕は思い込んでいたのだが、あとになってその時のことを彼女に尋ねると「見ていたから」と彼女は教えてくれた「夢がかなった瞬間だったわ。いつか呼んでやろうと思っていたのよ」といたずらに笑みを浮かべながら。そうだと知っていればもっと大げさに反応して相手をしてやるべきだったとそこでも彼女はまた僕を後悔させた)。

「なるほど、くるみ割り人形ってのはいいかもな。そうしたら、君は名前を忘れてしまったけれどあの女の子で、僕はネズミの王様か。これから人形が君を迎えに来るってそう思えたら調度いいのかもしれない」

「違うよ、あなたが私のことを助けてくれたんだから。あなたがくるみ割り人形なのよ」

そんな私の小さく呟いた言葉が彼に届く前に、風にさらわれてどこか遠くへと降ってゆくように消えてゆく。

一度伝え損ねた言葉をもう一度言おうなんて、どうにも野暮な気がして声が小さくなってしまった。けれど、私が何かを口ごもったのを日本人は見ていたようで、言葉を待つように私の顔を見ていて。そんな風に顔を見られることに慣れていない肝心なところが少女のままの私は顔を逸らした。訪れた沈黙の中、二人で見ている雪原のずっと向こう樹氷の根本で真っ白な四足動物がはねた。

「低温な夏のサーフショップ

 大人たちの不埒な目

 少年Aは孤独だけ抱えて

 そっと未来を待っている」

伝え損ねた言葉の代わりに歌を口ずさんだ。気象台で流れてうた日本のロックナンバーだ。あっけないほどすぐに終わってしまう主旋律に乗る歌詞が私のお気に入りだった。

雪原を見ながら体を寄せる。寒さは感じないけれど、ぬくもりが恋しかった。

十数年の生涯の中、もっと母に甘えておけばよかったと今更ながらにそう思う。

気象台に流れていた曲が頭の中でリフレインして、顔も知らない日本のギタリストが私の頭の中でギターソロを鳴らす。目の前に広がる雪原のむこうにいつか二人で話した白鯨のいる海の話を思い出す。銀世界を舞う風がまだ柔らかい雪の表面をさらってきらきらと光った。同年代の子供たちともろくに遊ぶことのできなかった私の初めての友達とその風景を眺めていた。

・21

ボンネビルT100は当時間借りしている家の持ち主のものだった。町にたどり着く前にそこから車で二時間ほどの場所にある漁港で下働きをしていて、そこで出会った男が家を貸してくれた。毎日漁港で働いているせいで体つきの大きく肌の赤さが抜けなくなった背の高い男で、何かと豪快な人物だった。私と同じくバイクが好きで、時々仕事の終わったあとでバイクと私の故郷の話をした。

「カギは出るときに、海沿いの教会がある丘を登ったところに白い小屋みたいのがあるから、そこにいる爺さんかその孫に渡してくれ。顔なじみなんだ。仕事でほとんど年中そこにいるから」

「わかった。なんだかここを出るのも寂しいな」

「別れを寂しがるなよ。別れは船出だ。だから俺たちはどれだけ派手に船出を祝えるかを競うんだ。それがどれだけ上手かったかで人の記憶に遺れるんだ。スポーツみたいだろ?その通算成績みたいなものが人生の最後の評価なんだ。違うところと言えば金にはならない部分だし、それを大事にしている間は裕福になれない。でもそれがあるから楽しいってお前がこれから行くのはそんな町だ」

「楽しそうな町だね」

『花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ』と彼のいった言葉は頭の中に浮かんだそれとは真逆にあるような気がして、酔い始めたその気分のなか、私はなんだか幸福感だった。

「なんだろう、今の言葉で旅の前に感じていたはずの不安なんか初めからこの世になかった気分になった」

「そんなんで消えるくらいなら。初めから不安なんかお前の中にはなかったんだよ。俺が子供ころに気が付いたことだぜ?」

彼がそう言うまで、店に入ってから約二十分で私たちはジョググラス三杯ずつエールを飲み干していた。

「そうだな、タカ、家を貸すんだからなん日本のもくれよ、いらないものでいいから」

「いいよ。でも今は何も持ってないな、明日でいい?」

「いや明日は見送りに行けそうにないんだよな、さっき言った小屋、気象台にいる爺さんに預けてくれよ。そしたら故郷に帰った時にもらえるわけだろ? 帰る楽しみが一つ増えるぜ」

「あんまり期待されても、大したものは持ってないよ。荷物が重くなるのがいやだったんだ。服とかCDとか本とか後は金にノートと文房具」

「その中ならCDがいいな、日本の音楽が聞きたい。お前のことも思い出すし」

「そうなの? それならすぐにでもデータで渡せるよ?」

「データとかサブスクリプションで聞くのも悪くはないけど、CDで持つっていうのがまたいいじゃないか、他の国のCDなんて自分で買うことないだろうし」

「かまわないよ。データの方が便利かと思ったけど、君がそう言うなら、その人に預けておく」

「よろしく頼んだ」

そういうと、彼は荒れた海流がしぶきを上げるみたいに豪快に笑った。

・22

海岸線で一人打ちひしがれていた僕の前で赤色のバイクが止まった。

たいして広くもない町だから、何度もすれ違う車両や人物がいれば自然と覚えてしまうもので、そのバイクのことも三週間ほど前からたびたび見かけていた。昼のたるみ切った空気を切り裂くようにして、私の前を駆け抜け、夏を懐かしむように、海上をスライドするように駆け抜け、風を切り裂いて、丘を一気に駆け上がってこの町のシンボルである協会に向かって行くその赤いタンクが町に空に海によく映えていた。

「ボンネビル」少女がいつだったかそうしたように、僕はつぶやいた。トライアンフのネイキッドバイクのボンネビルだ。バイクから降りたライダーは、サイドスタンドを軽やかにけり下ろし、ヘルメットを外した。

サマーコートのような薄手のベージュ色の上着をTシャツの上に肩から掛けただけのような洋服に身を包んだ彼の顔にはどこか見覚えがあるような気がした。

「君は日本人か?」

なんの飾り気もない黒い髪と茶色い瞳、そしてその立ち振る舞いのせいか、言葉を話す前から彼の国籍がどこか透けて見える。だが、そういう久しぶりに同じ文化を共有する人間とあったという事とは別に、彼の姿それ自体をどこか懐かしく感じた。

「どうも、ジェスさんですよね。こんなところで何しているんですか?」

彼は旧友が僕を呼ぶのと同じあだ名で僕を呼ぶ。目の奥に燃える強い意志のようなものをもっている『いい表情をする少年だな』と心の中でそんなことを思う。

「僕のことをジェスとは呼ばないでくれ」

その呼称に心が揺れた。十代の終わり、自分自身のことを信じていたころの、故郷での日々と一年前にいなくなってしまったもう一人の友人のことを思い出してしまった。

「ああ、すみません。私の一番古い友人が貴方のことをそう呼んでいたものだから、烏丸という人です。映画を撮りながら私が通っている大学で教員をしていて、あなたのことをよく話していました。知っていますか?」

目の前の少年が誰のことを話しているのかすぐに分かったし、僕がこの町に来たのもきっかけをたどればその男の死が原因だ。

「烏丸か、よく知っているよ」

烏丸は高校の同級生で密に交流のある相手だった。

学生時代も大人になってからも酒のあるなしに限らずよく語り合ったし、何かあると互いに一方通行の相談を相手にぶつけた。周りの関係が目まぐるしく変わる中で、腐れ縁と呼べる数少ない相手だった。

「あいつがもういないなんてな」

高校3年生になったばかりの5月、僕と彼は校舎の3階にあるルーフバルコニーで自身の将来とそれに伴う選択とそのうえでの障害の話をした。その場所で僕は様々な人物と覚えきれないほどの話をしたが、誰かと将来の話をするのは決まって台風の来る前だった。彼は『だんだんと早くなる雲の流れを見て、サッカーの練習なんかするのが馬鹿らしくなった』と言いながら僕の隣に腰掛ける。彼はその頃から、僕が彼自身の将来に関してなんら興味がないという問題に対しては無頓着だった。

『小学生からずっと続けてきたけれど、ここでやめるべきなんだよな、サッカーを続けることで推薦をもらっていい大学に入るって道も確かにあるけど、その先にある物に興味が持てないんだ』その前年、僕の高校のサッカー部は創立から何度目かの全国大会へと進んだ。彼は二年生ながら5ゴールと4アシストという記録を残し活躍したが、チームは優勝することができなかった。

『みんなが俺にボールを蹴るようになってしまったよ、ジェス』台風9号の来る4日前に彼はそう言っていた『俺がグラウンドで見たいものを見るにはそれじゃダメなんだ。感覚的なものでうまく言葉にできないんだけれど。高校に入ってから何か考え方が変わった。サッカーを楽しいと思う瞬間が増えたんだけれど、それに反比例するみたいに勝ちとかゴールに必死になる機会ってものが減っていった。今年3年生になってそれが顕著になったんだ、最近は天気がいい日に試合をしているとかその程度で楽しくて仕方ないんだよ』彼も僕もまだ世間を知らないただの子供だった。ただ青臭い希望だけを持って日々を生きていた『なんだろうな、俺は真剣に球技をやるのに向はいていないんだよ』

その時の僕は思いつくままに適当な返事をした『お前の言いたいことはわかるよ。僕は野球でセンターを守るときに敵の打ったホームランを見送ることがあるけど、その瞬間ってのが野球をやっている中で一番好きなんだ。自分が打ったり投げたりするのももちろん嫌いではないけれど、グランドにいながら色々なことを見て肌で感じるのがそれ以上に好きなんだ。勝とうという努力を怠るべきじゃないっていうのはあるけど、そのために必死に頭と体を使って戦う以外の楽しみがあるなんて当たり前だろ、そうじゃなきゃこの年まで続けてない。何もおかしいことじゃねえ。人それぞれの感じ方があって当たり前だし、お前が球技に向いていないとは僕は思わないし、続けるもやめるもお前の自由だ勝手にすればいい』僕がそう言った時、なぜか彼がとてもうれしそうに笑ったのを覚えている。その次の日、彼がインターハイの予選が終わったら三年生の最後に選手権には出ずに引退すると監督に話をしただとかそんな内容のことが学内で少しだけ話題になっていた。

「烏丸か、あいつは昔から勝ち逃げをよくするんだ」

「何かあったのかジェスさん? 今こうして目の前にいる貴方は私が話に聞いていた人物と比べて覇気が……というより何か随分気落ちしているように見える」

あいつがここにいてくれたらと、いくら思ったところで烏丸はもうどこにもいない。

「ああ、探し物をしていたんだけれど探し当てられなかったんだ。言ってしまえばそれだけで、そう珍しいことでもないけれど今回ばかりは落ち込んでいていてね。

なるほど君は烏丸の知り合いか、それはまた妙なところで会ったな、何だ、どこか懐かしいと思ったが、そういう目で見てみれば君はどこかあいつの若いころに似ているな。あいつは熱意と才気と機知に富んでいた。それが少し他の部分よりも勝ちすぎているせいで何でもないところによく躓いては悩んでいた」

「似ているかな。あの人に似ているって言われるのは少し複雑な気がしますね。

なんでしょう? この先どれだけ走ろうとも俺はあの人に追いつくことができないんですよ。もし、追いつく可能性があったのだとしても、その機会は失われてしまったんですよ。死者ってものは越えられない」どうあがいたってもう遅い。と、彼はどこか遠くを見つめた「でも教授とは関係なしに、ジェスさん、あなたとは一度会って話がしてみたいと思っていたんですよ」

「そいつは光栄だな、見も知らない若者にそう思ってもらえるとは、僕もまだまだ捨てたものじゃない。でもタイミングがよくないな、普段なら含蓄のある言葉の1つ2つでっち上げることもできるけれど、今の僕には余裕も何にもないし、頭もろくにはたらかない。

君は今日のところは無視して帰るべきだったんだよ。こんなところでバイクをとめて来て僕と話すなんて、若さを無為に消費することになってしまう」

「何日か前から姿を見かけていたのですがね、なぜだかここを通りすぎるタイミングで話すなら今日だって思ったんですよ」

「それは残念だったね。でも、変な縁を感じるな。君はなんでこんな古臭い町に来たんだ? デンマークかノルウェーにでも行けばよかったものを、また君はどうしてこんな港町なんかに」

「なぜかと聞かれるといろんな理由がありますがね。旅の最後に多くの移民難民が救いを求めた時に決められた道筋をたどるように、本国に存在しない文化に触れて、その根源が何なのかを少しでも知りたいとかそんなことを思ったとか言えば恰好もつくんでしょうが、単純な話、来てみたくなってしまったから来ただけですね。深い理由なんかありませんよ」

「そうか、僕もそうだったよ。どこ静かでのんびりできる場所を探してここに来た」

「それはまた偶然ですね。烏丸さんが亡くなったのがきっかけで出た先であなたに会うってのはなかなか奇妙な巡り合わせのようなものを感じますね。それだけで、私がここに来た意味はあったように思います」

「僕とあったところで何もないと思うがね、ただ烏丸に関しては惜しい奴をなくした。生きていれば、きっといつか誰もが想像できないような大きな成果を上げることができただろうに、その可能性が一瞬で消えてしまった。もう戻らないものの1つに数えるには僕にとってあいつの存在は大きすぎる」なら彼女はどうだろう? この町で知り合って1年も一緒にいることができなかったただの他人である彼女の死は何だろう?「いろんなものはすぐに過去になって消えていく。変わらないものなんてありはしないんだから、見たいものは見れる間に見るべきで、やるべきことはできるうちにするべきだ。君の故郷はどこだい?」

「故郷ですか? 清水ですよ。教授、烏丸さんの実家の近くで生まれ育って、小さいころによく一緒に遊んでもらいました」

「清水か、僕と同じだな。変わっていくのは故郷でも例外ではないよ。旅の目的を果たしたら一度帰ってみるといい。あいつの教え子ってことは学生か? それともこっちには働きにきているのか?」

「大学生です。今は休学をしています」

「休学か、なら今すぐにでも君はあそこのドックから貿易船へと忍び込んででも一度清水に帰るべきだな。あのひどく古ぼけた町と港に立つコンテナクレーンが完全に過去の物になる前に、もう一度目に焼き付けて、それからすぐにでも大学へと戻るか国外で正式に仕事を始めるなりしたほうがいい」

「そうですね、そうしたほうがいいっていうのは薄々わかってはいたのですがね、だらだらと旅を続けてしまったんですよ。私が悩んでいたことはもうないので、大学には近いうちに戻るつもりですが」

「そうだ、君は正しい場所で若さを燃やせ。もう当分は故郷に帰らないのだと、覚悟を持って何か1つのことに臨め。時々、喫茶店の窓際の席か、東京に向かうひかりと名付けられた新幹線の車窓を眺めながら故郷の太平洋沿岸の日差しの暖かさを思い出して生きればいい。旅やなんやは老いてからいくらでもできるのだから、できることを1つでも増やして、将来君のもとにやってくる火の粉を1つでも多く払えるようにしたほうがいい。ありきたりでつまらない忠告だけれど、僕はいまそれで後悔しているのだから、失敗からくる実体験としてそれを君に伝えておくよ」

静岡の文化ホールで控え室として用意された場所で公演の準備をしていると烏丸が入ってきた。スーツを身にまとって、どこで手に入れてきたのか経験からくる自身に満ちた鼻につく表情をしていた。仕事にやりがいを感じている男の顔だ。あいつはいつも呼んでもいないのに勝手に表れて、勝手な話をしていく。

『言わせてもらうならだよ、ジェス。俺はこの荒廃してゆく町を愛しているんだ。愛していてなおのこと、もう救いようのないことも知っている。これからどう発展していったとしてそこに独自の輝きが戻らないことを俺は知っているんだよ、ただ形骸化していくしかないんだ、中途半端に残った昭和やら平成の遺物に価値があるんだと誰も気が付かないのが悪いんだ。今のうちから保護しておけば後になってまた価値が生まれるかもしれないのに、そうはならないだろう。あの古びたレール付きのコンテナクレーンと、その横に立つ映画館の入った商業施設がきっと象徴になってしまう。彼らはいろんなことから目を背けてきた。シーチキンが値上がりを続けることも、清水エスパルスがJ2に一度落ちたことも。三保の松原が世界遺産になった直後のPRに失敗したことも。ジェス、君は知っているのかい? 俺たちは愛していたんだ。岡崎慎司選手が毎試合ボールに飛び込み、長谷川健太監督が指揮をとりJリーグでトップの争いに挑んでいたエスパルスを。母親が特売のたびに食べきれないくらいに揚げる黒はんぺんのフライを。まだ若いころ、誰もいない三保の海岸で焚火に興じたことだとか、海沿いの潰れてしまった商業プールだとか、体裁だけととのえられた野球場だとか、400円で乗れる水上バスだとか、地域の集会があるたびに大声で海の歌を歌うたくさんの老人たちをいつだって愛していたんだ。わかるかい? ジェス。それが全部裏切られてしまった気がするんだ。だから俺は映画を撮ることにした』

町は姿形を変え、時代とともに消えていく。

それは平成の大合併で市の名前が地図上から消えたとかそんな表面上だけのものではなく時間とともに来る文化の消失や町の変遷の話だ。

「イエスタデイ・ワンスモアだな」と僕はつぶやいた。

「なんですか急に、イエスタデイ・ワンスモア?」

「昔、何がきっかけだったか高校3年生の年に烏丸とアニメ映画を見に行ったんだ。その映画の敵役の組織の名前がイエスタデイ・ワンスモアだった。高校3年間、僕らの関係のほとんどが3階にあるルーフバルコニーの上での出来事だったけれど、一度だけ彼と映画に行ったことがある。そんなことそれっきりだったけれどね。今もテレビで放送されているシリーズの古いアニメ映画で。理由はわからなかったけれど。彼はそれを僕と一緒に観に行きたがった。勧善懲悪とも違う独特な映画だったのだけれど、そこに出で来る企業だったか、法人だったか。その映画における敵役がイエスタデイ・ワンスモアを名乗っていた」

高校を卒業する前にも彼は同じような話をしていた。高校三年生の自由登校の期間、あの年は二月の中頃、東海地方に春一番が吹いたのだというニュースの出た日に、彼は僕を訪ねて教室へとやってきた。

『ジェス、君はいろいろと文句を言うけれど、きっと一生忘れることはできないよ。俺も含めたこの学校で出会った、取るに足りない人間たちことは忘れるかもしれないけど、この町のことを君はどうやったってきっと忘れない。18年もここで生きたんだ。その記憶がなくなるわけがないだろう』

長さではないんだろう。忘れることのできない思い出なんていくつもある。もう両手では足りないほどの人数を見送ってきた。いまだに馴れはない。

『いくら君がそうやってここを田舎だなんだとさげすんで、ずっと出ていきたかったのだと言葉で言ったところで、意識しているいないに限らず俺たちは故郷ってものを無条件に愛してしまっているんだよ。今はただここを出るって変化をうれしく思っているのかもしれないけれど。君はいつか僕の言葉の意味を知るだろう。どころか、きっと年を重ねるごとに想いは強くなる。卒業したって、一時的に離れたってここを捨てるわけじゃないんだ。君はいつも物事を極端に考えすぎる。好きであればあるほどに想いは君を苛める。ただ、どんな思いも一方通行でしかない、自己満足でしかないっていうは覚悟をしておくべきだな、いくら君が思ったところで相手がそれを返してくれるとは限らない。そのことに今のうちから気が付いていたほうが、この先いくらも策に生きられるってものだぜ? 2001年の映画に出る大人たちは20世紀に囚われたんだ。イエスタデイ・ワンスモアって、その思いは自分の胸にしまい込むべきだ。誰かに強要するものじゃない誰にも言わずに心の支えにすればそれでいいじゃないか。未来を夢見て生きろ。ただまっすぐに、自分らにとって一番いい未来をつかむのだと信じて先に進んでいけばそれでいいんだ。

別れは必ず来る。船出は楽しいものだ、振り返ったって過去はやってこない。港を振り返るな、行きつくべき大陸を夢見て生きろ。それでも本当に疲れた時だけ思い出せばいいんだ故郷も俺もいつだって君の中にある。君にとってどうかはわからないけれどね、俺にとっての君はそんなかけがえのない思い出の一つだよ』

教室からルーフバルコニーへ出た僕らは、春風にさらされる町を眺めながら最後の話をした。

「別れは船出で前に進むべきものだってこの町で出会った友達からそう教えられたのにな、そう思うべきなのに、人に対しても町に対しても」

リサは、あの子はずっと未来だけを信じて生きていたのに、誰も救うことさえできなかったのに、それでも何も恨まなかったあの子の想いを僕は一体どう消化すればいいというのか。

烏丸は卒業式の終わったあと、ベニー=グッドマンの楽団による『Sing、Sing、Sing』を大音量で校内に流した。若気の至りとしか見られない行為だ。校門付近やすでに敷地外にいた生徒にも音楽は聞こえていた。それが彼なりの別れのあいさつなのか、最後に少し羽目を外してみたくなったのか僕は事実を知らない。最後まで流れた音楽は誰の賞賛も得ることはなく、近所からの苦情の電話が職員室で鳴り響いて終わった。  

つまらない形骸化された式典の内容は誰もが忘れてしまっているのに、その音楽が流れたことだけは卒業式に参加したみんなが覚えていた。2001年度の卒業生にとってその曲は青春の象徴だった

「さまよう間にいろんなものを見つけたのだけれどね、今回も一番探していたものは見つからなかった。いつも一番欲しいものだけ手に入らないんだよな」

「簡単に見つかるようなものならそもそも探そうとも思わないでしょう? そう思えばいくらか気持ちが楽になるかもしれませんよ?」

「まあ一理あるが、やってはみたけれどやっぱり駄目だったかとは言いたくないな。初めから諦めてしまっているような気がして嫌なんだ。まあ、あきらめなかったとしても結果が出せなければ、やったことに何の意味もないんだよ」

「ジェスさんが自分で抱え込もうとしているなら、私が何か言うべきではないのでしょうね」

「抱え込みたいと思っているわけではないんだ、まあ、無理に励まそうとはしてくれるなよ。そんなことをしなくても君とは話せてよかったと思っているよ。君が連れてきてくれた懐かしい人の気配や、君が連れてきてくれた僕の過去の面影のおかげで少しだけましな気分なんだ」

「それはよかった。話しかけた甲斐がありましたよ。私としても教授の話を貴方から聞くことができてよかったです。おかげでこの旅が報われた気がします」

「君がなんのために旅をしていたのかは知れないけれどそんなことで報われたのならよかったよ」

「なんのためって言われるとなんのためでもなかった気がしてきますが」

「そんなもんだ、旅行に出るのに大義名分なんか必要ないだろ」

「そうですね、単純に疲れたんですよ。毎日学校に行くっていうのが、それで、気分転換をしたくなったのかもしれません」

「そうか、僕も一緒だよ。今は旅先で会者定離なんてものについて考えている。別れるってわかっているんだから初めから真剣に向き合えばいいのに、人付き合いってやつがどうも苦手だ。これも教訓として君に伝えておくよ。年を取ってから感傷に浸ることなんかに時間を費やしたところで得るものなんてほとんどないから、そうならないために一期一会を大事にするんだな、人とは真剣に向き合うようにしておけ、そうすれば酒を飲む量が増えずにすむ」

「あんまり自分の理解の及ばない相手とは向き合いたくないです」

「そりゃそうだ。どうやったって関わることのできない奴は別だ。出会う人間全てじゃなく、自分がもてなすべき相手とか関わりたい相手に対してだけは全力で向き合うべきだっていう話だ。それ以外の人間には無関心でいい。納得いかないことがあったとして説教する必要もない」

「その点は平気ですよ。納得いかないことがあってもひとまず向き合わずに逃げる質です」

「そうか、そりゃナイスだが、関わりたい相手とか人生において必要だと思えるような相手がいたときには遠慮せず言いたいことは言っておけ」

「ジェスさんがそう言うのなら次に関わってみたい相手に巡り合ったらそうしてみますよ」

「この町にはいつまでいるんだ?」

「きっちりとは決めていませんがね」

「そうか、町を出たあとでどこへ行くかは? それは決めているのか?」

「故郷に一度帰ろうかと思います。ここが最後の目的地だったんですよ。行ってみたいと思う場所はあたりにいくつもありますが、行く理由を探そうとなると、もうどこにも行く必要はないんですよね。ジェスさんはいつまでいるんですか?」

「僕も特に予定は決めてはいないが、もうしばらくいるつもりだ。一週間か長くても二週間したら日本に帰るつもりだよ。帰って、一本だけ映画を撮ろうと思っているんだ」

「映画ですか? 前にも撮っていましたよね」

「よく知っているな、あんな全国上映もデジタルでの販売もしていないものを」

「前に教授が大学の講義で使っていましたよ」

「なんか私的な鑑賞会で使いたいからって言われてデータを渡しはしたがな、そんなことに使われているとは思わなかった」

「学生たちには好評でしたよ。教授が個人的に見たかっただけだからって理由での鑑賞だったので大学の講義としてよかったかどうかは別問題ですが」

「あいつは何のために大学で教授なんかしていたんだろうな、金に困っていたわけでもなし、本職もそれなりに忙しかったろうに」

「ただ自分のためだけに仕事をしていると視野が狭くなるからとそんなことを言っていましたよ。何か別に職でも作っておかないと、積極的に外に出るという事もしないだろうと」

「それで別の仕事を選ぶってあたりがな、酒を飲むなり旅に出るなりを日常的にすればよかったのに、目的のためにそんなことをしている余裕はないとかなんとか言って、いつも働いていた」

「目的ですか、何だったんでしょうか?」

「いくつか思い当たることはあるけれど、どれにも確信はないな、本当のところは本人にしかわからんだろうし」

「そうですよね」

「あいつはいつでも活気と自信に満ちていたよ」

「私から見たらそれはジェスさんも一緒でしたよ。小学生の時に舞台に上がるあなたの姿を、そこでしていた話を今でもずっと覚えています」

「それはありがたいがな、今は素直に喜べないな」

「今のあなたを見ていると中学の同級生を思い出します。夏休み登山に行くと家を出て二度と戻らなかった彼を最後に見た終業式の日のことを。今のあなたはあの時の彼にどこか似ています。見るからに疲れているのに、どこか悟ったような様子でひどく落ち着いていて、何かをあきらめてしまったような、冬の雪山にでも入り込んで二度と戻らないようなそんな印象を受けます。

白銀の世界の中をホッキョクグマやホッキョクギツネのようにノソノソとその中をさまよいそうだ、誰にも出会うことなく吹雪の向こうに消えていきそうだ」

「君の話を聞くと、案外その終わり方は悪くないと思っちまうな。でも生憎と僕は自ら死にに行くような真似はしないよ」

「それはなりよりです」

「今は少し前向きだ、烏丸のことを思い出したせいでまた映画を撮ろうと思えた」

「こんなところで貴方に出会うなんて、あの教授に陥れられている気がしてきますね、あの人ならやりかねないとかそんなことを思うせいで、あの人が死んでしまったことは嘘なのではないかと思えてきてしまう」

「あいつならやりかねないけどな、本当にそうだったらどんなにいいことか」

なら少しばかり救いがあったかもしれないと、そんなことを考えて笑う。

笑ったことに気が付いて、皮肉を込めて祈った。

「そうですね」

「僕と君を会わせたかったのかもな、神様とか運命だなんてものを信じようとは一向に思わないけれど、アイツがそうしようとしたって言うのなら、ここに来たことにも何か意味があったのだと思えるよ」

『そうかもしれないジェス。それを知ることで君は初めて君の懐かしいものもとに帰る。だから、ジェス。君の今の悲しみはいつか報われる時が来るだろう』

そうだな、せめて彼女のことを忘れないようにしよう。

「ここには何をしに来たんですか? その探し物のために」

「いいや、探し物はここにきてからできたんだ。ここに来たのは単に観光のためだな、それ以上でも以下でもない」

「そうなんですか、探し物っていうのは? いったい何をそんなに探していたんですか?」

「子供の心臓だよ、右心房と左心房のしっかりしたものをさがしていたんだ」

「……ジェスさんは悪魔信仰でもしているのか?」彼は顔を引きつらせながら聞いた。

「悪魔信仰なんてものはしていないけれど、神なんてものは信じないことにしているんだ、こんなところに来ておいて説得力はないかもしれないが」でも彼女が生まれたのがこの町でなければ多少なりとも状況は違ったのかもしれない。臓器移植の制度が整えられている国ですら順番待ちが発生するというのに、ましてやそれがこんな辺境の地で小児臓器移植のドナーを探すとなっては困難に決まっている。見つかるまで彼女の体はもたなかった。多少の金を積んだところで時間が縮まるはずもなかった。もう少し内陸にあったのなら、そんなことをどうしても思ってしまう。何か変わっていたのではないかとそんな考えに救いがあったのではとすがりたくなってきてしまう。もし、彼女が初めからベルギーやフランスなんかにいたのなら何か変わっていたのかもしれないとそんなことを考えずにはいられない。初めからどこかあきらめたような彼女の顔が嫌だった。あきらめるしかなかったのだと、素直に泣くことのできなかった彼女の母親の様子に納得ができなかった。なにか方法はあったはずなのに時間が足りなかった。

母のことを思い出した。息災のためにと食べさせられた春の七草の苦みを思いだした。

 そんな昔の記憶を懐かしいと思い出すこともなく、彼女は遠くへ行ってしまった。

「そうだな、その程度で済むことだったのに」

「何がですか?」

「なんでもないさ、それより帰ったら僕のところでアルバイトをしないか? いろいろとやりたいことがあるんだが、自分で自由に使える部下っていうものを持っていないんだ」

「いいんですか?」

「いいよ。これからよろしくな」そこで僕とタカは最初の握手を交わした「君の名前は?」

「柳葉隆人です。よろしくお願いしますジェスさん」

「ああ、ジェスと呼ぶのはやめてほしいが、まあいいか。そうだな、なんだか、黒はんぺんのフライが食べたいな」

『別れは、船出だ』そう言われても、急には無理だ。祝えそうにない。


・23

彼から差し伸べられた手を取ったその少年が、ぬけぬけと私の不在となった舞台に上がったことに私は嫉妬していた。

「なんでか許せなかったのよね。急にのけ者にされたみたいな気分になって、男同士で語り合ったりして、それにしてもあの時の貴方はなんだってあんなに落ち込んでいたんだっけ?」私がそう尋ねると、胡散臭い日本の芸人は応える。

「さあ、なんでだったかな、もう忘れちまった。なんせずいぶん昔のことだ」

「日本人自身も覚えてないのね。なにかあったかしら?」結局そこを思い出すことができなかった。二人で旅行をした数日後だった「あれは、たしか白い街に二人で行った後よ」

奇妙な関係性だったと思う。なんと呼べばいいのかわからない感情だった。恋とも友情とも違う。私の家には生まれたときから父親がいなかったから、その代わりの感情を彼に対して持ったのかもしれない。もし、父親がいたというのならこうだったのかなと。

「そうだね、なぜか二人で近くの町までドライブに行った」

「そうそう、日本人が仕事に行くって言って連れて行ってくれたんだよ。覚えている。後にも先にも旅行なんかしたのはあの時くらいだから」

母は私のことをかわいそうだと思ったのか、単に慣れてしまったのか、私が年を重ねるにつれ、一人で家を抜け出すことを強くは止めなくなっていった。行ってもいい場所は決められていたが、過度な心配をすることは少なくなっていた。

 小さいころには退院しても家にいる間はずっと母がそばにいてくれたけれど、そのことにはどこか負い目があったら、放っておいてくれるほうがいくらか気持ちが楽だった。

「旅行というほどの距離でもなかったけれどな、君はひどく静かだった」

「いろいろと複雑な感情を抱えていたのよ。今まで自分の生まれた町の外に出たことなんてなかったから、嬉しいけれどどう振舞っていいのかわからなくて、手放しにはしゃぐことのできる年でもなかったからどうすればいいのか」

「そうなのか、僕にとっては普通の子どもの反応というか、借りてきた猫みたいで面白かった」

「ひどいなあ、でも結局大人になるっているのがどういうことなのか、今でもわかっていないのよね」

勉強が好きだった。知らないことを知ることが楽しいと思っていた。学校に継続して通うことはできなかったけれど、周りにいる大人やたまに病室に来てくれる学校の先生が勉強を見てくれた。母は『ちゃんと勉強してちゃんと大人になるんだよ』と言って、私が勉強しているのを見ると嬉しそうにしていた。

「大人も子供もそうかわらないよ。幼児を抜きにしたら、果たさなくてはいけない義務が置かれた状況や環境によって違うだけだから、目の前にあることを一つずつ片付けてけばいつか大人になっている。目の前にあることを楽しんで、勉強をして、進学をして、仕事を見つけて、甘えられる相手には甘えておけばいいんだ」

いろんな物語を見るのが好きだった。自分の見たことのない世界をいくつも見せてくれる小説や映画に触れるのが好きで病院にいる間は暇さえあれば本や動画を見ていた。

それでも自分の目では見ることができないのだとあきらめていて、だからこそ人一倍憧れが強かったのかもしれない。

出会った日本人と話しているときに聞いた外国の話にワクワクして色々なことを聞いた。

「あの時すっかり秋めいてきたのに、あの町は夏だったね、今となっては陽炎の中に思い出を映すみたいに実感のなくなってしまった思い出だけれど、あの時私にはいつまでも夏の終わりが来ないように思えて、想像なんかよりずっと素敵な町だった」

素敵な旅だった。半島と大陸の境にある場所で、私の町と違ってどこか一方を山でふさがれているわけでもないから空がどこまでも広く映ったのを覚えている。私の町にある伝統的な組積造の建物とは違う白い壁面の建物が並ぶ海岸と、少し遠くに見える高層ビルと、人であふれる近代的なショッピングモール。とても賑やかな町だった。

もう絶対に私は生まれ故郷を出ることができないと思っていたから。たったの一度だけでもよかった。いや、一日一日をとても大切に生きていたから、どこに出なくてもきっと後悔はしなかったと思う。私は自分の生まれたあの町が大好きだった。

でも、そうだ、あの旅に連れて行ってくれたのは目の前にいるこの男だった。


・24

雪はやむことなくしんしんと降り続けています。何の音もしない中で老人の声だけがどこまでも遠くへと広がってゆきました。雪原かける子狐のように、その音はいつしか母親のもとへと、誰か愛すべき者の元へと帰ることができたのでしょうか? 疑問はいつだってついて回ります。

「面白さも、つまらなさも全て聴衆のためのものです、観客が何を感じてくれようとそれはその個人のためのものです。持ち帰ってよく考えてくれればそれでよいのです。僕はそれ以上の責任をお客に対して持つことができません。

同じ感想を持つ人間が幾人かいてくれるのはいいですけれど、それ以上になってしまうと私の手に負えなくなってしまいますから、そこからはどんどん本来の形との齟齬が生まれてしまいます。群衆には一貫性のようなものは保ちきれませんから。だからこんなにも閉じられてしまった舞台になってしまいました。きわめて閉鎖的ですね。昨今は問題らしいですよ、中高年の引きこもりってやつも。そんな彼らの部屋にでも招かれたと思って僕の話を聞いてくれればこちらも気楽で可です。

しかしどうですよ、見事という他ないでしょう? これだけ平坦な場所なんて太平洋にでも漕ぎ出さないと無いと思っていましたけどね、ありましたよ、隣の県に。意外で仕方がございませんね。これだけの景色を他に探そうってなればそれだけで製作費もかさみますので、きわめて経済的。各々ここに思い描くのがいつかの海やら、海岸線だとよいと思います。何もないこの雪原が貴方の原風景を呼び起こす手伝いになればと。


ただ場所はどうであれ語る内容はすべて私の思い出でありますから、聞いてもなんの得にもならないかと思いますよ。客前でそんなことを語るのも、私の思い出を誤解されてしまうのも嫌でこんな山奥まで来立っていうのに、それをわざわざ聞いてくれる人間がいるとは思わなかったものでね。まあ、身にも貝にもならないだろうけど、もう少しだけお付き合いくださいな。酒の何杯かも出すからもう少し。投げかけたところで返事がないだろうとは思ってはいましたが、切ないものですね。

さて、旅で見た海というものはもう一つございます。白く美しい街でした」。

一人で語り続けている老人のその姿はひどく楽しそうだった。街中でなら通りかかったきわめて善良な(それも近所の肉屋で鳥の胸肉でも買ってしまうような飛び切りの)主婦に通報されかねないそれも、この山奥では、狂気のかけらも感じさせることなく。もしその傍らにたたずむ少女の姿がなければ、ひどく寂し気でしかなかったのかもしれない。だが、ここから見えた彼の姿は誰がどう見ても、孫に自分の武勇伝を延々と聞かせ続ける、打算も何もない無邪気な姿だった。

「終了時間は未定ですけど迎えはこちらで手配してありますのでご心配なさらず。

最期のわがままなんだ。もう少し付き合っていけ。老人は敬うもののだろう?


いいえ、お礼なんて言いませんよ、これが終わればもう帰りますから今しばらく待ってください。ずっと帰らずに申し訳ありませんでした(故郷の家族へと)。忘れたふりをしていて申し訳ありませんでした(異国の少女の母親へと)。結局最後になるまで語らずに申し訳ありませんでした(ずっと自分を気にかけてくれた友人へと)。無理なお願いをして申し訳ありませんでした(自分のただ一人の弟子へと)。あの時、最期まで一緒にいることが出来ずに申し訳ありませんでした(女の子へと)。どうか許してくださいな、逃げてばかりな人生でした。こずるく大人になってしまいました。何に抗わずに人生を終えることを、どうか許してくださいな。向き合うべき人たちに背を向けるようにして、最期に語ることをどうか許してくださいな」。


・25

「綺麗だね」ずっと静かにしていた少女がポツリとつぶやくのを聞いた。

今まで行った土地では見なかった西洋漆喰の白さが妙に印象的だった。とても綺麗で硬そうで、それでいながら砂糖菓子のように目を離したすきに。夏の太陽が放つ熱のせいで解けていってしまいそうな。そんな、白さだった。

消えていった夏のようだった。よく晴れた日に散歩するその町を眺めていると、打たれた瞬間にあきらめるしかないような完璧な放物線を描いて飛ぶホームランボールを見送る時のような心地よさを覚えた。それは『ああもう届かないんだな』と、全力で追う必要が無いその打球をぼんやりと眺めて『野球って楽しいな』と無邪気に思いながら体を動かした高校時代の夏の気候を思い出した。

「なんでか昔のことを思い出すな」

むこう側に消えてゆく白球の記憶ははかなくも綺麗だった。

高校の同級生といつだったか、そんな話をした。

うろ覚えだがあの日は確か嵐の来る前で、雲の流れがすごく早かった。

「そういえば、前に日本人も港町で育ったって言っていたけれど、どんなところなの?」

海岸線まで降りて背後を振り返ると、隣街に向かってだんだんと高くなる坂の途中に軒を連ねて白い家が並ぶその様は、色こそ違えども清水の海岸線にある日本平の茶畑によく似ていて

「こんな町だったよ」と振り返りながら、初老の青年は少女にそう教え込むのでした。

部活の練習を抜け出して、町を見下ろしながら同級生たちと話した。

「時々さ、私がいないほうがお母さんは幸せだったんじゃないかって思うんだよね」

「彼女がそういったのか?」

「そうじゃないけど、私が勝手に思っているだけ、私がいなければもっと自由に旅とか恋とかしていたんじゃないかなって」

「きっとそんなこと思っていないんじゃないかと思うけどな、本人に聞いてみればいい」

「聞けないよ」

「あの人はお前のことを愛しているよ。それも飛び切りに」

「わかっているよ。わかっている。幸せだから、余計に怖いんだ」

「まあ、答えはそのうちにわかるだろうよ、ちゃんと生きればいいんだ。ちゃんと生きて大人になったらわかる」

「今日だって一緒に来ればよかったのに」

「確かに、店なんか休めばいいのに、僕に預けて安心とかよくわからないな」

「本当だね」

故郷を発つ前の一年間、いつも誰かの話を聞いていた。

春に上る白昼の満月が好きだった。今がどの時間でもない気分にさせる、眺めるだけであらゆるものから独立しているようそんな気分にさせられ。心だけが宇宙へと向かう。

「普通に生きるってどうすればいいのかな、難しい」

「なにも難しいことなんてないだろう。やるべきことをやっていればいいだけだ。なれれば簡単だ」

「前にも聞いたけれど、日本人って何の仕事をしているの?」

「仕事もなにもまともに働いたことがないんだ。リサは将来やりたいは仕事あるのか?」

「まともに働いたことがない大人なんているのね、将来はわからないわ、15歳になったらお母さんのパン屋さんで働きたいけれど、それより先のことは考えたことがないから」

「パン屋か、いいじゃないか、次遊びに来るときに店で会えるかもな」

「どっか行くの?」

「そろそろ日本に帰ろうと思うんだよ。いつまでもだらだらしているわけにもいかないからな」

「いいな、将来の夢はわからないけれど、私も旅がしたいな。生まれた町を出て国内の都市を巡って、海を渡ってアメリカとかアジアとかアフリカとか、色んな所に行っていろんな風景を見てみたい」

「いいんじゃないか、大抵のものは物語とか映像なんかより自分の目で見たほうが美しい」

「日本人が見た中で一番美しかった場所ってどこ?」

「それは難しい質問だな、僕の友達なら迷いなく清水、僕らの故郷の町だって答えるんだろうが、見てきた場所に優劣なんかつけられないからな。富士山頂、鳥羽、岐阜から高山、奥飛騨、キュランダ、キングスキャニオン、バンコク、シムラー、ヌーク、トロント、シアトル。どこもここやお前の町と同じように綺麗だったよ。どこも少しずつ違っていて、新鮮で、美しかった。知らない町に行くのはいつでも楽しい」

「へえ、でもその友達にとってはあなた達の故郷が一番きれいなんでしょ? そんなにいいところなの?」

「悪いところじゃないけれど、僕はきれいだとは思わないな、そいつがそう言うのは思い出があるからだ。数字としてじゃなくて体感としての長い時間をすごしてきたからってのと、その思い出がもう変わることのない過去だからだ」

「どういうこと?」

「昔のことってのはどうしたって良く思えてくるんだよ。リサも大人になって故郷を離れることになったらわかるさ。まあ、あいつは広義でのマザコンなんだ」

「マザコン?」

「常に安らぎを与えてくれる存在を求める男のことだよ」

「信徒みたいなものか、それはいいことだね」

「そうだな、まあ悪いことじゃないけど、悪口になるから他人に面と向かってマザコンって言ったらだめだぞ」

烏丸の撮った映画のラストシーンが頭の中に浮かんだ。死者としてよみがえった男は故郷に帰って空を見上げる。世界には彼ひとりだけで、あたりはひどく静かで空は澄み切っていた。浮かぶ昼の月は満月のように真ん丸で、地表に近いのかとても大きく写る。こちらを見つめているかのような白い衛星がどこか不気味だった。男の耳に遠くで響く波の音が届いて空から視線を下すと、彼は町の向こうに広がる太平洋を見つめた。

・26

『その少女を僕が初めて見たのは、渡航してから何度かパンを買いに訪れた街角のベーカリーでのことだった。いつも通りにバゲットを買いに行くと買い物の度に話をしてくれる女性の店員からそこに居合わせた彼女のことを娘だと紹介された。その時は何か会話をしたわけではなく、形式的な挨拶をしただけで彼女は外へと出ていってしまった。

次に彼女と会ったのは丘の上にある公園でのことで、教会で執り行われている誰かの葬式を眺めていると気が付いたら彼女が後ろに立っていた。目の前で起きる物事に集中していたせいで、近づいてきた彼女の存在に気が付かず、急に声をかけられて驚いてしまった。 

緑地の端にあるベンチに腰掛けながら緑地を挟んで向かい側の教会では誰かの葬式が行われており(途中までそこで行われていた行事が葬式なのだと、僕は気が付いていなかった)僕がそれを眺めていると彼女はいきなり背後に現れた。丘を登ってくる石畳の道は眼前にある一本のみで、背後には古ぼけた気象台があるだけだったので、突然女の子が現れたことにひどく驚いた。

見ていたもののせいで、幽霊かグリムリーパーの類にでも声をかけられたのかとそんな考えが一瞬頭をよぎった。すぐに声をかけられた相手がパン屋で紹介された女の子だと気が付いたのだが、腰を浮かせるほど驚いてしまったせいでどうにもバツが悪く、互いに挨拶もしないまましばらく見つめあっていた』。

何冊目かもわからないノートブックを開いた。黄色いハードカバーのB5サイズリングノート。自分自身が何を探しているのかもわからないほどに先生の書いた文章を読んだ。ノートを開いてすぐにそのパラグラフに目が留まった。そんな風に書き出されているものは今まで一つもなかった。


・初老の男と少女が隣り合ってベンチに座る。石灰石のように柔らかい乳白色をした清潔なベンチ。石畳の道と切り添えられた新緑の芝生の隣にあるそのベンチは風景によくなじんでいた。

 


少女 「説明が難しい。綺麗だと思うべきだってそう教えられたよ。でも、それは自然な感情になるんだよ。結婚する娘を見送るとするでしょ。その娘がどれだけあなたと仲が悪かったとしても。ずっと育ててきた娘なのだから、ある日突然結婚していなくなる彼女のことを、結婚するときになってあなたを育ての親だからと結婚式に呼んだその娘の姿を、どうあがいたって綺麗だとそう思うように。

関係に蟠りがあるせいで親族席に着いても、素直に祝えずにいるのだとしても、式場の扉が開いて娘さんが入ってきたとき、その時、結婚して遠くに行く娘を見て今までのわだかまりを全部超えて、ただ綺麗だって思うその瞬間のように、その人の生をしっかりと祝福して送り出してあげなさいと、終わった後に、ああ、いい葬式だったと空を見上げられるようにって。そう教わったよ」


初老 「娘に嫁に行かれた経験なんてないから君にそう教えた誰かの本当の想いまではわからないけどな。そんな思いで誰かの葬式に臨めたことなんてないな。そうだな、大往生を迎えたのだとか、あらかじめある程度の心構えができている相手の葬式だったのなら前向きに送り出すことももしかしたらできるのかもしれないけれど、僕には難しい考え方だな」

少女 「そう? 簡単だと思うけどな。それにもし、私が送り出される側なのだとしたらそのほうが嬉しいよ。もちろん死因にもよるだろうけど。そうだね、泣き続けられるよりずっと嬉しい。喜ばれるのは違うと思うけれど笑顔で送り出してほしいな」

初老 「子どものうちから、そんな気持ちまで考えられるなんてすごいな。まあ、言っていることもわかるけれど、僕にはそんな風に誰かを送り出すのは無理だ。さっきまでは何も知らないから平然と眺めていられたけれど、亡くなったのがまだ若い女の子の式だって聞いただけでやるせなくなってしまう。多分、参列していたら悔しい思いでいっぱいになっちまうだろうな」

少女 「あなたが悔しがる必要なんてないじゃない。それは偽善よ。私はあそこで運ばれてくる人と深い知り合いではなかったから、同情するなんて失礼だと思ってしまうわ。あの子の両親を励ますのはきっとあの式にいる彼らと関係の深い誰かがすることで、たまたま居合わせただけの私たちには彼女がしっかりと神様の下へと行けるように祈ることしかできないし、それ以外はする必要なんてないのよ。どんな別れも新しい場所へ行くための船出なのだから、船出を祝うのよ」

初老 「新しい場所へ行くための船出か、いい考え方だな」

少女 「勿論、皆がいつだってそう思えるわけではないっていうのは私もわかるけれど、子供たちはそうやって教えられるわ。現実をありのままで理解することのできない子供に対して体のいいことを言っているだけとも思えるけれど、私はその考え方が好きだよ。送りの鐘が鳴るたびに、町のみんなが家から出て教会に運ばれていく誰かのために祈るの、手を合わせても合わせなくてもその心の中で彼らが無事に神様の下へとたどり着けるようにって」

初老 「船出か、そうだよな、僕も次に誰かと別れるときにはそう思ってみることにするよ。そしたら友人が交通事故で死んだところで気持ちの切り替えのために旅なんかに出なくて済む」

少女 「そうするべきよ。多分その考え方が誰か身近な人がいなくなっても、なるべく前向きに生きようって教えなのだと思うわ」

初老 「君は式を見に来たのか?」

少女 「いいえ、自由研究のために近くまで来ていたの」

初老 「なんの自由研究をしているかわからないけれどもうすぐ夕方だ、学校もよく言わないだろうし、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」

少女 「平気よ。もし私の研究のバックグラウンドに学校があったら、私の研究は自由ではなくなるから、学校の先生に何かを言われることはないわ」

初老 「そうか、じゃあ僕はそろそろ行くよ。帰りに君のお母さんのとこでパンでも買っていこうかな、早くいかないと店じまいの時間に間に合わなそうだ」

少女 「……私もそろそろ帰らないとだ、帰るついでに私の町を案内してあげる」

初老 「自由研究はいいのか?」

少女 「いいのよ。いつもと変わらない私の場所に面白そうなものが転がっていたから」

初老 「そうだな、海辺の生物と街道の植物よりは人間のほうが研究のしがいはあるだろうな、じゃあお願いしようかな、商店街まで」

少女 「何を言っているのかわからないけれど。いいから、私についてきな、そしてアイスをおごってよ。」

初老 「安いガイド料だ」



初老 「気が付けばもう、日が傾きかけていました。ちょっとした散歩のつもりでホテルを出てきたはずが随分と長い時間がたってしまっていたようです。世間的には週の始まりである月曜日で、昼間に通った住宅街の一角が明るく照らされているのにひどく静まり返っていたのをよく覚えています。

そこで出会った少女は僕にとっての変化になりました。異国の地で停滞した時間を過ごしていた僕が再び何かをしようというきっかけになったのは彼女と出会ったからだと、町を出た今はそう思っています。

丘の上の公園で彼女と出会ったときには3ヶ月ほど滞在してはいたものの知らない場所がほとんどでしたので、なにか面白い店や町の文化の話でも聞ければとそれだけを思っていて、何かしらの形でかかわることになるとはまるで考えていませんでした。

その時の僕にとって彼女の申し出はただ都合がよかったのです。ホテルまでの正しい道順すらわかっておらず、適当に歩いて行き当たった大きな道に沿ってただ坂をのぼってきただけのその場所から、スマートフォンの地図を見ながら帰るよりも、自分の知らない話を聞きながら誰かと並んで帰れる方がいいとそう思い、彼女と連れ立って町へと戻ることにしました」


少女 「日本人は何の仕事をしているの?大人たちはまだみんな働いているのに」

初老 「難しい質問だ。しばらくはこうしてフラフラするのが仕事みたいなものだし」

少女 「ダメな大人なんだね」

初老 「まあ、そうだな」

少女 「アイスでも食べようかと思っていたけれど、日が暮れると少し寒いね」

初老 「夜になるとやっぱり少し冷えるな、もうこっちは秋か?」

少女 「あなたの国は違う季節なの?」

初老 「いや日本は、今はどうだろう、もうわからないな。台風が来ているかどうかによるな、過ぎる前か後かで変わるんだ。夏か秋かのどっちかだな」

少女 「わからないんだね」

初老 「君の名前は何だったっけ?」

少女 「変な質問」

初老 「へんだな、確かに」

少女 「みんなはリサって呼ぶ」

初老 「リサね」

少女 「気の向くままに呼べばいいよ」

初老 「それは難しい問題だ、略称じゃない名前がわからなと」

少女 「確かに、でも教えないでおこうかな」

初老 「じゃあリサって呼ぶしかないな」

少女 「知らない人相手にはそうした方がいいかなって」

初老 「前に一度会っただろう」

少女 「本当だね、あなたの名前は?」


・少女の案内で夕闇の坂の中をゆっくりと下る。


初老 「早くおうちに帰りなよ。君のお母さんもそう言っていたじゃないか」

少女 「暗くなったなら帰ってあげる。子供らしく夕闇に溶けるみたいに、だんだんと影が伸びるみたいにいつの間にか消えて溶けていってあげる」

初老 「子どもらしくはないな、それに消えられたら僕が困る。ガイドを頼んだ以上はしっかりと元の場所に帰さなければいけないから、住まいはどこなの?」

少女 「私なんだか図書館の本みたいだね。あっちよ、商店街のほう。日本人は私の家を知っているんじゃないの?私のお母さん、よくあなたの話をするわよ?」

初老 「店にすんでいるのか? だったら来た道を戻らないとだな」

少女 「家はお店とは別だよ、お店から歩いて5分ぐらいのところ」

初老 「そうか、どちらにせよ戻らないとだな、それにしても僕の話ね、まあバカンスにしては長く居ついているし、最近は観光地じゃないこっち側を一人でうろついていることが多いし、地元の人たちには不審に思われていそうだな」

少女 「それはどうかな? 週に二回貴方と会うのが最近の楽しみだってそんな話をしているよ。町の人たちとはまた違う感じで明るくて面白いって、もの珍しいんじゃない?」

初老 「君は僕を誰かと勘違いしていないか?」

少女 「してないよ。正真正銘あなたの話だよ」それが邂逅だった。





・27

「倒れ込むように海面に落ちた少女を、初老の男は必死で助けた。彼女は以前から泳がないようにしていると言っており、自ら水の中に飛び込むわけがないと、何か異常が起きたのだと瞬時に理解をした。男は緊急事態だとすぐ近くにいた漁師に助けを求めて車に乗せてもらい病院へと向けてひた走る車の中で、早くなる自身の鼓動の音が今でも忘れないものとして男の耳の奥に残っている。

ほかで感じたことがないようなその時の焦りや鼓動の音は鮮明に思い出せるのに、その風景が現実に見たのか単なる空想として自分が思い描いた物語の中での出来事なのか、それとも単に夢として見ただけなのか、男はそれをずっと思い出すことが出来ずにおります。頭が真っ白になるような感覚に襲われて、ひどく現実味のない夢の中にいるような感覚に襲われてはっきりと風景を思い出すことができないのです」

「なあ、烏丸よ。あの子はお前みたいに突然の交通事故で誰かもわからないほどの損傷を受けて無様に死んだわけでも、長い付き合いがあっったわけでもないのに、あの時の喪失感は一体何だったんだろうな? あれ以来、いろんなことが平気になっちまった。

大抵のことでは動じなくなったし、何を辛いと思うこともなくなった。

恩師や昔食えない時に世話になった人がなくなってしまった時にはそんな思いは起きなかった。仕方のないことだと静かに手を合わせて送り出して、昔のことを心の中で感謝してそれで終わりだったのに、あの子に対してはそれで終わらなかった。町や公園を歩いていて同じくらいの年の子どもが楽しそうに遊んでいるのを見るとさ、あいつのことを思い出すんだよ」

「俺は君じゃないから君がどういう想いを抱えていたのかなんて何もわかりやしない。けれどもね、ジェス、聖人が没したというあの町を離れてからの君はどこか感じる必要のない使命感に駆られていたように見えたよ」

「どうだろうな。少なくともどこにもいなかったはずのお前にそんなこと言われことになるとは思ってはいなかったな」

「君は自分の行いが正しかったのかどうかを確かめるために、はるばるこんなところまで来たんだろう?」

「いいや、そんなことを確かめに来たわけじゃない。もう一度会えるなら会って話してみたいと、そう思っただけだ。あれから随分と年を取った今の僕なら、彼女になんて言えるのか、それを確かめたくなっただけだ」

「なあ、ジェス、若かった自分の行いを間違いだと決めつけるなよ。君は確かに頑張って生きて、沢山の物語を世の中に残してはきたけれど、その本質は高校の時からずっと変わっちゃいないんだよ。高校のバルコニーで俺や毎度のように訪ねてくる誰かと話していた時の君とちっとも変っちゃいないんだ。あの町で出会った時点で君は彼女のことを救っていたんだよ。そのことをまるで君がわかっていないから、俺らはこんなところで君を待つ羽目になってしまったんだ。君は君の噺をしっかり聞いて、次に進まなくてはならないんだ。俺は君をちゃんと送りだすそのために、ここでこうして君の噺をしているんだ」。


・28

私は息が詰まって意識が薄れてゆく中、目の前にいる壮年の男の影が回るように動いて、空へと延びてゆく、そこないはずの白い壁の町並がを見えた。


一緒にベンチに座っている時、通りかかる白い服の一団を見ながら、男は自分も白いのだとそんなことを言っていた「もう白秋なんだ」と、どういう意味だと私が訊ねると「白い秋だ」と彼はそう答えた。

「アジア人は人生を四つに区切るんだ。青春、朱夏、白秋、玄冬、その中の白秋という時期に僕はいるのだと思う」と続けた。それがどういう意味かは分からなかったけれど彼がこの国の人間ではないということをその問答の中で知ることができた。

「あなたは中国人?」中国人はよく見た、別段珍しいものでもなく、よく隣町の人間とビジネスに来ては私の町に寄る。ツアーの計画をたて、ホテルや物件の話をしに来る。彼もきっとその限りだろうとその時のわたしは考えたのだ。

「いいや、日本人だよ。中国人やインド人よりは数も少ないし珍しいかな、まあ、国籍はともかく、どこにでもいるアジア人だよ」とゆっくりと男は首を振った。

「日本人」その音の並びを私は愉快に感じた。

その頃の町の気象台では、どこからか手に入れたという日本のCDが毎日のように再生されていて、病院にいる際に何度か日本のアニメ作品を観たことがあった上に、ちょうど日系の作家が書いたという小説を読んでいた。そのせいで物語や空想の中でだけ名前を聞いた、どこか遠くにあるんだという事しか知らないその国から人が来ていることをどこかおかしく感じたのだ。


 すっかり日差しの熱をなくした。海風はこの街から大陸へと入って地熱をどんどん奪って反対側の海に消えて行ってしまう。その港に着いた風の行方を眺めるように風に顔を当てるアジアから来た壮年の男の横顔を眺めていた。


 私はまた夕暮れの町に歩みだす。

「そうか、私はもうどこにもいないのか」そんな折、少女は雪原の中で短くそう呟いた。





・29

「やあ、日本人。今日はなんだか肌寒いね」

傾きかけた太陽が建物の反対側に長い影をつくる町の中、すれ違いざまに声をかけられた

「こんばんはリサ、急に声をかけられるから何かと思ったよ。こどもが一人で何しているんだ? もう家に帰るところか?」

「帰ろうかどうか悩んでいたところ。この町はあなたが思っているよりも安全だから、日が出ている間なら子どもが一人でいても平気よ。あなたこそこんな路地裏の海岸で何しているの?」

「この間と一緒だよ、何か新しい発見でもないかなと目についた道を進んでいたんだ。ここは面白いね」

「面白いかな? あっちのホテルが並んでいるビーチのほうが綺麗だし屋台もレストランもパブもたくさんあるし、楽しいと思うけれど」

「こういうのがいいんだよ。ここらのレストランの裏口から出てきたコックが不貞腐れながら海を眺めて煙草を吸うようなところが、見ていて楽しいんだ」

「楽しいなら何よりだけれど、何か得るものはあった?」

「何にもないな、湾に面している向こうのビーチと違って、水路として整備されているこっち側は波が少ないってぼんやり思っていただけ」

「泳いでみたら? 何か面白いことが見つかるかも」

「見ているだけで寒そうだ。見ている分には綺麗だけど、凍えるだけだとわかっているのにそれでも飛び込む気概は僕にはないな」

「春でも秋でも冬でもみんな泳ぎたいときに泳いでいるよ。本当はビーチ以外で泳ぐのは駄目で見られたら怒られるのだけれど。見ているべき大人が泳ぐから、私は一体誰に怒られるんだろうなっていつも考えている。それに、海にふざけて飛び込むと危ないってことも子供たちに言うんだけれど、お酒を飲んだ大人たちはみんな楽しそうに服を着たまま飛びこんでいくんだ。それっておかしいよね?」

「おかしくないさ、世界には78億の人間がいるんだ。それだけいるから誰かの主張にはどこかで矛盾が生じるんだよ。それにほら、ちゃんと誰かが注意したから今日は誰もいないじゃないの?」

「それは違うよ、夕方だからだよ。結局また夜になって誰かがお酒を飲むか、昼になって日差しが暑いとみんなが感じれば、きっとまた誰かが飛び込んでいくわ。

でも、今日みたいに寒くなりそうな夜に自分から泳ぎに行くのは自暴自棄になった時の近所のダリオくらいね。向こうのレストランで演奏している音楽家なんだけど、何か悩み事があるとずっと海を泳いでいる。私のお母さんよりもずっと年上なのに一時間でも二時間でもずっと泳ぎ続けるの」

「へえ凄いね、でも寒い中泳ぐのは御免だけれど、夜の海で泳ぐのは楽しそうではあるな。君みたいにこの町に住んでいる子たちもよく海に泳ぎに行くのかい?」

「みんなよく海で遊んでいるよ。でも、私はあんまり行かないかな、泳ぐのが苦手だし友達と遊びに行く機会も多くないから」

「いつもは一人で遊んでいるの?」

「そう。学校で会って話をする友達はいるけれど、昔みたいに仲良くはなくなっちゃった」

「そうか、いろいろあるんだな」

「まあね。よく入院するからさ、長い間離れてまた戻ってって繰り返していると仲のいい子たちの関係性も少しずつかわっていくのよ。学校で話をする分には楽しいんだけど、それ以外の時間も一緒にいようとするとついていけなくなっちゃうんだよね。ある程度ルールができているところに飛び込もうとするとやっぱり難しいんだよ。私の入院って中途半端なんだよね、毎回半年とかだったら、頑張ろうって思えるんだろうけれど、不定期に2週間とかひと月だから、無理してまで誰かといようとは思えなくなっちゃった」

「なんか妙に擦れた会社員みたいな感性しているな、君が楽しいと思える付き合い方をしてけばいいさ、他人がとやかく言う事でもない」

「私もそう思うわ」

「でも学生時代の友達ってのは社会に出てから会う人らとはまた違うから、もし、本当に仲良くなれる相手がいたら大切にした方がいい」

「それは、どういう感じなのかわからないわ。あなたにはそんな相手がいるの?」

「いるよ。中学と高校の同級生が何人か、別に大切にはしたことがないけど今でもずっと関係が続いている。そうだな、別に大切にしなくても仲良くなるやつとは仲良くなるし、続くやつとは関係が続くな、むしろ気を使う相手の方が関わらなくなるな」

「そうか、じゃあ私は別に何も気にしなくていいってことね」

「そうだな、でもいくら安全な町って言っても暗くなる前に1人で歩いているのは感心しないけどな、今日みたいに風が強くて寒い日には早く帰るべきだ」

「そうだね寂しくなっていけないものね。風に背中を押されるみたいに誰もが足早に家や宿に帰ってく、人がまっすぐに家に帰っていくだけの街路を見るのは何か物足りない」

「そうか? 僕は誰もいない町やら道やらでぼんやりするのが好きだけどな」

「物足りないよ。みていられるものが減ってしまうから。寂しさが退屈を生んだの」

「理屈っぽいな」

「そうでもない、きっと日本人の中にもあるものだから」

「いや、そんなことでセンチメンタルな気持ちになるようなことはないな」

「日本人はひどい子だね」

「そうか? 唐突に表れた君とこうして会話しているんだから、まだまともな方だと思うけどな」

「だからってひどくないわけではないもの」

「そんなこというなよ、アイス買ってやるから」

「この寒いのにアイスか、日本人は人の気持ちのわからないやつだね」

「日本人は人の気持ちなんて考えないからなぁ、こう、絶対的に善悪が国にあるから、それに基づいて行動するだけだ。楽だよ? 付和雷同だ、みんな仲良く。いいだろ?」

「それは何か考えていることから逃げている気がするな」

「まあ、確かにな、僕はいつも逃げてばかりいるな」

「真面目そうなのにね、昔、何かと向かい合って疲れたの?」

「真面目だったことなんてないな、憶測でものを言うものじゃないぞ」

「確かに、憶測はよくないよね。過去の貴方は、今ここにいる貴方とは別の人の話でもあるし、私は会ったことがない人だから、その人に対して憶測でものを言うのはよくない」

「君がそんな変なことを言ったせいで頭の中を過去がいくつもかけていった。なんだか走馬灯みたいだ」

「走馬灯って?」

「死ぬ直前か死んだ後にだけ見られる映画みたいなものだよ、自分だけが見られる映画。誰にも見られることなく、どんな監督にも作ることの出来ない映画。人生の最後に一度だけ観られるものだ」

「そんなのがあるの?」

「あるんだよ、それは多分、この世にあるどんな映画よりも優しいストーリーで作られていて、けれども誰ともその素晴らしさを分かち合うことができない自分だけのために編集された映画」

「日本人はそれを今観ていたの?」

「うーん、たぶん違うな、色々と後悔していたし昔の自分を思い出して恥ずかしくなったりしていた。あれは違う」

「そうか、そんなのがあるのね」

笑顔を戻した少女に対して 初老の青年は、ここまでの少女の言葉の意味を探ろうと小首をかしげて考え込んでいた。少女はただそれを真似て首を傾けてあそんでいた。

少女の頭をなでてみる。日光の下にさらされた死体のように優しい温かさと、もうどうしよもないような冷たさが混在していた。

通りの角でドアベルの音とともにウェイターがCLOSEDの看板を反す。カモメの声のむこうで、観光用に作られた遊覧船の汽笛が聞こえる。工場のチャイムが鳴って。応えるように神父が鐘を八回うった。今日も港町の一日が終わりへと向かっていた。

 実際の速度よりずいぶん遅く見える仕事帰りの船が夕日と連れ立っているのを見ながら、初老の青年は一つ大きな欠伸をして。ゆっくりと、けれども肩の骨がなるほど強く、両腕を上に伸ばした。

少女は海辺のカフェレストランと、ボラードに留まるカモメのつがいを見ながら。コックの帽子の長い意味を考えていた。それは青年が伸びを終えた後もしばらく続いたが、鐘の音が水平線の向こうに消えると、何かを得心したようで「よし」と一つ頷き「あそこのレストランのデザートはどれも美味しんだ。今度一緒に行こう?」そう言ってウェイターがドアを開けたばかりのレストランを指さした。

「ああ、次にまたどこかで会うことがあったら、おごってあげるよ。おいしいのはデザートだけか?」

「ピザもパスタも美味しいよ。お母さんはスペアリブがお気に入り」

「そうか、あの店の料理はおいしいのか、いいことを聞いた。ちょうど今日の朝ご飯を探していたんだ」

「朝ご飯って探すものなの? それにもう十七時だよ?」

「朝ご飯は探すものだ。お前は一体、東京駅がなんのためにあると思っているんだ? それに僕は二時間前に起きたばかりなんだ」

「じゃあ、私のお母さんの店に行けばいいよ」

「あんまりミケラさんの店ばかり行くのもな、いつも買い物に行くたびにおまけで何かしら貰って悪いし」

「大丈夫よ、日本人は私と仲がいいことになっているから」

「そうか、一体いつそうなったのかは知れないけれど、関わらないようにするには手遅れだったな」

初老の青年はぶっきらぼうにそう言って笑った。

その姿は少女にとって、幼いころ不器用に触れ合った父親との記憶と重なって見えた。


・28

・初老の青年がゆっくりとドアを開ける(SE)。静かにドアベルが鳴った(SE)。

・店の奥からえんじ色のジャケットを着たウェイターが現れる。

接客係 「おひとり様ですか?」

初老  「いや連れが先に」

接客係 「そうですか、お名前は……ええ、お連れ様、先にいらしておりますよ。どうぞこちらへ」

初老  「すみません、予約した時間に遅れてしまいました」

接客係 「いいえ? お気になさらずとも、ほんの十数分ではないですか。と、私が言ったところでお連れ様は一時間も前からお待ちですからそういった話もお席で、もう二本目のボトルを開けて待たれています。どうぞこちらへ」

初老  「あぁ、お願いするよ」


案内された先では、ネイビーのワンピースを着た、若い女性が一人、窓際の席で海を眺めていた。

そのワンピースは彼女のお気に入りで、よく着ていた「紺色が似合っている」と、僕が言うと「確かに紺色に見えるけれど内側にはミッドナイトブルーと書いてあるのよ。そのことを思い出すたびになんだか騙されている気分になるのよね」とよくわからないことを言っていた。


初老  「待たせてしまったかな?」

女性  「そんなには待っていないよ、私も今来たところ」

初老  「今来た人間は先に前菜だけを食べ終えてボトルを開けるような、そんな真似はしないんだよ?」

女性  「そうなの? それは人それぞれよ。しない人もする人もいるわ、たまたま、私はそうするってだけ。それに、いつ来たのかなんてもう覚えていないよ」

初老  「遅れたこと怒っているのか?」

女性  「あなたは聡い人だから……本当に怒っている人間にはそんな質問しないでしょう? だからその質問があなたの口から出たなら、私はもう怒っていないのよ」

初老  「怒っていたの?」

女性  「それも忘れたわ。振返った先にあれば蘇るんでしょうけど、もう、今は何処にもいない物だもの、考えたくない」

初老  「そうかい、それはちょうどいい時に来ることが出来たかな」


女性  「でも、待たされた。待たされたから言うけれど。

ここのデザートはどれも本当においしいのよ? 使った素材を際立たせるみたいにはっきりとした味があって、気品のある中、デザートを作る専門のおじさんの確かな腕前が伴っていて。パティシエになりたくて外国まで行って賞まで取ったのに、生まれ故郷のこの町に帰ってきたおじさん。だからこそ……例えばオレンジの皮をつかったクリームなんか、口に入れた途端に広がる香りが夏にここの反対にある山を登って振り返ったとき香ってくるこの涼し気な海風のような爽やかさで! モンブランなんか、商店街を歩きながらお母さんと食べた焼き栗のおいしさを凝縮して、そのままケーキにしたみたいな味! 彼の作るデザートってこの町そのものなのよ? いえ、ちょっと……語弊があるかもしれないけれど、でも、触感も味もそれこそ特攻を仕掛けてくるみたいに口に入れた瞬間強烈に私を幸せにしてくれて、だからって、くどくないのよ。こんなに素敵なデザートを食べられるのは世界中でもここだけよ? きっと」


初老  「なるほど、今日のコースも最後まで楽しみだな」

女性  「そうじゃない」

初老  「遅れてごめんな」

女性  「いいのよ。本当は微塵も起こってなんていなかったし」

初老  「好きなものなんでも頼んでくれ」

女性  「ありがとう。貴方が来なくて一人だったから、海をずっと見ていたんだ。今日は白みがかっていて面白いよ。もし沈んだらヴィーナス像みたいに綺麗な石膏になって朽ちないまま、海の中をずっと眺めていられるのかもなってそんな静かな世界もいいなとか、日本の海はまた色が違うのかなぁとか、くだらないこと思いながら過ごしていたわ」

初老  「こことは全然違うよ。もっとくすんだ色をしている」

女性  「そうか、行ってみたかったな」


・イメージとして女性は20代前半、一番活気のあって怖いもの知らずの年齢だが、実際の彼女は、まだ幼い、ただの子供で、目の前で起きることに次々と表情を変える明るく活発な女の子だった。


窓の外を見た少女の瞳は緑色の丘を登ってゆく真っ赤なバイクを見ていた。

「あ、ボンネビル?」

子供が、飛行機雲のことをまだ理解できずいつか父親の発した音だけを頼りに確認するみたいに、それでいて嬉しそうに、そう呟いた。

「本当だ」

「あんなところ登っても、何にもないのにね」

そういった彼女の顔は、数分前にあった憂鬱の色が消え、輝きを取り戻していた。



・29


「私そんなに気にしてないのよね。でもどっちだろう?」

「何が?」

「死んでしまったあとで、見えているほうがいい? 見えてないほうがいい?」

「心霊現象の話か?」

「そう、幽霊として残ることは前提としたときに。どっちがいいんだろうって授業中の暇なときに考えていたの」

「見えていたら、それは生きているのと何も変わらないんじゃないか?」

「同じじゃないわよ。見えているだけで、死んでしまっているもの、見えるだけでかかわれなくなるのよ。きっと見えている人たちは心がすり減ってしまうわ」

「じゃあ、見えてないほうが良いんじゃないか?」

「見えていなくても、みんな思い出してくれるかな?」

「寂しいんじゃないか? 残っているのに見えてないなら」

「寂しいのかな?」

「僕は寂しくないよ。思い出されなくても構わないな。むしろ誰かのことを思い出すほうがつらいな」

「寂しいのかな、うーん、暇そうではあるけどね。私は思い出してもらいたいかもな。生きていても死んでいてもずっと一緒にいてくれるとか、そこまでは求めないけれど、私のことを忘れないでいてくれる誰かがいてほしいかもな」

「ずっと一緒にいることはないだろうけど。この町を出たとしても君のことは忘れないよ?」

「いや、日本人忘れっぽいもの、きっと忘れてしまうわ」

「まあ、確かに、いつまでも覚えていることの10倍くらいの物事は忘れているな。でもさ」

「何さ?」

「いいや、なんでもないよ」。

その少女は彼にとって数少ない友達の一人だった。


・30

「あ、祭囃子」

海にせり出した丘の上、教会の向かいにある緑地から町を見下ろしていた。

「本当だな、今日はなんだかどこも賑やかだな」

「パレードがくるよ」

「へぇ、楽しそうだな」

「パレードの間だけはなんでも忘れていいんだよ。踊っている間はただ楽しめばそれでいいの、神様が全部持って行ってくれるから」

「神様が?」

「神様がその場に仮装した人間と一緒にいて。その間一緒に祭りにいた人間の罪や痛みを帰る時に一緒にもっていってくれるらしい」

昔話なのだと彼女は教えてくれた。旅の一座が道中汚れた服の老人と出会い、その老人と騒いだ一夜のおとぎ話を語って聞かせてくれる。

「持っていかれたら困るから僕は踊れないな」

「なんで?」

「それをなくしたら売れるものがなくなってしまうからな、仕事ができなくなる」

「日本人は普段どんな仕事しているの?」

「気楽にその日暮らしだよ。まともな仕事に就けなかったんだ」

「可哀そうに」

「可哀そうとか言われるのはあんまり好きじゃないな。他人からどう思われようと、他人がどう思おうと他人の自由だけれど」

「日本人はあれだよ、ロンリーウルフだね。寂しがりやなロンリーウルフだね」

「僕がいつ寂しがったんだ?」

「必要の無いくらい。海が枯れそうなくらい哀愁漂っているけれど。暖めきれないくらい。ここに来る前に何かあったの?」

「哀愁漂っている? そんなわけないだろう」

「鏡の無い家に住んでいるの?」

「いや、ホテルの部屋はいたるところに鏡があるよ。ベッドからクローゼットのドアについた姿見とデスクについているメイク用の鏡と用途のわからない窓の下の場所にある鏡」

「それもどうかと思うよ?」

「常にいろんな自分が居て頭がおかしくなりそうだよ」

「本当にそんな部屋に泊まっているの?」

「いいや嘘だ。意味の分からないところに鏡はあるけれど、部屋自体がそれなりに広いから気になるほどじゃない」

「そりゃそうか、そういえばさっきの日本人の話で思い出した」

「何を思い出したんだ?」

「いつか見たドラマの話。捨てる女の話。何か一つを捨てるたび一つ幸福になるってことに気が付いた女の話。こう、全部捨ててゆくの、家にある家具とか、彼氏とか身の回りの人間関係を捨てたりとかしていくの、幸せになるために段々とそれがエスカレートしていって最後には自分を捨ててしまうっていう話」

「自分を捨てたら幸福も何も無いじゃないか」

「いや、主人公はアナウンサーとして働いていて、色々捨てた先に成功として、自分のニュース番組もつんだけど。そこで一旦捨てるものがなくなるの。捨てるものが無くなって、そのせいで自分の周りで不穏な空気が流れ始めるの、これ以上視聴率が悪いようなら、番組が取りやめになるっていうところまで追いつめられて、そこで自分を捨てるの。で、そのことがニュースになって視聴率は取れたねっていうのが結末」

「なんか後味の悪そうな話だな」

「どうなんだろう、もし、幽霊になっていたら主人公は満足したかもしれないよ。ねえ、もし死後の世界があるのだとしたらどんなのだと思う? 私は荒廃した、だけども綺麗な、けれども誰も居ないショッピングモールだと思う。その中の映画館で目を覚ますの。長い映画を一本見終わったあとのような満足感でオレンジの明かりを頼りに外に出るんだ。そして幽霊になる。自分だけしかいないショッピングモールを抜けて、自分だけが居ない世界に出る」

「ショッピングモールか、考えると寂しいな。死後の世界ね、考えたことないな。そうだな、ススキ野原かな」

「兵どもが夢のあと?」

「なんだって?」

「夏草や兵どもが夢のあと」

「なんで俳句?」

「いや、だから、ススキ野原って言うから、あのソネットみたいな情景を思っているのかなぁて」

「どうかな。よく晴れたどこかの山中のススキ野原に一人で立って。その中を歩きながら自分の人生を振り返っているってその風景が浮かんできたんだよな」

「でも、死んでしまった後になってやっと意味を探すなんて疲れそう」

「そうか? きっと気持ちがいいと思うぞ」

「すすき野原じゃなくても、こうして高台で過ごしているだけでも気持ちがいいものね」

「初めて来たときも今も、ここはいい風が吹くな。秋めいてきたと言おうか、秋が深くなったような気がする。ここには随分長居してしまったな」

山の香りか、半島の上から吹いてくる風に、冷めた土から出る甘い香りと黄色い花の香り、空の色から少しだけ白が消えて見上げても眩しさはそれほど感じない。眺めていると、若い時分にした肉体労働の疲れと仕事終わりのすがすがしい気持ちが同時によみがえってくる。

深く息を吸うと、吸っただけでむせてしまう夏の空気と違って、程よく冷えた秋の空気がしっかりと肺になじんでくれる。

「日本人はこの風で何を思うの?」

「体育祭かな?」

「なにそれ?」

「日本の学校では、秋口になると全校生徒でスポーツして競うんだ」

「なにそれ、楽しそう」

「それが終わった後の、そのかんじ。その祭りが終わった後はいつも空が高いんだ」

「その感覚はわからないなぁ。でも、楽しそうだ」

「そうでなきゃ、長く付き合った恋人と別れた後みたいなさわやかさ」

「それもわかんないな。日本人には恋人がいたの?」

「いたに決まっているだろう」

「いつ? 今も?」

「今は居ないな。前の彼女と2年くらい前に分かれてそれっきりだ」

「恋愛ってどんなの?」

「別に何かを考えてするようなものでも、あこがれるものでもないよ」

「憧れね、興味があるのかどうなのか、いま考えているわ」

「興味が無いんじゃないの、考えるくらいなら」

「興味がまったく無かったら考え始めたりしないよ。でも、ぴんとこないんだよね。本とか映画とかで誰かが恋をしているのを見るたびに。疑問がわく」

「どんなところに?」

「これで良いのかなって、なんだかいろいろと悩んでいたり、邪魔をされたり思い通りにならないような展開が多いからさ、最後でうまくいったとしてもなって、そんなことを思ってしまうんだ」

「お前はいろんなフィクションを見すぎているのかもな、現実ってのはもっと簡単だぞ、でもそれだけ色んな物語を知っているってのも財産だけれどな」

「時代がすごいんだ。ウェブサイトで会員になるだけですごい量の映画が見られて、なんでも読めるんだ。ネット図書館とか動画配信サイトとかもあるし、町の図書館の本は無料で借りられる」

「そうか、趣味がたくさんあるっていうのはいいことだ、楽しそうだな」

「本を読んだり映画を観たりいろんな物語に触れるのが好きなのよ。でも、普通に学校に行ってみんなと体を動かすっていうのもしてみたかったな」

「やっぱりそういうのは出来ないのか?」

「みんなと同じっていうのが難しい。責任の所在が難しいんだよ。爆弾みたいなものなの、生きている爆弾。今確かにあっても次の瞬間どうなるかわかんないの。言い訳じゃないよ? そういう不発弾が眠っている。戦争の後ずっと残っている国境線の地雷みたいに私が生まれたときからあるものだから、仕方がないことだってそれがわかっているんだから、誰かに責任を負わせるようなことにはしたくないのよ」

「そうか、ちゃんと向き合っているんだな」

「どうかな、本当なら病院の中で生きるのが一番良いんだろうけど、それも嫌だから、水槽の魚みたい生きるなんてまっぴらだってそう思ってしまうから、ちゃんとは向き合えていない気がする。

時々ね、幽霊になれたら楽なのになってそんなことを思ってしまうの。肉体を捨てての自由を私は求めてしまう。早く、居なくなりたい。居なくなっても残っていて、自由に飛び回ってみんなと遊ぶの。幽霊になってもこの町にいたい、出来なかったことを全部したい。って、生きている私はそう思うことがあるのよ」

「それは寂しいことだな」

「そうかもね、お母さんに会いたいな」

「店に行ってみるか?」

「会いたいけど、今は顔をみたくないかもな。もうちょっとここにいよう? もう少し、パレードがあのビーチから町へ帰るまで」

「いいぞ、今日もなんの予定もないし」

「お母さんに怒られなかった?」

「怒られてないよ、助けてくれてありがとうとお礼を言われた。あの人は強い人だ、それに優しい」

「自慢の母よ。今日もいい風が吹くね」

「ほんとうだな」

「貴方はこの町好き?」

「嫌いじゃないよ」

「ずっとここに住めばいいよ」

「そうはいかないな、いつかは帰らなくちゃいけない」

「帰ったらここで過ごしたって記憶も水に浸した綿菓子みたいに溶けてしまうんでしょう? そうして私のことも忘れるんでしょう?」

「忘れないよ。記憶は水に溶けたりしない」

「でも時間がたつにつれて薄れていくじゃない? この町のこと、一枚だけアルミ板に掘り起こすみたいに切り取った一瞬たちだけ覚えて、他は全部忘れてしまうわ」

「そんなこと無いよ。また、旅をしに戻ってくるだろうし、どこか旅の途中に海を見るたびに思い出す」

「旅ね、日本人には誰かいないの? 一緒にいたかった相手。もしくは一緒にいたかったけれども一緒にいることのできなかった相手」

「いや、居たよ、ちゃんといた。好きな相手も一緒にいてくれる相手も大事だった相手もいた。でも一人なんだよ」

「何かあったの?」

「何にも無いよ、何にも無いとしかいえないようなことしかない」

少しだけ、少女は初老の青年のほうへ体を寄せた。その熱を奪い取ろうとした。

「いまは二人だけだよ。誰も見えない。誰も居なくならない。怖くない、怖くない」

「ありがとう。今日は横じゃなくて下から鐘の音がするんだな」

「本当だ、なら今は神様の時間かもしれない。だからだれも居ないのかも、いきる者はどこにも。この丘の上には、私たちと、死者に祈りに来たあの子供たちだけ残して、みんなどこかで踊っているのよ」

「子ども? 本当だ、気が付かなかった。すっかり町を見ていたから」

二人の幼い子供たちは、まっすぐに墓を見つめて立っていた。両手にはいっぱいの黄色い花を抱えている。

「もし、私たちが死んでしまっているとして、死んだしまった後にこの風景を見ているとして、あの子達の大切な人って私と貴方かな?」

「そんなこと無いだろう」

「もしよ、私たちなら、だったら何かな。両親かな、命の恩人かな。それとも友人かな。あり方は何かな?」

「その中だったら。偶然助けた、命の恩人が一番しっくり来るな、自分のかかわり方として。他にどうしようもないから、まず死んでいないし」

「そうね、でも時々、本当はもう死んでいるのかもしれないって思うことあるでしょ?」

「あるよ、何かから逃げたいとか、日常的にふと。昔やったバイクの事故とかの時のその瞬間に俺はもう死んでいてって、飲み込まれているみたいに、おんなじ夢を見るんだ。光る桜の下で体を引きずって、毒虫みたいにあわれに、必死にその木に近づいていくってそんな夢を見る。ずっと続いていて。俺が死んだ後も続いている世界と、こうして普通に生きている世界とが平行していて。何かのきっかけで切り替わっているんじゃないかと、そんなことは考えるよ」

「日本人はあれだね、痛い子だね」

「何でそうなった」

「痛いこだから」

「ま、いいか」

彼女がなぜか心底うれしそうでしたから、男はそれ以上何も言わないことにして、視線を町へと戻した。

「ふふっ。ここはアレだね、あったかいってヤツだね」

「そうだな風があるから涼しいけど、日差しがあるからな」

「あったかい、ほんとうに。ちょっと眠いかな」

「みていてやるから、ねむりなさい。ちょっとしたら起こしてあげるから」

「うん。きっとよ」

「ああ」

「居なくなったしないでしょ?」

「ああ、しないよ」

「うん」 

それでさよなら。



・31


落語家が一礼するのを合図に、開いた幕はゆっくりと下りてゆく。



落語家は楽屋には戻りたくなくて、着物に羽織姿のまま舞台袖の搬入口から外へと出る。どうしても今すぐに外の空気を吸いたくて仕方がなかった。そうでもしないと自分の存在を保っていることができない気がしたのだ、それは舞台の出来がどうしようもなく悪かった時や、台詞の一つがどうしても出なかったときに沸く衝動にも似ていたが、果たしてなぜそんなにも打ちひしがれた気になったのか、後になっていくら考えても納得のいく理由は浮かば無かった。搬入口の大きな扉を開けて外に出ると飛んで行く飛行機が見えて、その機体が大気を丸ごと巻き上げでもしたかのように、春風が一気に上空へ向かって吹いた。



・32


「ねえ聞いているの?」と、座り込んでしまった初老の青年に問いかけてみても全くこたえがかえってこない。仕方が無いのだろう。もう終わってしまった。砂に埋められた棺の中からでは誰にも届かない。

空気の無い宇宙でも、熱帯魚の泳ぐ水槽の中でも一緒。

声が届かないというのは別につらくない。望んだことと変わらないのだから、幸せかと聞かれれば、間髪入れることなく幸せだと答えることが出来る。

それでも、普通に居てほしかった。出来ることなら、こんな寂しそうなところをみたくなかった。本当に茶化してやりたいくらい寂しそう。面白いくらい、こんなことなら怒らせたほうがましだ。

そばに居たならこんなものをみることも無かったろうに、何でだろう?傍にいることが出来なくなってしまった。どうにかしていることだけでも知らせることが出来たらきりっとするだろう。


しっかりしなさい!とありったけの温度をこめてたたいてあげたい。


背骨ごとアイロンをかけて、二度とそんな姿勢の出来ないようにしてやりたい。今。そうしてやりたいと思った。


私の望みは叶ったんだと、何処にでもいけるのだからこんなところに縛り付けるのも止めてほしい。ばーか


鬱陶しい。だんだん腹がたってきた。みたくないものまでみてしまった気分。


ちょうど同棲して三週間の気分、取り繕ったもんにぼろが出始めたような。


一緒に死んどけばよかった。ちょうどそこの海にでも身を投げとけばよかった。二人で一緒に手をつないで足のつかない海溝まで一緒に歩いて……。


いや、やっぱり無理だったなぁ。


この人の殺し方がわからない、死に方が思いつかない無理に殺しても、その後一緒にいられないのは嫌だ


そういう形で、一人になるということは嫌だ。


夜明けまで一緒に孤独でいられる相手がやっぱりほしい。


そういう意味ではこの、寂しさは常なのかも知れない。


はじめから、お互いに居ることが出来た。切り取った布をちょうど間で縫い合わせるみたいに、交わりはしなかったけれど。とても楽しかったのだけれど。


初めてみたときからこの男は寂しそうだったのかも知れない。


きっと触れられたなら、今の私より冷たいんだ。

春の海のような男だ。日の光以上に冷たくて、つかりきった瞬間からどんどん体温を奪っていく。それでも、他のどんな海よりも優しい、そのなかに誕生を持っていて、そのすべてを変わらぬ態度で受け入れるのだ。


そこにずっと浸ってしまったからいつの間にか熱まで奪われて私は死んでしまったのだ。

お別れはしっかりとできたんだろうか?それだけが思い出せなかった。

無言でいる私の横で途方に暮れている彼を見ていた。町はいつもよりも静かな午後のなかにあって、船の汽笛がこの港まで飛び込んでくる。

どこかからバイクの音が徐々に近づいてくる。それでも男は海岸でうなだれて、もう一向に動いてくれそうにはない。



・33

この町の伝統どおりに、のちに聖人となった一人の聖職者が決めたとおりに、葬儀は粛々と執り行われた。


死との結婚と新しい誕生の祝福の式だ。


悪くない。ここから眺める私は綺麗だ。白い洋服に包まれて、寝顔のままゆっくりと運ばれてきて。このまま絵にしてしまえば、いつまでもありがたがれそうなくらい。


それでもこれ以上は近づかない。うっかり生き返ってしまったら困るから。

こうして二人はなれて自分の葬儀を見るというものいいね、なんと言うか、風流じゃない?


別に悲しくもないし、飽きたら帰ってどこかで眠れば良い。途中でいなくなっても不謹慎でもなんでもない。

最初に会ったときみたいに。目を輝かせてみていてくれたらいいのに。まるで私の方があの時の何処から来たのかもわからない女よりも劣るみたいだ。わざわざそんな悲しそうな顔するぐらいなら来ないで欲しい。いつもと変わらない無表情なのに、どうしても目の奥は黒い、いつも黒いけど。

なんというか。とにかく黒い。光の入る余地が無い。反射せずにどこかに消してしまうみたいに、深い黒だ。

そういうところは子供みたいだ。いくら取り繕っても。

こういう部分がどこか可愛かったりもするけれど。私がそんな風にしている原因というのは納得いかない。いや、私以外が原因のほうが嫌か?どっちだろう。どっちでもいいや。


(もう、少女の声が届くことは無い)

そうだねサービスだよ、いまだけは生き返ってもよかったかもしれない。キスしてくれるんなら生き返ってやってもいいよ?と


やっぱり最後に何か残すべきだったなぁ。手紙でも何でも、言葉でも確かなものでも。残しておけばよかった。何にもなくいなくなるのがいいと思ったから。

男の美学って言うか、そうすれば何にも残らないと思ったから、気のものでもなんでも


という、そのためにあらかじめやんわりと、何度もいつか死んでしまうって伝えておいたのにこの男は、本当にどうしようもない。

うちの母親なんて喪主のくせして毅然としている、ないた後すらないのだから。あぁ、結局こうなったってそれなんだ。この男にもそういうところを望んでいたのになぁ。時間不足だったのか?


これでは何処にもいけないじゃないか。せっかくの自由なのに、

しょうがない、もう少し、仕方がない、しばらくいてやるよ。


いや、でも、ほんとうに、キスでもしてくれるんなら生き返ってやってもいいよ?

今だけは、そんな気分、うん、今だけだ。そっかそっか。


たってよ? ちょっと気晴らしに歩こうか? ね?


・少し離れたところから、そんな二人の姿をみていた落語家が急に声を出す。


落語家 「すまないね。こんなに長く付き合わせることになるとは思わなかったんだ」


・こうして少女はようやく舞台へと戻ってきます。二人、並ぶように立ちながらその過去の様子を共に眺めて。


少女  「いいんだよ」


落語家 「ありがとう、最後まで付き合ってくれて」

少女  「そりゃね、約束だったからね」

落語家 「俺はなにか君と約束したっけ?」

少女  「忘れっぽいんだね」

落語家 「アイツほどじゃない」

少女  「そうかな?」

落語家 「でも、やっと終わった。満足だよ、俺はこれでもうやり残したことはない」

少女  「それならよかった。じゃあ、もう行こうか?」

落語家 「何処に?」

少女  「日本人のところよ」

落語家 「そうだな……俺はもう少し一人でいるよ。君一人で先に行くといい」

少女  「そうなの? 一緒に来ればいいじゃない、同じ場所に帰るんでしょう?」

落語家 「ああ、でもその前に寄っていきたいところがあるんだ。昔、家族で旅行に行ったところでね、なんとなく、そこを一人で歩きたい気分なんだ」

少女 「そう」

落語家 「君はもういいのかい? 何かやり残したことはない?」

少女 「もう平気よ、でも、そうね、日本人の本当の名前を知りたいかな。結局、最後まで聞けなかったから」

落語家 「世々継(せぜつぐ)だ。苗字は吉田」

少女  「せぜつぐ? 呼びにくいわね」

落語家 「それなら、ジェスと呼ぶといい。そう呼んでやるとあいつは喜ぶ」

少女  「ジェスね、わかったわ、ありがとう」

落語家 「ああ、機会があればまたどこかで会おう」

少女  「ええ、きっと」


・暗転


・34

「私があの町にいたとき、先生は何歳だっただろう?」話の中のノートに書かれた文章を読み終えたとき、疑問が頭の中をよぎる。「三十四歳か」

当時まだ二十歳の私にはひどく老いて見えた。海沿いのコンクリートブロックに二人腰かけて話している途中で鐘の音が響いた。海に突き出した崖の上、クリーム色の外壁がまぶしい教会があって日中に三度、鐘の音が鳴っては遠く海の向こうへと消えてゆく。海風を全身に浴びながら聞くその和音が私は好きだった。いかにも異国の地にいることが実感できたし、日中の時間を正確に三分割できるのもありがたかった。しかし、先生はこんな文章を書いていたのに、その音を聞くと、決まって憂うつそうな顔をして下を向いていた。


そして、続けて私が初めて彼の物語を聞いた時のことを思い出した。

小学三年生の時、故郷に帰ってきた先生は二十三歳になろうという時だ。

 ずっと前に聞いたきりの話は、もう断片的にしかよみがえらせることは出来なかった。初めて聞いたその時の話も最後に話したいといっていた話もどの紙を見ても当てはまるものがないように思えた。


 私はそのノートを鞄にしまい、先生の家を出た。静かにカギをかけ、駅を目指して歩いた。冬の寒さはいまだ厳しく、少しでも逃れようとコートの襟を上げて顔をうずめてはみるものの、体の芯はどんどん冷えてゆく。足は自然と足も速くなってしまう。澄んだ冬の夜空には市街地の中でもはっきり星が見えた。





春、私は娘が参加している自然教室の付き添いのため、甲信越地方の山の中にいた。その日は屋外で演劇作品を作るというプログラムの発表会で、私を含めた子どもたちの保護者が、カメラを片手に集まっていた。

「お父さん」発表会も終わり、人の輪を外れて講師からの話を聞いていた娘を離れて待っていたところ彼女の声がした。ひょこひょこと跳ねる影が白く見えるほど遠くのほうで、娘が悪い足場に体を左右に揺られながら手を振っている。転んだりはしないだろうかとそれを眺めている。

 見れば集まっていた子供の影が、蛍が飛び立つ時のような不確かな弘を描いて散ってゆく。親の元に戻る子もいれば、友達と駆けずる子、その場に留まって講師と話し込む子もいる、我が子は早く帰りたいのかなれない場所に戸惑っているのかはわからないが真っ先に私の下へと戻ってきた。

「よく頑張ったね、サラ。私は感激したよ。」

そういうと、まさに破顔というべく顔を崩れさせ、嬉しそうに笑った。

「私よかった?」笑顔のままに、言葉をチューイングガムのように噛みしめるようにしてそう聞き返す我が子というのは本当にかわいいものだと、私は頭をなでながらも

「あぁ、よかったね。同じ年の子が並ぶ劇団の中にあっても君はひときわ輝いていたよ。他の子たちはみんなくねくねくねくねしていたのに、大したものだ。どうやったらあんなに堂々と舞台に立てるのか私にも教えてほしいくらいだ。」さすが我が子だとは言わずに。

「簡単だよ。」娘は少し誇らしげに顎を上げた。「動かなければいいの」と娘と会話をしている途中視線を外にやると私の視界にとある人影が留まった。

「あの子」すすき野原が風に揺れて走るその途中で、ナレーターとして終始舞台を支配していた少女がそこに一人で立っている。秋の黄金色のすすきにも負けない、けれども少し薄暗い印象の金髪だった。どこか山の上の方を見ているようで、夏の花火の一瞬を思わせる女の子であった。はかなくもあり、強くもありそれでいて一人で立っているその姿が、目を一瞬くらませて消えていってしまいそうな孤独を感じさせた。

「あの子は、サラ、君の友達かい?」娘はこれまでの興味から言葉に誘導されるように私の視線をなぞりながら答える「そう」と。

「今日からね」今日から、と、この年の子供にしては随分と限定的な言い方が気になる。「今日から?」

「そう、今日に会ったの」

「今日であったの?」小さく頷く。どうやら、今日初めて出会ったという意味であるようだけれど。「一緒に練習していたんじゃないの?」と私がそう尋ねると、何かの自信を急に失ったらしく逃れるようにして視線を徐々に横へとそらしていく。

「んー。リサちゃんは一緒にお稽古してない」

「他のところから来たの?」確かにこうして親まで招いて、遠方の屋外でやるような作品であることを考えると、何かの交流を図るという意味で他県の劇団やらなんやらの子供と一緒にやったのかもしれない。あるいは誰かの代役で、ということも考えられるけれど、娘の話からでは判然しないリサという名前の女の子のいきさつにそこまで興味を持てるほどではない。そろそろ帰えるかと私が考え始めた時だった。

「わからないから、きいてくる」とても素早く、女児は父親の静止をすり抜けすすき野原を走り抜ける。決して転ぶことなく少女は目的の女の子を捕まえることができた。


そこになんの迷いも、ためらいもなかったからこそ。彼女には少女を捕まえることができた。つまりは、彼女だけがこの物語においてそんな小さな目的を達成できる唯一の存在だった。


リサという名の少女は、我が子に連れられて私の前へ登場した。

「どうも、異国の芸人さん。こうして会うのは二回目ね」

ステージの上での常全とした態度ではなく、どこか緊張を孕んでいるように見える。「ここで、またあなたを待っていたんだけどね。待ちくたびれた。待ちくたびれたから迎えに来たはずだったけれど。そうしたら子供たちが楽しそうにお遊戯していてね、本当に人形みたいにかわいいのよ! そんなものを見たら混ざってしまったわ」

 「君の演技は素晴らしかったよ。そして君は私の娘と友達になってくれたようだね。ありがとう」私は、彼女のあいさつの意味を探りつつ、一つどころに留まることを恐れる潜水艇のように。とりつなぐための言葉を放つ。

「やはり、覚えていませんか?」少女はどこか緊張の糸が切れたように、落胆をしたように肩を落とした

「いや、待ってくれ。私は君の言葉に対して少し考えなければならないんだ。事実君は舞台の上でおおよそ少年少女の劇団とは思えないような見事な語りを私には見せてくれたけれど、君は私に久ぶりと、そう言えるほど長い年月は世の中を渡ってきてはいないように見えるよ?」

「貴方は何かからまた、逃げようとしているのね、だから本来見るべきものがまだ見えてないのよ」私を諭すように言葉をつづけた「貴方の先生をあなたを連れ戻したように、私はあなたを連れ戻さないといけないのよ?」小首をかしげる仕草は、妙に大人びて見えた。

「友達だったの?」成り行きを見守っていたサラは自分の見ることができた事実から的確に、質問だけを切り抜くと答えを待つように私を見上げた。

「どうかな?お父さんにはわからないんだ。きっとリサちゃんが知っているんじゃないかな」それに対した私は子供をだしにわからない問題の答えを当事者から聞き出そうとする。


そのサラの様子を見た彼女は笑顔だった、うまくだました悪戯の種明かしが楽しくて仕方がないというように「恋敵かな?」と右のほほをつきあがらせる。

「こいがたきか、リサは私のお母さんが好きなの?」サラは自然に少女との会話をする。

「違うよ、あなたのお父さんが私の好きな人を好きだったの」サラを慈しむようにそう言って、ハイライトの弱いブロンドの女の子は遠くを見つめる。山の上に昇ってゆく白い光を見ながら、まぶしそうに眼を細め、下から吹き上げる風に髪を揺らして。

「君の好きな人?」

「そう、私の大好きだった人。あなたが私の街から連れ去ってしまった人。あなたが救ってくれた人、生きがいを与えてくれた人。あなたの最初で最後の先生だった人。あなたが最後まで一緒にいてくれた人。

だからね、連れていかれたことには恨み節も言いたいところはあるけれど。おおよそのところで、私はあなたに感謝しているし、それを伝えに来たの。それに、先にいなくなってしまったのは私の方だ」

そういったところで。重みをなくしたみたいに彼女の表情が緩むのを尊いことにかんじ、同時に疑問もわく。

「話を聞くと、君は随分遠いところからきて、そして随分古い人間であるような気がする」話のつじつまを合わせようとする場合。彼女の話している人物が私の師に当たる一老人のことなのだとは分かる。そうしてそんな彼と私が遠い昔に異国の地で出会ってこの場所に帰ってきたことを彼女が知っているのも分かる。そしてそのことを知っている彼女がこの場にいることだけに納得がいかない。

「どうかな?もう自分のことも分からないよ。だとしても私にはここに来た理由があるし」

十何年も昔のこと私は遠い異国の地にて、憔悴した一人の男性との邂逅を果たした。彼が話してくれた断片的ないくつかの物語が私の中に一本の線をもって落ち込む、いかにして自分はこの街で育ったか、そうしてどんな体験を経て今の地位を手にしたか、決して短くない時間彼の話を聞き続け、必死にその喉笛に食らいつこうと、彼の技術を奪おうと努めてきた私には彼女が誰なのか理解できた。


その国で先生は映画を撮っていた。その映画のラストシーンで主人公が街を去ってゆくところ、疑似的サブミナルとして二コマほどだけ、ある写真が映し出される。その写真は色々な憶測を呼んだ、そのことに関して『僕の友人の写真だ。名前はリサって言っていた。結局、最後までフルネームを教えてはくれなかったな。帰国するとき、彼女の母親が一緒に撮った写真をくれたんだ』先生はそう言っていた。

「なるほど、リサだった。ありふれた名前だからあんまり気にしてこなかったよ。そうだな、君は僕の恋敵だ」そしてあこがれてきた物語の中の登場人物だ。君の話をするときにあの先生がどれだけ生き生きと話したか。多くの人に愛されたその物語を盗むために私がどれだけそれを練習したか、それでも舞台で話す彼の真似をどれだけしても君との思い出がないから、私には語ることの出来ないものだった。

鐘の音が遠くから聞こえる。この山にけしてあるはずのない海沿いの教会の鐘だ、トンビは相変わらず高く飛んで地上にいる小さい動物を狙っている。ネズミたちはその視線からは決して逃れることができないことをいつか理解する。

「それでね異国の芸人さん。あなたに一つだけ手伝ってほしいことがあるのよ」

「漫画の世界に行きたいと願った子供が現実を手にしたように、私はここに立っているんだし後はなんでも手伝ってあげよう」

「大したことではないのよ。ただ約束を一つだけ果たしてほしいの。そして私にとってもそれは必要なことで。必要だけれども、私一人でそれを完遂させることは難しいのよ。だって、さっきまでその先生ってのと一緒だったんだけど、私一人だと私だって信じてくれなくて泣かされそうになるから。なんでもあなたのことをずっと待ってる。とか言って、動こうともしないのよ。見た目は変わらないのに年を取ったのね、偏屈で困るわ」

長い話に飽きたようで、娘は風に揺れるすすきと戯れていた、踏みつけようとしたり流れてくる穂先を飛び越えようとしたり、どこにそんな体力と興味があるのだろうか。飽きることなくいつまでも動き続けている。


「少し前にね、先生と山の中で約束をしたんだ」

私は昔を懐かしむように冬の出来事について短く少女に語る。たったそれだけのことがひどく重い罪であるかのように。

私が初めて海外に渡ったのは大学を離れてから、ちょうど一年たったころだ、その頃を思い出すと友に言えなかったことがいくつも浮かんでは消えてゆく。町の空気の中でそのことが不意に脳裏に細胞の裏に映るようにして浮かんでは。枯葉が落ちるように、あるいは軒先で吹き上げたシャボン玉を小さな飼い犬に割られるように消えてゆく。そのたびに生まれる小さな自責の念と苛立ちは石鹸水の苦みのようにだけ残りながら、友人に対して言い残した言葉に抱くのは、LEDライトに彩られた華やかな学徒たちからは程遠く離れた慚愧の念だ。それは先生に対しても同じで、私は随分と言い忘れたこともあったのだな、と山を下りてからいくつも思い返した。迎えに来いという言葉の意味をようやく理解できるようになったのは最近のことだった

「こんな形で、ここに来るとは思っていなかったけれどね」

「まあ、来てしまったんだから仕方ないわ。観光がてら先生にでもあっていくといいよ、ここを登ったところにいたから」私たちは歩き出した。


季節を越えて語り続ける老人は、確かにその山の上にいた。二人の立つすすき野原に置かれたよう岩石の上で今まで見たこともないくらい不味そうに煙草を吸う。作り続けた借金をすべて返済したかのような晴れやかな顔が印象的だった。

「あれ?思ったよりも近くにいたんですね、先生」

「やあ、近くにいたとは随分だな、てっきり君は僕の居場所を覚えていて、約束通り僕を迎えに来てくれたのかと思ったよ」

「ええ、ずっとそのつもりでいましたけどね。おかげで色々と見えるようになった気がします。それにしても、あっけなさすぎましたね、もっと山奥まで行ったつもりだったんですけれどね」笑いそうになるのをこらえようと、私は少しばかり乱暴に呟いた。

青年は岩の上に腰かける老人と、ここにきてようやく再開を果たす。

「しかし結末がこんなだと、つまらない喜劇です。無理してでも山頂に行っておくべきでしたね」

この最後になって、鹿鳴館最後の春に私は死者と踊る。

「いいんだ。八十年代みたいだろ?ひねって考えるのも飽きたからねあっけない位でいい、実はずっとこんなのをやりたかったんだ、それに今回、結末は関係ないんだよ。それにタカ、ここだっていい眺めだぞ、これだけで意味があるだろ」老人はそう言うと、不思議そうに少女の方へと視線を動かす。


この時の先生は、おおよそ話芸のプロとは思えない、ひどく素っ頓狂な声と顔をして

「それにしても、なんで君がいるんだ?」

 対峙する少女は毅然とした態度のままで

「いいじゃない。約束通りよ」

そう言うと老人から目を離しゆっくりと後ろを振り返る、尾根から登る春の風をいっぱいに浴びながら、雪解けの後のすすきの中、その黄金色に紛れるように髪をなびかせて静かに街を見下ろした。それからカメラのテープが切れるまでの数分の間、少女は満足そうに微笑んでいた。



何処からかブザーの音が響いて、映画館には静寂が戻ってくる。

 未編集のその数分間の笑顔を最後に、その映画監督の遺作、映画は終わりを迎えた。Finとも終劇ともいわず、唐突にフィルムは流れを止めた。

流れることのないエンドロールを待ち、灯りの消えた映画館の中、いつまでも椅子から立ち上がることなく星屑に照らされるスクリーンを見続けていた。男がつまらないホームムービーだと言った映画に、気が付くと私は涙を流している。つまらないラスト、陳腐なストーリー、どこにも泣く理由なんて見つからなかったのに、スクリーンの中で蘇る様々な事柄が私には悔しくて仕方がなかった。

「違いない、ホームムービーだな」呟くようにそう言った声には、もう誰からの返事も返ってはこない。そうだろう、こんな映画の上映に人が入るはずがない。

こらえきれず横を向いても、隣に座っていた男の姿はどこにもなかった。代わりにその席にはずっと前に放映された、古いアニメ映画のパンフレットがその席の上には置かれていた。




落語家は一人で勝手に納得をして話を進める

「透き通る、歌うように真っ直ぐに、その瞳だけは前をみていた。電車の来なくなった駅で、この世界から切り取られたような町で、信州の山奥で、その人の周りだけ空気が違っていた。吸い込んだ空気は、肺に収まることなく、そのまま突き抜けに何処までも入り込んでくる。

ただ真っ直ぐに、目的のために前だけを見続けるってのは、しようと思って出来るものとそれとは違いますから。それで結局前だけをみていて色々なものを取りこぼしてしまったなんてことになってしまった時には何も語りたくはなくなってしまうこともありましょう。


それでも自分の不幸ですら糧にしてでも、何度も語りたいと思うほど。物語が好きだ。それを話すことが好きだ。話芸家としてこんなに大切なことも無いだろう? どれだけ長い時間、客前人前で語ろうとも満足はできない。何年かかっても語っていたくなる。

それはどこか、頭のネジが飛んで行ってしまっているってそういうことなのかもしれませんが。

いや、でも、そう卑下しましたけれどね。これだけのお客を相手に話すんですから、頭のネジが飛んでいようと、意外と馬鹿ではやれませんよ? まあ。賢きゃ、尚やりませんな。


私は最後までこの舞台の中で、いつまでも帰らなかった古い友人を待ち続けました。彼はきっと春と共に帰ってくるような気がします。だからもう少しだけ待つことにしましょう。もう、何度目の春でしょうか? 私たちが高校を出てから、ずっと崩れていく故郷を見続けてから、彼が思い出を語ってから。彼の語る物語の中で私はずっと、その帰りをまちわびておりました」

落語家は話を終えるとまた深く頭を下げた。

「劇場のライトがゆっくりと消えてゆく。その灯りが消えたら今夜はもう誰もここを訪れはしないのだろう。ゆっくりと息を吸う。渋谷からもきっともう人は消えてしまった。それくらい夜も深まってきたんだ。ひどく心地の良い感覚だ、自分でも驚いたんだぜ、ジェス。まさかあんなことになるなんてな。

タカは俺のもう一つの目だったんだ、初めて実家の近くであった時は驚いたよ、会うたびにいろいろと意見を聞いていたんだ。ダメ出しも多くてな、小さい時から、どこか抜けているんだけど感性の鋭い奴だった。言ってほしい指摘をぴたりとしてくる奴だった。でも俺に似ていたからか、俺の撮った映画を全然好きになってくれないひどい奴だったよ。そんな小さいころから知っていたやつが大学三年の春になったら俺のゼミに来る予定だった。それが柄にもなく嬉しかったんだ。

でも、ダメだったよ。結局なにも教えてやれなかった。それにしても、お互いのなりたかったものと逆になっちまったな。俺も舞台に立ってはいたし、ジェスも一回、映画を当てたから、一概にそうとは言えないのかもしれないけれど。しかし君とタカが出会うなんて運命といおうか、神様はいるんだなと俺は思ったね、結局お前があいつを育ててくれたから、おかげで俺の少年時代の夢はタカが叶えてくれた。

でも、最期の時に、新東名で道をふさぐように滑ったトレーラーと、後ろからくるトラックに挟まれて、ギリギリ意識を失う前の苦痛の中で思ったのはな、ジェス。そんな落語家になりたいって少年時代の夢が叶っていない事よりも、仕事の方でまだ撮りたい映画を撮れていないってことだった。最高傑作になるはずだったんだ。久しぶりに自分の書いた脚本で、大学のゼミからタカを現場に呼べて、お前にも出てもらう予定で、それがつまらないものになるはずがないだろう? って、現場に入る前から楽しくなってしまうような作品だったんだ。

やっぱりお前も同じだったんだな。でも違ったのは、お前は最初から最後のつもりだったけど、俺は最後にするつもりなんて毛頭なかった。でも変なところで気が合ってしまうんだよな、昔から。

タカを取られてしまったからね、リサちゃんだっけ? あの子を借りたよ。どこか若いころの君に似ているな。優しい子だ、本当に血の繋がりはないのかと疑わずにはいられないね。それにしても君はいつもやり切れないな、ジェス。俺のことといい、彼女のことといい。

でも笑えたのはそこだよ、リサに君のことを聞いたんだそしたら「本物には会った記憶はほとんど無いけれど、父親ってあんなのだろうな」って言っていた。君自身、自分の父親に会ったこともない、ちゃんとした形で子どもをもったこともないのに、君は父親みたいなんだぜ? そんなに父性にあふれていたのか? 知らなかったよ。だったらなんで高校生の俺に、口酸っぱく大学に行けと勧めなかったんだ? それにもっと俺にも優しくしてくれるべきだったんじゃないか?

これはとてつもなく笑える事実だったし、あの子に口止めされたから、お前には絶対に伝えないでおくつもりだけれど。それにしても可笑しい。


でもジェス。結局オトナ帝国は逆襲を行うことはできなかったな、それはそうだな、仇討はもう法律で禁止されてしまったんだから。イエスタデイ・ワンスモアだ。いい名前だろう? そんな組織名に反さず彼らは静かに去っていったよ、まるで暗い森に消えていく木こりのようだった。

あんなにいい映画は他にない。だろう? ジェス? よせよ、あるなんて決して言わないでくれよ。それは俺にとっての話なんだから、君が何を言ったとして、そんなものあるはずなんか無いだろう。頼むからケチを付けないでくれよ、今はとても気分がいいんだ」

最近の清水はいつも昼の月が出ている。白くて大きな月だ。

「清水市がなくなってしまったなんて信じられるか? 何年も経っているんだろうけどなんだか俺にはまだ実感がわかないんだ」。

もっと多くのことを先生達から聞いておけばよかった。もっと映画の話をしておけばよかった。もっと色々なことを小説でも、落語でも、くだらない話をしたかった。現にこの映画の感想をどうしても伝えたいのに話すこともできない、先に立たない後悔をいくつも頭に浮かべてしまう。そうした思い出が、生まれては消えて、生まれては消えてを繰り返した。一体いつ涙が止まるのなんてことは、もう私にはあずかり知れない。


・35

気が付くと電車の中。



はぁ。

お帰りなさい。楽しかった?

いや疲れたよ。ばかいうなよ、楽しくないよ。

それにしても待ちくたびれたよ。ずっと居たのに多分気づいてないでしょ。

気が付いてない。

まあ仕方ないから、もう許してあげる。

すみませんね。


日本に来るのは初めてだ。

何処に向かっているの?

さぁ、多分生まれ故郷。

さんざんいたじゃないか?

いや、貴方の。

ああ。いや?なんで?

行きたかったんだ。

うーん。まあ。もう、いいか。

そうだ、その前に次の駅で一度降りるといいよ。待っている人がいるみたいだから。

だれ?

名前は知らない

何だそれ。

貴方を待っていることだけは知ってる。

誰だろうそれ?

いってあげな、きっと懐かしいよ?

僕の知り合いか?

ただの知り合いよりもっと懐かしい人。私と同じでずっとあなたを待っていた。私は駅弁でも食べながらここでまってるわ。黒はんぺんフライサンド。


お前も来るだろう?

今回、私はいけないのよ。

そうなの?


でも、帰ってきて?

そりゃ、もちろん。

でも、こんなところまで来るなんて、何があったの?

何にもなかったよ。二回、突然どうしようもないことがあって二回ともどうにも出来なかった。だから何にも無かった。



ふーん、良い人生だった?


どうだろう? 人生において二度も選択できることがあったのに、二回とも失敗した。


めったに無いチャンスなのに、もったいないね。


そうだな。でも、死人にキスするとか。そんな不適切な話じゃなくても、ちゃんと別れておけばよかった。正面から、死者を弔うって強さがね……なかったなと。


ふーん。どうでもいい

まじめに話してるんだよ。

しらないけど、私は楽しかったもの。

そうか、ごめんな。


だから、謝るのが違うんだけど。まぁいいや。いま幸せだし。そういえば風のうわさで聞いたのだけど、どうやら、今は私にも弟がいるらしい

知っているよ、いつかあの町にも、もう一回行こうか。

知っていたのか、お母さんのことだけ心残りだった。でも、幸せになったのかな。そうだね、いろんなところに行こう。トンネルを抜けたら雪国なんだね。

いや、違うよ。いまはもう。


・波の音。ガタガタと電車の走る音。


根府川の海と熱海の旅館群をこえて、駿河湾の向こうには突き刺さる伊豆半島の形がはっきりと見えた。郷里の山野越えて海沿いを走り続けた東海道線はゆっくりと故郷に近づいてゆく。

浮いた両足をばたつかせながらリサは嬉しそうに外を眺めている。

そんな景色を見ながら、老人は一度ため息をつくと、腰をずり動かして背もたれに深く自身の体重を預けた。東海道線は止まることなく走ってゆく。遮る物のない太平洋のうえで傾く気配のない太陽が爛漫と輝いていた。


・そして、少年はようやく、夏へと帰る。





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少年Aは孤独だけ @PostalUK

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