逆行のクロノグラフ
松原星羅
第1話逆光のクロノグラフ
12月の夜の冷気に、晴翔(はると)は軽く震えてしまった。
冷えた夜風に古着屋で買ったボロボロのボア・コートが靡く。着ているさまはまるで熊がジーパンを履いてるかのような見栄えだ。
「遅くなっちゃったなぁ」
閑散とした商店街を居酒屋のバイトでクタクタの足で歩いてゆく。商店街が閑散としているのは、単に古ぼけているだけでなく近くに大手のショッピングモールが出来たのもある。
「…もう辞めてしまおうかな」
堪え性もなく、欲の爆発と発散だけを繰り返しただけの人生だ。それなりに整った顔とコミュニケーションスキルで泥の沼に足跡をつけてきた。
商店街には表通りを無視して木の枝のように、またはトンネルのように路地裏が仕上がっている。
「あれ?」
晴翔が見かけた路地裏は突き当たりになっていて、その距離大体5〜7メートル程。表通りからその路地裏の丁度中間に老人が立っていた。
「なんだぁ?」
シルクハットを被り、漫画に出てくるような蝶ネクタイ、藍色の背広は微妙に路地裏の闇には溶け込んでいなかった。
「こんにちは。よろしければ見てみますか?」
老人と目を合わせたままだったのでなにを見せたいのか目を走らせていると、老人の足下には風呂敷の上に雑貨が広げられていた。
「こ、こんにちは。これって売り物なんですか?」
愚問だった。それに対して老人はニコリと笑いながら
「そうです。品質にもこだわりました。」
「そうなんですか。え、コレってオーダーメイドってやつ?」
ハンドメイドと言えばいいのに、晴翔はハンドメイドという言葉を知らなかった。
「そうです。この品物にとっても貴方との出会いは運命。」
「運命の貴方へ導くためにきっと私はこれらを作ったのだと思います。」
「はぁ…」
晴翔の言った事を特に否定せず、とうとう論述の程を展開してきた老人。
老人の言っていることが本当なのかと品物を舐めるように見て回る晴翔だが、一つの時計が目についた。
「すいません、この時計は…?」
そう聞いた途端に老人の目つきが変わったのが晴翔にはわかった。
どう変わったかというと、自分の作戦がうまく嵌まった時に出るどこかいやらしい目つき。笑った時のその目はまるで光を失くした三日月のようだった。
「…お目が高い。それは”時間を巻き戻す時計”にございます。」
「はい? なんだって?」
「厳密には巻いたものの時間を巻き戻す時計になります。」
その時計の秒針は規則正しく一秒一秒を刻んでいた。だが晴翔は老人から出た、あり得ない真実を真っ向から否定した。
「そんな事あり得ないでしょ。じいさん、時計はまともに動いてるみたいだから」
「もっとまともにセールスした方がいいと思うよ?」
正論で突き崩すつもりで放った一言だけに、晴翔は疲れていて下手な冗談に付き合う程の体力はあまり無かった。しかし——
「いえいえ。決して嘘や冗談などではございません。試しに貴方のコートで試してみては?」
「俺のコートで?」
確かに。晴翔のコートは2年前古着屋で買ってから、乱暴な扱いに辟易してるように内側は少しずつ破れていき、外側は毛羽立ち、埃と絡みついているとこさえある。
時計にあるはずの能力をお披露目するには打ってつけだ。
(このじいさんの言ってることが本当なら、俺のコート新品に戻るってこと?)
少しずつ晴翔の頭の中で企てられる、ささやかな野望。
(もし本当なら、俺は金持ちになれるんじゃね? この時計を使えば…)
晴翔はニヤリと笑った。
「じいさん、試してみてもいい?」
そう、先ずは時計の能力を確かめなければ。
嘘だったら今までの期待はパァになる。
老人に時計を渡され、コートの袖に巻こうとする晴翔。
ブラウンのレザーベルトや銀のケースに金のベゼル。縦の刻み目が入ったリューズに、インデックスはローマ数字で、左側にはクロノグラフが粛然とそこに居座っていた。
クロノグラフの針は真っ直ぐと12の針の方に向かって伸びていた。
「——よし。じいさん、嘘ついたら承知しないからな」
コートに時計を巻き終え、恫喝する晴翔。老人はびくともせず、ただ微笑みながらそこに立っていた。
「リューズを押してどうぞ」
緊張が晴翔の手を震わせる。もし騙されて、この時計が爆発したらどうしよう、破片が手首や首筋を襲ってきたらどうしよう、不安も汗となり、晴翔の額を濡らした。
「…いくぞ」
リューズを静かに押してみた。途端にコートの破れは、逆再生のようにみるみる補修されていく。
外側の毛羽立ちは慎みを持ったようにふんわりとコートに沈んで、システマチックな流れを作ってみせた。勿論と言うように、埃はどこかへ消えていった。
「す、すげぇ…嘘じゃなかった。」
衝撃と感動が一挙に押し寄せてきた。そこに非現実的な現象によって出来る恐怖心などはなく、あり得ない真実に対する戸惑いは確信へと変貌した。
「どうでしたか? 今なら安くでお売りできますが」
こうゆう時の晴翔の判断はいつも早い。そして決まって
「買う!!」
こうしてたったの一万円で売買は成立した。
晴翔には時計と、誓約書の控えが手渡された。
誓約書には『いかなる理由があってもその時計の機能が停止しても一切の責任は負わない』と書かれてあった。
師走の青い冷風が、晴翔の手と握られた誓約書を凍えさせた。
× × ×
時計を購入してから二日。晴翔は購入する直前に思いついていた作戦を実行しようとしていた。
「届くまでに時間かかったな…」
晴翔はなにを待っていたのかというと、フリマアプリで古くてもう使えない、要らなくなったブランド品を出来るだけ低い値段で買って、それが届くのを待っていたのだ。
持ち手のとれたバッグ、穴がいくつも空いてしまっている財布、さらには動かなくなった時計などなど。
「これを時計で修復して、売って、プレミアがついたブランド品を買って修復、さらに高値で売る…」
「これを繰り返していけば…見てろ、RX-7やGT-Rも夢じゃないぜ!」
旧車に想いを馳せるのは13歳の頃からであり、価格が高騰した旧スポーツカーを前々から欲しがっていた。
「千里の道も一歩から。よし、やってみるか。」
そうして彼は使い物にならないブランド品達に新しい道を作ってあげた。いや、スタートラインに戻した、と言うべきか。
そうして修復する、売るを繰り返していき、それに比例して時間もどんどん過ぎていった。
大学にも行かなきゃいけないのに、彼は金という限りのない数字を、時間という限りある数字を犠牲にして少しずつ掌握しようとしていった。
時計の能力を使う度、クロノグラフは地道に進んでいった。
だが、彼の体に異変が起き始めていた。
修復する度に彼は頭痛や耳鳴りが酷くなっていったのだ。気力も無くなってきているように思える。
晴翔はそれでも修復し続けた。何のためにやっているかわからなくなる程に。
いつか必ず、万物には終焉がやってくる。
その”いつか”を晴翔の時計は容赦なく塗り替えていた。
楽することに飢えた明日、そんなものに価値はない。
× × ×
双眼鏡を老人は覗いていた。壁に向かって覗いているにも関わらず、中に映るのはブランド品をセコセコと修復する晴翔だった。
「飽きもせずにまぁ…」
老人は金に飢えておらず、特に今の世界で欲しいものなどなかった。だから晴翔の謀は理解し難いものだった。
「まぁ、そうやって知らず知らずの内に私に貢献してる…なんて言うと怒りますかね?」
老人は双眼鏡から目を離し、自分の後ろにある、卵型の機械に目を移す。
「タイムマシンは完成した。後は彼含めて、時計を色んな人間に使わせるだけ…」
「巻き戻した時間はこの機械に吸収される。そして私は過去に戻れる。」
老人の手に力が入る。手には血管が浮いてきている。
「私が過去に干渉する事ができれば、きっと彼女も——」
老人は古い白黒写真をポケットから取り出した。写真には白いワンピースを着た女性が写っている。
歴史は、そこいる人間達によって綴られていく。未来から干渉を受け、糺される歴史とは必要な過ちさえ否定してしまう。
完全無欠の”結果”よりも、その過程の中で努力した”事実”こそが案外大事なものだ。
老人もそこは理解しているつもりだ。それでも納得したい自分にはいつも負けてしまう。
「さあ、もう少し。」
過去になにがあったのかは彼のみぞ知るが、それでも彼は愛する人を取り戻したいのだ。
× × ×
久しぶりに雨が降っていた。如月の時雨は冷気の中、地上にあるものを拍手のように打ち続けていった。
晴翔の部屋の窓も雨に打たれ、水滴が落ちてはまた新しい水滴が生み出されていた。
晴翔は前にいた部屋からそこそこの家賃で、駐車場付きの2LDKに引っ越して、バイトも時給は良かったのに辞めていた。
しかも契約した駐車場には600万円前後で売られていた程度の良いマツダ・RX-7を購入して、自分の物にすることができた。
車は一括で購入し、イモビライザーも取り付けた。今の生活に特に不満は無かった。
「んん…痛てぇ…」
雨音で起きた晴翔。一週間程前から頭痛や耳鳴りがさらに酷くなり、しばらく時計を使っていなかったがそれでもまだ治る気配は無かった。
色んな質屋を回ってブランド品を売り捌いていたが、怪しまれているかもしれないと思ったし、体調も優れないこともありいい機会だからと最近は行っていない。
大学にも行けておらず単位は落としつづけ、
しまいには彼の親から「留年通知が来たんだけど」と電話越しでこっぴどく叱られた。
当然、頭痛や耳鳴りで話しなんて聞いていられなかった。
「…腹減った。」
気づけば昨日からなにも食べれていない。
近くにコンビニがあるのでそこで食べやすそうなものを買おうと思い、立ちあがった。
無理に力を入れて新しくしたコートを引っ張る。しかし、ドア枠に掛かるハンガーががっしりとコートを掴んで離さない。
「ちっ この野郎っ」
無理に引っ張ろうとした途端、ガリッという音と共にハンガーごと落ちてきた。力を入れていただけに、勢いよく晴翔は倒れ込んでしまった。
「くっそー…」
また力を込めて立ち上がらなくてはいけないのか。晴翔は立ち上がった努力を否定された気がして、軽い喪失感に打ちのめされた。
その時、臀部に硬い何かが当たっていた。
「あっ」
そこには例の時計が転がり落ちていて、クロノグラフはかなり進んでいた。
「最近使ってないなぁ」
まだ修復してない、余っているブランド品は押し入れの中にたくさんある。
でもそれを修復してみた時のことを晴翔はゆっくり考えてみた。
「巻いて、ボタンを押す。巻いたものの時間が巻き戻る。売る。金になる。……そうだ、足りない」
そう。巻き戻す度に起こる頭痛や耳鳴りだ。
元々、晴翔は自分がストレスに弱いような造りであることは自覚しており、頭痛や耳鳴りは大学や居酒屋のバイトによるストレスが原因だと思っていた。
しかし、それなら時計を買う以前から起こるはずだし、なんなら時計を使い始めてから起こりはじめた。
「つまり…」
晴翔はコートを着て、あの商店街へ出掛けた。壊れてしまいそうなほど強く、時計を握って…
× × ×
雨は止み、空は仄暗くなってきていた。街灯は人の流れを局所的に照らす。晴翔も照らされてはひっそりと地面に影を落としていた。
「ハァハァ… チッ…」
自分がボロを出した割には他人を恨む余裕のある晴翔。
さっきもふらついていたところを警察官に止められ、「お兄さん、クスリとかやってないよね?」と職務質問を受けてイライラは更に増していた。
それでも無理を押して歩みは止めず、ようやくあの時の路地裏に到着しようとしていた。
もしあの老人に会ったらどうしてくれようか。
ここまで来ると金の問題ではない。どうにかして元の体調に戻してもらわなければ。
明るさだけは一丁前の商店街の表通りから歩みを外し、例の路地裏に踏み込んだ。
——いた。老人は変わらぬ様子で立っていた。
「…よぉ ちょっと話そうぜ」
晴翔は悪態を突きたくて堪らなかったが、老人がそのタイミングを遮った。
「どうかしましたか? なにか問題でもありましたか?」
プツリと、晴翔の中でなにかが切れた。
「大問題発生中だよ!! 俺、だんだんおかしくなって来てんだよ!!」
「左様でございますか。具体的にはどのような…」
「どこもかしこも体がおかしくなってんだよ! 頭は痛いし、昨日なんて血を吐いたんだぞ!」
思いつく限り老人に思いを叫びたかったが、いかんせん体の痛みと怒りで思い出す余裕が無かった。
「なるほど。ですが、目論見は上手くいったのではないですか?」
「…なんだと?」
晴翔はドキッとした。
モクロミ、その言葉が自分の謀を見抜いていて、その上でなにか、自分にとって不都合な事を言わんとしていることが、晴翔にとっては緊張の引き金になっていた。
「沢山稼げたそうでなによりでございます。 ですが返品、または交換は受け付けておりませんので。」
「はあ? もう要らねえわこんなん! いわくつきの時計なんか寄越しやがって!」
「ハハッ ですから返品は受け付けておりませんから。」
余裕のある笑みだった。それが余計に晴翔をイラつかせる。
「そう来るか。 わかった なら——!」
晴翔は時計を地面に向かって全力で振り下ろそうとした。意向形な表現をしたからには、晴翔が結果的に時計を壊せなかった事を意味する。
「…どうかしましたか?」
誓約書だ。晴翔は時計を壊そうとした瞬間に誓約書の内容を思い出した。
(ここでこの時計が壊れて、機能が停止したら… 俺は?)
誓約書の内容に逆らう事に恐怖を覚えてきた晴翔。
そもそも時間を巻き戻せる時計などという非現実的なものがあるのだ。
誓約書の内容に逆らえばどんな事が起こるかわからない。わからないから怖い。
逆に言えば、老人は恐怖をもってして晴翔を既に支配しているのだ。晴翔は老人の術中に嵌ってしまった。
僅かに沈黙が流れたが、先に動いたのは老人だった。
「言っておきますが、体に起きている異変ははかなり進んでるようで。」
「なにが言いたい?」
「時計を使わないならそれで結構ですが、異変が収まることは無いと言いたいのです。」
老人の口調はそのままでも、内容そのものは晴翔の劣勢を裏付ける内容ばかり。
初めて会った時とは大違いで、会話も立場も完全に老人の方がリードしているのだ。
しかし、それを聞いた晴翔に一寸の光が閃く。
「そっか。 時間が経ってもそのままなんだな? 時間が”経っても””そのまま”…な」
「?」
老人は晴翔の言葉の真意が汲み取れなかった。
「見てな…俺はどんな困難も切り抜けてみせる!」
晴翔はリューズを押して、自分の腕に時計を巻いてみせた。
進んでいたクロノグラフは逆行し始めて、みるみる弱っていた体が元の調子を取り戻し始めた。
「やった…やったぞ!」
晴翔は叫んだ。
老人は掌を顔に当てて震えていた。指の隙間からは強張った口に垂れてきた涎がヌラヌラと光っていた。
「どうだっ! これでもう俺は死なない!」
スポーツの大会で賞を取った時、初めてキスをした時、自動車の免許を取った時、この勝利の喜びはどの思い出も蹴散らす程、感情の爆発が大きかった。
勝利を宣言した晴翔の目の前で、老人は崩れるようにひざまづいた。
そして到頭顔を隠したまま動かなくなった。
「なんだ? もうなにも言えなくなっちまったか?」
勝ち誇る晴翔、その直後だった——
「うおっ——!」
老人の背後から強烈な風が吹き荒ぶ。コートは大きく痙攣するように波を打ち、晴翔の体は今にも吹き飛んでいきそうだった。
「…死なない、そうですね。 貴方が死ぬことは無いでしょう。」
「でも今から起こる出来事を、貴方はどう切り抜けるか——期待しております。」
そうして、路地裏の闇に溶けてゆくように老人は姿を消した。
「起こる出来事…? 最後は負け惜しみかよ」
老人の残した言葉を一向に信じない晴翔。体調は元に戻ったことや、老人に一泡吹かせた余韻でしばらくその場に座り込んでいた。
しかしまだ二月、夜はよく冷えていて、もうそろそろ帰るか。と踵を返そうとすると——
「…え?」
「っ!?」
晴翔の目の前にはもう一人の晴翔が立っていた。12月のバイトを終わらせたあの日のあの格好で、例の路地裏のすぐそばで。
「お、俺?」
信じられないというよりも、理解できなかった。
(双子なのか? いや違う、俺に兄弟なんていないハズ)
(もしかして、テレビ番組のドッキリ企画に巻き込まれた…とか?)
頭の中でなぜ自分が目の前にいるのかを模索しても答えは出なかった。
戸惑う晴翔と晴翔だが、二人はさらに驚愕した。
目の前の自分を含めて周りの建物だったり、夜の闇や商店街の灯り、全てが消えて無くなってきているのだ。
晴翔が見ている世界、晴翔の心の中も全てが白に染まっていく。いや、全てというのが砕け散って”無”に換わっていっている。
自分以外のものは全て自分を無視して、重力だけが自分の味方で。己の息遣いや鼓動に、もはや外的要因が侵害してくることもない。
そして、晴翔は一人ぼっちになった。人も、音も、匂いも…なにも訪れる事のない”無の世界”。
晴翔は叫ぶこともなく、狼狽する事もなかった。ただ、あの老人の言葉と自分の置かれている状況をゆっくりと照らし合わせるだけだった。
それでもやっぱり二つしか解る事がなかった。
この出来事が起こる前、老人が笑っていたこと。厳密には笑いを堪えていた事。
なんで自分を、どんな理由で時計の所有者に選んだのかは不明だが、今から起こる出来事を——と言っていたのだ。どうなるか彼はわかっていた。わかっていて止めもしなかった。
自分にとって不利な事が起こるなら止めるハズなのに。
そして二つ目。これは晴翔の推測でしかないが、リューズを押してあの時の自分と遭遇したということは、時計は晴翔自身の時間を逆行させた。だから自分に遭遇した。
これは実際に起こっているのだから信じるしかない。信じないとやってられない。そう晴翔は思った。
問題は晴翔が二人出会って、なぜこんな空間に閉じ込められているのか。晴翔はまた、こんな推測を立てた。
「ドッペルゲンガー…」
晴翔は聞いた事がある。小さい頃、オカルトが好きな叔父に「自分と同じ人間と出会った時、そいつはこの世から消えてしまうんだゾォー」と話してくれた。
その話を思い出した。我ながら冷静に判断できたなと褒めたいが、こんな状況じゃなんの役にも立たない。
消えるというのがまさか、別の空間に閉じ込められるだなんて。叔父にも帰って教えてあげたい。
帰って。ここから出て。
二人の少年は行方不明になった。自分を探す人間達が”向こう”に残り、夢のマイカーはきっと他の人の手に渡り、冬の風は重力に逆らって、今も誰かを震わせている。
ただ、晴翔は、晴翔だけが戻って来ることは終ぞなかった。
× × ×
「…ダメだ。これも上手くいかない。」
青年は悩んでいた。色んな機材が置いてある研究室で、頭を抱えては実験に失敗する度に絶望する。
青年は物理学を専門とし、有望な研究者になりたかった。恋人と結婚する。その目的を果たしたいが為に。
結婚するためには彼女の父親に認められなければならない。認められなければ彼女はとある財閥の御曹司と結婚させられてしまうのだ。
「奈々美さん、僕は、僕たちはここまでかもしれない。許してくれ…」
諦めかけたその時-—-—
「まだ早いんじゃないですか。諦めるのは。」
後ろから聞こえてくる声にビックリした。優しい声でも、知らない人間がそこに居るとわかれば、小心者な青年はなおさらビックリするだろう。
目の前に居た老人はシルクハットを被り、漫画に出てくるような蝶ネクタイ、藍色の背広を着ていた。
「あ、貴方は…?」
青年は問いかけたが、目の前にいた老人は胸ポケットから紙の束を取り出した。A4サイズの紙が三十枚程連なり、ホチキスで留められている。
「御託は結構です。急ぎなさい。彼女を取り戻したくないのですか?」
「! 何故それを…」
老人は青年に紙の束をそっと手渡した。
「貴方のぶつかっている問題を解決する方法がそこに書いてあります。今度開かれる研究発表会でそれを使いなさい。」
青年はペラペラとページをめくってゆく。
「す、すごい…! あんなに難しかった問題なのに、こんな簡単な事だったのか!」
ありがとうございます、と言いたかったが、老人はいつの間にか姿を消していた。
見知らぬ人間の怪しげな助力に不安を覚えたが、青年にはもう後は無かった。玉砕覚悟で彼は発表会に臨んだ。
結果は大成功で、彼女との結婚も認められた。
青年は心の底から感謝した。
他者の犠牲を踏み台にして得た幸せとも知らずに、今日も彼は未来を紡いでゆく。
〜完〜
逆行のクロノグラフ 松原星羅 @SHOTA2260
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