翌日、店長からは何も言われなかった。


 何の話も職場に行っていないのだろうか。

 小さな規模の仕事でごく個人的な相談だったとはいえ、取引先との会談から無言で逃げ出したのだ。大ごとになっていることも覚悟の上での、憂鬱な出勤だった。

 しかし現実は、お叱りどころか小言も何もない。


 奇妙で、気持ち悪くて、何か重たいものに覆われているような一日だった。

 漫然と仕事をしていると、突然後ろから背を叩かれた。


「すみません、この本、どこにありますか?」


 小学生くらいの女の子だった。

 友達からのオススメなのだろうか、手汗でくしゃくしゃになった折り紙に、タイトルとイラストが色鉛筆で描かれている。


「あぁ、この本だね。こっちにあるよ」


 精一杯のわざとらしい笑顔で、少女を児童書のコーナーへ案内する。

 高い棚から本を取ってあげて、ふっと懐かしさに頬を緩めた。

 幼い頃に読んだ、大好きなファンタジー小説だ。

 思わずしゃがみ込んで、少女に手渡す。


「おばさんもね、この本大好きなんだ。楽しみに読んでね」


 一瞬目線が合い、それから女の子は照れたように俯いて「うん」と母親と思われる女性の方へと駆け出していった。


 きっと『お店での会話の練習』だったのだろう。

 女性が、ありがとうございますを、声に出さずに会釈で表す。

 私も、いいえお気になさらずを、声に出さずに会釈で表した。

 二人は手を繋いでレジへと歩き去る。


 私より十以上は年若いだろうか、身なりに気を遣った、優しげで綺麗な母親だった。

 そんな彼女と同じ仕草をしたことに、なんだかシュールな面白さを感じてしまう。


 書店員をしていると、時々こうして人から声をかけられる。クレームも多い。

 そんな時、私はいつもなぜか面白くなってしまうのだ。

 要素を拾えば全然違う私たちが、同じ人間のように話して、同じ振る舞いをする。

 同じ仕草をしたり、言葉を繰り返したり。


 ふっと昨日のことを思い出して気分が悪くなる。


「人間なんて全部同じでくだらないんだよ、清水さん」


 自分で自分に呟いてみる。

 特別に思える要素や割り当てられた属性なんてものは全部くだらなくて、私たちは全員凡庸なコピーアンドペーストだ。

 だから同じ言葉を話し、同じ仕草をする。


 一色千里も特別ではない。

 あれは頭がおかしい、だけ。

 そう判じようとして、こんなことを考えているのも頭がおかしいのかもしれないと苦笑を浮かべた。


 要素の違いは、現実では重要だ。

 娘に本を買い与え社会進出の練習をさせる美しい母親の会釈と、疲れ切った四十路の店員の会釈は同じではない。


 書店員の私は本を売る。

 でもそれは、本を作ることと同じではない。

 全員大した差なんてないよと思おうとしても、それが現実だ。


『本を書かない人間は、本を書く人間の養分である』


 本という媒体について語るから違和感があるだけで、誰かは誰かの養分であるというこの言説は、ある意味で一種の真理だろう。


 私はさっき、あの少女の成長の養分だった。

 未来ある少女の養分になれたのだ。


 とは言ったところでまぁ、一色千里が狂人であることも疑いようのない事実の一つだろう。

 そういう人間の養分になってやる筋合いはない。


 閉店時間まで、今日の私は浮き沈みを繰り返しながら、ずっとそんなことを考えさせられていた。

 バイトの子から「疲れてます?」と気遣われ、バックヤードで存在もしない彼氏に振られたんじゃないかなどと噂されているのも聞いた。

 これも若い子の楽しみの、養分。


 元気でいいねぇと、皮肉と本気半々に思いながらシャッターを降ろす。良いじゃないか、そのくらいには使われてやろう。


 店を閉めるその時になっても、店長からは昨日のことは何も言われなかった。

 不健康なその横顔をじっと観察してみても変わった様子はない。

 このまま帰ってしまおうか。

 しかし悲しいことに私は、昔から藪を突く性格であった。

 退勤直前、店長に何気なさを装って声をかける。


「そういえば、さかき出版から、連絡ありました?」

「えぇ?」


 ぼっとした様子でガムを噛んでいた店長は、くちゃくちゃと不愉快な音を立てながら、思いだそうとするように首を傾げる。


「電話はないよ。メールは……うーんと」


 ノロノロとPCをいじっているのを見れば、それでもう答えとしては十分だった。


「うーん……何もないよ。なんかあったの?」


 蛇は出なかった。

 安心なのか困惑なのかわからない気持ちで、首を横に振る。


「いえ、何もないですが、追加の連絡とかあったかなって」

「ふーん……」


 ふくよかな腹を重そうにゆすって、彼はのそのそと立ち上がると、共用の冷蔵庫からいつのものかもわからないチョコレート菓子を二個取り出して、片方をぽんと投げ渡してきた


「変なやつだったよな……一色千里」

「……お知り合いですか?」


 驚いて聞き返せば、店長は曖昧に言葉を濁す。


「別に……」


 ここで初めて、私はこの店長が怠惰ではなく、意図を持って自分に書評の仕事を振ったことを知った。

 手の中のチョコレートを握りしめる。


「店長、私にわざとこの仕事振りましたね」

「……俺じゃないよ、先方のご指名ね」

「指名?」

「言われなかった?」


 困惑したまま無言で頷けば、「そっか……」と店長は困ったように顎を掻く。


「まぁ……書評の話も嫌だったら、清水の判断でなかったことにして良いからさ……」


 予想外の言葉だった。

 うちのような弱小店舗に、縁を切っても平気な出版社などないだろうに。ましてやこの怠惰で何にも関心がないようなこの店長が、そんな言葉を言うとは思いもしなかった。


「店長。一色千里について何か知っているなら、ちゃんと全部言ってください」


 きつい命令口調で言う。

 店長はびくりと肩を揺らし、歳下の部下の恫喝など無視すれば良いのに、おどおどと視線を揺らして、ガムの入ったままの口にチョコレートを放り込んだ。

 そのまま、逡巡するようにくちゃくちゃと噛み続ける。


「……ま、噂だよ。噂」


 店長はぶんぶんと大きく手を振って、自分の責任じゃないとでも言うように何かを払いのける。


「あいついつも、レンアイするんだと、作家と……。あぁ、わかると思うけど可愛い意味だけじゃなくってね……」


 私は顔を顰めていた。

 予想とは全く違う角度から与えられたものに、驚きとほとんど同時に強烈な嫌悪を、そして戸惑いを感じる。


 恋愛。

 可愛くない意味での、恋愛。

 性とか、セックスとか。そういう。


 狂人とはある意味で人間離れである。そういった俗っぽい欲とあの男が結びつくとは思えず、しかし昨日感じた嫌悪感は、細部の違和感を私に無視させて、全てをない混ぜにして、あの男はそういう嫌な男なのだという判断を下させてしまった。


 私は渋面のまま、滲む感情を隠そうともせず言った。


「……それってタブーじゃないんですか?」

「さぁ、噂だけだしねぇ……俺には関係ないし……あ、こういう話したけど、セクハラだとかは勘弁してくれな」

「そんなこと言いませんよ。……あ、でもバイトの子とかには駄目ですからね」

「わかってる、わかってる……」


 話をもう辞めたかったのだろう、店長は意味もなくPCに向き直る。


「だから変な噂のあるやつだし……お前も嫌だと思ったらやめて良いからね……。お疲れ様でした」


 それは業務終了の挨拶であり、店長熊谷が副店長清水と会話をする必要がなくなったことを意味する言葉だった。

 私は心境を処理できないまま、麻袋を肩にかけて「お疲れ様です」と儀礼的に店を後にする。


 ラッシュも落ち着いた電車に揺られながら、『この子』と作家を呼んでいた、一色の姿を思い出す。

 若い作家、あんな青い恋愛小説を書く作家と?

 全てを本の養分だと言い切った精神異常者だ、もしかしなくても手段は選ばない……かもしれない。


 吐き気を覚えるのと、最寄り駅に着くのが同時だった。

 夜風に脳を晒して、肩で息をする。

 ここから徒歩十五分。

 あまり美味しくもない缶コーヒーを駅の自販機で買って、一息で半分ほど飲み干した。


 安っぽい苦味が、苦しさが胸の中に広がる。

 途端にふふっと自虐のような笑みが溢れた。

 そのままずるずると、自販機横のベンチに座り込む。

 人気の少ない駅でチラチラと視線を感じたが、どうせ酔っ払いだろうと誰もが足早に過ぎ去っていく。


 そして、誰もいなくなった。

 誰もいない。

 ひとり。

 私、独り。


「三十八歳。小売店副店長。恋愛経験ほぼなし、彼氏なし。処女」


 馬鹿らしいことを呟いて、馬鹿らしいと大笑いする。

 今私が嫌悪を感じているのは、私が持っていないものだからではないのか?

 単なる未知への恐怖からくる錯覚ではないのか?

 一色の噂に嫌悪を感じるのは、私が何も知らないまま『おばさん』になったからってだけかもしれない。


 そんな自虐が頭に浮かぶ。

 だってほら、店長だってアレだし。

 店長も私も同じなのだ。どっちも他人から相手にされなかった人間なのだ。

 だからそういう世界に嫌悪を感じてるだけかもしれない。


 だって、結婚した漫画家と担当編集だっているし。

 だって、だって。


 本を書ける人間を何より優遇する編集者はおかしいか?

 全くおかしくない。


 多くの時間を過ごし、一緒に作品を作った親しい人間とセックスすることはおかしいか?

 全くおかしくないだろう。


 業界的にタブーでも、人間は本来浅ましくって、理性的な動物なんかではないのだから。

 嫌悪を抱いたのは、私がなんの経験もない女だったからだ。

 はぁ、とまた溜め息が溢れる。


 凡庸な自分、と思っていたが、もしかしたら凡庸にも至ってないのではないだろうか。

 誰かを愛するとか、愛されるとか。

 本当に無縁な人生だった。


 財布をしまおうと思って開いた、毎日どこへでも持ち歩いている麻のエコバッグには、ゲラから剥がれ落ちたのだろう、一色の連絡先を記した黄色い付箋が引っかかっていた。


 事務作業御用達の薄黄色の付箋。

 なんの意味もない、どこにでもある付箋に、意味のある文字列。


 よくわからない感情に襲われて、よくわからないままそれを手に取る。


 これはなんだ。

 ただの付箋だ。


 これはなんだ。

 私が嫌悪する文字列だ。


 これはなんだ。

 自分に問い直して、問い直して、問い直して、最奥に辿り着いて己の浅ましさに呻き声を腹から漏らした。


 これは羨望だ。


 これは嫉妬だ。


 本に携わる世界の人間への羨望。


 人と関わって生きられる人間への嫉妬。


 どうして私は小説家じゃなくて、編集者でもなくて、母親でもなくて、誰かに愛されてもいないのだろう。

 どうして私はここに独り、何者でもないまま座り込んでいるのだろうか。


 自暴自棄のままスマートフォンを取り出す。

 三コールもしないうちに、彼は電話口に出た。


「もしもし、一色です」

「清水です」


 怒りと高揚と混乱の、妙に強い声が喉から出た。

 電話越しでもその感情の昂りがわかったのだろう、一瞬だけ間が開く。


「清水様、先日は失礼致しました。お電話ありがとうございます」

「店長から、書評を書くのに私を指名していたと聞きました。何故です?」


 礼儀も節度もない、ビジネスとは思えない電話だった。

 缶コーヒーの残りを喉に注ぎ込んで、「何故です?」と問い詰めるようにもう一度重ねる。


「うーん……」


 一色は間延びした返事を寄越した。

 それで勢いづいていたのがすっかり削がれてしまう。

 迷う必要があるはずもない問いかけへの、わざとらしい余白。

 あぁ、この人は自分のペースを作り出して、それに相手を誘導するのだと理解する。思えばカフェでの会話でもそうだった。


 追い詰めるつもりでかけた電話だったが、しかし、もう既に一色の領域にされてしまっていた。

 負けた、と惨めさに座り込んで応答を待つ。


 いったい何故自分はこんなにも昂っているのだろうか。

 気付かないふりで自問してみる。

 一色のタブーと不道徳、狂気を咎めるための正義感じゃない。

 私はそんなに正しくてまっすぐな人間ではない。

 じゃあ何故、私は今電話をかけて、自分を選んだ理由を問い詰めているのだろう。


 わかりきっている。

 この空虚を、誰かが私を選んでいたと言う事実で埋めたいのだ。

 今この瞬間私が最も嫌悪している男の手によっても、だ。


「私、貴店の近くに住んでいるんですよ」


 一色が穏やかに口を開く。

 私は荒い呼吸で、しかし相槌も打たずに彼の言葉を待っていた。


「本の並べ方とか、特設コーナーとか、そういう小さな雰囲気が気に入っていて、時間を見ては通っていたんです。購入することはあまりなかったので、ご存じないかとは思いますが……」

「…………」

「ある日に行った時、私が担当した作家の本にポップがつけられていました。良い紹介だなと思い、そこにいたアルバイトの子に誰が作ったのかと聞いたら貴方だと。それでお声掛けしました」

「……使える肥料だと思ったんですね」


 くすりと電話越しから笑い声が聞こえる。

 何がおかしいのだろうか。


「どちらかというと、加工や飾り付けの過程だったかもしれませんね。もちろん、販売の意味では肥料ですが」

「……別に、私がポップつけた本、売れてませんよ」


 吐くように言い捨てる。

 美的センスもない私が連日連夜悩んで作るものよりも、バイトの子が空きコマで描く可愛いポップの方が何倍もマシだ。


「でも私は好きでしたね」


 一色は、簡単にそう言った。

 私は相手に伝える意図でもなく、意地悪く呟く。


「軽い言葉ですね」

「まぁ、一方通行のようですから」


 そこからは長い沈黙だった。

 おおよそ正気ではない私はともかく、なぜ一色が通話を切らないのか、さっぱりわからなかった。


 誘蛾灯代わりの自販機が、煌々と私の横顔を照らす。

 眩しくて、疲れて、惑わされて、もう何も考えたくなかった。

 生き疲れていた私の人生。

 それを放っておいたままにしていたツケは、突然狂気によって支払わされることになった。


「わかりました」


 短く吐き出す。


「書評、書きます。あの若い本の養分になります」


 もう良いじゃないかそれで。

 誰かに食い尽くされる人生で。

 それは私にとって悲劇でも、世界にとっては貢献だ。

 電話越しに、一色があの微笑みを浮かべたのがわかった。


「ありがとうございます。詳細はあとでメールさせて頂きますね」


 それで終わりだった。

 悪魔との契約を結んだ気分だ。

 空になった缶を、ぎゅうぎゅう詰めのゴミ箱に無理やり押し込む。


 そこでふと、自分の手の中にチョコレートがまだ握り込まれていたことに気づいた。

 それはもう体温でドロドロに溶けていて、またふふっと笑みが込み上げる。


「私の手のひらの仕事量はこんなものかあ」

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