Imago Dei
きなこ
*
三日月に似た形をした僕の住む土地は、遠く水平線の向こうの空の青に溶ける翡翠色の海に面している。
海から吹く風は春から夏にかけてはからりと爽やかで、秋から冬は湿って、草地が大きな池になるほど豊かな雨が降る。
「私達がこの土地に来た時、ここは一面荒れ地だったの、それが今はオレンジの実る美しい丘、ここは神様から賜った土地なのよ」
僕の両親はおばあちゃんの言う『神様から賜った土地』でオレンジ農園を営んでいる。農園の仕事は忙しい、特に収穫時期なんて父も母も農園の隅にある小屋で寝起きして、家に帰ってこないくらいだ。だから僕と妹のオレアはおばあちゃんに育てられた。
おばあちゃんはものすごく口うるさい「勉強しなさい」「毎日神様にお祈りをしなさい」「好き嫌いしないこと」「食器は自分で洗って」それから「翡翠海岸の北側の壁には絶対に近づかないこと」。この文言を毎日毎朝繰り返す。壁のことは両親にもよく言われているけれど、おばあちゃんは更につけ加えてこう言う。
「あそこには、私達の敵の、恐ろしい獣が閉じ込められているんだよ」
獣はどうか知らないけれど、天辺に鉄条網を頂く巨大な灰色の壁には、常日頃軍の監視の目が光っている、そう気軽に近づけない。僕はいつも朝食のパンを口に詰め込みながら「わかってるよ」とおばあちゃんに言う。わかってるよ、うるさいなあ。
でもこの日の夕方、夏の乾いた風がオレアの麦わら帽子を壁の上に飛ばし、あげく鉄条網に引っかけた。「あたしの!」、オレアは泣いた。
「仕方ないなあ、帽子は兄ちゃんが取って来てやるから、オレアは先に帰ってな」
運よく帽子が引っかかったのは、オリーブの灌木が壁に沿って一キロ程植えられている辺りだった、そこなら体を屈めてそーっと進めば監視の兵隊に見つからずに何とか辿り着けそうだ。僕は匍匐前進の要領でオリーブの灌木の下をそろりそろりと進んだ。
そうやって壁にさえ辿り着けば、そこはもう六十年前に作られた古い壁だ、あちこち崩れて鉄骨がむき出しになっているから、そこに足を掛ければ頂上まで登ることなんて簡単だ、木登りが得意な僕はするする壁を登り、鉄条網に引っかかった麦わら帽子を掴むと、壁の途中までゆっくりと降りて、オリーブの灌木にえいと飛び降りた、しなやかなオリーブの木の枝が僕の体を受け止める。
ピンクのリボンと花飾りのついた帽子に着いた砂埃を払い、「さ、家に戻ろう」そう思った時、突然足元の壁の一部がポンと弾け飛び、そこから細長くて生暖かい何かが飛び出て来た。
(え、ウソ、なに?)
僕の体は驚きと恐怖で固まり、そして停止した。
するとそれは僕の足首を素早く、そして強く掴んだ。
(どうしよう!神様、お祈りをサボったこと、庭の草刈りを適当にやったこと、壁に登ったこと、いま心から謝ります、だからどうか助けて…!)
僕がどこかにいるはずの神様に助けを求めた時、壁の穴から今度は赤い巻き毛と、緑灰色の瞳がずるりと這い出てきて、僕を見た。
「ねえ、あんた、あたしの言ってることわかる?」
「誰?何?獣?人間?の子ども?」
「は?人間にきまってるでしょ、ねえちょっと、この…腕引っ張ってよ、お尻が引っかかっちゃってさ」
「えっ、で、出てくるってこと?ここに?」
「いけない?」
いけなくはない、どこに行くのも個人の自由だ。僕は言われるまま、その子を壁の内側から引っ張り出した。壁の外に出てきた赤毛の緑灰色は、僕の着ている服とは少し違う、黒地に細かい刺繍が施された衣装を纏っていた。
穴から這い出た時に土と砂ですこし汚れてしまっていたけれど、色とりどりの糸で描かれた小鳥と花が胸元に踊る。僕がついそれに見とれていると、緑灰色は土と砂をぱたぱたと手で払い、首に巻きついた白い布を頭にくるりと巻いた。すると瞳の緑灰色はより明るく輝く、海岸で時々見つける翡翠のように。
「あんた、名前は?」
「…サール」
「フーン、塩ってこと?」
「古い言葉ではそういう意味らしいけど、へえ、そんなこと知ってんだ」
「古典語なんて学校で習うでしょ。あたしもルクスって名前だし」
「そんな昔の言葉いちいち習わないよ、ルクスってどういう意味?」
「光」
自らを光と名乗った緑灰色が「そもそも壁の外側には学校なんて存在しないんじゃないの?」なんて鼻で笑ったので僕はムッとして言い返した。
「壁の内側にこそ学校なんかないだろ」
「教育も文学も音楽もあるに決まってるでしょ、あたしはね、三つの言葉が話せるの、いつかここを出られたら外国の大学に行くんだから」
「で、でも壁の内側の奴らは、俺たちのひいじいちゃんやひいばあちゃん達の仲間を銃で撃って火で焼いた野蛮人なんだろ、うちのばあちゃんなんて『人の皮を着た獣』だって」
「ハァ?あたし達の先祖が千年前から住んでた土地に勝手にやって来て、火や武器で脅して壁の中にあたし達を閉じ込めた野蛮人はあんた達の方じゃない、あんた達が海の向こうから勝手にこの土地に来たの、知らないの?」
僕は学校で、僕らの曾祖父達が、信じているものが違うとか、髪や目の色や言葉が違うとかの些細な理由で迫害され、それでこの土地に逃れて来たのだと習ってきた。ここは神様から与えられた僕らの約束の土地なんだと。
でも、ルクスの言う通り僕はこの土地に元々いた人達のことをよく知らない。壁のことも『翡翠海岸から北に四十キロ、断崖に向って作られた灰色の壁の中には恐ろしい獣達が封印されている』としか、教えて貰っていない。
「…知らない」
「そ、まあいいわ、もの知らずのガキに何を言っても仕様がないもの、あたし忙しいの、町に妹の薬を調達しに行かないといけないし」
ルクスは肩に掛けた麻袋から白い布を取り出すと、花と鳥が躍る黒い衣装を隠すようにしてそれを纏った、するとたちまちルクスは、僕と同じ壁の外の子どもに見えた。聞けばルクスには五歳年下の妹がいて、その子が高熱を出し、それがもう一週間も続いているのだそうだ。
「悪い病気なのかもしれないの、私たちの居住地は今、水が汚れてて」
「でも、一人で壁の外に出て大丈夫なの?」
「大人が外に出るより目立たないもの。そこの見張りだって、子どもが脱走して一人で街に行くなんて思ってないし」
「だからって…そうだ、僕が家から薬を持って来てやるよ、それから…そうだ果物も、なあ、ちょっとここで待っててよ」
僕は何か言いかけたルクスにくるりと背を向け、全速力で家に戻ると、台所の小さな棚にある薬箱から白い錠剤の入った瓶を掴んだ。それから木箱の中の小さなオレンジを麻袋にいくつか詰め込み、そしてまたさっきのオリーブの茂みに駆け戻って、それをルクスに渡した。
「これ摘果って、オレンジを大きく実らせるために間引いたやつ、小さいだけで味はいいんだ、少し酸っぱいかもしれないけど」
「…壁の外側には、こんなに新鮮な果物が沢山あるのね」
ルクスは麻袋の中に詰め込まれたオレンジを見て、小さなため息をついた。
「えっ、壁の内側には、無いの?」
「無い訳じゃないけど、食料品も衣料品も水も薬も、全部管理されてるの、配給制。特にここ十年ほどの間に人もモノも、出入りがすごく厳しくなったって、ウチのお母さんが」
「なんで?」
「さあ、わからない」
「えっと、じゃあ他になんかいるモンない?僕が手に入れられそうな物なら持って来る」
「どうして?」
「だって…」
だって、僕はずっと壁の中には獣が住んでるって聞いて育ったんだ。大伯父さんはその獣のせいで死んだって。でも今目の前にいるルクスは僕と同じ人間の女の子だ。神様は自分の姿に似せて人間を作ったっておばあちゃんはいつも言う、僕もオレアも神様と同じ形をしていて、だからこそ尊い存在なんだって。
(だったらルクスは?僕と同じ人間の形をしているルクスだって、神様が作った尊い存在ってことになるんじゃないのかな?)
「だって、君がそんな不自由な生活をしてるってこと、すぐ近くに住んでいた僕がひとつも知らなかったなんてちょっとおかしいだろ、僕らは同じ姿をした、同じ人間なのにさ」
僕の言葉に最初、ルクスはひどく驚いた様子だった、でも少し考えて、僕にこう言った。
「じゃあ、ラジオがほしい」
「ラジオ?今どき?」
「ウン、小さいオモチャみたいなのでいいの、停電の時に音楽を聴きたいんだ」
壁の内側はしょっちゅう停電するらしい、だから電池式のラジオが欲しいんだとルクスは言った。それなら死んだおじいちゃんが使っていた小さいラジオが物置にあったはずだ。
「わかった、ラジオな、明日の同じ時間にここに持って来る」
僕らは明日の約束をして別れた、夕陽色に光る海を眺めながら家に帰ると、珍しく両親が明るいうちに家に帰っていた。お父さんは僕の顔を見るなり、こんなことを言った。
「今日はもう外に出るなよ、全市民に外出禁止令が出た。これから明朝にかけて軍が壁の中に奇襲攻撃を仕掛ける、焼き討ちだよ。これで壁の中の連中は一網打尽さ、ざまあみろ」
ざあっと肌が粟立った、どうして、あそこには僕らと同じ姿形をした人間が住んでいるんだよ、血の通った緑灰色の瞳の女の子が。
「なんでそんな酷い事できるんだよ!」
僕は物置の古いラジオを掴んで外に駆けだした。僕の背後でおばあちゃんが何か叫んでいる。でも、僕は振り返らなかった。ルクスに知らせないと、まだ間に合うはずだ、神様、どうか間に合いますように。
急襲を前に、不気味なほど暗くしんとした街を、僕は海岸に向って全速力で走った。
Imago Dei きなこ @6016
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