2-8

 否、ジャフィーはまだ、なんだって出来ると思っているのに。呆然とジャフィーが見た先で、ルグレアは少し困ったような、子どもをなだめるみたいな顔でジャフィーを見下ろした。嫌だ、と、ジャフィーはそれこそ頑是ない子どもみたいに思った──いやだルグレア、そんな、物わかりの良い大人みたいな顔をしないで。

 もっとずっと、──……


「……そうだったな」


 けれどもルグレアは、ジャフィーの子どもみたいな言い草に頷きはするけれど、「いつかな」とさえ言ってはくれないのだ。

 嫌だ。何もかもが嫌だとジャフィーは思った。何かが決定的に変わってしまっていたのだと今更気づいた。

 何も変わらないと思っていたのに。ジャフィーは愕然と立ち尽くし、それから、すべてを飲み込んで頷いた。


「…………、…………わかった」

「ジャフィー?」

「ログーナとの和平を受け入れる、って言ってるんだよ。あんたがもう戦はしないって言うなら、それでいい。俺は、あんたが不利になることは絶対にしない。でも」


 戻さなければとジャフィーは思った。変わってしまったことが恐ろしかった。

 今ならまだ間に合うと思った。だってまだなにも生まれていない。だから。

 元に、戻さなければ。


「それとは別で、やっぱり俺、後宮にはいないほうがいいと思う。戦がなくたって仕事はあるだろ? あんたの子はだれでも産めるけど、俺より有能な魔術師はいない。……男の妃も、その妃の生んだ子も、魔術師の家であれば受け入れるだろうけど、大衆に受け入れられるとは思えない。そもそも、次代の王が魔術の才に溢れているかなんて、国民はきっと気にしない。ましてや、『戦狂い』だなんて言われる俺の子じゃあ、きっと大衆は不安になる。せっかく平和になったのに、って」


 戦狂いの。鏖の。──ジャフィーには、血腥い二つ名が多すぎる。

 ルグレアの子どもなんて生みたくない。王妃になんてなりたくない。そんなことじゃなく、ジャフィーには、ジャフィーにしか出来ないことがある。ジャフィーは天才魔術師だ。誰よりも、ルグレアの役に立つことができるはずなのだ。

 ルグレアに必要とされたいのだ。

 その己の本心に気づかないまま、ただ『元の関係に戻したい』がために必死に言い募るジャフィーの前で、ルグレアは「……あのなあ、」と繰り返して頭を掻いた。


「何を今更殊勝なことを……つーか、いや、言っただろ? 最初に。『お前が産むなら考えてやってもいい』って」

「え? まあ確かに……言ってたかな? でも、そんなの、無理難題を押し付けたかっただけでしょ?」

「……本気で……言ってるんだよなあ、お前は」

「当たり前じゃん」


 他にどんな理由があるのか。


「……これが駆け引きじゃねえんだもんな」


 恐れ入るよ、と、ルグレアがぼやく言葉の意味が、もちろんジャフィーにはわからない。

 ジャフィーはただ、理解ができないだけだ。ジャフィーという存在を最大限有効に使うなら、ここに押し込めておくのはおかしいという、当たり前の事実を指摘しているだけだと、ジャフィーはそう思っている。そうしてただルグレアの答えを待つジャフィーに、ルグレアは深々とため息を吐いた。


「……あのなあ」

「何回それ言うの?」

「……とりあえず、お前にはここにいてもらう」

「なんで」

「お前だって、別に、嫌じゃなかっただろ今まで。嫌だったらとっくに出て行ってただろ?」

「うん。だから、今、嫌だって思ったから言ってるんだけど」


 かつて、謹慎を命じられたとき、ジャフィーは命令を無視して好き勝手に出歩いていた。ジャフィーは天才魔術師で、ジャフィーを物理的に止められるものは誰も居ない。ジャフィーが本気を出して出られない檻はないのだ。

 けれども『後宮』という檻は特別だ。許可なく出たら、それは、皇帝への明白な叛意、寵愛からの逃亡を意味してしまう。だから筋を通そうとしている。ジャフィーは少し考えて付け足した。


「ああ、代わりの女が必要なら、うちの一族で良さそうなのを見繕っても……」

「──あ?」


 ひどく低い声で遮られ、その地を這うような響きに流石のジャフィーもびくりと震えた。怒らせた? なんで。目を瞬いた先で、ルグレアは自分を落ち着かせようとするように「あー、」と呻いた。


「あのな、……だからな、」


 そうして、一拍置いて、思い切ったようにルグレアは言った。全然言いたくないみたいに。


「……居て欲しいんだよ、俺が」

「……は?」

「ここに」

「……いや、別に、ここから出たって、あんたが呼べばいつでも来るけど?」


 というかそもそも普通に仕事で王宮には来るし、ログーナとの関係を悪化させる気ももうなくなったから、下手に腹を探られないようしばらくは大人しくしているつもりだ。首をひねるジャフィーの前で、ルグレアはいよいよ呻くみたいな声を出す。


「……だから……」


 なんでそんな物分りが悪いんだ、みたいな目で見られて心底心外だった。何もわからないジャフィーへ、観念したみたいにルグレアは言った。



「…………愛してる、から」



 ──は?


「……だから、お前となら子ども作ってもいいし、……あー、」


 とにかく、と、切り上げるみたいにルグレアは視線をそらした。


「ここに居ろ。いいな?」

「う、うん?」

「よし」


 言われたことがまるで咀嚼できていないのに頷いてしまったのは、今までの積み重ねの為せる技と言う他なかった。ルグレアがいいと言えば勿論いいのだ。

 勿論いい、のだが。


「……うん……?」


 どう考えても、そんな、嫌々だとわかる顔で言うことじゃあなかっただろう。

 理性がそう判断したのは、ジャフィーが頷いたのを見てあからさまに安心した顔をしたルグレアが、そのまま早々に立ち去って──誰もいなくなった部屋に、あまりの静寂を危惧したミトのノックが響いてからだった。




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