第9話 筋肉痛地獄
「う、おおおおお……」
生まれて初めてボルダリングをした翌日、僕は生まれて初めてレベルのものすごい筋肉痛にのたうち回っていた。腕が痛い、脚が痛い。ていうか全身が痛い。
脚はベッドから降りるだけでも痛かったし、腕はトイレのドアを開けるだけでも痛かった。さらに言うなら右腕の内側には広範囲にすり傷ができていたし、左膝には青タンができていた。満身創痍だ。ボルダリングは軽い怪我を沢山するスポーツなのかもしれない。
九時に仕事を始めたけれど、マウスを動かすだけでも腕や肩が痛いので、あまり能率は上がらなかった。お昼の一時間休憩も、食事の時間以外はベッドに横たわり、ほとんど死んだようになっていた。
昨日「高嶺の花」をつかんだ僕は高揚し、その勢いでボルディックの月間パスに申し込んでしまった。一ヶ月間、いつでもジムに通い放題。シショウが「サブスク」と言っていたやつだ。
とはいえ、体がこんな状態では毎日通うのは無理だ。今日は休みにしようかな……。
その時、
うう、磐生さん……。やっぱり会いたいよ。
体は筋肉痛などにさいなまれつつ、心は磐生さんへの想いにさいなまれていた。
ろくに仕事にならないまま拷問のような時間が過ぎ、夕方六時に仕事を終えた。今日締切の仕事が無かったのは不幸中の幸いだった。
靴下をはき、筋肉痛の体をミシミシと動かして、ボルディックに向かう。昨日は黒いTシャツがチョークの粉で白く汚れたので、今日は白いTシャツにベージュのハーフパンツにしてみた。
そうしてたどり着いたボルディック。上腕の痛みを感じながらうおりゃあっとドアを引く。
しかしジム内に磐生さんの姿はなかった。
「あれ、壁田さん。今日も頑張るの?」
カウンターから声をかけてきたのは、白髪五割の長髪を束ね、髭をたくわえたオーナーらしき男性だった。
「あ、はい、まあ……」
「大丈夫? 筋肉痛になってない?」
「なってます!」
「じゃあ、無理せず休んだ方がいい。レスト日を設けるのも大事だよ」
「レスト日……って何ですか?」
「体を休ませる日のことだよ。休むことで怪我を減らすし、筋肉も強くさせる」
「そうなんですか?」
「うん。筋肉痛になっている時ってね、筋肉がズタズタになっている時なの。それが回復する時に筋肉は強くなるんだよ」
「へええ……」
なるほどとうなずきながら、今がチャンスとばかりに訊いてみる。
「磐生さんも今日はレスト日ですか?」
「あー彼はね。今日は休暇だけど、むしろ休暇日に体を動かして、勤務日はレストしてるね。今日は外岩にでも行ってるんじゃないかな?」
「ソトイワって何ですか? あ、色々訊いてごめんなさい」
「いやいや、いいよ」
オーナー(たぶん)が笑う。
「外岩ってのは、文字通り屋外にある岩のことだよ。山とか河原とかにある大きな岩をのぼるんだ」
「えっ、危険じゃないですか?」
「もちろん、うちみたいな屋内のジムに比べたら、段違いで危ないよ。でも自然と向かい合う喜びがある。ボルダリング自体、外でのクライミングから生まれたスポーツだしね。外岩を愛するクライマーは多いよ」
「へええ」
感心しながらも、僕には無理だな、って気持ちになる。
「あ、そうだ。今日はショウくんもレスト日で、今は休憩室にいるんだ。会いに行ってあげなよ」
そう言ってオーナー(たぶん)が通路の奥を指さした。
「あ、そうなんですね。行ってきます」
僕はぺこりと会釈して、休憩室に向かった。
レスト日でもジムに来るなんて、やっぱりここがシショウにとっての学童保育なんだな、と思いながら。
休憩室に着くと、シショウがテーブルに原稿用紙を広げていた。かたわらには「小学3年生 夏休みワーク」と書かれたワークブックと、袋に入ったマシュマロもあった。どうやら夏休みの宿題をしていたらしい。もうそんな時期か。
「あ、マシュマロさん!」
僕を見ると、シショウが笑いかけてきた。笑顔が愛らしい。
「シショウ、マシュマロ好きなんですか?」
「うん、好きだよ。マシュマロさんもマシュマロ食べる?」
笑いながら、個包装のマシュマロを差し出してきた。「ありがとうございます」と言って受け取る。
「マシュマロと、昨日アドバイスしてもらったお礼に、何か飲み物おごりますよ。何がいいですか?」
休憩室の自動販売機を指さす。
「やった、ありがとう! じゃあ、プロテインミルク!」
「は?」
驚きながら自動販売機を見ると、「脂肪分ゼロ、カルシウムアップ」と書かれたプロテインミルクが確かにあった。何だこれ?
「この自販機、スポーツジム向けのラインナップみたいだね」
シショウが言う。ほかには「脂肪を燃焼させる!」と書かれたスポーツドリンクもあった。確かに一般的な自動販売機には無い並びだなと驚きながら、スマホの電子マネーでプロテインミルクを買った。シショウの前に置く。
「プロテインって……シショウは筋肉を鍛えたいんですか?」
「ううん、どっちかと言うとカルシウム接種。身長を伸ばしたい」
「あーなるほど。身長が高い方が、ボルダリングでやれることも増えますしね」
「うん、それもあるし。あと、ボク、三月生まれでチビだから……」
シショウが珍しく、眉間に皺を寄せた。
なるほど、この年代で約一年成長が違うのは確かに大きな問題だろう。
シショウにも悩みがあるんだな。そう思いながら僕は、「脂肪を燃焼させる!」と書かれたスポーツドリンクのボタンを押した。
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