午後10時、とあるバーにて。
秋月一花
午後10時、とあるバーにて。
「こんばんは。お隣、よろしいかしら?」
午後十時。
仕事帰りに入ったバーのカウンターの隅に座り、私はマスターにフローズンマルガリータを頼んだ。
実はつい五分前、恋人が浮気している場面をこの目で見てしまったのだ。もちろん、その場に乗り込んで別れを告げてきた。浮気する男はいらない。
そんな私のところに、ひとりの女性――……女性、なのだろうか? 中性的な人が声をかけてきた。
「どうぞ」
他にも空いている席はあるのに、どうしてここに? と思いつつ、うなずく。
「ありがと。マスター、グランドスラムをお願い」
「かしこまりました」
先に頼んだフローズンマルガリータを渡され、「ごゆっくりお楽しみください」と微笑まれた。ここのマスターは髭が良く似合うおじさまだ。
そのあと、素早くグランドスラムを用意するのを見て、すごいなぁと素直に思う。
「せっかくだから、乾杯しましょ」
「そうですね」
出会ってから数分しか経っていないけれど、気分を変えるのにいいかもしれない。
そう思って「乾杯」とカクテルグラスを軽く持ち上げる。
フローズンマルガリータをスプーンで掬い、口に運ぶ。シャリシャリとした食感にテキーラの香りが広がり、ライムの爽やかさが心地良い。
カクテル言葉は『元気を出して』……今の私にぴったりな飲み物だと思う。
「あのね」
隣に座った人がこちらを見つめて、悪戯っぽく笑い「見ちゃったの」と耳元でささやいた。
見ちゃったって……なにを? と困惑していると、さらに言葉を続ける。
「あなたが彼氏をバッサリ振るところ」
くすっと笑う姿は、なぜかとても
「……それは、お見苦しいところを」
「そんなことはなかったわよ。アタシ、ああいう男嫌いなのよね」
姿も声も中性的だけど、女性なのかしら? と考えていると、私のことをじっと見つめてきて、グランドスラムをくいっと一口飲む。
グランドスラムのカクテル言葉は『ふたりだけの秘密』。
今日あいつを振ったことは、私たちだけの秘密ということか、それとも――……。
「明日はお仕事?」
「休みです。あなたは?」
「休みよ」
「じゃあ、ちょっと私に付き合ってくれませんか。失恋して傷心中なんです」
茶目っ気たっぷりに言ってみる。隣の人は目を丸くして、それからすぐに破顔した。
「いいわよ。今日はとことん飲んじゃって、あんなヤツ、忘れちゃいなさい」
こくり、と首を縦に動かして、隣の人にいろいろなことを話した。彼との出会いから付き合うまで、付き合い始めてからのことも。
こんなにたくさんの思い出があったのに、浮気している姿を見て一瞬で冷めてしまったことも話した。
隣の人は「うんうん」と相槌を打つだけで、決して私の話を遮ろうとはしなかった。ただただ、耳を傾けてくれた。フローズンマルガリータはすっかり溶けてしまったけれど、たくさん話したことで心の中がスッキリする。
「……ごめんなさい、初対面の人に愚痴っちゃって」
「いいのよ。スッキリした?」
首を縦に動かす。心の中のもやもやが、晴れた気分。
「なら、よかった。まだ飲めそう?」
「もちろん!」
「じゃあ、飲んじゃいましょ! アタシに奢らせて!」
「えっ、そんな……悪いですよ」
慌てて両手を横に振る。バーで奢ってもらう、なんて……しかも初対面の人に。
「いいのいいの。マスター、彼女にエバグリーンをお願い! アタシはカンパリソーダね!」
「かしこまりました」
寡黙なマスターは、必要最低限のことしか喋らない。でも、それがなんだか心地良くて、たまにきているバーだ。
いつもはショートカクテルで滞在時間も長くない。長時間いるのは今日が初めて。だからなのか、なんだか雰囲気に酔ってしまいそう。
エバグリーンのカクテル言葉は『晴れやかな心で』、カシスソーダのカクテル言葉は『あなたは魅力的』。
この人がカクテル言葉を知っているかどうかわからないけれど、これからの人生を応援してくれているようで、なんだか優しい気持ちになる。
その日はたくさん話して、ほろ酔い気分で帰宅した。帰ってから気付いたのだけど……私のバッグの中に、白い羽が入っていた――……。
この羽、いつ入ったんだろう……?
◆◆◆
「もー、本当、命令とはいえイヤになっちゃうわねぇ」
「お疲れさまですね。こちらをどうぞ」
マスターから渡されたアプリコットクーラー。カクテル言葉は確か『素晴らしい』だったわね。
男性とも女性とも思わせる容姿のアタシ。それはそうだ。アタシは人間ではないのだもの。
天界から降りてきた天使。それがアタシの正体。人と人を結びつける仕事をしているの。でもね、ときにはこうやって、恋人を別れさせてしまうこともある。
上からの命令で! 下っ端のアタシは命令に逆らうことなんてできないし、本当イヤになっちゃう。でも、これも仕事なのよね。
きっと彼女は、これからもっと素敵な人と出会うわ。上がそう言っていたのだから、間違いない。
こっそりとアタシの羽をバッグに入れちゃったけど、大丈夫だったかしら?
せめて、彼女が幸せになることをひっそりと祈るくらいは……許される、わよね?
どうか、彼女が運命の人と幸せになれますように――……。
そう祈りながら、アプリコットクーラーを飲み干した。
午後10時、とあるバーにて。 秋月一花 @akiduki1001
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