言えなかった本音と後悔と涙

神月

『人生の絵』

『人生の砂漠を私は焼けながら歩いた』


 誰の言葉だっただろう。はっきりとした事は覚えていないが、何かのアニメで偉人の言葉だったことだけは覚えている。人によって人生は色々な形に見えるものだ。

 私は幼い頃、人生とは大きな木の道のようなものだと思っていた。学校の宿題で『自分の人生』というお題で絵を描くことになった時に私はA4の画用紙いっぱいを使って大きな木と幹を歩く人の絵を描いた。描いている間は信じて疑わなかったが、完成を目前にしたところで母親に言われた。


『あんたの人生幸せだね』


ーーと。その時は意味がわからなかったので母に「お母さんの人生の道は違うの?」と尋ねると、母は呆れたような愁傷めいた顔で「そんな風な絵が描けるのは何も考えてない幸せな人間の描く絵だよ」と答えられた。

 その時の自分は、自分の人生が幸せだと思っていなかったので純粋に驚いた。毎日出される宿題に週5の習い事、忘れ物をするだけで先生や同級生たちに馬鹿にされ、授業を理解できなくて馬鹿にされ、主張も反論も全て馬鹿にされるのが日常だった。

 両親にも姉兄にも褒められたことはほぼほぼなく、唯一褒めてくれるのは、可愛がってくれたのは祖母だけだった。


 『賢い』『可愛い』『いい子だね』


 欲しい言葉をくれるのはいつも祖母だった気がする。

 今思えば子供の自分は甘えただ。

 教えてくれないから分からないのだと甘えていた。姉さんや兄さんは教えて貰えるのに、私は姉さんと兄さんの側にいるから、話しを聞いているのだからと教えてくれない。

 私のために話してくれない。寂しかった。だが、祖母は話を聞いてくれた。つまらない話も楽しいと思った話しも聞いてくれた。



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 祖母が亡くなった時はショックだったが泣くことはなかった。最後のお別れがとても酷いものだったせいもある。父が私と妹を除け者にして葬式も納骨式も全て終わらせてしまった。

 理由は介護をしなかったからだ。介護をしなかったのは、母が亡くなって1週間後に父が「この人と再婚したい」と言い出た時に「お前たちは介護しなくて良いだろ?」と言ってくれたからだ。

 それなのに今になって父は、実家から片道1時間半も掛かる場所に住む私に「アパートを引き払って、家にアパートで支払っているお金を家に入れて、介護をしろ」と言ってきた。

 私は拒絶し続けた。

 金銭的にアパートを引き払うことは不可能だった。父に育児放棄された妹を、妹が高校を卒業するタイミングで一緒に家を出たからだ。家を出たのは妹の提案だった。「あの家にいると自分が否定される。もう居たくない」と私に訴えた事がきっかけだ。

 妹は強い。自分を守るために動くことができる。とても尊敬する可愛い妹だ。私は妹のために働いた。だが、私の給料では妹を養うのはとても困難で、結局は父に援助を請求したが月に2万しか渡されなかった。当然、お金は足りず、私は学生時代から貯めていた貯金全てを使い果たした。

 30代になって、貯金が0になってしまい心が苦しくなった。その間、父は再婚を果たし、実家で幸せに暮らしている。悔しくて、苦しくて、憎しみが生まれた。

 そんなギリギリの生活をしている人間に「アパートを引き払って実家に引っ越してこい」なんてできるはずがないだろう。何度も言ったが父は信じてくれなかった。



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 私は約束を破る人が、父が嫌いだ。

 約10数年前に母がくも膜下出血で亡くなった時、父は幼い妹をママ友に押し付けようとしていたと姉から聞いた。母方の祖母が幼い妹を引き取りたいと打診があったのを断り、血の繋がりも何もない、妹のただの同級生の親に押し付けようなんて非常識にもほどがある。幸い、幼い妹が私から離れようとしなかったのが功を成したのか妹の養子の話は無くなった。だが、そのせいで妹は同級生たちから遠巻きにされ、苛められたりした。中には仲良くしてくれる子も何人かいたので大事にはならなかったが、今考えると可哀想な思いをさせてしまったと深く反省している。

 私や妹の苦労なんて知らず、自分の都合の良い、楽な人生を歩んできた父に嫌悪しか抱かないのは当然だろう。もちろん仕事が大変だったというのもあっただろうが、私は10数年間、自分の時間やお金を削り家族を精一杯支え続けてきた。全ては可愛い妹のためにーー、実際は父の都合の良い、心地の良い人生のためにーー。


 私の時間を犠牲にして、たくさんの人に迷惑を掛けて、幸せな人生を歩もうとしていた父に膵臓がんが見付かった。

 余命宣告をされたことを告げられた時、ショックよりもしっぺ返しに遭ったのだと、ざまあみろとさえ思ってしまったのは私が嫌なやつだからだろう。

 幸か不幸か父の容態は安定してしまい、余命宣告よりも長く元気に生きている。仕事も復帰して平然として生きている姿にまた苛立ちを覚えた。




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 ここまで長い時間を歩いてきた。

 十代は平穏でのんきな人生だったのだなぁと、今になって母の言葉を思い出す。


『あんたの人生幸せだね』


 二十代から三十代半ばまで、私はたくさんの経験をした。母に言われた言葉に「うん、そうだね。十代は幸せな人生を歩んでいたよ」と返すことができる。

 もう脳天気な幸せな人生を歩んでいる私はどこにもいない。たくさん傷付けられ、いばらの道を歩んできたと思っている。

 小さい頃から最近まで受けた傷が、不意をついて痛み出すことがある。痛くないと思い込んでいた傷口が、鋭い刃で切り裂かれたときと同じ様に、時間を置いてから痛み出している。

 あぁ、もしかしたら自分は我慢していたのだ。ずっとずっと自分の痛みと向き合いたくなくて、我慢して耐えていたのだと、祖母がいなくなってから気が付いた。

 もう私の頭を撫でてくれる人や甘やかしてくれる人はいない。けど、優しい言葉を掛けてくれる人や気における友人、頼りになる姉さんと妹。周りを見渡せば1人じゃなくなったのだと分かる。みんなそれぞれにたくさんの傷を抱えて生きている。

 傷付き、血塗れになりながら終わりのある人生を歩んでいる。今、私が『人生の絵』を描くとしたらどんな絵になるのだろう。

 きっと、大きな絵は描かないのだと思う。



END



 

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