海に沈むジグラート 第76話【愛は死を】

七海ポルカ

第1話 愛は死を



 店の主人に連れられてやって来たネーリを見て、紅茶を飲んでいたアデライードは思わず立ち上がり、拍手をした。

「まぁ。素敵ですわネーリ様。お似合いです」

 彼女は歩いてくる。

「この緑のお帽子可愛らしい」

 少し斜めに掛けた帽子を、彼女は気に入ったようだ。


「フランスの上流階級で、今現在流行っている帽子なのです。ラファエル様の影響で今やヴェネトもフランス風の品々がたくさん入って参りますよ」


 店の主人がにこやかにそう言った。自分がラファエルの妹であるため、尚更店の主人が特別親切にしてくれることを、アデライードはよく理解していた。

「これでいいかな?」

 これから貴族の家で絵を描くので、適した服装を用意して欲しいと依頼したので、この店の主人が用意してくれたのだ。

 絵を描くために腕を動かしやすいよう、羽織るだけのようになっている上着も、ネーリが両腕を広げてみせると優雅に見えて、アデライードは気に入った。

「はい。とても素敵です。どこからどう見ても立派な絵描き様ですわ」

 立派な絵描き様、という彼女の言い回しが楽しくて、ネーリが笑っている。


「まだ時々冷たい風も吹きます。水辺は風が涼しいでしょうし、長時間そこで描くならきっとこの上着はとてもいいですね」

 植物の蔓の繊細な模様が美しくて、気に入ったように見ていたアデライードは、おずおずと主人に尋ねてみる。

「この上着なら、ドレスの上から着ても似合いそうですわ。私にも、同じものはありますか?」


 主人が明るい表情で大きく頷いた。

「風よけに羽織られる女性もいらっしゃると聞きました。

 丁度、色違いがございます。すぐに持って参りましょう」

 ネーリの上着はごく淡い水色だったが、主人はすぐに、淡い紫色の上着を持って来てくれた。

「まぁ……美しい色ですわ」

 ネーリが鏡を見ながらアデライードに羽織らせて見せてやると、嬉しそうに彼女は頷いた。

「折角だから全部お揃いにしない?」

「お帽子もですか?」

「うん」

「嬉しいです。実はそのお帽子可愛いなと思っていたんです」

「この上着に合う色の帽子はありますか?」

「そちらのお帽子より少し淡い緑がございます。縁に柄が入っていますが、華やか過ぎず、春の散策には合っているかと」

 スタッフに主人が声を掛け、すぐに帽子がやって来る。

「この緑も素敵です。これにしましょう」


 服装が決まった。

 支払いにサインをし、店の主人に丁寧に挨拶をし、アデライードとネーリは店の前に待たせてあった馬車に乗り込んで走り出す。

 この店には今までもラファエルと一緒に服を仕立ててもらいに来たので、アデライードも安心して服を頼めるのだ。

 馬車の中の、四角い旅行鞄には、今日はたくさん絵描き道具が入っている。


「あの家にネーリ様が来て下さって、スケッチなどは実際に描くところも見せていただきましたけど、風景画に彩色なさるところを見るのは初めてです。楽しみでドキドキしますけれど……ネーリ様は私が側でじーっと見ていても、本当にお邪魔ではありませんか?」

「全然平気」


 ネーリが道具を確認しつつ、笑った。


「だって、街角で描いてると側でじーっと見られることたくさんあるもの。子供達なんて話しかけてくるよ。今これはあそこを描いてるんだよね! とか。僕はずっとヴェネトの街中で絵を描いてきたから、側で見られながら描くのなんか全然慣れてるから気にしないで。話しかけられても全然平気だよ」


 ネーリの描く絵はどれも素晴らしいが、きっとあれを描くなんてとてつもない集中力が必要に違いないと思っていたアデライードはそう言われて目を丸くした。絵を描きながら、話しかけられてもそれに答えながら筆を走らせ続けるなんて、自分には到底出来ないことだ。

 だがネーリを見ていると、ヴェネツィアの街の人とのそういう語らいすら、楽しんでいるのが伝わって来る。彼の絵は風景画だけれど、風景の中には街の人々もたくさん描かれる。ネーリは人や動物が好きなのだ。だから彼の絵の中に描かれる人や動物は表情が輝き、躍動感があり、魅力に溢れている。

 どれだけ話しかけられても、笑って答えてるネーリがすぐ頭に浮かんだ。

 街で描いているネーリの姿も、いつか見てみたい。

 ネーリ・バルネチアはやはり、絵を描いている時が一番頼もしく見える。

 彼がヴェネトの王統だと聞いた時は本当に驚いたけど、普段のネーリは人懐っこく穏やかで、厳格な王城の雰囲気とは重ならない。


 でも。

 ミラーコリ教会のアトリエの、数々の絵。

 ラファエルに贈られた【エデンの園】。

 そして……。

 アデライードは思い浮かべた。


 先日見た【竜の森】。


 まだ瞼に焼き付いてる。

 そしてあの絵を前にした時感じた、不思議な、厳かで静かな空気も。

 聖堂にも似たあの空気は、アデライードにとって心懐かしいものだった。

 あんな素晴らしい絵を世に送り出せる才能。

 筆を握り、迷いなく描き出していくネーリは、確かに他の人間には無い覇気を纏う。

「さっきからずっと確認していらっしゃいますわ」

 言われて初めて気付いたのか、ネーリが「ほんとだ」と笑った。

「いつもの鞄じゃ無いから、忘れてきたものがないかつい気になっちゃって」


 ネーリは絵を描く道具を古い大きな鞄にいつも入れている。街に描きに出る時はもっと軽装だ。大きな鞄の方はヴェネト各地を回っていた時に使っていたもので、家を持たない彼にとっては、収納の意味で今も大切な鞄である。

 今も全然使えるのだが、さすがに長い時間使っていて汚れがついているので、今日、シャルタナ邸を訪問するにあたってそんなものを持って行ったらさすがに大貴族の方がびっくりするだろうと思い、アデライードの旅行鞄を借りて、そちらに移してきたのである。

「一緒に全て移したからきっと大丈夫ですわ。それに、何か足りないものがあればきっと公爵様が貸して下さると思います」


 慰めるように優しい声でアデライードが言う。

 こういうことはアデライードは大らかだ。

 彼女は修道院で人と集団生活をずっとして来たので、無ければ助け合ったりすることに慣れている。

 貴族というのは完璧主義になりがちだが、彼女のこういう大らかさは美点だとネーリは思っているので、この先上流階級で過ごすようになっても失われないで欲しいと密かに願っている。

「あの鞄は……ヴェネト各地を回っておられた時から持っておられたのですよね?」

「うん。大きい鞄だから最初は引きずるみたいにして持ってたけど。でも使いやすいんだ。疲れたら枕にしてどこでも寝れた」

「まあ」

 アデライードが微笑っている。


「……ネーリ様?」


 ネーリが呼ばれて振り返る。

「わたし……。シャルタナ公が何を考えているかは分かりません。

 ネーリ様のお話で、確かに何か変わったお考えをお持ちの方だとは思いましたけど、少なくとも今は、妹のレイファ様も、私のような者にも親切にして下さっていると思うのです」

 勇気を出してそう言ったようなアデライードに、ネーリは優しい表情で頷いた。

「ぼくもそう思うよ」

 ネーリが頷いてくれたので、アデライードは安堵したようだ。

 安心し、その先を再び話し出す。


「……まさかどのようなことをお考えであれ、今はネーリ様ともお知り合いになり、人柄も知られたと思います。もし悪しきことを一瞬でもお考えにしろ……、ネーリ様と実際お話をされて、尊重し、身勝手なことなどしてはいけない方だと理解し、考えが変わっていただけたらと思いますわ……」


 アデライードが人を安易に見限ったり見放さない人間であることは、ネーリには非常に好ましく思えることだった。

 アデライードが膝に乗せていた手に、ネーリが手を重ねてくれた。

 言葉も無く、微笑んでくれる。

 ネーリに会って気付いた。

 ラファエルも時折、同じ仕草をしてくれることがある。

 あれは多分……ネーリの仕草だったのだ。

 少年時代のラファエルもネーリが手を重ねてくれて、きっと心が安心したのだろう。

 だから彼も、上流社会に突然飛び込んで、たくさんの不安がまだあるだろうアデライードに対してそうしてくれたのだ。

ネーリはヴェネトの王族で、ラファエルのこの世で一番大切な人だ。

 自分などが気安く接してはいけない人だと彼女は思っているけれど、ネーリがこういう仕草をしてくれると、まるで兄のラファエルがそうしてくれているように、彼女は安心出来、勇気づけられた。

 嬉しさに少し頬を色づかせて笑いあうと、二人は馬車の外へと視線を向けた。


 今日はよく晴れていて、暖かな陽射しがヴェネトに降り注いでいる。



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