パンプローナの天使
ほいれんで・くー
パンプローナの天使
天の国はその日も晴れていた。空はどこまでも青くのびやかに続いていた。白く清らかな光の粒子が空間を満たし、鮮やかな緑が一面を覆う地の表には、汚れのない水が一筋の川となって静かに流れていた。
天使の園は天の国の中心部にあった。白い大理石でできた建物の間を縫うようにして走る園路には、大粒のエメラルドの玉砂利が敷き詰められていた。しかし、神の姿はどこにもなかった。ただ、神はそこに存在していた。その国にいる者は、神の存在を身近に感じることができた。
園路には天使たちがいた。天使たちはみな晴れやかな顔をして各々の務めを果たしていた。あるいは霊酒の満たされた壺を抱え、あるいはパンの入った籠を運んでいた。剣を持ち、槍を掲げ、鎧と兜に身を包んだ天使の一団が堂々たる足取りで通り過ぎたかと思うと、書を持ち、
その天使は、しかし、ひとりだけ暗い顔をしてその場に座っていた。
天使は美しかった。肌は乳よりも白く、蜜よりも滑らかだった。その顔立ちは若い人間の女性のようで、体つきも人間の女性のように丸みを帯びていた。膨らんだその胸は天の国の緑の丘を思わせた。流れるような金髪は光の粒子がそのまま実体化したかのようで、二つの目はエメラルドよりも透き通っていた。頭上には
美しくも愁いを帯びた天使は座り込みながら、地面に置かれた水盤に目を注いでいた。水盤にはありとあらゆる地上の世界の様相が映し出されていた。地上の世界は闇に閉ざされていた。少なくとも、その天使にはそう思われた。戦争と飢餓、虐殺と略奪、圧制、暴虐……無数の死、無意味でただ過酷な死……それらが泡粒のように水盤に浮かび、かつ消え、そして尽きることもなく繰り返された。
なぜ、地上には争いが絶えないのだろうか? 天使の顔はますます暗くなった。天使はさらに考え込んだ。なぜ、地上の人間は殺し合いを続けているのだろうか? 水盤の上では軍勢が集結し、砲火を交え、戦列を整えた歩兵が突進し、騎兵が駆けていた。戦場は荒廃し、死体が折り重なってその場に残された。今にも命が絶えようとしている負傷者が、血の混ざった
「神よ、あなたは万軍の主でありながら、なにゆえに我らに勝利をもたらし給わなかったのか……!」
なぜ、同じ人間を傷つけ、
「神よ、あなたは万物の主、万物の所有者でありながら、なにゆえに我らに何ものもお与えにならなかったのか……?」
天使の頭の中で、無数の嘆きがこだまのように響き合っていた。なにゆえに神は……なにゆえに万物の主である神、あなたは……なにゆえにお与えにならないのか? その響きは、最初はただの人間の嘆きの繰り返しに過ぎなかった。だが次第にそれは、天使自身の声で再生されるようになっていった。
「神よ、なにゆえに……」
天使の声は、その天使自身にしか聞こえなかった。天使はしばらく沈黙していたが、やがて言った。
「神よ、なにゆえに……あなたは何ものも、人にお与えにならないのか?」
天使は水盤を見つめていた。だが、その目は何も宿してはいなかった。水のように透き通った声音には純粋な疑問だけが込められていた。
神からは何の返答もなかった。天使は水盤から視線を外すとその場に立ち上がり、また俯いて考え続けた。人間たちは、なにゆえに不幸であるのか? 人間たちは、なにゆえに不幸であり続けるのか? 人間を不幸から救い出すには、いったい何をせねばならぬのか?
風が吹き、天使の長い髪を揺らした。身につけた黄金と白銀の装身具が、あたかも光が鳴るような音を発した。自身でも気づくか気づかぬかのうちに、天使は言葉を発していた。
「神ではなく、私ならば、人間たちに与えることができるのに……」
次の瞬間、天使の姿は天の国から消えていた。天使は暗黒の中を落ちていた。ただ地上へ向けて落ちていった。
◯◯◯
幾年にもわたって戦乱が続いたパンプローナは、荒れ果てていた。天使が落ちたのは、パンプローナの
天使を目覚めさせたのは、ある声だった。
「ただ与えよ」
荘厳な声は、しかし紛れもなく命令だった。天使は目覚め、起き上がり、あたりを見回した。ちょうど時刻は太陽が中天から西へと逸れつつある頃合いだった。荒廃した大地が天使の眼前に広がっていた。
暴力的で圧倒的な光線と、熱く焼け爛れた大地から漂う臭気が、天使の無垢な感覚器官を強く刺激した。それでも、「ただ与えよ」という命令を果たすため、戸惑いつつも天使は動き出した。それは紛れもなく神からの命令であった。少なくとも天使にはそう思われた。
天使は丘を降りて、枯れ果てた川の跡に沿って歩いていった。その白い翼はなぜか動かなかった。灼熱の太陽が孤影の天使を焼いた。眼前には湖面のごとき
一軒の崩れかけた農家があった。農家は泥と藁でできていた。天使は音もなくその中に入った。薄暗がりの中には臭気と熱気が満ちていた。天使は一隅に人影が横たわっているのを認めた。それは一人の老人だった。白いひげが伸びた顔には蠅が集まっていた。半開きになった口の中にはほとんど歯が残っていなかった。
天使は無言でその老人に近づいた。身動き一つしなかったが、天使には老人が生きているということが分かった。近づくと、天使は老人が自分のことを見つめているのに気が付いた。老人の目には驚愕と畏怖とがないまぜになっていた。老人は少しだけ頭を動かした。蠅が潮騒のような音を立てて一斉に飛び立つのと同時に、歯のない老人の口が動いた。
「美しき天の使いよ、水をくだされ」
乾ききった声音の奥に哀願の響きがあった。ほとんど考える間もなく、天使は水を与えようと思った。しかし、天使は自らが有するものがただその衣装と装身具だけであることに気が付いた。天使は戸惑ったが、「ただ与えよ」ということが神からの命令であるならば、それを果たすための手段もまた神から与えられると思い至った。
天使は手を合わせて祈った。ほどなくして、天使の体全体を天の国の光が包んだ。すると、天使の手には大きな革袋があった。たっぷりと三分の一アロバの水が入っていた。革袋は冷えており、表面には水滴が浮かんでいた。天使は神に感謝し、その革袋を老人に渡そうとした。
その瞬間だった。天使は猛烈な渇きを覚えた。気を失いそうなほどに、我を忘れそうになるほどに強い渇きだった。そのような渇きを、それまで天使は感じたことがなかった。反射的に、天使は革袋を自らの口元へ運ぼうとした。
だがその時、天使の視界の中に老人が入ってきた。老人は天使をただ見ていた。天使は迷った。いまだに強い渇きが天使の意識を揺らしていた。
突然、春の雷鳴のように言葉が響いた。
「ただ与えよ」
弾かれたように天使は老人に歩み寄ると抱き抱えて起こし、革袋を差し出した。老人は感謝の言葉を述べることもなく、奪うようにして水を飲み始めた。廃屋のような農家の中で、老人が喉を鳴らす音だけが響いていた。その口からは清らかで冷たい水が零れ落ちていた。床に積もった塵埃を、零れ落ちた水が濡らした。
やがて天使は、腕の中の老人が動きを止めたことに気が付いた。天使は老人を揺り動かした。しかし、動かない。老人は既にこと切れていた。見開かれた目には満足そうな色が漂っていた。天使は落胆しつつ、老人の目を閉じてやった。最後に天使は、老人が手に持ったままの革袋に目をやった。水が少しでも残っているかもしれない……しかし天使は、そのまま農家の外へ出ていった。
日は暮れていた。灼熱の大気の次には、酷寒が待ち受けていた。夜空には無数の星々が浮かび、月が無情なまでに冷たい光を放っていた。天使の渇きは変わらず残っていた。それでも天使は歩み続けた。道はどこまでも続いていた。大地にはそこここに破壊の跡が残っていた。無数の動物と人間の死骸が岩と砂地の間に野ざらしにされていた。その骨の色はまるで大理石のような白さだった。深い谷を渡り、切り立った崖を乗り越えて、天使は浅い夜空の下を進んでいった。
ほどなくして天使は、前方に一人の人影を認めた。それは羊飼いだった。一頭たりとも羊を持たない羊飼いだった。それは年若い少年のようだった。何もない丘の上で、羊飼いの少年は座り込み、無言でうなだれていた。天使は音もなく羊飼いに近づいていった。一陣の風が吹き、天使の装身具が爽やかな音を立てた。羊飼いは顔を上げた。そして天使が近づいてくるのを認めると、驚愕と恐怖の表情を浮かべた。天使は羊飼いの傍まで歩み寄った。天使のトガの
「麗しき天の御使いよ、僕にパンをください。僕の羊はみな、軍勢に略奪されてしまいました。僕にはもう、何もありません。今、僕は死にそうなほどに飢えています……」
天使は羊飼いの少年を改めて見た。羊飼いは痩せ細っていた。その体からは死の一歩手前の人間に特有の、刺すような、甘いような臭気が漂っていた。天使は
しかし、天使にはすべきことが分かっていた。天使は手を合わせて神に祈った。闇の中で白い光が立ち昇り、天使の体を包んだ。光が消えたその時には、天使の手に小麦のパンがあった。パンは一リブラほどの重さがあった。夜の寒気の中でパンは温かな白い湯気を立てていた。天使は神に感謝をし、羊飼いにパンを手渡そうとした。
だが、その直前になって、天使を強い空腹感が襲った。激しい飢餓だった。猛々しく、猛獣のように吠え立てるその飢えは、しかし幽霊のように実体がなかった。天使はとっさにパンを与えまいとした。羊飼いの手からわずか数プルガーダの距離のところで、パンは静止していた。
その時、天使の目に羊飼いが映った。羊飼いの顔は月の光を受けて輝いていた。
天使の中で、また夏の稲妻のように言葉が閃いた。
「ただ与えよ」
天使はパンを羊飼いに与えた。羊飼いは貪るようにしてそれを食べた。その光景を目にして、天使の飢餓感はますます大きくなった。飢餓感が生き物のように天使の中で放埓に暴れ回っていた。それでも天使はただ羊飼いを見ていた。羊飼いは食べていた。一リブラのパンは瞬く間に羊飼いの胃の腑へと送り込まれた。
最後の一切れを咀嚼し、飲み込んだ後、羊飼いが動きを止めたことに天使は気づいた。天使は顔を近づけた。羊飼いは心の底からの満足を表情に示したまま、その呼吸を停止させていた。天使は座ったままの羊飼いを抱き起こし、地面に横たえると、その目を閉じてやった。羊飼いの目からは涙がこぼれていた。激しい飢餓感はいまだに残っていた。しばらくその場に羊飼いが食べ残したものがないか探したあと、天使はその場を立ち去った。
天使はさらに道を歩き続けた。寒さは耐え難いほどになっていた。それでも、天使にとってその寒さはいかほどのものではなかった。四肢を引きちぎるような強い渇きと飢えはいまだに天使を責め苛み、その足取りをおぼつかなくしていたが、夜の寒気が天使の力を削ぐことはなかった。
さらに、一リグアほどの道のりを天使は歩き続けた。夜はさらに深まっていった。闇の底に黒々とした大地があり、大地には死だけが色濃く漂っていた。
天使はいつしか農地に入っていた。焼かれた農家があり、灰色の焼け跡には黒く焦げた死体が転がっていた。井戸は土砂と岩石で埋められ、破壊された
ふと天使が周りを見渡すと、そこには一面に死体があった。それは砲火によって粉砕された戦列の兵士たちの死体だった。頭部を失った死体、内臓をまき散らした死体、頭蓋が割れ、灰色と緑色の脳髄がはみ出た死体……それらの死体の間に、銃と剣と、槍と軍旗が散乱していた。寒気のために死臭は薄らいでいたが、先へ進むほどに臭気は強さを増した。
夜闇はますます濃くなった。もう数時間も経たないうちに夜明けを迎えるのであろうと思われた。天使は、遠く
神から与えられた命令は、まだ天使の中で生きていた。「ただ与えよ」 そのとおりに天使は命令を実行した。そして、二つの死が残った。天使はまだ、与えるということが分からなかった。天使は確かに天の国において、「私ならば与えることができる」と思った。しかし、今ではそのような自負の念は消え去りつつあった。与えるとは、いかなることか? 人に与えるべきは、いったい何であるのか? 与えるとは、渇きと飢えという苦しみを背負うことを言うのか……?
ふと、闇の中で蠢くものがあった。天使は足を止めてそれを見つめた。それは女だった。粗末な衣服を身に纏った女は、一人の兵士の死骸の傍らに横たわっていた。天使はさらに近寄った。女は死体の顔を優しく撫でていた。死体は年若い男だった。髭も生えそろっていない少年だった。女は天使の姿を見ると、驚愕と畏怖の表情を浮かべた。
次第に女の表情は和らいだ。天使はその時、女の目に死の色が宿っていることに気が付いた。女は傷ついていた。服は裂けており、顔には殴打の跡があった。痩せ細った女の体は、皮膚の下に細い骨格がはっきりと表れていた。その全身に赤黒い
「
天使は自らの体を見た。天使は純白のトガと、黄金と白銀と宝石でできた装身具を身に纏っていた。天使はまず装身具を外し、女に渡した。それは天使にとっては惜しくもないものだった。装身具は元の持ち主との別れを惜しむように、月明かりを浴びて輝いた。
この時は、渇きも、飢えも、何も襲っては来なかった。天使はそれを意外に思った。ようやく、天使は自らの意志で何かを与えることができたと感じた。
次に天使はトガを脱ごうとした。これも与えることができるはずだった。
だが、起伏のある天使の裸体が夜闇の中で露わになろうとしたその瞬間、天使は寒さを感じた。獰猛な寒さだった。凍えるという感覚を天使は初めて知った。切れ味の良いナイフで、少しずつ肉体を薄く削がれていくような、そういう苦痛を天使は知らなかった。天使はトガを脱ぐまいとした。女は震えながらなおも天使を見つめていた。天使もまた、寒さに震えながら女を見つめていた。
その時だった。遠い空の向こうの雨音のように、低く荘重な言葉が響いてきた。
「ただ与えよ」
言葉を聞いた天使は、トガを脱いだ。天使は裸になった。白い裸体は天上の世界の美しさをそのままに表していた。トガを渡された女は、立ち上がると服を着替えた。そして、汚れきったその長い髪をかきあげると、天使の装身具を身につけた。一連の動作を終えたその瞬間に、女は力を失って大地へと崩れ落ちた。
「ああ……」
そのような満足げな声だけが聞こえた。それきり女は動かなくなった。天使は寒さに震えながらも、女と兵士を隣同士にしてやった。二人の死骸は、あたかも最初からそのようであったかのように、ぴったりと体を寄せ合っていた。
天使は視線を上げて空を見た。地平線は薄紅色の光を帯びつつあった。朝がすぐそこまで来ていた。
また、天使は歩き出した。渇きと飢えと寒さの三つが天使を苦しめていた。それはあまりにも地上的な苦しみだった。天使はよろめき、ふらつきつつ、先へ先へと進んでいった。すぐそこまで来ているはずの朝は、なかなかやってこなかった。天使がパンプローナの
市には誰もいなかった。静寂が市を覆っていた。その静寂は何も孕んではいなかった。死のような静寂の中で、ただ天使だけが動いていた。天使はただ、足の赴くままに歩き続けた。乳のように白い肌は今や蒼ざめていて、天上の美しさは地上の醜悪な死に置き換わったかのようだった。
街路には死があった。死が満ちていた。数日間にわたって行われた市街戦は、市のほとんどを破壊し尽くしていた。砲撃を受けて崩れ落ちた城壁の上には、盾ごと粉砕された守備兵の死体があった。略奪を受けた商店の中には、切り刻まれた店主とその家族の死体があった。集合住宅には火がつけられ、煙と熱で窒息した住民たちが骸を晒していた。広場には簡易的な木製の処刑台が築かれていて、頭部と胴体を切断された死体が穀物袋のように重ねられていた。血と
天使は街路を進み続けた。どこにいっても同じような光景が広がっていた。朝はすぐそこまで来ていた。星は消え、月は沈み、新たな太陽がまさに生まれようとしていた。それでもこの市には動くものがなかった。死臭は耐え難いまでに濃厚だった。裸体の天使は苦しんだ。天使は足を引きずりつつ、喘ぎながら、何かを求めて街路の先へと進んだ。
街路はいつしか坂道になっていた。そこは丘だった。丘は次第に傾斜を増した。天使は息を切らし、汗を流しながら、丘の頂上へ向けて歩み続けた。
その時、丘の向こうから太陽が昇った。薔薇色をした太陽は天使の裸体を優しく照らした。左右に突き出した白い両翼と、天使の体とが清らかな曙光を受けて、十字架のような影を街路に映した。十字架を背負って、天使は進んだ。死を恐れる罪人のように天使は歩んでいった。
ついに天使は、丘の上に辿り着いた。丘の上にはただの荒地が広がっていた。荒地は死体で埋め尽くされていた。それは逃げ遅れて、侵略者によって殺戮された市の住民たちの骸だった。天使は骸の海の中を歩いた。朝日はますます空へと昇りつつあった。
骸の中に、絶海の孤島のように開いた場所があった。そこに一人の人影があった。天使はよろめきながらそこに近づいた。それは一人の女だった。女は赤子を抱いていた。天使はその赤子に、今にも絶えそうになっている灯のような生命を感じた。
天使が近寄り、その影を女と赤子に重ねると、女は顔を上げた。女は驚いてもいなければ怖れてもいなかった。女は天使に向かって口を開いた。冷静な、しかし温かさのある声だった。
「天使よ、わが子を生かしてください。わが子に命をお与えください」
命を与える。その言葉を聞いて、天使は、まさにその願いを聞くために自分はここに来たのだと思った。与えるものは分かっていて、そして自分はそれを持っている。いまこそ自分は何かを「真なる意味で」与えることができる……だが天使には、そのための方法が分からなかった。天使はただ神に祈った。手を合わせ、天の主に祈りを捧げた。しかし神は何も言わなかった。
突然、赤子が泣き声を上げた。弱々しい泣き声だった。その声を聞いて、天使は心の中で急速に、ある感情が生まれるのを覚えた。
死にたくない。
天使はそう思った。死にたくない。天使は身震いをして祈りを止めると、その場を立ち去ろうとした。
だが、その時、天使は赤子を抱く母親の顔を見た。母親の顔は慈愛に満ちていた。慈愛には色濃い絶望が覆っていた。赤子の泣き声は次第にさらに弱々しくなっていった。天使はなおも母と子を見つめていた。天使はいまだに死にたくないと思っていたが、それ以上に、この母と子を救いたいと願い始めていた。女が口を開いた。
「ああ、この子に私の命を与えることができたなら!」
その言葉は、天使の言葉でもあった。天使は再び神に祈り始めた。天使はそのための方法を神に求めた。しかし、祈るまでもなかった。天使は既に、自分がそれを知っていたことに気が付いた。天使は母親に赤子を差し出すように促した。母親は赤子を差し出し、天使は受け取った。
氷のような赤子の頬に、天使は優しく接吻をした。その瞬間、天使はそれまで自分を苛んでいた渇きと飢えと寒さが消失したのを感じた。そのすぐ後には、一切の光が消え、巨大な虚無がやってきた。虚無はあっという間に天使の周囲の世界を飲み込んだ。パンプローナは、消えてしまった。
どこまでも暗く、底のない虚無がそこにあった。天使はその中を、果てしなくどこまでも落ちていった。
◯◯◯
天使は目覚めた。そこは天の国の、天使の園だった。天の国は何も変わりがなかった。光の粒子が大気を満たしていた。エメラルドの玉砂利の園路の上を天使たちが忙しそうに行き交っていた。
水盤はすぐ傍にあった。天使は立ちあがると、水盤の表面を覗き込んだ。視線をあげ、また天の国の空を見上げると、天使は何かに耳を傾けるような顔をした。そして、答えるようにひとつだけ頷くと、今度こそ満足しきった柔和な表情を浮かべて、天使はその場を立ち去っていった。
(「パンプローナの天使」おわり)
パンプローナの天使 ほいれんで・くー @Heulende_Kuh
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