透明少女

lager

狂愛

 雨が降っていた。

 冷たい雨だ。

 パンプスに染み込み、爪先を凍えさせる早春の雨。


 しとしとと降り続く雨音は、啜り泣く女達の声を希釈し、地面へと溶かしていた。

 黒い額縁の中で微笑む少女。

 その死を悼むものたちの悲哀もまた、冷たい雨と混じり合い、空気の中に溶け出しているようだった。


『先生、私を見てよ』


 張り詰めた声。

 私に最後に向けられた声。


『カナ、って呼んで。ねえ、さんづけなんかしないで』


 縋り付く声。

 私の服の裾を握り締める、教え子の懇願。

 薄暮の教室で、進路相談と偽って、私と二人きりになろうとした少女。


『先生だけなの。友達も家族も、みんないらない。みんな分かんない。先生だけ』


 取り立てて、特徴のある生徒ではなかった。

 人付き合いも上手くしていたし、素行不良ということもない。どこにでもいる、多感な少女の一人だった。

 ただ、一度だけ、彼女が親友と喧嘩をしたとき、親身に相談に乗ってあげた、それだけといえばそれだけだった。

 理解に対する依存。言葉にしてしまえば、それだけのことだったのだ。


『先生。なんか、変なの、私』


 それだけのことが、精緻な機械のネジを一本ずつ緩めていくように、綺麗に回る歯車に一つずつ砂粒を噛ませるように、彼女を、少しずつ、少しずつ狂わせていった。


 意思の強い綺麗な眉。

 華奢な肩。

 安物のリップクリームを塗るだけで張りと艶の出る若い唇。

 制服のスカートの皺。

 彼女が私に捧げようとしたもの。


『お願い、先生。私を見て』


 それを受け入れるふりをした私の欺瞞は、いよいよ彼女の心を歪めていった。


『どうしてよ。なんで男の人と連絡なんか取ってるの』


 私のスマートホンを盗み取り、トークアプリの履歴を見ては激昂していた少女の面影は、額縁の中の彼女のどこにも見当たらない。

 眉間の皺も、目の下の隈も、唾を飛ばして私を詰るその口も、その全てが透明な幻影となって私の脳裏に蘇るだけで、この斎場のどこにも、真に彼女を思い起こすものはなかった。


 形式通りの焼香を済ませ、形式通りに遺族へ挨拶を済ませ、私は降りしきる雨の中を歩いて帰った。


 辞表は翌週にでも提出するつもりだった。

 教え子をみすみす自殺させてしまった担任教師。

 その責任を取るのだと、周りからは思われるだろう。誰も、彼女の死の直接の原因が私にあるなどとは思うまい。彼女の母親から恨みがましい目を向けられた以外は、みな私の立場に同情的だった。


『私を見てよ』


 私を独占しようとした少女。

 私の心を占めようとした女。

 泣き笑いの表情。縋りつく声。その全てが、私だけのものだった。


 あの、啜り泣きの声に満ちたモノトーンの世界のどこにも、彼女は存在していなかった。私には、あの場所が彼女を弔う場なのだという実感がどうしても湧かなかった。

 彼女の真実は、本当の彼女は、あの場の誰にも理解の外であるはずなのに。


 やがて自宅のアパートに辿り着いた頃には、手足の先は氷のように冷たくなっていた。何度も失敗しながらドアノブに鍵を差し込む。

 外と変わらぬ冷たい空気が部屋に満ちていた。

 雨露を拭き、ストッキングを脱ぎ捨て、ルームソックスに履き替える。

 寝室のベッドに腰かけ、深い溜息をつく。


 そうだ。

 あの陰鬱な場所のどこにも、彼女はいない。


 私を真っ直ぐに見つめる瞳。

 意志の強い眉。

 華奢な肩。

 瑞々しい唇。


 その全てが透明な幻影となって、今、私の眼の前にいるのだから。


「ただいま、カナ」


 私の声掛けに、彼女は一言も反応しない。

 生前の姿のまま、色彩だけを失って、直立して私を睨みつけている。

 私を愛した、私だけの透明な少女。


 一目見たときから、手に入れたいと思っていた。

 彼女を狂わせるために囁いた言葉も、知人に頼んで偽装した男からのメッセージも、今この時、その全てが報われていた。


「いい子にしてた?」


 その恨みに満ちた顔に問いかけても、やはり返答はない。

 私は笑みを零して、スーツを脱ぎ、スウェットに着替えた。

 これから、寝起きする時は毎日彼女と一緒なのだと思うと、自然と口元が緩んでいくのを感じた。


 喉の渇きを覚え、台所へ向かう。


 冷蔵庫の横に、ショートヘアの透明な少女が膝を抱えてうずくまり、やはり恨めし気な目線を私に向けていた。丸い顔と、やわっこい頬の感触が蘇り、触れないと分かっていても、その輪郭を指でなぞりたくなる。


「仲良くしてあげてね」


 私は彼女に一声だけかけて、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、コップへと注ぐ。

 リビングの端では、長身の少女が壁に向かって直立したまま、目線だけで私を睨みつけていた。彼女は人一倍髪の手入れに熱心で、私に櫛を差し出してきたときのはにかんだ笑みは、今でも鮮明に思い出せる。


 廊下の隅に、バスタブの中に、本棚の裏に、かつて私を愛して死んでいった透明な少女たちは、ひっそりと佇み、怨嗟の念を私に向け続けている。


 もう、この部屋も随分手狭になってきた。

 

 あと一人か二人お迎えしたら、次は一軒家にでも引っ越そうか。 

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