一色の話
実家に帰るのはいつぶりだっただろうか。
在来線に揺られながら、車窓から外を眺める。
何が見えるわけでもないが、心地良い時間だった。
いつもなら移動時間は本を読んでいるのだが、何故だか今日は落ち着かなかった。
何故、というほどのことでもないか、と思い直す。
要は気が張っているのだ。
実家はあまり好きではない。
仲が悪かった父はもう鬼籍に入っているが、そこには母と兄夫婦とその娘が暮らしている。
同じ家に暮らしている人を家族と呼ぶのであれば、僕にとってはそこはもう他人の家という感覚だった。
早めにお暇しようと思う。
光に促されるまま目を閉じて、ぼんやりと昔のことを思い出す。
あれは確か小学六年生の、夏休みが始まった頃だった。
晴れの陽が水面に眩く反射していて、あぁ、なんと言うのだったか、あの光を適切に表せる言葉はまだ日本語にはない。
しばらく頭の辞書を手繰っていたが、やはり良い表現は思いつかなかった。
ともかくあの光が脳裏に焼き付いていて、離れない。
目を閉じるだけでいつでもあの景色に帰ることができる。
ふわりと塩素の匂いがしたような気がした。
────────────────────────
「千里くん、遊ばないの?」
声をかけられて、本から目を上げる。
「雪乃ちゃん」
坂井雪乃、二つ年上の幼馴染だ。
おっとりとした顔に、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「お兄ちゃんたち、あっちで遊んでるよ」
「別に……」
示された方を見て、僕は肩を竦めた。
今日は中学校のプール開放の日だった。
自分はまだ小学生であるし、プールなど好きでもないから行く気はなかったのだが、部屋に篭ってばかりいるので見兼ねた父親に、兄に着いて行くように言いつけられてしまった。
それで来たは良いものの、着替える気すら起きず私服のままプールサイドで本を読んでいた。
兄もどうせそうなると思っていたのだろう、こちらには構わず遊んでくれている。
「ふぅん、じゃあ私もここで休もうかな」
タオルを身体に巻き付けて、寒い寒いと言いながら雪乃は隣に腰を下ろす。
「何読んでるの?」
「変身。カフカの」
「あ、虫になるやつだ」
「うん」
「読んだことないなぁ。今度貸して」
「良いよ」
面白い返事ができているわけでもないのに、雪乃はにこにこと楽しそうに微笑む。
変わった人だと思っていた。兄ですら構いもしない自分にこうして声をかけ、退屈な会話にも苛立つことも失望もせず笑ってくれる。他の人とはどこか雰囲気が違う。他人は苦手だったが、雪乃のことは嫌いではなかった。
「千里くんって本当に本好きだよね」
「そうかな」
それ以外に好きなものがないだけだとは言えなかった。
本は好きだ。
一人と一つの対話で完成するから。
誰とも何も分かち合わなくても良い、自分と作者だけの世界。そういう世界にいると落ち着くような気がした。
「……どんな本でも好き?」
雪乃が少し躊躇いながら聞く。
質問の意図がわからず、僕は首を傾げた。
「どんなって?」
「ジャンルとか……上手さとか?」
「ジャンルには頓着しないし、上手いか下手かなんて僕にはわからないよ」
そこまでよくできた読者なわけではない。ただ好きだから漫然とページを繰っているだけである。
本が好きと言うよりは、文字や言葉が好きなのかもしれないと最近は思っているくらいだ。
誰かが生き、考えて、生み出した言葉がそこにある。ページを開けばそれらと対峙することができる。これは何より幸福なことだった。
「ね、今からの話、内緒ね」
雪乃がふっと声を潜めて言う。
それがあまりに真剣な様子に見えて、僕はぱたりと本を閉じた。
「何?」
「実はね、私ね」
ふふっと笑みをこぼし、内緒話のように耳に手を当てて、小さな声で彼女は言う。
「小説書いてるの」
それは何よりも秘めやかな開示だっただろう。
驚いて目を瞬かせる。
「いつから?」
「まだつい最近よ。でね、良いものが書けたら千里くんに読んで欲しいの」
「僕に?」
なんでまた、と思う。
雪乃にはいくらでも友達がいるし、それこそ兄にでも見せてやったほうが喜ばれるだろうと思った。
自分だけが知っていることだが、兄は雪乃のことが好きだ。
僕では上手い褒め言葉も、役に立つアドバイスも言えないだろう。
「だって千里くん、たくさん本読んでるから一番詳しいかなぁって」
「別に詳しくはないよ」
「でも私がどんなもの書くか、興味はあるでしょ?」
それは自信家な言葉のようで、僕の本質をよく捉えている言葉だった。興味、好奇心、ないように振る舞っていても胸の底にあるもの。
図星を突かれて頬が少し熱くなった。
「興味はあるけど……興味本位で良いの?」
「もちろん。私高校入ったら文芸部になるんだ」
「雪乃ちゃんって本好きだったっけ?」
そんなイメージはなかったなと尋ねてみる。
雪乃はうーんと首を捻って、それからまた照れたように笑った。
「読むより書く方が好きかも。千里くんも書いてみない?」
「書けないよ」
「書けないってことは、挑戦したことあるの?」
また言われてぎくりとする。
妙に勘の良い少女だ。
「……あるにはあるけど、形になってない。短いし」
「えー、私のもめっちゃ短いよ。ねぇねぇ、私の見せてあげるから千里くんのも見せてよ」
「無理だよ」
小説を書こうとしたことはある。
その度に気付かされるのは自分の経験の浅さと物知らずだ。これまで生きてきたたかが十二年、されど十二年、ろくなものを積み上げてこなかった罰だと思う。
例えば青春小説でも、きらやかな日々を知らない人間が書けば嘘になる。どこまで上手く嘘をつけるかが小説家の仕事だと言う人もいるけれど、一を百にする嘘はつけても、ゼロを一にする嘘は難しい。
これから歳を重ねれば、もっとまともなものが書けるようになるのだろうか。
いや、小学生でも良いものを書ける人は書けるのだ。
結局は才能と、適正。
まだ諦めるつもりはなかったが、ぼんやりとそんな言葉が心の中に浮かんでいた。
「そもそも人に読ませるために書いてないから」
「読む人がいて初めて本って完成するんじゃないかな」
「未完でいいし」
子供っぽい拗ね方だと自分でわかっていながら、そんなことを口走る。
雪乃相手にはあまり自己開示をしたくなかった。
いや、誰に対してもそうなのかもしれないが、彼女に気を許すと自分の世界の中心になってしまいそうで、それが怖かった。
坂井雪乃は賢い女性だ。鋭敏で繊細な感性を持って世界を見ている、普通では手の届かない人。たまたま家族の都合で近しく育ったが、そうでなければ完全に別の世界の人だっただろう。
兄が雪乃のことを好きな理由はよくわかる。
何かきっかけがあれば、自分もそうなってしまうだろうという淡い確信もあった。
本当のことを言えば、彼女の小説を読むのも怖い。
彼女の内側に触れれば、知らなくても良いことまで知ってしまうだろう。
「私、千里くんとはもっと仲良くなりたいんだよ」
雪乃が冗談めかした口調で言う。
「千里くんって、お話ししててもいつもちょっと遠くにいるみたいなんだもの」
「……そうかな?」
「そうだよ。ね、あっちでみんなと遊ぼう」
僕の手を取って雪乃が立ち上がる。
日差しの下に一歩引き寄せられ、あぁ眩しいなと思う。
まだ少し弱い夏の日差しが、雲の隙間からプールの水面に反射している。
今日は夏にしてはずいぶん肌寒い日だった。
雪乃がにっこりと微笑む。
僕はそのまま彼女の手の中から自分の手を抜く。
淡くも光り輝いている世界の中心。
そこに僕の居場所はないのだと、はっきりそう感じていた。
薄暗がりの、扉を一枚隔てた向こう側が、僕の世界だ。
────────────────────────
いつまでが回想でいつからが夢だったのかはわからない。
どちらにせよ思い出したくないことまで思い出してしまった。
ぼんやりとした頭のまま、駅のホームに降り立つ。
「センチメンタルになりすぎだな。僕も老いたか」
はぁ、とため息をついて改札に向かう。
片田舎の小さな駅には降り立つ人も少なく、目当ての人影は探す間もなくすぐ見つかった。
「雪乃さん、新ちゃん」
少し離れたところから声をかけて手を振る。
「あ、おじさん!」
五歳になったばかりという、小さな少女がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
一色新、僕の姪にあたる少女だった。
「ごめんね千里くん、わざわざ遠くまで来てもらって」
雪乃が申し訳なさそうに微笑む。
「いえ、むしろ迎えに来てもらってすみません」
「新が行きたいって聞かないもんだから、気にしないで」
「おじさんしってる? きょうね、わたし、おたんじょうびなの」
「もちろん。だから来たんだよ」
幼い姪の頭を撫でれば、くすぐったそうに身を捩る。
両親によく似て愛嬌のある子だった。
以前親戚の結婚式に行った時に遊び相手になっていたのだが、何故だか妙に懐かれてしまった。誕生日パーティーにはぜひ来て欲しいという彼女からの要請があり、断るに断りきれず今に至る。
一歩外に出てみれば、穏やかすぎる春の日だ。終わりに向かっている桜の花びらがちらちらと空を泳いでいた。
「ここは変わりませんね」
何年も前に暮らしていた、ずっと見慣れていた景色。記憶の中と寸分違わないその姿は、時間が止まっているようで奇妙ですらあった。
「相変わらず古い町よ。なくなるものはあっても、新しくできるものはないわ」
「寂しいようだけれど、安心しますね」
思ってもないことを言ってみる。
世間話などこの調子で良いだろう。
実家に愛着がないように、故郷にも愛着を感じたことはなかった。
大学入学を良いことに勘当同然で家を離れてから、必要に迫られた時以外には来もしなかった町だ。父の葬儀と、兄の結婚と、本当にそれ以外にいつ来たのか思い出せもしない。
やはり人間として何かが欠陥しているのだろうなと思う。
十人並みの郷土愛も郷愁も持ち合わせていない。
雪乃が何かを思い出したようにふふっと笑う。
「でも千里くんは、この町のこと嫌いだったわよね」
「……僕、そんな話しました?」
「ううん。直接聞いてはいないけど、そうなのかなぁって」
「別に嫌いじゃないですよ」
好きでも、嫌いでもない。
心底どうでも良いと思えていた。
もっとも、ここで暮らしていたときは嫌いだったのかもしれないが。
「千里くんって大人になっても変わらないね」
雪乃がそんなことを言う。
変わっていないだろうか。彼女が知っている高校までの自分とは、もうずいぶん遠く離れたような気がする。
「そうかな。変わったと思いますよ」
「こんな大人になるんだなぁっていう想像通りの大人になった気がするよ」
「どんな大人?」
面白くなって聞いてみる。
彼女は自分をどんな人間だと思っているのだろうか。
雪乃はしばらく迷うように顎に指を押し当てていたが、やがてまたいつものような笑顔に戻った。
「優しい人なのは確かだね」
僕は黙って笑顔を返した。
昔は彼女も、もっと鋭敏な人間ではなかっただろうか。間違っても無関心と優しさを履き違える人ではなかったはずだ。
社交辞令なのか、彼女が本気でそんなことを信じているのか、どうにも判別がつかなかった。
まぁ、どちらでも良いかと思い直す。
彼女が自分をどう誤解していようと、知ったことではなかった。
「雪乃さんは変わったね」
少し感傷的な気分になりながら言う。
「そう?」
「うん、別人みたい」
会う度に気付かされる。
もう昔の彼女はどこにもいないのだと。
そのほうが諦めもつくから、それで良いのだ。
繊細で、傷つきやすく、豊かな感受性だけで前を向いていた思春期の少女はもうどこにもいない。
彼女はもう、本を書かない。
だからもう自分の人生には関わりのない人なのだ。
────────────────────────
数年ぶりにくぐる実家の門はやけに古ぼけて見えた。
僕の実家は寺だ。
寺といっても小さなもので、浄土真宗なので戒律もない。兄が跡を継いでくれたので、自分はもっと何もなかった。
「ただいまー」
新が大きな声をあげて、部屋の中に駆け込んでいく。
「パパ、おじさんきたよ」
「おう。おかえり」
奥の部屋から、玄関口に兄が姿を見せる。
「久しぶり、兄さん」
「本当にえらく久しぶりだなぁ」
何がおかしかったのかそう言って笑うと、兄は二階の方を指差した。
「母さん二階にいるから、顔見せてやってくれ」
「うん」
本当に似ていない兄弟だと自分でも思う。
顔立ちも、性格も、どこをとっても似ている部分など何一つなかった。
時々自分が兄のようだったらと思うことがある。
まぁそんなのは仮定の話でしかなく、例えなれたとしてもごめんだというのが結局の結論ではあるのだが。
それでも兄のようになれたのならば、幾分かは楽な人生だったかもしれない。少なくとも他人との融和で悩み暮らすようなことも、本を人生にすることもなかっただろう。
二階に向かおうとした僕に、兄が申し訳なさそうに声をかける。
「悪いな、嫌なこと言われても聞き流せよ」
「わかってるよ」
母は昔から偏屈な人間だったが、最近は輪をかけて酷くなっていると聞いていた。家を継いで孫の顔まで見せてやった兄にその態度なのだから、早々に家を捨ててろくに連絡もしない不肖の次男への態度などは推して知るべしだろう。
軋む階段を登りながら、憂鬱に浅く息を吐く。
母の居室の戸を叩けば不機嫌そうな声が返ってきた。
「いないよ」
「いるじゃない、千里です。帰ったので顔が見たいと」
「お前が私の顔を見たいとなんて思ってないことは知ってるよ」
「入るからね」
母の言葉は無視して扉を開ける。
そこでは昔の印象よりもひとまわり小さくなったような母が、部屋の隅に陰鬱な顔で座り込んでいた。
胸の底がざらりとするような、嫌な感覚が広がる。
父が健在だったときは、もっと背筋の伸びた人であったのに。
「久しぶり、元気してた?」
「お前は私が病気になったとしても顔も見せない子だろう。知ってるんだよ」
「そう意地悪言わないで」
全く母の言う通りである。
病気どころか危篤と言われても葬式までは顔も見せないだろう。
自分はそういう人間で、そういう家庭だった。
「全く、母さんは何がそんなに不満なの?」
部屋の片隅に置かれていた椅子に腰掛けて尋ねてみる。
母はフンと鼻を鳴らして、不機嫌そうに首を振った。
「こんな生活で不満じゃないことがあるかね」
「雪乃さんと仲悪いわけじゃないんでしょう」
昔から、あの子が嫁に来てくれるなら安泰だとよく言っていた母のことだ、嫁姑の関係がそこまで悪いとは思えない。
「私が嫁をいびる姑に見えるのかい」
「見えないから不思議なんだよ。父さんがいないのはそんなに寂しい?」
「お父さん? あの人は外面ばっかり良くて、家にいても何の役にも立たなかったよ」
段々と自分が飽きてきたのを感じる。
この調子の人と穏やかに話を続けるのは難しい。会話というものは双方の協力があって成立するものだろう。
黙り込んだ僕に、母が馬鹿にしたように笑う。
「はは、あんたも東京やらに行ってつまらない人間になったね。世間話なんて興味もないような顔してた子供がまぁ」
「だって僕と母さんが話せることなんて世間話しかないでしょう」
面白い会話を楽しめる相手ではないのだ。
母親というのは子供をよく見ているもので、彼女は昔から僕の特性に気がついていたような気がする。人との交流を避け、本ばかり読んでいる自分に何もうるさく言うことはなかった。
父はついぞ最後まで僕のことを理解することなく死んでいったが、最後まで衝突があったということは、父なりに僕のことを諦めていなかったということだろう。
母はというと、早々に僕を矯正することは諦めたようだった。
僕が僕を諦めたのと、同じように。
「お前はもう少し面白い人間になると思ったけれどねぇ……」
ぶつぶつと口の中で文句を言う母に苦笑をこぼす。
「僕に何の期待をしていたのさ」
「小説家にでもなってくれればお父さんもお前を認めただろうにね」
そういう権威主義の父だから嫌いだったのだといえば、伝わるだろうか。
伝える意味もないので言葉にはしなかったが。
「編集者も良い仕事だよ」
特に自分にとっては、と心の中で付け加える。
まさに天職と言っても良いだろう。本のことばかり考えていても誰からも何も文句も言われない。何より本が作られる過程に深く携わることができるのが良かった。
しかし、こんなことを母に説明しても伝わらないだろうから、これも言葉にはしない。
「お前は昔から変な子だったよ。それがまぁこんなに普通になっちゃってねぇ、つまらないったらないね」
母が遠くを見て言う。
外面ばかりは良くなったが、中身はその変な子のまま、変われていないのだと言えば母はどんな顔をするだろうか。
結局母も僕の外側しか見ていないのだろうと、淡い失望のようなものが胸の中に広がる。
誰も本当の意味では僕を理解し得ない。
あるいは、理解した人から去っていく。
誰かと分かり合えるなどという希望はもはや抱いてはいなかったが、それでも血を分け僕を育てた人ですら僕をわからないのであれば、それはもう本当に絶望的なことなのだとわかってしまう。
この宇宙の中で、孤独を分け合える人はそう多くはない。
同じ孤独に生きてくれる人など、見つかるはずもないというのに。
矛盾だと指摘されて気がついた自分の心に、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「何笑ってるんだい、薄気味悪い子だね」
「嫌なこと思い出しただけ」
「何考えてるのかわからないところだけは昔からだねぇ」
「そんなに変なことは考えてないよ」
考えるということは、僕にとっては日常の延長線上にある。
いつも取り留めのないことを、それか本のことを、考えている。頭が完全に休まっているのは本を読んでいる時と寝ている間だけだろう。考えには大抵答えは出ない。だから果てがなく続く。
おかげで退屈に悩まされたことはなかった。
「でも母さんも何考えてるのかわからない人だよね」
思いついて言ってみる。
母はまた不快そうに鼻を鳴らした。
「なんだい、私が変だって言いたいのかい」
「いいや。僕は母さんに似たのかなと思って」
「ふん、お前は誰にも似やしなかったよ」
そうだろうか。
少なくとも母の偏屈さの多少は、自分も引き継いでいる自覚があった。
「ま、僕が不肖の息子でも、兄さんがいるんだから良いでしょう」
つまらない話は終わりだと立ち上がる。
「新ちゃんの誕生日パーティーやるんだって、母さんも降りてきなよ」
「女孫の誕生日なんて祝ったってねぇ……」
「くだらないことを言うのはやめなよ。母さんにとっては唯一の孫でしょう」
「お前も結婚くらいしてくれても良いんだけどね」
それにはさぁと肩を竦めるだけに留めておいた。
母も本気で自分が結婚などできるとは思っていないだろう。
「跡取りがいないと困るんだよ」
まだぶつぶつと文句を言って動く気配も見せない母に、思わずため息をこぼす。
「こんな古寺、潰れたって仏様も気がつきやしないよ」
「この不信心者が。お前を都会にやったのは失敗だったね」
「はは、潰れちまえって言わないだけ有難いと思ってくださいね」
新が女の子で本当に良かったと思う。
厳密に言えば尼僧になる道などもあるのだろうが、男の子として生まれるよりは人生も縛られないだろう。兄も新に跡を継がせる気はないようで、そこだけは少し安心していた。
そんなことを思うのは、自分一人、兄に全て被せて逃げた負目なのかもしれない。
東京では何にも縛られない人間として生きていける。
それがどうにも、この土地に帰ってくると調子が外れて仕方なかった。
生きることの難しさを感じさせられる。
自分の世界には本さえあればそれだけで良いと言うのに。
────────────────────────
「母さんまだ機嫌悪かったか?」
部屋の飾り付けをしながら兄が言う。
僕は苦笑いを浮かべて首を振った。
「まぁまぁ。降りてくるようには一応言っておいたよ」
「おばあちゃん、ごきげんななめ?」
新が小さな頭を精一杯上に向けて尋ねてくる。
「新ちゃん見たらご機嫌になるよ、大丈夫」
適当に何の信憑性もないことを言って頭を撫でる。
こうしておけば騙されてくれるというのは、小さい子の良い特性だった。
「何か手伝おうか?」
「いや、新のこと見ててくれ」
「わかった」
子供の相手はあまり得意ではなかったが、この子ならばまぁうまく折り合っていけるだろうと思う。
身内の贔屓目を除いても、新は行儀の良い子供だった。無闇に走り回ったり、大きな声で騒いだりもしない。物静かな気質なのだろうと勝手に思っていた。
「新ちゃん、何かして遊ぶ?」
「えっ、いいの?」
パッと笑顔になって、うーんと考え込むように唸る。
物静かでもこうして子供らしさはある。見ていて不安にならない子だった。
「あっ、それじゃあ、おうちのなか、あんないしてあげる!」
良いことを思いついたと言いたげな笑顔にこちらも笑ってしまう。
「おい新、この家のことは叔父さんもよく知ってると思うぞ」
兄が笑いながら口を挟む。
その意味はわからなかったのだろう、新はこてんと首を傾げると、あとは忘れてしまったかのように僕の手を引いて歩き出した。
「こっちはおにわでね、こっちがあらたのおへや。あらたね、おへやもらったの!」
五歳の誕生日プレゼントといったところだろう。
木造の和室には似合わない、可愛らしい家具が小さな部屋に詰められていた。
ここは以前は兄が使っていた部屋だったと思った。父の部屋に兄が移って、ここを新のために明け渡したのだろう。
入り口の柱に身長を刻んだ落書きがあるのを見て、少しだけ笑った。
随分と時が経ったものだなと思う。
古臭く、緩やかに退廃へと向かっていく気配しかなかったこの家が、今では小さな少女が駆け回る家になっている。
良い変化だった。
気詰まりな家がごく普通の家庭に変わっていく。
その過程で、母のように、取り残されるものが出てくるのだとしても、その変化は希望であるはずだった。
こうして異常だったものは正常に戻っていく。
永遠に変わらないように思えても、いつかは必ず変わるとするならば。
案外時が経てば、今の苦悩も馬鹿馬鹿しいものと思えるようになる日が来るのかもしれない。
生来の人格の欠陥と思っていても、埋まる日が来るのかもしれない。
いつか普通に人と打ち解けて、人に馴染んで、人の中で暮らせるようになるのかもしれない。
だとしたら、それはなんて。
「おじさん?」
新の両目がこちらを見上げていた。
僕はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、何でもないよ。素敵な部屋だね」
「でしょ? でね、ここが、はいっちゃダメのへや」
新が一つの扉を指さす。
「入っちゃ駄目なの?」
「うん。ママがダメって」
「でも叔父さんは入っても大丈夫だと思うな」
懐かしい扉だった。
そのまま戸を開けると、埃っぽい空気と共に見慣れていた景色が飛び込んでくる。
「大丈夫だよ、叔父さんの部屋だから」
おっかなびっくりといった様子で背に隠れてしまった新に、前を見るように促す。
所狭しと本が並べられたその部屋は、間違いなく自分の青春時代を閉じ込めたその部屋だった。
「ほん、たくさんあるね」
「うん。沢山ある」
書棚の埃を払って、手近なところにあった一冊をパラパラとめくる。
「新ちゃんにはまだちょっと難しいかもしれないけれど、好きな時に入って読んで良いからね」
「いいの?」
「もちろん。本は読まれるためにあるんだから」
中高生の間に、本気でこれだけの本を読んだのだなと、自分でも妙な気分になる。
若い頃は本の中に自分の答えがあるのだと思っていた。
このどうしようもなさを解決してくれる本がどこかにあるのだと、本気で探していた。
何も見つかりはしなかったが。
自分と完全に同じ他人はいない。
全く簡単な事実である。
それに気がつくまでに多くの時間を費やしたものだと思う。
だがそれが無駄な時間だったとは思わない。
自分の全てを解決するような答えは得られなくても、生き方を得ることはできた。それで十分だった。
新も、この子もきっといつかは自分の人生に悩むだろう。
そうなった時に何かが、ここにあるどの一冊でも、彼女の助けになれば良いと思った。
「新ちゃんは本は好き?」
「うん、だいすき。まだむずかしいのはね、よめないんだけど」
「叔父さんはね、本を作るお仕事してるんだよ」
「そうなの?」
この言い方ではきっと製本と間違えられただろうと思ったが、訂正するほどのことでもないので、そのままにしておいた。
「大きくなったらお仕事の話してあげようね」
「ねぇ、じゃあ、あらたもほんつくれる?」
キラキラとした瞳に見据えられて、思わず目を瞬かせる。
それは何の他意もない、純粋な問いかけだった。
拙いなと、自分の中に焦りを感じる。
子は親と同じにはならない。
能力も、感性も、必ずしも遺伝しない。
そうとわかっていても、じわりと嫌な焦りが脳の片隅を支配していた。
もしこの子が小説家になったら。
いや、もしこの子を小説家にできたら。
自分がついぞ読むことはできなかった、彼女の完璧な作品が、手に入るのではないだろうか。
自分が滅多にないほど狼狽えているのがわかった。
こんな小さな子供に、自分は何を期待しようとしているのだろうか。
心底まで知り尽くしたと思っていた、己の浅ましさに慄く。
最低だと思っていても、人間はどこまでも最低になれる生き物らしかった。
はっきりとわかっていることがある。もしこの子が中高生であったのなら、自分はこの子を唆すことを躊躇わなかっただろう。
惜しいなと思う。
そうであったのなら、自分は何も感じずに済んだのに。
「大きくなったらね」
それだけ言って、また小さな頭を撫でる。
最悪の一歩手前で生きているのだと、そう強く実感させられた。
自分の気分一つで、その一歩は越えられてしまう。
「戻ろうか」
新の手を引いて居間へと帰る。
その小さすぎる手に、良心が痛むのを感じていた。
────────────────────────
時刻は二十時を回っていた。
パーティーも終わって、新を寝かしつけてきた兄が居間に戻ってくる。
本当ならばもっと早くに帰ろうと思っていたのだが、新に泣き疲れて帰る機会を失っていた。
「やっと寝たよ。明日起きてお前がいなかったらまた一騒ぎだな」
「またいつか顔見せるよ」
「いつかかよ」
いつと約束することはできなかった。
他人から好かれるのは有難いことだが、そこに本が介入しないのであれば深く関わるべきではないだろうと思っていた。
どうせ自分は何も返せない。
「盆暮正月くらいで帰ってきてくれると良いんだけどなぁ」
「繁忙期の労働要員としては僕は使えないよ」
雪乃がお茶を淹れてきてくれて、大人たちだけで息をつく。
母は一度は降りてきたものの、パーティーが終わるとまた不機嫌そうに二階へと戻っていってしまっていた。
「でも本当によく懐いちゃったわよね」
雪乃が困ったように笑う。
「迷惑かけてないと良いんだけれど」
「大丈夫ですよ。小さい子は好きですし」
嘘ではあるが、吐いても良い嘘だろうと思った。
「そういえば、プレゼント本当に絵本で良かったの? もっと子供が喜びそうなものの方が良いかと思ったけれど……」
「大丈夫、大丈夫。全然気を回してくれなくても良かったのに、ありがとうな」
実家にある絵本はだいたい覚えていたから、なさそうなものを選んで買ったのだが、意外と新には好評であった。
人に物をあげるときに本以外のものを選んだことがないというのは人生の盲点だった。
「新、寝る前に大きくなったら叔父さんに本作ってもらうって騒いでたのよ」
雪乃は笑いながらそう言ったが、曖昧な返事を返すことしかできなかった。
小さい頃の些細なこととして、速やかに忘れ去られてしまうことを願う一方で、そうはならないだろうという淡い予感があった。
もし大人になった彼女が本を書きたいと言ってきたとして、その時に雪乃のことを通さずに彼女を見ることができるだろうか。
今は全てが考えすぎでしかないが、案外時間というものは早く過ぎ去ってしまうかもしれなかった。
「なんかまた、暗いこと考えてる?」
雪乃に顔を覗き込まれて、誤魔化すように笑みを浮かべる。
「ちょっと疲れたかも」
「いやぁ、今日途中からずっと元気ないよお前。どうしたの?」
兄までも心配そうな顔をしてこちらを見る。意外と彼も目敏かったことを忘れていた。
「最近元気ないだけだから、気にしないで」
気にされるようなことを言って誤魔化す。
兄と雪乃は顔を見合わせたが、それ以上は何も尋ねてこなかった。
最近元気がない。
まぁ、嘘ではない。
一つの夢が終わった後は、いつも通りに生きるのが多少難しくなる。
だからいつもなら断るはずの実家参拝なぞをやる羽目になっているのだろうなと思う。
寂しさに絆されているようでは、僕もまだまだ人並みだ。
しばらく二人の会話を穏やかに聞いていたが、このままでは駄目になるなとそんな予感がした。
これ以上人の気配に馴染んでしまう前にと立ち上がる。
「そろそろお暇するよ。電車の時間もあるし」
「そうか。泊まっていけば良いのに」
「別の機会にするよ」
夜の外気はまだ冷たかった。
玄関口で振り返って、見送りに来てくれた雪乃の顔を見る。
何年経っても変わらず、美しい人だった。
「雪乃さんは、もう本は書かないの?」
ずっと前に尋ねたことを、もう一度尋ねてみる。
雪乃は驚いたように目を丸くして、それから困ったように笑った。
「書かないわ。だって私、普通のおばちゃんだし」
「……そっか」
収まるものが、収まるべき場所に収まったと思う。
そして、決して交わらない。
「じゃあまた」
または来ないかもしれないと思った。
それで良いと思えていた。
もう未練はない。
結局わかり合えない僕らは、わかり合えないまま別の生き物として、別の世界で生きていくのだ。
もしかしたら僕も、いつか普通に人と打ち解けて、人に馴染んで、人の中で暮らせるようになるのかもしれない。
だとしたら、それはなんて。
それはなんて気持ち悪いことだろう。
人が毒虫に変身するように、毒虫が人に。
いつかその変化が身に訪れるのだとしても、あるいはもう、訪れてしまったのだとしても、僕は狭い世界の薄暗がりで、そこで死んでいきたかった。
変わって、去って行った人たちのことを思いながら、僕は小さく息を吐いた。
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