第6話 楠木邸-4&ススキの原 (羽島視点)
「話はわかりました。そうなりますと残りの三人はもう、ということですか」
「たぶん、ですけど……少なくとも慎と美咲は……」
「なるほど。このままこちらで待っていてください。少し、彼と話す事がありますので」
「あ、あの……あなたは、彼とどういう……」
「取引相手です。では」
ピシャリとそう言い残して、葵を残し車のドアを閉めた羽島は、外で待つ鱗の元へ向かっていった。
一人車内に残された葵は、ぼうっと呆けてしまう。
大事な友人が亡くなったというのに、どうしてか彼女は涙が出なかった。
それはきっと、つい先程まで巻き込まれていた環境があまりにも非現実的すぎて、本当に起こったことだと頭が理解できていないからなのだろう。
その代わり、ただ脳裏に浮かぶのは、あの時の彼の姿。
まるでこの世の全てを呪い殺しそうな悪霊を前にして、普段と全く変わらない様子で佇む青年。
どうしてか葵には、彼のその姿が大きな闇のように見えた。
なにもかもを等しく蝕み、全てを己の内へと消し去る暗黒。
その穴の中へ、葵たちを皆殺しにしようとした悪霊も、悪霊に取り憑かれた慎も、この家を取り巻いていた怨念すら呑み込まれて、この世ではないどこかへと消えた。
そこまで考えて葵は。
もしかすると自身の悲しみすらも吸い込まれて、どこかへ消えてしまったのではないかと、そんな風に思った。
一方、鱗の元へと歩いていた羽島は、自身の中で葵をどのように位置付ければいいのか決めあぐねていた。
正直なところ、羽島は彼女をあまり信用していない。
むろん霊祓庁の職員としては、霊被害にあった民間人を保護しない理由はない。
けれどそもそも彼は自身の所属や職業を二人に明かす事はできないし、今の彼女は特務部署の監視対象を危険な場所へ誘拐した集団の一人でもあるのだ。
流石に葵がどこかの犯罪集団の工作員であるとか、邪法宗の手先だとは思っていないが……それでも警戒するなという方が無理があった。
彼の力はとても強力だが、しかし極めてピーキーでもある。
もしもここに「ガラの悪い先客」や「野生動物」が居れば、万が一の可能性もあり得た。
彼女の語る事情は確かに多少酌量の余地があるとはいえ、それが真実かどうかも現状わかったものではない。
言うまでもなく、もしも鱗の話が先程の葵のそれと食い違えば、羽島は鱗の方を完全に信じるだろう。
だからこそ……どうか彼女が嘘をついておらず、あの人もまた憐れまれるべき被害者の一人であってくれる事を、羽島は願っていた。
寒空の下、廃墟の前に置かれた折りたたみ椅子に座った鱗が、手持ち無沙汰にスマホを弄っている。
すっかり冷えた体を震わせるその姿を見て焦った羽島に、車にあったカイロを5つも貼られウィンドブレーカーを着せられたことで、むしろ今や少し暑そうにすら見えた。
羽島としては葵と彼の配置を逆にしたいところだったのだが、「そんな事をして大学内で変な噂を流されたくない」と考えた鱗が遠慮した結果この形になったのだ。
人の心には疎いクセに、自分が悪評を流されるかも知れない事には敏感な辺り、これまで生きてきた彼の人生の苦労が見て取れた。
一見すれば羽島の鱗に対する一連の行動は、度が過ぎた過保護に見えるかも知れない。
けれども、そもそも鱗は知らないが、羽島の本当の業務内容は鱗の警護である。
風邪を引かすわけにもいかないし、加害者の一員と比べて彼を優遇しようとするのはある意味当然の話だった。
……まぁ、部署の中でも「ちょっとヤンデレ入ってないか……?」と同僚に心配される程、彼がとりわけ過干渉である事は否めないが、誰が何をどう大事に思うかは人それぞれである。
「人見君、災難だったね」
「いやホントですよ……無理矢理こんなとこ連れて来られるわ、深夜にグロいの見せられるわ、後味も悪いわで……羽島さんも、こんな夜遅くに連絡しちゃってすいませんでした。正直ダメ元だったんですけど……こんな時間にこんな早く来てもらえるなんて」
「あー、仕事でちょうどこの辺りに来てたからさ。いつも依頼を受けてもらってる身としては、これくらいサービスの内だよ」
鱗は先程慎たちが2階に行っている間に、羽島へと連絡し救助を頼んでいたのだ。
そもそも鱗は羽島の事を、個人事業主(?)である鱗へ各所から仕事を持ってきて仲買する「仲介者」と認識している。
怪異や怨霊を抹消する事しかできない鱗の力を、依頼という形式に整えた仕事を用意して金銭に変えてくれるありがたい存在。
そして鱗側からも怪異や幽霊に関する内容であれば、ある程度の相談ができて対価次第で物資やセッティングもしてくれる特殊な仕事をしている人。
それが鱗にとっての羽島たち特務部署の人間への感想だった。
だからこそ彼は今回、「呪われた家に連れ込まれた自分の救助」を頼めないかと羽島へ電話をかけた。
自分たちは勤務時間など固定ではないから、いつでも気にせず電話をしてよいと事前に言われていた事も、この行為を後押しした。
そんな風に言われていなければ、流石の鱗もこんな時間に単なる仕事相手へ連絡できなかっただろう。
そしてアラートを聞いて即座に出発し、真実が露呈してもやむなしと現場へと向かっていた羽島は、鱗からのTELをこれ幸いと利用。
なんとか今回も彼に、自身が秘密裏に警護されているなんていう裏事情を知られる事なく、ある程度自然に保護する事ができたのである。
「で、中はどう?隠さなきゃいけない何かがあるなら、料金追加でやらせてもらえるけど」
「あー、いえ……一人はもう、跡形も無いので。他の二人はここの怨霊が手にかけたんで、僕は関係ないっていうか……いや、ホントは今生き残ってる女の子も死んじゃったのかと思ってたんですけどね。羽島さんが来た時に、上から人の声がしたからめちゃめちゃビックリしましたもん」
「そっか。人見君は大丈夫?」
「へ?あー、怪我はありませんよ」
「それは何より。じゃあ、メンタルの方は?」
「あぁ……うん……残念でしたけど、どうしょうもなかったし……仕方ないよなぁ、って」
その言葉が自分に言い聞かせるようなものではなく、本心から語られている事を確認した羽島は、「ならいいんだ」と即座に話題を切り替える。
「じゃ、よければ今回の事について詳しい話を聞かせてもらえるかな。こっちとしてもこの心霊スポットがどうなったのかを含めて、事情を知っておきたい。この仕事って、情報収集が命だからさ」
「あ〜、えっと〜、そう、ですねぇ〜……」
「言い難い部分はもちろん省いて貰っていいよ。例えば、そうだな。誘拐しようとしてきた相手との関係性とか、プライバシーに関わる事だしね」
監視によりある程度の事情を知っている羽島のそのフォローに、普段から大学でイジメられてたなんて情けない事を言わずに済むとホッとした鱗は、既に全てバレていることなんて露知らず、掻い摘んでここに至るまでの事情を説明してゆくのだった。
「なるほどねぇ。“仲の良くない“グループにコンビニで車に連れ込まれ、無理矢理肝試しに同行させられた、と。そりゃまぁなんというか……普通に犯罪だねぇ」
「ですよねぇ!?マジでヒドイ話なんですよぉ」
「ふーむ……これは単純に興味なんだけどさ、あの一人だけ生き残った娘も人見君を攫う時はノリノリだったりしたの?」
「いやあの人もぉ!……あれ?なんか、そういやぁ」
何かに気付いたように考え込む鱗に、羽島は視線で続きを促す。
「今思い返すと……あんまり乗り気じゃなかった人なんですよね、たぶん。そもそも僕を連れてくのも嫌がって。それを強制的に連れてこうとしたグループの一人に言われたから、めちゃめちゃ腹立たしかったんですけど……それに一人から乱暴された時も、彼女だけ止めてた……ような?」
「え、乱暴されたの?」
「あ~、まぁ、怪我はしなかったんですけど。だからこんなに服も汚れちゃって」
「そりゃ災難だったねぇ」
そんな風に相槌を打ちながら、羽島は脳内で聞き出した情報を整理し再度編み上げてゆく。
葵の言っていた事は、おそらく概ね正しそうだ。
であれば彼女は無罪放免となる目算が高い。
そもそも不法侵入ではあるけれど……自分たちは警察官ではない。
死体はこの後来る特務部署の人間で処理するが、だからといって犯人探しもしないし無鉄砲な若者を補導したりもしない。
翻って、幸運にも生き残ったサバイバーに精神異常者の烙印を押す必要もなかった。
家の中で死んだとされる三人、これは普段の霊障被害通り事故扱いで良い。
愚かにも肝試しと称して廃屋へ向かい、その先で不幸にも猪と遭遇し命を落としたとか、そんなところだ。
宮坂葵はたまたま難を逃れたが、極めて錯乱しており当時の状況を思い出そうとすると記憶に混濁が見られる。
そして、人見 鱗という人間はその場には存在しなかった。
公的な記録としてはそのくらいが残る事になるだろう。
霊祓庁に入って三年、心霊スポットへ凸し被害を受けた一般人の事後処理は、もはや慣れたものであった。
こういう事件や、その後の顛末は別に珍しい話では無い。
そもそも怪異に呪われた場合、大抵の一般人はもう助からない。
それは霊気を持たぬ者のあまりの耐性の無さ故だ。
だからそういう所へ遊び半分で訪れた場合、どうしたって人死にがでるのは避けられないことも多い。
ならもっと厳重に心霊スポットを取り締まれと言われそうなものだが、それらの土地は放置されているわけではなく、長い時間をかけて調伏しているか、もしくは周囲の怨霊や怪異との縄張りの関係上、今はまだ無理に祓わない方が被害が小さい場合がほとんどなのである。
だからこそフェンスを立てたり立ち入りを禁止する看板を立てたりと、まっとうな感性を持つ相手であれば侵入を躊躇するような対策を庁としてもしているのだが……法すらも無視する愚かな人間を止める術など存在しない。
霊の存在を公にするのは論外だ。
貴方たちを簡単に殺せる目に見えない何かが日本中に居るんですよ、なんて政府が認めてしまったりすれば、その後の混乱がどうなるかなど火を見るよりも明らかだろう。
結局、大半の人間が霊力を持たず霊が見えない以上、その存在は隠し通すしかないのである。
なによりそもそも、霊祓師は才能ある人間が厳しい鍛錬を積んでようやくなれるものであり……つまりは万年人手不足なのである。
鱗が重宝されているのには、そういった側面も存在する。
通常であれば霊祓師複数人で当たらなければならない難敵を、たった一人で損耗もなく消し飛ばす彼は、はっきり言って異常なのだ。
そんな霊祓師業界からしてみれば、日本を揺るがすような外道を企てる邪法衆や、県単位で被害を及ぼしかねないアクティブな怪異・怨霊を優先して対応しなければならない。
無論凸するバカも守らなければならない無辜の民であることは間違いないけれど、勝手に不法侵入して呪われる人間が後回しになってしまうのはやむを得ない実情であった。
もちろん霊祓師たちとしてもそれを良しとしているわけではないのだが……わざわざ死にに行く人間を、どうやって止めればいいものか。
未だ彼らの中でも、明確な答えは出ていない。
「さて、人見君には悪いんだけど、君は後続の人員と共に内部の最終確認をお願いしたいんだ。一通り見たらそのままむこうの車で家まで送らせてもらう。疲れてるとこ悪いけど、もう少しばかりお付き合い願うよ」
「えぇ……あー、はい、わかりました」
しっかり嫌そうな顔をするという気遣いのできなさを露呈しつつ、それでも嫌とは言わず鱗は頷く。
彼は彼なりに自分の力を理解している。
面倒だしもう寝たいし次の講義までにやっとかなきゃいけないこともあるが……自分がいる事で知り合いの危険が減るのだったら、放り出さずにやった方がいい。
何かがあった後に聞かされて罪悪感を感じるよりは、そっちの方がまだ精神衛生上よろしいからである。
どこかの映画で聞いた事のある「大いなる力に大いなる責任が伴う」なんて言葉は、まっぴらごめんだと彼は思っているけれど。
自分なんかと仲良くしてくれる人の為なら、できる事はやってもいいかなと鱗には思えた。
「すまないね。……そうだな、もしこの後の作業のせいで損害を被るなら、補填できるかもしれない。例えばだけど、なにか講義の提出物に間に合わないとかがあれば、大学側に免除するよう手を回したりとかね。ウチの組織ならそれくらいの事はできる」
「え!?…………いえ、でもその講義で提出物があるのは、僕が以前小テを落としたからなので……流石に、それまで免除は、気不味いっていうか……大丈夫、です……」
「そ、そうかい?……まぁ、本当に困った事があれば、遠慮なく言ってくれ」
思いもしていなかった羽島の一言に、とてつもなく心を揺さぶられたが……結局嘘をついてなんとかしてもらおうという度胸すら無かった鱗は、正直に白状して泣く泣く単位を諦めるのだった。
そんなちょっとダメな大学生そのものな彼の姿を見ていると、羽島はあの日の彼との解離に不思議な感覚に陥ってしまう。
まるで同じ姿をした別の人間を前にしているような違和感。
もっと上手く生きれば幸せになれるだろうに、どうも要領の悪い部分に対する憂慮。
そしてそんな情けない姿を晒す彼が、自分にはけして届かない場所に立っているのだと理解させられる寂寥感。
鱗を見ていると、羽島はそういった感情を抱く。
彼の力を知ったあの日から。
羽島が本当の意味でこの仕事と向き合い始めたあの日から、ずっと。
■
陽が山際にほとんど没した夕暮れ時。
郊外の林道を進んでいた黒塗りの車が、脇へと伸びる山道の前で停車した。
「……着きました。ここから少し歩いた所にある、野原がそうです」
「え? あ、ここまで……あぁ、いえ、ハイ……わかりました」
なんで道は続いてるのに目の前まで送ってくれないんだろう……と、不思議半分嫌がり半分な顔を隠しもせず、鱗は車から降りていく。
ぽてぽてと締まりのない歩調で山道を歩くその様は、まるで無理矢理ハイキングに連れ出されたインドア派の青瓢箪といった感じで。
その頼りない後ろ姿を見送る羽島の心中は、けして穏やかとは言えなかった。
今からでも追いかけて引き戻した方が良いのではないかと思ってしまう程、不安と後悔で満たされている。
本当に彼は大丈夫なのだろうか。
自分は今、訓練もされていない一般人をただむざむざ死に行かせただけなのではないか。
本来は彼のような人間を守る為、自分はこの職に就いたハズなのに。
今じゃその守るべき相手を怪異へと案内する運転手っていうんだから……。
なにがどうしてこんな事に……。
頭痛すら覚えるようなこの状況に、羽島はハンドルへもたれかかるように身を預ける。
自身の無力さに、胃に穴が開きそうだった。
羽島が特務部署に配属されてから数週間。
顔合わせをしたことはあったが、鱗の仕事に付き添うのは初めての体験であった。
なんでも彼は、ここ二ヶ月だけで三件もの仕事をこなしているそうだ。
これが多いと見るか少ないと見るかは、人によって意見が別れそうなものだ。
数ヶ月で仕事を三件と聞けば怠慢に聞こえるだろうし、三度死線を潜ったと聞けば人は彼を畏れるだろう。
怪異や怨霊という存在の危険性を知っている羽島にしてみれば、言うまでもなく後者であった。
鱗と初めて顔を合わせた時、「頼りなく目の離せない親戚の子供のようだ」という感想を羽島は抱いた。
この部署が今日まで存続されている理由や、彼が成したとされる業績の極々一部を聞いていた羽島にとって、想像上の鱗と現実の彼の在り方はあまりにも乖離していた。
もっと泰然自若として、傲岸不遜な人間を想像していたら、出てきたのは常に自信なさげにおどおどしている小柄の青年だったのだから、正直驚かされたものだ。
けれど、それでこそ自分たちの仕事の余地があるのだと先輩職員に言われて、まぁそうかと納得もした。
その褒めがたい性格について思うところが無いわけではないが、しかし事前に聞いた彼の力を思えば、それくらいの瑕疵など物の数にもならない。
だから力無き自分たちは、才ある彼を全力でフォローしなければならない。
天才が人格面で優れている必要はないと、彼は考えている。
本人にしかできない事をやり遂げて社会へと甚大な貢献をしているのなら、むしろ社会そのものがその人間に対して配慮をして然るべきだというのが、羽島の思想であった。
これは鱗が相手をしてきた強力な霊障度を有する怨霊や己の欲望のままに生きる邪祓師を放置すれば、どれほどの被害がこの国に及ぶのかを理解している霊祓師だからこその視点とも言える。
それに、そういった使命感を横に置いても……鱗は少し危なっかしすぎた。
できれば仕事以外でも、誰か大人が世話をしてやった方がいいのではなんて考えてしまうほどに、実際に会った彼は本当に生活能力や危機意識に欠けていた。
生来面倒見の良い性格をしていた羽島にしてみれば、日常的な所作から考え方まで多岐に渡りハラハラして見ていられないところばかりなのだ。
そんな彼を今初めて現場へと送迎し、凶悪な怪異と対峙しに行く背を見送ったのだが……やっぱりどうしても心配をしてしまう。
その功績を聞かされていたとしても、どうしても心から信じきれないというか……どっしりと構えて待つなんてことは、羽島にはできなかった。
ススキに宿り、聞くものを狂わせ凄惨な事件を引き起こさせる怪異。
こいつの厄介な点は、その囁きを防ぐ方法がないというところだ。
どんな防音具も意味を成さず、並の霊祓師では狂気を跳ね返すこともできない。
協会から派遣された一線級の霊祓師すらも、近付く前に「単身では手に負えない。少なくとも同格が三人は必要だ」と除霊を中止した程だ。
いくら彼が二ヶ月の内に三度も怪異を滅した腕前を有すると聞いていても、何の訓練もされないままの市民を本当にそんな地獄へ……。
「なんだよ、そんな滅入った顔して」
そんな風に悶々としていると、助手席の保井が電子タバコを吸いながらケロッとした顔で話しかけてくる。
羽島には先輩のその態度がひどく冷たく無責任なものに感じられ、思わず強い口調で言い返す。
「な、なんだよって……本来彼は守られるべき一般市民で、まだ大学2年生なんですよ!?そんな未来ある青年を、あんなヤバい怪異の元へ送り出して……これで帰ってこなかったら、僕らが殺したみたいな……もんじゃ、ないですか」
「あぁ?なんだオマエ、そんな心配してんのか?特務部署来た時に彼について教えられたろ。大丈夫だって」
こともなげにそう言い放つ保井に、羽島はさっきまで抱いていた義憤を通り越して、一周回り困惑してしまった。
どうしてこの人はこんなに気負わずに、彼を信頼できているのか。
そんな疑問が頭に浮かぶ。
業務内容のほぼ全てが人見 鱗への対応と警護、監視に絞られる通称“特務部署“。
対外的にはもちろん、政府直轄対霊機関である『護国祓霊庁』の中でも本当に限られた人間しか知らない、秘中の秘であるこの部署の職務内容。
それがまさか単なる二十歳になったばかりのガキの相手をする事だとは……真実を知る前の羽島自身に教えたとて、けして信じはしなかっただろう。
この部署に入ってなお羽島は、彼が異動してくる以前の鱗の資料を直近三件分しか見せられていない。
必要な分を必要な時に見せる以外の開示が成されることは、この部署において断じて無いのだ。
その部署に保井は三年ほど前から務めている。
自分よりも何倍も長く鱗と接してきた人間が、彼の力をそこまで信用しているのを見て、羽島の中でとある恐るべき仮定が鎌首をもたげる。
果たして鱗の力とは、本当に自分が知っている程度で収まる物なのだろうか。
もしかして、彼はもっとなにか……途方もない存在なのではないか?
「つってもまぁ、そうか。お前に知らされてるのって、全部霊障度:伍くらいだったな。一週間放置しても町が滅ぶ程度の相手の話しか聞かされてないと、心配くらいはするかもしれんなぁ」
「く、くらいって! 伍まで行ったら偽装警報で近隣住民の避難も行われるクラスですよ!? それ以上なんて、そんなの数十年に一度あるかないかの……」
瞬間。
背に走る強烈な悪寒に、羽島の意識が飛びかけた。
しかしそんな常人ならば気絶間違いなしの衝撃を受けながらも、彼はすぐさま車から飛び降りて懐から短刀を抜き放つ。
悶々としている間に、すっかり日は落ちて辺りは暗闇に包まれていた。
その閉ざされた闇夜の奥から。
まるで巨大な怪異の口の目前に立って居るかのような、殺気に満ちた生温い風が轟々と吹き荒れる。
ほとばしるあまりに膨大な霊気に、構えた短刀のあまりの頼りなさに彼は思わず苦笑する。
吹き出した脂汗が目に滲みて視界がボヤけるが、そんな些事に構っている余裕も無い。
彼が鋭く見つめる先。
それは……今しがた鱗が向かったススキの原の方角であった。
木々で遮られて見通せぬその場所で、いったい何が起こっているのか。
巫蠱の血脈でなく後天的に霊気をかろうじて習得した羽島にとって、在るだけで自らが吹き飛ばされそうなこの霊気の爆発は、命の危機すら感じさせるものであった。
そんな最中で臨戦態勢に移行できた事は、彼が血の滲むような訓練をしてきた証左とも言えただろう。
なによりも、いざという時に盾になってでも市民を守らなければならないという強い意志が、彼を突き動かしていた。
けして強力な霊祓師とは言えぬ羽島が感知できる限りの話ではあるが、この台風にも似た霊気の暴風の源は、間違いなく件の野原であろう。
そこに何か、とてつもなく巨大な存在感を放つモノが在る。
その気配は大きく動き回る事はなく、だのに吹きすさぶ霊気が太陽フレアのように揺らめき周囲を圧倒する。
四方八方へ無思慮に力をばら撒くその様は、赤熱した鉄が何もせずとも周囲の空気を燃やしてしまうようなものだ。
ただそこに在るだけで、周りの脆弱な存在が吹き飛ばされてしまう……圧倒的な力の差。
恐らく並の霊があの付近に居たとしたら、まず間違いなくそれだけで蒸発してしまったことだろう。
まさか、これが……。
「……落ち着け。どうもなにか気に触ったらしい。人見クンが珍しくお怒りだ。もしかすると、これはオールコースかも知んねぇなぁ。ドラマ録画してきて良かったよ」
冷や汗を垂らした保井のその言葉を聞いて、彼は自分の想像が当たっている事を知り……自らの心配がとんだ杞憂であった事を理解した。
己が心配をするのも烏滸がましい、破滅的な何か。
それが人見 鱗という青年には秘められている。
「ハァ……すみません、お待たせしました……」
十分後、肩を落とした鱗がトボトボと戻って来る。
どうもなにかひどく落ち込んでいるようだが、五体満足どころかパッと見た限り怪我らしい物は一つもない。
七つの家族、合計二十四人を変死させた恐るべき怪異を滅しながら、傷一つ負わずに帰ってきた彼を見て。
羽島は初めて目の前の小男に、言いしれぬ恐怖を覚えた。
「ひ、人見さん、大丈夫でしたか? 先程とても大きな力を感じたのですが……やはり、それだけ手強い相手だったとか……」
「え゛、アレってそんな風に感知できたりするものなんですか!?あ、あの、違うんですよ……普段は僕あんなことなんなくて、なんか、その、ススキが変な事するから……えっと、すみません……」
「え!?い、いえ!謝罪なんてしないでください!あなたは立派に仕事を遂行されてきたのですから、こちらが感謝をしなければならないくらいで!……変な事を聞いて申し訳ありませんでした。どうぞ乗ってください。すぐにご自宅へお送りします」
しまった、という感じで顔を歪めた鱗は、聞いてもいない言い訳を早口でまくしたて、最後にはしなしなに萎れて謝罪を口にする。
これに慌てたのは羽島だ。
なんと言っても鱗は今しがた、霊障度:陸以上を記録するであろう、この地域一帯の人間を葬りさりうる怪異を退治してきたのだ。
そんな彼に謝罪をされては、それこそ自分は何のためにここに来ているのか。
顔面蒼白な様子で落ち込んでいる彼を大慌てで励ましながら、羽島はわざわざ手動で後部座席の扉を開き、まるで大企業の重役に対するハイヤー運転手のように鱗をもてなした。
しかしその程度の気遣いで彼が持ち直す事はもちろん無く、全員が乗り込んだ車の中は気まずい沈黙に満たされてしまう。
あぁ、やっちまった……。
ハンドルを握っていなければ、羽島は頭を抱えこんでいたところだろう。
大仕事を終えて帰った鱗に、更に負担をかけるなんて……特務部署との業務としても失態であるし、なにより彼自身が望んでいなかった。
なんとか空気を改善しようと頭をフルスピードで回転させる羽島であったが、元々そこまで口が達者な方ではない彼は、何度か口を開こうとしては言葉が出ず閉じるを繰り返してしまう。
助手席の保井がそんな酸欠の魚みたいな羽島のザマを見て、笑いを噛み殺している事に気付かなかったのは、車内の全員にとって不幸中の幸いであったろう。
もし気づいていれば、先輩のそのあまりにも人を馬鹿にした態度に本気でキレて、下手をすると事故っていたかも知れないのだから。
そうして一通り笑い終えてから、保井が軽い調子で口を開く。
それはまるで知り合いのお兄さんが、近所の子供に話しかけるような気安い態度だった。
「人見君さ、この後どうする?なんも用事無いなら、別に家じゃなくて居酒屋とかでも行けるけど。やっぱ一杯ひっかけて帰んなきゃ、仕事終わったって感じが無かったりしない?俺達は仕事中だから酒までは付き合えないけど、送るだけならどっち行っても問題なんないし」
「あぁ、いえ……えっと、そう、ですね……じゃあよければ、最寄り駅で降ろしてもらえたら」
「はいよ、了解。じゃ羽島、そういう事なんでよろしくな」
お、お酒……あぁ、お酒飲んで何もかも忘れたい……。
後部座席で壊れたAIの如く自己嫌悪を無限にループして繰り返し地の底まで落ち込みきっていた鱗は、保井の甘言に思わず頷いてしまう。
居酒屋かぁ。どこ行こうかな。こんな気分だし、お金もこれで入る事だし、ちょっとくらい奮発しても良いよな……。
普段は入る気なんないけど、あの焼き鳥屋行っちゃおうかな。
誘惑に弱く、目の前に餌を吊るされるとそれについつい思考が行ってしまう彼は、先程までの自己嫌悪を一時中断して、脳内でお店を選定し始める。
鱗のまとう陰鬱な空気が少しばかり散逸したのを感じた羽島は、内心で先輩に手を合わせ感謝するとともに。
これからこの部署で必要とされる技能を理解して、カウンセラーの資格を取る事を真剣に考慮した。
そうして駅で降ろしてもらった鱗は、深夜まで営業している居酒屋に「一杯だけ……」と言いながら入店。
今日の失態を肴にヤケ酒を言うまでもなく閉店までグダグダと飲み明かし、アルバイトにうっとうしそうに追い出されて、酩酊したままゴミ捨て場へと倒れ込んだ。
あれだけナイーブな発言をしておきながら、鱗の面の皮はこういう部分においてたいそう分厚かった。
無論、残業上等で未だ監視を続けていた羽島たちは、こんな状態の彼を放置して体調を壊されたり強盗に害されたりしたら、警護の任務に反した事となってしまう。
優秀な成績を修め有名大学を卒業し、この国と市民の為に自身の人生を捧げようという立派な志を持ったエリートたちは。
ゴミと自身の吐瀉物に塗れたバカな大学を留年しかけてる最低の酔っ払いのガキを、複雑な心境で両脇から担ぎ上げて、彼の自宅へと送り届けるのであった。
「……難しいっすね、この仕事」
「……まぁ、今日は珍しい方だから。レアケースだよ、レアケース」
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