x軸を越えてゆく

重力加速度

x軸を越えてゆく

「無限の世界、興味ある?」

「無いです、今を生きるのに精いっぱいよ」

「つれないよな、君は」

 男はそう言ってため息をついた。一方、今を生きる女は窓の向こうを垂直に見据えていた。男は西日にほんのり照らされた女の横顔を、黙って見つめている。


 二人は放課後の教室で、机を挟みながら向かい合って座っていた。二人以外には誰も居なかった。机の上には、数学の問題集があった。これは男の物である。男は暇さえあれば数学の問題集を開いている。男はひたすら鉛筆を動かし、女はそれを逆さまから見つめていた。二人は問題について議論するわけでもなく、また教え合うわけでもない。ただ、互いの世界の境界線上に、問題集を置いているだけである。

 数多の数式は、男にとって必要不可欠な存在だった。しかし彼女にとっては、縁の無いものだった。彼女はインテグラルを猫のしっぽと呼んで、シグマを不完全な砂時計と言う。男には何を言っているのか理解出来なかった。しかし、男は彼女のことが嫌いではなかった。彼女の口から紡がれる言葉は、自分を別の世界に連れて行ってくれるようだったから。

 それならば、自分の愛する世界を彼女が見たら、どんな言葉が聞けるのか試してみたくなった。男は右手に持っていた鉛筆を置いて、彼女の眉間あたりを見下ろしながら口を開いた。

「無限の世界、興味ある?」

「無いです、今を生きるのに精いっぱいよ」

 横を向いてしまった姿を見た男は、彼女がこっちを向いてくれるための良い解は、なかなか見つからないなと思った。


 数多の数式は、女にとって縁の無いものだった。しかし彼にとっては、必要不可欠な存在だった。彼に天気の話題を振れば気圧の話になって、幸運な出来事は確率を使って議論する。女は、彼に趣は無いと思っていた。しかし、女は彼のことが嫌いではなかった。彼の手で生み出される数式は、自分の知らない美しさを秘めているようだったから。そんな彼が、突然「無限の世界」へ誘ってきた。女はこの誘いが、どこに向いているのか分かりかねていた。ただ無限の話をしたいからなのか、自分だから誘ったのか。彼の眼鏡の奥に光る瞳を見ても、判然としない。

 それならば、自分の反応を彼が見たら、心がどこに向かうのか試してみたくなった。女は右手側に身体を動かして、窓の外を見ながら口を開いた。

「無いです、今を生きるのに精いっぱいよ」

「つれないよな、君は」

 ため息をつく姿を横目で見た女は、彼の心持を垣間見た気がして嬉しくなった。なるほど興味深い。女は再び身体を男の方に向け直した。そして、机の上に腕を置いて身を乗り出した。彼のまつ毛がハッキリと見えた頃、女はようやく口を開いた。

「良いよ、一生着いて行きましょうか?」

 机上にあった鉛筆が音を立てて落下した。鉛筆は西日が照らす床の上を、どこまでも転がっていった。

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