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スタジオでの練習を終えて帰宅し、コンビニで買ってきた夕飯を小雪と二人で食べて、俺はテレビの前でゲームのコントローラーをかちゃかちゃ動かしていた。最近、何をしていても集中できない。今こうしてキャラのレベル上げをしている最中も、あの居酒屋に現れた水瀬の姿が頭から離れなかった。頭では水瀬のことを考えながら、無意識に手元でコントローラーを操作して、ひたすらモンスターを倒し続けている。
「よいしょっ」と、小雪が当然のように、あぐらをかいていた俺の足の中に腰を落ち着けてきた。俺は小雪の身体を囲うように両腕の位置を直して、コントローラーを持ち直す。上半身に程よい重さと体温を感じる。ふと小雪の手元を見ると、またスマホで水瀬の動画を視聴しているようだった。登録者五万人規模の割には手の込んだアニメーションが使われたMV。スマホ画面を見つめる小雪の口角は少し上がっていた。どうしてそんなに楽しそうな顔をするんだろう。俺はため息を吐きたい気持ちを抑えて、ゲーム画面に視線を戻す。
俺と小雪の間では、これくらいのスキンシップをするのにいちいち許可はいらない。こうやって寝る前にだらだらしているときは大抵身体を密着させているし、毎日小さなシングルベッドに二人並んで寝ている。だけど俺たちはキスをしたことがないし、もちろんその先もしていない。お互いに大学生で、一年半も付き合っていて同棲までしているのに、俺は一度も小雪を抱いたことがなかった。
俺が実の母親に童貞を奪われたのは、十四歳のとき、両親が別居を始めてすぐのことだった。
母親は、俺の母親としての役目も、父親の妻としての役目も果たすことができなかった。その役目を果たすための能力が備わっていなかった。高校を卒業してからすぐに結婚して、それからずっと夫である俺の父親に養われて、大人になってもずっと家の中で生活してきた。一度も社会に出ずに、何の努力もせず、ただ家の中で静かに過ぎ去っていく日々を見つめているだけだった。
そんな母親が二十五歳のときに妊娠して生まれた子供が俺だった。両親が結婚した経緯を考えれば、母親が本当の意味で家族だと思えるのは俺だけだったのかもしれない。だからなのか、母親は俺のことを大層可愛がってくれた。だけどそれが駄目だった。母親は俺を一切躾けなかった。だから俺は小学校入学時点で箸が持てなかった。一人でトイレに行けなかった。一人で歯を磨くことができなかった。どうやって友達を作ればいいのかわからなかった。どうやって文字を書けばいいのかわからなかった。零歳の赤ちゃんとそう変わらない状態のまま、俺は小学校に入学してしまった。
幸いにして、小学一年生のときの担任教師がほとんどつきっきりで俺に生きていくための能力を叩き込んでくれた。だけど、一歩間違えればあそこで俺の人生がほとんど終わっていてもおかしくなかった。
俺が小学校に通い出すと、母親はまた家で一人になった。夕飯の食卓では笑顔を見せるけど、時折虚ろな目で空中を見つめていることがあった。高学年に進級した頃、俺が夕方に遊びから帰ってきても母親が家にいないことが多かった。夜の十時ごろになってやっと帰ってきた母親に、こんな遅くまで何をしていたんだと父親が問い質しても、母親は無表情で「まあ、色々」と答えるだけだった。
そして、実は母親が平日の昼間からパチンコ屋に通っていて、家計のお金を五百万円も擦っていたことが発覚し、父親が別居すると言い出したのが、俺が中学二年生のときだった。
俺は、このとき別居を決意した父親のことを、今でも恨んでいる。
父親があの家から出ていかなければ、こんなことにはならなかった。
父親は、あの女の依存先としての役割を、自分から俺へと押し付けたのだ。父親はあの女から逃げ出して、その後始末の全てを俺に丸投げした。
家から父親が出て行って数日後、俺は母親の夜這いに遭った。最初は訳がわからなかった。平日の深夜、気がついたら同じベッドの中に母親がいて、両目を赤く泣き腫らしていて、俺は母親のされるがままになるしかなかった。胃がぐちゃぐちゃに引き裂かれそうになるほど不快だった。何も気持ち良くなかった。地獄そのものだった。母親の、この世の終わりを願うような慟哭を聞きながら、俺はただただ耐えていた。全てが終わった後、自分の中の感情と呼べるもの全てを吸い出されてしまったような気分になった。頭の中が真っ白になった。泣き疲れた母親の寝顔を間近に見ながら、俺は気絶するように眠った。
その後も、俺は何度も母親に身体を求められた。もちろん最初は断った。またあの地獄に巻き込まれるなんて御免だった。すると母親は急に大声で泣き叫び出して、机の上の花瓶を俺に投げつけた。咄嗟に身体を避けたが、母親はバタバタと俺に近寄ってきて、割れた花瓶の破片で俺の胸を突き刺してきた。そこまで深く刺さらなかったから大事には至らなかったものの、肺に傷が付いてしまって、俺はそのせいで半年間サッカー部を休部しなければならなくなった。復帰した頃には中学最後の大会が間近に迫っていて、半年のブランクがあった俺は当然出場できなかった。
母親は気が狂ってしまったのだと思った。いや、俺を産んだときから既に狂っていたのだろう。自分の腹から俺を出産したそのときから、彼女は俺に歪んだ愛情を向けていた。だから彼女は俺のことを躾けなかった。思えば今まで、俺は母親に叱られたことが一度もない。彼女は俺が小学生だったときから、俺を息子としてではなく、一人の独立した男として捉えていたのかもしれない。
母親に歪んだ愛情を向け続けられたせいで、俺の中の愛の価値観はぶっ壊れた。だから俺は小雪の身体を求めることができない。自分の口と彼女の口を重ね合わせたいと思えない。
小雪に自分の過去のことは何も話していなかった。けれど小雪は強引にそういう行為をしようとはしないし、例の幼馴染のように、身体を求められないことを理由に別れ話を切り出すこともない。自分の彼氏はそういう男なのだと、理解してくれているんだと思う。
俺の胸に背中を預けて、小さく鼻唄を口ずさむ小雪を見下ろす。小雪は水瀬の曲を相当気に入っているらしい。
絶対、俺の曲の方が優れているのに。
俺はゲームのコントローラーを置いて、胸の中の小雪をぎゅっと強く抱きしめた。鼻唄が止んで、小雪の身体が硬直する。
俺のもとを離れないでほしい。
水瀬なんかに、利用されないでほしい。
「……どうした、の?」
小雪が怪訝そうに聞いてくる。普段、俺から小雪を抱き締めるなんて滅多にないから、困惑しているのだろう。
「ずっと一緒にいてほしい」
「心配しなくても大丈夫だよ」
小雪は優しげに目を細めて、俺の頬を撫でる。その手の温かさの中に溶けてしまいたかった。
これだけ身体を密着させていても、小雪が本当に自分のことを愛してくれているという確信を持つことはできない。小雪の身体の形はわかっても、心の形まではわからない。それは小雪の側も同じこと。これだけ親密なら身体を求めてくるのが自然なのに、俺は一切小雪の身体を求めようとしていない。
俺は小雪を不安にさせてしまっているのだろうか。俺のように何を考えているのかよくわからないバンドマンのもとにいるよりも、同性で音楽の実績もある水瀬のほうが良いのだろうか。
いい加減、小雪に過去のことを打ち明けるべきかもしれない。母親のことも、水瀬のことも。
そういえば、俺は水瀬にだけは母親のことを打ち明けたことがあるのだった。
あれは完全に失敗だったと、今なら思うけど。
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