四
「てことで。どう思います、店長?」
我ながら、相談相手として手近なのがこの男しかいないことを情けないと思った。
兄弟姉妹なし、友人とは結婚出産ライフステージの違いで疎遠。
職場の仲間なんてものも転勤の度に変わり、継続して連絡をとっている人なんていなかった。
「どうって、ねぇ……」
「有紗ちゃん、どうしたら良いと思います?」
「俺に聞くなよ……」
全くのその通りである。「頼りにならないなぁ」とぼやけば「頼るならもっと木村さんとか……」と、案外建設的な代案が出された。
木村さん、というのはうちの古株バイトの女子大生である。
「女子高生なら、女子大生の方が、中年のおっさんよりよくわかるでしょ……」
「ナイスです店長、ちょっと聞いてきます」
「……俺は関わらない方が良いと、思うけど」
店長が不機嫌そうな顔をさらに固くする
「変な二人なんでしょ……清水さんは距離置きなよ」
「うーん……そうなんですけどね……」
一度踏み込んでしまったらもう関わらないことはできないのだという確かな感覚が、この店長にどう説明がつくだろうか。いや、つかないだろう。
こんなものは本当に感覚でしかない。
ちょうど上がりだったのか、タイミングよくバックヤードに現れた木村に声をかけてみる。
「お、木村ちゃん良いとこに」
「何ですかぁ、副店長!」
規則ギリギリの明るい茶髪を揺らして、木村美波はくるりと振り返った。
少しギャルっぽいところが気にはなっていたが、雇ってみれば案外品行方正かつ真面目な少女で、もう数年の付き合いである。
「全然ラフな雑談なんだけどね。木村ちゃんってさぁ、すごく歳上のこと好きになったりってする?」
私の危惧は、というか確信は、もっぱら有紗から一色への好意についてであった。
そもそも恋愛に疎い私は、あの歳の差で、一色の正確な年齢など知らないが、そういった好意が生まれるのかということからまず懐疑的だ。しかしあのやり取りではどうもそうとしか思えない。
木村は「えー」と間延びした返事をしてから、少し考えて、うんと力強く頷いた。
「全然ありっすね。学校の先生好きーとかあるじゃないですか」
「あぁー……。でもああいうのって本気で好きなの?」
所謂ファン感情の延長、ではないのだろうか。
しかし木村はあっさりとそんな期待を否定する。
「本気になっちゃう子もいますよー」
「……そっかぁ」
「なに、副店長、若い子に告られちゃいました?」
「そんなわけないでしょう」
ピシャリと言い捨てる。
「じゃあ店長ですか!」
「もっとそんなわけないよ……」
店長が呆れたように首を振る。
「ま、そうっすね。私も歳上は全然アリですけど、店長はナシですから!」
「元気よく言うもんじゃないよ」
「で、で、じゃあなんの相談なんですか、これ?」
興味津々、といった様子の木村に、私はぼかしつつ相談をしてみる。
「実は知り合いの女の子が……十個以上歳上の男の人のことが好きっぽいんだけどね。その子も未成年だし、男の方もちょっと変わった人だしで……」
「え、やば。犯罪じゃないですか」
「あ、いや、まだ何も事実はないと思うんだけどね。男側が何を考えているかもわからないから……」
何を考えているかわからない。
全くもってそうだと頭を抱える。
あの男が有紗に興味や関心があるとは、いやそれ以前に恋愛に意識があるとは思えないが、悪い噂がある人物なのは事実だ。
「うーんでも変わった人かぁ」
木村が思案するようにポツリと呟く。
「じゃあ、やめさせるの、難しいかもしれないっすね」
「……そうなの?」
変人である方が、異常性さえわかってくれれば冷静にもなってくれるかと思ったのだが。
だってそうじゃないですか、と木村は笑う。
「特別な人だーって思ったら、絶対手放せなくなっちゃいますよ」
特別、という言葉にどきりとする。
「……でも若者の恋なんて一過性のものよね?」
安心したくてそう問い掛ければ、しかしこれに対しても木村は無慈悲にも首を横に振った。
「いや、本気に年齢とか関係ないですよ。どれだけその人のこと想ってるか、ですもん。そりゃ若いうちは雑念多いですけど、それでもその人だけしか視界にいなかったら、それは永遠の本気ですよ」
「……木村ちゃん、結構しっかり考えてるのねぇ」
感心して息を漏らす。
「そりゃぁ書店員ですから、本たくさん読んでますし!」
ニコッとVサインを作って、「それじゃあお疲れ様っした!」と彼女は元気よく店を飛び出して行った。
取り残された二人は、思わず顔を見合わせて溜め息を交わす。
「元気だね、木村さんは……」
「彼女一人いると店内の明るさ段違いですもんね」
そんな雑談を交わしながら、私は彼女の言葉について考えていた。
その人だけしか視界にいなかったら。
学校に行けず、客の少ないカフェで過ごし、言葉を発することもできない彼女の世界に、他に誰かがいるだろうか。
これは私も逃げられないな、と再確認する。
彼女をこれ以上孤立させたら、私が手を引いたら、有紗の状態が悪化するのは明らかだった。
さて、尾倉父は娘のことにどのくらい気づいているのだろうか。
一色千里は、有紗をどう見ているのだろうか。
少しずつでも確かめなくてはと、カフェに行ける日の予定を確認し、自分のスケジュール帳が空っぽなことに気がつく。
何もない。
いや、何もなかった。
そこに彼が、彼女が、埋まっていく。
日常の変化を退屈からの脱却と捉えるのか、安寧の崩壊と捉えるのか、どちらにせよ頭の中に疲労以外のことがあるのは、もうずいぶん久しぶりのことだった。
────────────────────────
「うん、メールでも頂きましたが、良い感じですね」
書評案を読んで、一色が軽く頷く。
私は作り笑いのまま、無言でその様子をじっと観察していた。
今回の待ち合わせは尾倉カフェにはしなかった。
有紗のことについて話したかったからだ。
本のことは静かな場所が良いという一色の言葉を踏まえ、人気のなさそうなカフェを選んだつもりだったが、やはり数人の客がいて談笑に花を咲かせている。
コピー用紙に目を通す一色が、時折神経質な様子でそちらに目を向けるのに私は気づいていた。
「やはり清水様にお願いして良かったです」
「そうでしょうか、あまり自信がなくって」
「ええ。清水様の書かれる文章は言葉運びが綺麗で……おそらくとても耳が良いんでしょうと」
「耳が?」
「ええ。文字を読む時、実は脳内で音声として読んでいる人は多いのですが、清水様の文章は音にした時の響きが澄んでいて……さ行の音が、お好きなんでしょうか?」
言い当てられて心臓がどきりとする。
私は垂れてもいない髪を耳に掻き上げて「そうでした?」と文面に目線を落とした。
「そんなにさ行ばっか使ってたかなぁ、いや、恥ずかしいですね」
「何も恥ずかしがることじゃありませんよ。私もさ行は耳に心地よいので好きですし」
一色はコーヒーを啜って続ける。
「文章を書く人で、字形や音にもこだわりを持つ人と、全く気にしない人がいます。清水様の書かれる文章は、見た目としても音声としても整えられていますから、目にも耳にも入りやすく、広告として非常に優れている文章です」
「あはは、光栄です」
口元を押さえて、何でもないかのように笑って見せる。
その裏側で、どうしようもない高揚が身体にじわりじわりと広がっていた。
我ながらどうしようもない人間だと思う。
どんな人間からでも褒められれば、認められれば嬉しいのか。
複数出した案のどれにするか、どこの表現をどう調節するか、話し合いながらも私はさっぱりとした絶望を感じていた。
自分の世界は安定しきっていて、自己管理、特に精神の管理などはもう当然のようにできていると思っていた。
しかし今の自分はどうだ。
幼い嫉妬や持つものへの羨望で心を掻き乱され、文章を褒められただけで舞い上がっている。
なんだこれは、情けない。
私とは、こんなにも愚かだっただろうか。
コピー用紙に丁寧に赤入れをしていく一色に向けていた視線が、壁の向こう、窓の外へと遠くへ霞んでいく。
「……こんなところですね」
「はい、ありがとうございます」
「では、そろそろ。本題に移りましょうか」
呆けていたのだろうか。
ぼんやりとした応答からハッと慌てて意識を戻し、はてと首を傾げる。
「本題、ですか?」
「ええ」
一色は悠然として答えた。やはりどこか年齢に不釣り合いで、違和感のある態度であった
そもそも今日の打ち合わせは、私が一色に提案したものだ。
メールのやり取りでも済むが、やはりその場で話し合って固めてしまいたいと、時間を作ってもらった形になる。
そんな無理を、無駄をしたのはもちろん有紗のことが気になっていたからだが、一色にとっては、本題はこの書評についての打ち合わせのはずである。
私は指をきつく組んで、彼の言葉が続くのを待った。
「わざわざ場所を新しくご指定でしたから……いえ、こちらの近所にしてくださったので何も不便があったわけではありませんし、先日の後ですから行きづらいのかとも思いますが……メールでのやり取りに満たない部分で何かお話があるのかと思いまして」
慎重に言葉を選んでいるようで、一色のそれは単なる補足に過ぎない。可能性を全て考慮するためのものであって、自身の判断の不安を示すものではなかった。
むしろ彼の言葉には確信の色がある。
なぜ私をここに呼んだのかと、長い言葉の中で短く真っ直ぐに、そう問われていた。
お見通しというわけか、と苦笑を浮かべる。
「あら、そんなにわかりやすかったですか?」
一色はゆるく首を横に振った。
「清水様は人間観察がご趣味のようですけれど、私もそうなんですよ。半分は職業病ですがね」
「趣味のつもりでしたが、こうも自分の方が筒抜けでは、そうとは言えませんね」
「おや。貴方だって私をよくわかっていらっしゃるでしょう?」
いいや全くわからない、と言い捨ててしまえなかったのは、己のちっぽけなプライド故だった。
私は曖昧な笑みをこぼし、溜め息混じりに有紗のことを切り出す。
「尾倉カフェの店員さん、有紗ちゃんのことですけど……」
一瞬だけ眉を動かしかけて、しかし彼は何事もなかったかのように「はい」と頷いた。
「彼女がなにか?」
「お気づきじゃないんですか?」
「ぼかすような言い方は私の好むところではありますが、そう聞かれると何とも」
苦笑をこぼす彼に、ふと案外彼も余裕ではないのだと気づく。
余裕であるように振る舞っているだけだ。
本題があるのだという追求、人間観察癖への言及、私に明言させて受動的でいようとするという姿勢。
これらは全て会話の主導権を握るための下準備だ。
ということは今、彼は自分が優位であるという確信を持っていないわけだ。
まるで何かの勝負のようだ。
胸の奥が波打つのを感じる。
私は小さく微笑んで、コーヒーを口にした。
尾倉カフェのブレンドよりも、随分軽やかな味がした。
「こういう察するとかいうのはやはり、女の方が得意なのでしょうか。でも、貴方がお気づきでないとも思えなくって」
一色が小さく息を漏らす。
「彼女の抱える問題についてですか?」
「あなたの問題の一つでもあるかと。彼女から好意を寄せられていること、気が付いていらっしゃいますよね」
「あぁ……」
一色は困ったように首を振った。
それは私から目を逸らす動きでもあった。
「思い過ごしじゃあないんでしょうか、やっぱり」
気づいてはいたが勘違いだと思いたかったのだが、と一色は眉を寄せる。
私は肩を竦めてみせた。
「私、あなたの恋人なのか詰問されましたよ」
「有紗嬢にですか? 本気なのか、困ったな……」
そう口にする彼は本当に困っているようで、しかし見かけがどうでも中身がどうだかわからない男だ。
私は表情を厳しくする。
「本当に困ってらっしゃいます?」
「……と言うと?」
それは初めて見た、一色の笑み以外の表情だったかもしれない。
無表情でもなく、負の感情でもなく、ただスッと何かが抜け落ちる。
それが何であるのか、今この瞬間の私には判断がつかなかった。
「気づいていて、そのままにしているのかと」
「どうにもできない、という意味ではそうですね」
それは嘘だと、私は指摘をする。
「カフェに行かなければ良いだけでは」
「……それは、そうですが。思い違いでお気に入りを減らしたくはないですし」
「彼女からはまだ何も明言されていないのですね?」
「ええ、何も」
一色は自身の潔白を示すように両の手のひらを開いてみせた。
「実際、そんなようなものを感じたとて、この歳の差ですからね。本当にそうだと思い上がれるほど、色恋ごとの多い人生を送ってきたわけでもありませんし」
「失礼ですが、ご年齢は?」
「三十一歳です。ですから有紗嬢とは、十五歳も違うのかな?」
記憶を辿るように斜め上を見上げ「確か彼女まだ高校生でしたよね」と一色は私に確認をする。正確な年齢を知らないのか、覚えるほど興味もないのか、知らないふりをしているのか。
頷きつつ、果たしてどこまでが演技かどうか、私は見極めかねていた。同時にぼんやりと、思ったよりも若いななどということも頭に浮かぶ。
私はにこりと笑って、わざとらしく肩を引いてから小さく背伸びをしてみせた。
「お仕事のことは終わって、私的な話ですので。ここからは砕けて話しましょうか。あなたを詰問したいわけでもないので」
「はは……疑いが晴れたのなら何よりですが」
一色は少し強張った苦笑を浮かべる。
「僕はどうにもこういう事柄は疎くって」
僕、と一人称が変わるだけで、随分と印象も幼くなるものだった。
こうしてみると本当に、無辜であるかのように見えてくる。
しかし彼はまともではない、
それを忘れるほど、私も迂闊ではなかった。
「そうなんです?」
「見ての通りですよ。それに僕は、本以外にはあまり関心がないので、そもそものところ対人関係の時点で苦手です」
そういって彼はちらと別の席で談笑している、ご婦人方の姿を見遣る。
「本のことでなくても、静かな場所が好きなんですね」
「……ええ、雑念になりますから」
「他者は雑念ですか?」
「まぁ……僕にはなくても良いものでしたね」
そう言い切ってから、彼はふふっと笑みをこぼす。
まるで自分の言葉がおかしいものだと理解しているかのような態度だった。
「こんなこと、会話をしている相手に向かって言うことではありませんね。失礼しました」
「いえ、気にしません。私も一人の方が性に合う人間ですから」
「清水様……清水さんは、社交的な方に見えましたがね」
真面目なのか何なのか、呼称も私的な会話らしく切り替えて、面白がるように眉を上げる。
私的な、という状態に定義してから、一色は随分と自由な振る舞いを私に見せていた。
仕事相手としての時に感じていた『薄膜を隔てたような印象』はやはり彼本来のものではないのだろう。
関係性の形式に徹底してして従うというのも、規律正しいようでここまでされるとむしろ変に思える。仕事になれば、また彼は態度を一変させるのだろうか。
私は話の逸れを気にしつつも、好奇心に負ける形で一色の会話に乗った。
「私が余所からどう見えているかはわかりませんが、女の方が社交を迫られる機会が多いというのが少なからずあるのかもしれません」
飲み会や、親戚の集まりを思い出しつつ話す。
「気立て、気配り、愛想。昨今はマシになっていますけれど、私も昭和に生まれた女ですので」
「なるほど。僕には貴方の気質に見えますが、そういう社会的背景はあるでしょうね。先ほど清水さんが指摘された女性の察しの良さも、生得的な気質ではなく環境に培われたものである可能性もあります。脳の専門ではないので、正確なところはわかりかねますが」
「……この話の結論、どこに置きましょう?」
「己の怠惰を恥ず、と言ったところでしょうか」
私の目から見ても妙な問いかけになった自覚はあったが、一色は動揺することなくあっさりと答えた。
「有紗嬢のことも、気のせいと思わず考えてみることにします。といっても、店に行ったところで彼女とは大して会話するでもなく、本を読んでいるだけなのですけどね」
考えすぎだったか、と私はどこか冷めた頭で思った。
日常に退屈しすぎていたのかもしれない。
冷静に考えれば、青い少女の一方的な恋慕で、それが普通だ。
なんだか自分がひどく滑稽に思えた。
私の中でひと段落ついたのがわかったのだろうか、一色は少し伺うような視線を私に向けてから、それから気まずそうにカップに口をつけた。
「……僕の悪い噂、聞いたのでしょう?」
私の表情で答えがわかったのだろう。また「困ったな」と呟いて、一色は面倒そうに視線を横へと流した。
「みんな好き勝手言いますからね。別に構いませんけれど」
「……すみません」
「いえ。そんな噂のある男が、少女と親しくて心配になるのは大人として当然でしょう。むしろそういう方が有紗嬢のことを思ってくれているのは望ましいことです」
そう言いつつも、一色は目線を戻さなかった。
色の薄い目が夏の光を薄ぼんやりと反射している。
「噂、どうにかしようとは思わないんですか?」
自分にとって不利だろうにと思う。
噂があるのを把握していて、それが事実無根だと言うのであれば、構わないなどと言わずにはっきり否定すれば良い。
信じてもらえる確率は低いが、否定しなければ認めたのと同じだ。
しかし一色は肩をすくめるだけだった。
「ないことの証明はできませんしね。それに、他人のことは本当にどうでも良いので」
「どう思われても、どうでも良い?」
「ええ」
若いと思った。
三十一か、と胸の内で呟く。
私が独り身で生きていこうと決めたのは、ちょうど三十になる誕生日だった。
結婚はしない、恋愛もいらないと決めた。
実家や友人とも疎遠になった。
それから八年。いまだに寂しさを感じることがある。
いや、感じることばかりだ。
人は、人の決意は弱い。
思春期を経て、削れたり削ったりしながら構築され、そろそろ完成されたかのように思える自分の世界は、内側に空洞を持った球体である。そしてぐるぐるころころと翻弄されては、内部の液体のような部分が波を起こす。
例え外からは完全で落ち着いた球に見えていたとしても。
今、全てが億劫であるかのように厭世的に夏を見つめる彼も、そういう人の弱さを知っているのだろうか。
己の内側の波に惑わされているのだろうか。
独りの人生は空洞だと気づいた時にはもう、球は堅く打ち破れなくなってしまっているかもしれないと、気が付いているのか。
それとも彼は、私のような外側だけの紛い物ではなく、核まで堅く作り上げられた本物なのか。
一色がふっとこちらに顔を戻す。
私は黙って目を伏せた。
それは、私の知り得ることではない。
「僕は……」
一色がぽつりと呟く。
いつも流れるように話す彼には、珍しいことであった。
「僕は、人とのコミュニケーションに、口語を使いません」
「……はい」
その風変わりな物言いに、私は確かに感じるものがあった。
「内側にあるものは言葉に、声になった瞬間に嘘になってまとめられてしまう。嘘というのは言い過ぎかな、でも、形を変えてしまう」
「一色さんの今の言葉も、嘘ですか?」
「真実ではありませんね。でも本になった言葉は、信用がおけます」
一色の手は、おそらく彼も無意識のうちに、コーヒーをくるくると混ぜていた。
その軌道が、光を反射し白い渦となって私の目に映る。
「向こうのご婦人方は、親しげに話して、自身の伴侶や子供や、誰かしらへの不満を笑い合っていますが、あの中に真実の言葉はあるのでしょうか?」
「……」
ないだろうと、思った。
全てが嘘ではない。
夫の稼ぎが悪いのも、息子の素行が悪いのもきっと嘘ではない。
毎日暑くって困るわね、というのは本当だ。
向かいのスーパーで特売があるのは事実だ。
しかし、彼の求めるような真実は、そこにはないだろう。
「彼女の……失礼、書評を依頼したあの作品の中には、真実があったと僕は思います。僕はあの子を信用できる」
女性作家のものだとは予測がついていたが、作者の希望に沿って明かすつもりはなかったのだろう。一色は自分の失言に驚いたように口元に手を当て、気まずげに微笑んだ。
「僕は本を介した時だけ、人と深く関わります。一緒に本を作った人とそれ以外の人とでは、関わり方が違いますから。実際、火のないところの煙でもないんですよ」
弁解だったのか、開示や告解だったのか。
本を介して人と関わる。
他の表面上の関わりとは異なる、深い関わりを作る。
それは確かに周囲からは、何やら秘密めいたことがあるように見えるだろう。
『普通』のコミュニケーションではないのだから。
『特別』なのだから。
だが彼の言葉を聞いて、私が思ったのはたったこれだけだった。
「……良い仕事ですね」
一色が目を見開く。
「羨ましいです。私も、そうやって人と関わりたかった」
それは私の得られなかったものだった。
友情も、恋愛も、セックスも、家族も得られなかった私。
形にはまるものばかりを見ていた私の三十八年間と、形から遠く離れて、半ば狂人としてでも、人との深いつながり方を得た一色の三十一年間。
「羨ましいです」
二度も、声に出してしまった。
情けなくて、ああ、どうしようもない。
私は本当にどうしようもない人間だった。
必死に目を瞬かせて、これ以上惨めにならないように、泣いたりなんてしないようにと足掻いたが、虚しさはあっさりと頬を伝ってしまった。
これまで何をして生きていたのだろう。
何のために、生きていたのだろう。
「すみません」
バッグの底からハンカチを取り出そうとして、そっと制される。
異なる世界を隔てる机に、手が伸ばされていた。
私は驚いて顔を上げる。
一色は笑っていた。
「清水さん、本を書きませんか?」
あぁ、この人は悪魔ではなく死神だったのだ。
私はそのとき初めて、そう知った。
「……私が、ですか?」
「清水さんは本を書いたことのある方ですよね。貴方は以前、本を『書かない』のではなく『書けない』と言った。やったことのない人は使わない言葉だ」
一色が堰を切ったように言葉を並べる。
私の中で、白い感情の渦がぐるぐると回り始めた。
いや、少し前から回っていたことに、ようやく今気づいた。
「貴方の言葉は綺麗だ。書評を読んで、いえポップを見たときから、それはわかっていたことです。貴方は本が書ける」
「書けませんよ」
強い語気で、手を払うようにして私は否定した。
「私が本を書けるような人間だったなら、私は小説家になっています。なりたかったんですから、ずっと。でも中身が空っぽな人間なので何ひとつ真面に書けませんでした。だから私はただの書店員で、それが私の身の丈でしょう。事実でしょう」
「はは、足りなかったんですよ」
私はほとんど怒っているように見えていたと思う。
それは実際には怒りともつかないごちゃ混ぜの感情だったが、激情に身を委ねていたのだから当然だ。
だが一色は、何も意に介さずに笑っていた。
「養分の話、覚えてらっしゃいますよね」
忘れられるはずがない。
私はぐちゃぐちゃのまま頷く。
「貴方は電話で、自分が若い本の養分になっても構わないと言ってくれましたけれど、僕は逆だって構わないんですよ」
死神、というのは何も殺すだけのものではない。
魂の管理者、命を司るものだ。
生かすも殺すも彼次第。彼の握る、運命次第だ。
「ね、僕は貴方の養分になりますよ」
色の薄い目は私をよく映した。
他人の目に自分は本当に映り込んでいるのだと、私はこのとき初めて知った。
生き疲れていた私が殺される。
死んでいた『かつて』に命が与えられる。
「これは私的なお話ですから、どうしてくれたって良いんです。作品だって完成してもしなくても良い。でも清水さん、貴方、書きたい人でしょう。僕という使えるものがここにあるんだから、使えば良いんですよ」
「……嫌な言い方」
「芸術家は須くエゴイストだ。貴方が僕と同じものを見るなら、どうか本を書いてください。僕は貴方と対話がしてみたいです」
白い渦が心の淵を超える。
堤防が壊れるのではないのだから、ここを超えたらもう再建はできない。戻れはしないだろう。
そんな私の心を、冷静な脳が見つめる。
私はこの対話に勝利したのだ、と。
一色千里は勘違いをしている。
私と彼は、同じではない。
彼が持つような本に対しての狂おしい熱情は私にはもう、ない。
ずっと本だけは好きだったが、ごく普通に好きだっただけだ。彼のように何かそこに意味を見出しているわけではない。
私が羨んだのはそこではない。
私はただ、人生において何者かでありたいのだ。
その手段が欲しい。
誰かの何かになりたい。
小規模で良いから、個人的な小さなことで良いから、凡庸な群像の一つではなく特別になりたいのだ。
一色が目を向けているのはあくまで本で、私が希求しているのはこんな俗っぽい、人間の事柄で。
だが彼はそれに気づいていない。
騙せている。
今私が「はい」と言えば、私は求めるものを得られるだろう。
だが確実に深すぎる溝が、混沌としたすれ違いがある。
やめておけ、と脳はあくまで冷静だった。
その『違い』は残酷で危険なものだと。
だが溢れ出す感情のその奔流の前に、理性などいくばくの力を持っているだろうか。
それに、先に溝を超えて手を伸ばしてしまったのは彼のほうだ。
「……一色さんが、私を助けてくれるなら、もしかしたら」
もしかしたら書けるかもしれない、とは言い切らなかった。
ずるい言葉だった。
そんな私の悪徳に気づかないまま、一色は微笑んだ。
「ええ、もちろん。本職ですし、僕はそういう生き物なんですから」
「生き物」
「本を書く人の養分になって、その本を読んで生きながらえる、そういう生態のね」
全く違う人間、いや生命と、同じ言葉を話している。
一色の言う通り、口語のコミュニケーションや、見て取れる形などはを何の意味もなかった。
私はただ、にこりと笑った。
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