わたしたちの手の中に、新時代が

日崎アユム(丹羽夏子)

第1話 焦っているのはどちらか

「うまい」


 川魚の塩焼きを頬張ったようが、ご満悦の顔をした。


 その向かいで、永英えいえいは大きく肩を上下させて溜息をついた。


 永英は楊の母親である淑妃に仕えた宮女だったので、おこがましいとは思いながらも、楊の姉のような気持ちでいる。楊は今年で十七歳で、永英は十九歳だ。年の差はほんの二つではあったが、永英はずっと楊の成長を見守ってきていたつもりであった。


 この国の都が陥落した時、淑妃は自分が身代わりになってでもと息子の楊を宮殿から逃がした。

 その際、永英が楊のお供に選ばれた。

 永英は最初こそ名誉な気持ちでいたものの、今となっては本当にこれでよかったのかと不安である。

 淑妃を残して楊の逃亡を手助けしたこと自体は、間違っていたとは思わない。

 けれど、永英も、大恩ある淑妃とともに自害すればよかったのではないか、楊のお供はもっと楊をきちんと叱って導くことのできる身分の高い女官であるべきだったのではないか、と思うのであった。


 今日も永英は楊に振り回されている。


 自分たちは山中にある西の国に亡命を求めて山登りをしないといけないのだが、肝心の楊があっちに行ったりこっちに行ったりと物見遊山気分でいる。しっかりしてほしいとせがむ永英のことなんぞ知ったことではない。


 今も、楊と永英はこの国を貫く大河を西方の上流に向かってさかのぼっているところであるが、楊は釣りをして得た川魚に貴重な塩をふんだんにふって今夜の食事とした。今は林の中の倒木に腰掛けて二人向き合い食事中である。楊は細身のわりに大喰らいで、これでとうとう三匹目だ。


「わたしたち、いつになったら目的地に着くのでしょうか」


 遠回しにあなたのせいで行程が遅々として進まないと言ったつもりであったが、楊はどこ吹く風だ。


「まあ、そんなに急がぬでもよかろう。兄上たちは皆すでにかばねをさらして沈黙している」

「なんという言いぐさ!」


 怒りに任せて魚を刺していた串を地面に突き立てる。


「だからこそ、ではありませんか! 殿下は皇帝陛下の御子であらせられる。早く立て直して都に戻られて、あの憎き逆賊の首をお取りください!」

「声が大きいぞ。私を殿下と呼ぶな、誰が聞いているかわからぬ。そんなに私の命を危険にさらしたいか」


 慌てて口をつぐみ、周囲を見回す。誰の気配もない。胸を撫でおろして、また楊に向き合う。


「しゅく――母上さまが今の楊さまのご様子をご覧になられたらどう思われるか」

「何も思わぬのでは? なにせ私は末っ子にして兄弟一のお調子者、母上は私の将来に何の期待もしておられなかった」

「それは……まあ……そうですが……」

「おい、否定しろ」


 しかし出来の悪い子ほど可愛いとはよく言ったもので、次期皇帝の座をめぐって息子たちを争わせていた皇后や貴妃でさえ、玉座から一番遠くにいる、政争に加わらず静かに暮らす淑妃の息子の楊に目をかけていた。息子として、というよりは犬猫のような扱いではあったが、菓子を食わせ、服を縫って、可愛がってくれたのだ。毒菓子でも食わされたら、毒針でも仕込まれたら、とはらはらしどおしだった永英とは裏腹に、楊本人や母親の淑妃はのんびりしていた。淑妃の宮はいつも穏やかで、働きやすい職場であった。


 後宮の女たちが今頃どんな目に遭っているかと思うと、胸が潰れる思いだ。誇り高き妃嬪ひひんたちは何かある前に自ら命を絶っただろう。では、女官たちは、同僚の宮女たちはどうか。一人でも多く生き延びられればいいのだが、あやつらは亡き皇帝の後宮の女など皆殺しにするかもしれない。


 くんの前を握り締めて深くうなだれた。


 楊が手を伸ばしてきた。

 永英の乱れた黒髪を撫でる。


「馬鹿にするのもたいがいになさいませ!」


 永英は楊の手を振り払った。


「しかも魚に触った、脂と塩にまみれた手で!」

「本当だ、すまんすまん。いや、脂ののったうまい魚であった」

「とにかく、楊さまには危機感が足りません。早く落ち着いて、早く支度をして、早く帝位を奪還しなければなりません」

「ほら、言ったではないか、声が大きい。あやつが玉座を簒奪さんだつした今、帝位を奪還などと言ったら私に叛意はんいがあると思われて目をつけられてしまう」

「ですが、楊さまはよろしいのですか?」


 楊はみんなに可愛がられて育ったのだ。


「このままのらりくらりとやっていかれるのですか? 皇帝陛下も、娘娘にゃんにゃんたちも、楊さまに期待しておられるのでは――」

「死んだ」


 楊は魚に刺していた串を回収し始めた。銀の櫛は再利用しなければ今後肉も魚も焼けなくなる。銀なので最悪売れば路銀もまかなえるかもしれない。彼は永英が先ほど地面に刺した串も手に取った。


「お亡くなりになられた」


 その声は静かだ。まるで凪いでいる。怒りも悲しみも感じられない。


「焦るな、永英。死者は生き返らない」


 楊が串を持ったまま立ち上がる。川のほうへ向かおうとする。洗う気なのだろうか。もう後宮の外に出てしまったが、そういう仕事は元宮女で身分が低い永英がやるべきである。永英は急いで立ち上がって楊の後を追い掛けた。


「悔しくないのですか?」


 楊の隣で、拳を握り締める。


「ご自分の国が、なくなろうとしているのに」


 彼が振り向き、わずかに微笑んだ。雰囲気にそぐわぬ笑顔に腹が立ったが、彼が次にこんなことを言い出した時、永英は焦る自分が少し恥ずかしくなった。


「私が不安がっていたら、お前はもっと不安ではないか?」


 永英は黙った。うつむき、無言で楊がすることを眺めた。


 そうかもしれない。むしろ、年上の自分のほうが焦っているのはどうなのか。


 しっかりしていないのは永英のほうかもしれない。やたらに説教をしておればなんとかなると思い込んでいるのではないか。自分の無力さをごまかしていやしないか。焦らない楊が悪いことにすれば、淑妃や同僚たちを後宮に置いてきた罪の意識から逃れられると思っていやしないか。


 たかが十七歳、されど十七歳だ。彼のまだひげの生えぬ横顔を見ていると、可愛がってくれた母や兄たちの死に直面して混乱していないはずはない、と思う。本当は、そんな彼を静かに見守って支えるのが永英の役割ではないか。


「では、今日はこのあたりで野宿とするか。永英、寒いから添い寝をしろ」


 永英は思い切り楊の後頭部をはたいた。




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