湯気を分かち合う

@_naranuhoka_

湯気を分かち合う

※連作短編集です。

※2023年小説現代新人賞最終候補作です。



さなぎ


 やわらかな火にくるまれているみたいだった。紅茶のような暖かな色に壁が染まり、壁にもたれかかるようにして小説を読んでいる佐原の顔も同じ色で照らされていた。横顔が壁に等身大で反映されているのが映画のワンシーンめいていて、そーっと携帯のカメラを起動させたけれど遅かった。画面にとらえようとした途端、佐原は「ちょっと、やめてよ」と不機嫌そうに手で顔を隠してしまった。

「きれいだったのに。構図もばっちりだったんだけどなあ」

「私は撮る専門なの。撮られるのはやだっていつも言ってるじゃん」

 写真部の部室は校舎の一番隅、視聴覚室横にへばりつくような場所にちんまりとある。午後十六時半を過ぎると、部室の中に波のように西陽が押し寄せてきて壁もソファも本棚も部員もすべてを橙色に染めあげる。

「暑いし灼けるからそっち移る」とパイプ椅子から立ち上がり、佐原が春の隣のソファに腰かけた。革が破けて、スポンジが内臓みたいにはみ出してしまっている。

「学祭の展示、何撮ろうかなあ」と呟くと、「またクラスの子に声かけたら?」と佐原が口を挟んだ。「あんたに撮られたい子ならいっぱいいるじゃん」

「そのわりには三年の部員が私と佐原しかいないなんてどうかしてるよねえ」

「この部活は少数精鋭だからいいんだって。いっぱい部員いたら私たぶん三年まで続かなかったよ」

 数学の課題を解いていると、佐原が春を盾にして西陽から逃れながら読書しているのに気づいた。もう、と思ったけれどそのままにしておく。

「っていうか、三年なのに学祭に写真出すの? あんたは受験勉強しなさいよ、受験勉強」

東京の私立大学にすでに推薦が決まっている佐原は余裕の表情を浮かべて笑っている。「現実逃避くらいさせてよ」と口をとがらせると、きひひ、と小鬼のような奇妙な笑い声を立てた。

「まあいっか。館野って何気に写真上手いしね」

「何気にって何、何気って」

「こないだの三部作は、ちょっとスナップ写真ぽかったけど……まあでも館野の写真、なんかいいよね。自分がその場にいて一緒にその風景見てるみたいな臨場感あるし」

「うそ、ありがと」

 佐原に褒められることなどめったにないのでびっくりして顔を覗き込んでしまう。けれどすでに目は小説に戻っていた。褒め言葉の続きをもっと聞きたかったけれど、諦めて三角関数の証明に戻る。


 高三、九月。夏休みまでは余裕があった子たちも焦り始めて校内は熱気に満ちている。放課後の自習はまず場所取りから気を張らなければならない。学習室はすぐに満席になり、教室で勉強していると雑談する子がいて気が散るし、図書館は冷房の効きが強すぎて寒気がする。

 その点、人の出入りがほとんどない部室は陽が差し込み過ぎることを除けばかなり快適だった。週に二回あるミーティングがある日も含めて、春と佐原は三年に上がってからほぼ毎日部室に入り浸って勉強している。

 写真部に入りたての頃は、佐原澄鈴(すみれ)と毎日一緒に過ごすような仲になるなんて想像もしていなかった。

部活の本入部の日、日直だったので遅れて部室に行くと、めがねをかけた髪の短い女の子が先に来ていて、それが佐原だった。一年部員が自分たち二人しかいなかったにもかかわらず、佐原はなぜか春とさして口を利こうとしなかった。話しかけても、どこかぶっきらぼうで不愛想な態度を取り、そのくせ先輩とはそれなりに愛想よくしゃべっていた。なんだか感じが悪い人だなとうっすら思っていた。緊張してただけだよ、とあとになって弁明していたけれど、緊張というよりどこか敵視すらされていた気がする。

ようやくまともに佐原としゃべったのは五月の連休明けだった。ミーティングがない日に部室に顔を出したら、佐原一人が中で本を読んでいたのだ。

気まずい、と両方が思っていることには目が合った瞬間から気づいてはいたけれど、何食わぬ顔をつくって「お疲れさま」と声をかけた。うす、と佐原は野球部の男子みたいに短く低い返事をよこした。

「佐原さん、もしかして部室よく来てる?」

「ほぼ毎日いるよ。静かだし電車通いの先輩が時間潰すのに使ってたりする。私はチャリだけどね」

 高校の最寄り駅から出ている電車は一時間に一本しかないから、春も含めて電車通学の子たちはたいてい教室に残って時間を潰していた。

「そっか。佐原さん、二中出身だから家近いんだね。いいな、シティ勢は」

「シティも何も、富山にそんな街ひとつだってないっしょ」

 その日初めて、佐原が歯を見せて笑うのを見た。笑うと一本だけ前歯が飛び出ているのがわかって、兎みたいだなと思った。

 つんけんした無愛想な人だと思い込んでいたけれど、いざ二人でしゃべってみると佐原はしゃべりやすくて面白い子だった。小説を読むのが好きで、文芸部に入ろうとしたもののあまりにオタクっぽい雰囲気の子が多くて断念したらしい。カメラはおじいさんから譲り受けた一眼を使っていて、よく撮る写真は鉄塔。「携帯で撮れれば楽なんだけど、画質悪いからさー」と顔を顰めていた。

 それまでは部のミーティングがある日だけ部室に行っていたけれど、それからは時々部室に行って佐原と一緒に課題をするようになった。二人だけの時もあれば先輩が入ってきて一緒に雑談で盛り上がることもあった。先輩が帰ったあと「佐原って意外と人懐っこいよね」と言うと肩をすくめてみせた。

「学年違うと話しやすいってだけ。館野こそ、見た目的にもっとキャーキャーしてるタイプかと思ってた。話してみたら落ち着いてて逆にびっくりしたよ」

 佐原の中では、性格がやんちゃそうな見た目とおとなしそうな見た目の人、という区分があるらしい。そういうふうに誰かの見た目と性格を関連付けてとらえたことがあまりなかったのでなんだか新鮮に思えた。

 佐原は下の名前で呼ぶとものすごく怒る。春のことも名字で「館野」と呼び捨てる。澄鈴なんてめずらしくて可愛い名前なのにと言うと「甘ったるい名前、似合わないから」と肩に載った埃でも払いのけるみたいに本気で厭そうに言い捨てた。

 佐原は髪をベリーショートにしていて、かっこいいねと言ったときも「女子っぽい髪型って似合わないから、私」と小さく呟いていた。伸ばしても似合うと思うけど、と何気なく返したら思いがけず強い語気で「そんなことない」と言い返されて少し怯んだこともあった。佐原の中で、自分のイメージが固まっているのかもしれない、とその時思った。

「そうかな、漢字も響きも絶対人とかぶらないからすごくいい名前じゃん。わたしなんて春に生まれたから春だよ。もうちょっと凝ってほしかったなあ」

「そっちの方が絶対いい。名前でも何でも、没個性で人とかぶって覚えてもらえないくらいがいいよ」

 えー、と顔を顰めたけれど、佐原にはそういう考え方が徹底していた。目立ちたくない、注目されたくない、笑われたくない、知られたくない、指さされたくない、それなら忘れられてるくらいの方がまし、と言う。かといってあまりに地味に過ごしていると今度は「ぼっちじゃん」「オタクって感じ」と後ろ指さされるから、しずかだけど社交性があって無害な人、くらいのポジションが教室のなかを生き抜くにはちょうどいいのだといつだったか力説された。まるで学校を戦場みたいに佐原が言うので「大げさすぎない?」と笑ったらむすっと不機嫌そうに横目でにらまれた。

「館野にはわかんない。しんでもわかんないね、こっち側の気持ちは」

「え、なにそれ」

「館野は何もしなくても目立つし、人が寄ってくるもん。自動的に『みんな』側に入っていけるあんたと違って、私みたいなのはある程度策略がないとカーストを生き抜けないの」

 いろいろと反論したいことが詰め込まれた発言だった。一つ一つに反撃するのもどうかと思われて、後半にだけ突っ込んだ。

「カーストなんて、言うほどあるかなあ。うちのクラスに関して言えば、そこそこみんな仲いいと思うけど」

 佐原は肩をすくめた。ばかにするようにというよりも、わかりあえないことを強調するために線を引くようなしぐさに見えた。

「それそれ。それこそ館野が『上』にいるっていう何よりの証拠だよ。カーストって、下から見上げた時にしか存在しないから」

「……そう、かな」

 私も館野みたいにぱっちり二重で脚がほそい女子だったら写真部は選ばなかったよ、と佐原が呟いた。どういう意味? と踏み込むと、「カメラは武器になりうるんだよ」と昏く笑う。

「じょしこーせーなんて、所詮承認欲求と自意識の塊だからさ、自分が可愛く写ってる写真はできるだけたくさんほしいわけ。だからばかみたいにプリクラ撮るんでしょ。だから、カメラ持っててそこそこ写真上手い私は、地味な三軍の中にいても『上』の子たちから重宝されるわけ。スナップ写真なんか撮っても別におもしろくはないけどね」

 うまく飲み込み切れずに黙っていると、「ブスの処世術ってやつですよ」と佐原は低い声で呟いた。意地悪い響きがあったけれど、その悪意は春ではなく佐原本人に向けられている刃だったから、うかつにふれられなくて黙っていた。

 佐原はそういう子だった。三年間通して、丸くなるということもなく、一貫して尖っていて、よく研いだ日本刀みたいにどんな時も戦闘態勢を崩そうとしなかった。同じクラスになった去年、教室ではごくふつうにふるまっているように見えたけれど、目が合うと白けた顔をつくって肩をすくめたり舌を出したりした。部室に来れば「あー、教室って肩凝る、身分低いってつらい」とわめいたりクラスメイトの陰口を叩いて笑い転げていたりして、町を渡り歩くのらねこのように自由気ままに過ごしていた。

 初めは佐原の内面に秘められた激しさにぎょっとしたり振り回されることも多かったけれど、ずっと一緒にいるうちにそれにも慣れて、辛辣にものを言いたがる佐原の言い差しを面白がるくらいには図太くなった。この子はある意味、人より正直なんだろう、と思いもした。だからこそ他人の視線に過敏だし、過剰なまでに自意識の針を逆立てて素を見せまいとする。

こういう生き方はずいぶん疲れるんじゃないかな、と思いはしたけれど、佐原は「部室来るために高校来てる」と言うのを聞いて少し安堵した。この子はこの子なりに自分のバランスを取っているんだなと気づいたから。

 

 いつものように勉強しながら二人でだべっていると、誰かが部室に入ってきた。二年の榊君だった。

「お疲れー、あれ、なんか珍しいね」

 佐原がびっくりした顔でソファから身を起こした。

「いや、二人が部室いる頻度が常軌逸してるだけっすから」

 苦笑しながら部室を見下ろしている。座れば、とうながすと「いや、すぐ出るんで」と断わられた。

「忘れものとか?」佐原の言葉に、いや、違います、とやけに首をきっぱり振った。

「学祭用の写真。あれ、館野さんを撮らせてもらえないですか」

 咄嗟に飲み込み切れず、「私がモデルするってこと?」と訊き返してしまう。「あんたしかいねーだろ」と佐原が突っ込む。榊君は「そっすね」と淡々と言った。

「クラスの子とか妹とかに頼もうかなとも思って何枚か撮ったんですけど、なんかぴんとこなくて。あと撮られ慣れてる人を撮ってみたいなと思って」

 なぜか榊君は佐原を見て言った。「あー、この人撮りやすいよ。自分で動けるし」と佐原が小説に目を戻しつつ言う。

「撮られ慣れてる……って言っても佐原くらいにしか撮られたことないけど」

「それで充分です。今日天気微妙なんで、明日とかどうですか? 高校の中と外でしか撮んないんで」

「あ、うん。え、どんな感じで撮るの? 髪型なんでもいい?」

「高校生活っぽい風景で撮りたいだけなんで今日みたいな感じで大丈夫です。じゃあ明日また部室来ます」

榊君はあっさりと部室から出て行った。二人きりになってから、思ったことを呟く。

「二年の部員に頼めばいいのに。真矢ちゃんとか瀬野さんとか」

「いや、無理でしょ」とやけにばっさりと佐原が言った。「瀬野さん、榊君に告ったらしいよ。で、すぱっと断られたらしい」

「え、知らなかった。そうなの?」

つやつやの髪にいつも天使の輪がふんわりとあかちゃんみたいに浮かんでいる瀬野さんの、はにかんだような微笑が傷ついてこわばるところを想像してしまい、自分の頬まで硬くなる。「こないだ館野が面談だかでいなかった時に、二年の女子がなだれ込んできた日があったんだよ、その時聞いた」と佐原が言う。

「ふーん……まあ、唯一の男子部員だしどうにか残ってくれたらいいね」

「っていうか、そんな奴の被写体受けちゃっていいのかね、当然瀬野ちゃんも写真見ることになると思うんだけど」

 佐原が意地悪く笑う。「え、ちょ、やめてよー」と身を捩ると、「まあ二年のごたつきなんてこっちは関係ないっしょ、頼まれたから引き受けただけ、で流せばいいじゃん」と自分から焚きつけてきたくせに冷静に肩をすくめる。

「っていうかあいつが館野で出すなら、わたし、学祭出すのやめよっかな。被写体かぶるし」

「え、嘘、撮ってよ。最後の写真展だよ?」

 あせって顔を覗き込んだ。けれど「あ、今日眼科行くんだった。悪いけど鍵当番よろしくぅ」と佐原はあわただしくリュックを背負って出て行ってしまった。


 翌日、佐原は部室に来なかった。一人で英語の予習をしていると「お疲れっす」と一眼カメラをぶら下げた榊君がひょっこりと顔を出した。

「あれ、佐原先輩いないんすか。めずらしい」

「うん。メールしたけど今日は図書館で勉強するって。そもそも、すでに合格出てるしね」

 榊君は「荷物いらないんで、とりあえず撮りにいきましょう」と顎をしゃくるようにしてうながした。「あいつ何気に態度悪いよね」と佐原がいつだったか言っていたのは、こういうしぐさを簡単に先輩に対してするところだろうな、とふと思う。

「とりあえず、教室と、外で二枚ずつくらい学祭に出したくて」

「うん」

「とりま何枚か試しで撮らせてください」

 空いていた多目的教室に入り、窓際に立ったり、席について頬杖をついたりした。ファインダーをのぞきながら榊君は淡々とシャッターを押す。

「いつも佐原先輩とはどんな感じで撮るんですか」

「んー……雑談しながらとか。こんな感じだよ、特別なことしてるわけじゃない」

「あの人の撮る写真、館野先輩以外の人撮ってる作品あんま見たことないすけど、なんか、いいですよね。実際カメラ通して館野先輩見ると、ついつい佐原先輩の写真に寄せちゃいそうになるっていうか」

「佐原に言ったらきっと喜ぶよ」

 ポージングはあまり得意じゃない。顎に手をおいたり、髪をいじったり、指を頬に添えてみたりする。結局そのローテーションになっていることに気づいた榊君は「普通にしててください、普通に」と苦笑いした。

「……ってか、ほんと絵になりますね、館野先輩って。なんかアイドルとか女優の宣材写真撮ってるみたい」

「ちょっと、やめてよ」

 照れくさいとか恥ずかしいというより、急に照明が切り替わったような違和感が強くて思わず眉根に皺が寄った。「なんすか、その反応」と榊君がへらへらとカメラを下ろして笑う。

「そういう反応されるとなんかこっちが気まずいんですけど。告白ミスった人みたいな扱いじゃないすか」

「急にそういうこと言われるの、なんか、へん。へんだよ」

 違和感があるとか気味が悪いと言うとあまりに角が立つと思ったから小学生みたいに言い張った。榊君はふ、と息を吐いて笑った。

「なんか、いまさらですけど館野先輩って変わってますよね。女子っぽくない」

「そうかな。っていうか、私を撮らなくても、榊君に撮られたがってる女の子はほかにいるんじゃないの」

 こちらの反撃に目をぱちくりさせるか顔を顰めるかと思ったのに、榊君はあっさりと「ああ、瀬野ちゃんのことですか」と自ら名前を出したので、こっちの心臓が跳ねてしまう。

「撮ったことありますよ。頼まれましたから」

「うそ、そうなんだ。その写真、見たことないけど」

「あんまいい画にならなくて。学祭か写真展に出して、ってしつこく頼まれたのもなんかいやだったし。それじゃ俺、駒じゃないですか」

 榊君の口調は淡々としている。だからこそいたたまれない気持ちになった。

瀬野さんは、好きな人に写真を撮ってもらうことよりも、それを公的な場に出してもらうこと自体に執着したんだろうな、という意図が透けて見えた。写真をだしに使われて厭な気持ちになった榊君の気持ちもなんとなくわかる。

「俺、他校に好きな人いるんです。幼なじみで一個上。まあ、付き合ってる人いるみたいですけど。近所に住んでるって残酷ですよ、デートでどこ行ったとか相手がどんなやつとか夕食で親から聞かされるから」

「……そっか」

「ちなみに、写真のモデル頼んだら『彼がいやがるから』でばっさりでした。ま、撮るだけつらかったかもしんないすけどね」

 カメラを下ろした榊君と真っ向から目が合う。しゃべりすぎた、という顔をして「中庭でも何枚か撮って、それで終わりにします」とそっけなく言う。横顔になると、西陽が頬骨をふちどるように浮かび上がらせ、鼻が少し鷲鼻だからか榊君はどこか外国の少年めいている。いまになって榊君が女の子に人気があるというのを意識した。

「ねえ、榊君」

「なんすか」

「好きな人の写真って、やっぱり、撮りたいもの?」

 榊君は背を向けてこたえなかった。けれど、頬が持ち上がっているのが見えて、笑っているのがわかった。


「さーはら」

「何」

「写真、撮りたいんだけど」

「撮れば」

 佐原がそっけなく言う。じゃなくて、と間を置いてから言うと、面倒くさそうに眉をひそめた。

「まさかと思うけど私を撮りたいって意味ですか」

「うん。そう」

 佐原は文庫で顔を隠すようにして覆い、「やだよ。三年間散々断ってきたでしょうが」と言い放った。言葉を継げずに押し黙っていると、佐原が文庫から目だけ出してこちらを見た。

「……別に私である必要なんてないでしょ。っていうか、再三言ってきたと思うけど、写真撮られるの好きじゃないから。私」

 知ってるよ、と小さく呟く。佐原が誰かを撮ることはあっても、レンズの前に立ったことは春が知っているかぎりいちどとしてない。

 でも。

 頼んだところで強硬につっぱねられるのは予想していた。佐原が処世術として――人の輪の中に入っていくために写真を撮るようになっただけで、本当は写真を撮ることにも、写真自体にも、さして執着がないことも知っている。でも。

「……ちょっと、黙んないでよ。なんかしゃべってよ」

 佐原が気まずそうに言う。目を閉じて、自分の頭に見えない拳銃を押しあてて引き金を引くイメージを頭に浮かべながら、言う。

「わかった。じゃあ、佐原が撮って。私のこと」

「いつもどおりじゃん」

 ばかにするような口調を装いながらも、安堵しているのが声でわかる。

「ううん。ヌードを撮ってほしい」


 過去の模試を解き直していると、冷めるからお風呂入んなさいよー、と居間から母親が声をかけてきた。手を止めて浴室に向かう。勉強している間は余計なことを考えなくて済むから、受験生という時間自体はそれなりに充実していていいな、と思う。

 部屋着を脱いで、下着も取りはらい、洗面所の前に立つ。鏡の前で自分の裸を眺めるのは、なんだかひさしぶりのような気がする。

 鳥籠のようにあばらが浮かびあがり、ブラインドの下に立っているみたいに縞模様の影が走っている。胸はほとんどふくらみがなく、薄い皿ふたつをさかさに並べたみたいだ。上半身だけ見れば少年と間違われかねない。へその下では縮れ毛が生白い皮膚を半端に覆い、そこだけ急に成熟した大人の身体に切り替わったようでなんだかちぐはぐな印象だった。バランスの悪い身体だ、と思う。

 ――いいけど、受験終わってからにしなよ。この時期の高三がすることではないでしょ。

 信じがたいことに、佐原は断らなかった。ばかなことを口走っている自覚はもちろんあった。ヌード、なんて考えたこともなかったのに、どうしてか、いつもと同じような写真を撮られて終わり、というのはいやだった。

春がくれば佐原は東京へ行ってしまう。

 湯船に鼻まで浸かりながら、湯の屈折でゆがむ自分の裸を見下ろす。とくべつきれいとも、醜いとも思わない。顔と同じで、愛着があるわけでも、逆にコンプレックスに苛まれるほどでもない。当然、裸の自撮りを撮ったこともなければ、写真を撮ってほしいと思ったこともない。それなのに。

 ヌード、なんて咄嗟に口にしてしまったのはなぜだろう。強い言葉に佐原がひるむ手ごたえがほしかったのだろうか。何それ意味わからないよ、とか、あんたの裸なんて見たくない、気持ち悪い、とでも拒まれる可能性だってあったのに――半分ぐらいはそんな反応を予想していたのに、佐原は承諾した。あるいは冗談と受け取ったのか。実行する気なんてなく、どうせなあなあになると思っているんだろうか。

正直に言えば、春自身、そんなことが本当に二人の間で実現できるかなんて想像がつかない。体育の着替えですら制服の下でさっと済ませることが多かったから、下着姿すらさらしたことがないのに。

 お湯がゆらゆらと揺らめく。水陽炎が肌に薄鼠色の淡い影を落としていた。意識の中にまで湯気が入り込んだみたいに、ぼうっとする。

 いつもは保湿なんてしないのに、居間のニベアクリームが目について腕と脚に塗った。


 空気の冷え方というよりも、肌に触れる空気の水っぽさで「あ、そろそろ雪が降るな」と予感する季節になった。そして、そのうち本当に雪が町を覆うようになった。

教室にはストーブが設置されて窓ガラスがいつも曇り、結露の水でだらだらと泣いているみたいに濡れて外が見えなかった。タイツを三枚履きにしていても、雪道を歩いていると膝小僧や耳、鼻、身体のでっぱっている部分が大理石のように冷たくなる。

日々は雪が積もるスピードよりも速く進み、センター試験まであっというまだった。私立の受験で空席が目立つようになり、ほとんどの授業が自習に切り替わった。

 部室は暖房がつかない。それでも、膝掛けを持ち込んで通い続けた。「こんなさみーとこで、よく手がかじかまないね」とコートを着て手袋をはめたまま佐原は課題を解いていた。大学から小論文を課されているらしい。

「なんでよりにもよって一番雪深い時期に受験シーズンがあるんだろ。早くあったかくなるといいよね」

 佐原が小さく呟く。それには相槌を打たないまま、赤本を解き進める。受験は早く終わってほしい。でも。

 ずっと高校生でいられればいいのに。

 あ、雪、と佐原が窓を見やる。雪が花びらみたいにくるくる旋回しながら舞っていた。

「佐原」

「何」

「あの約束、有効だよね?」

 佐原は「本気なの?」と小さく呟いて「別に私はいいけど。どっちかと言えばそっちの問題じゃない」と頬杖をついて春を見た。

熱の伴わない、からかいも動揺も見当たらない視線を受け止めながら「いいよ」とだけこたえた。ふ、と片頬だけで佐原が笑う。

「まあ、受験頑張ってよ。じゃなきゃやんないよ」

「わかってるよ」

 窓の外では、子供がめちゃくちゃに振ったスノードームの中身みたいに雪が激しく舞っていた。もっともっと降って、この校舎から出られなくなればいい。


 案を出し合った結果、ヌード撮影は佐原の家ですることになった。春の家だと母親が専業主婦で、かつ祖母もいるからそこそこ家族の出入りがある。「うち、平日の昼間なら誰もいないよ」と言うので、お邪魔することにした。

 すでに卒業式は終わり、一応後期受験の対策として小論文を提出しに高校に行きはしていたものの、気分としてはかなり軽い。もともと、地元の大学はそんなに高望みじゃなかった。自己採点が間違っていなければ、ほぼ合格は確定だ。

 午前中に添削の返却があったので高校に立ち寄った。佐原から【迎えに来た 昇降口いる】とメールが来たので降りていく。春を見て「あ、制服じゃん」と言う。佐原はレモン色のセーターとジーンズ、紺色のトレンチコートといういで立ちだった。明るい色の服を着るイメージがなかったから、なんだか知らない大学生と待ち合わせたみたいだった。

「もう女子高生じゃないのにね。でも服装考えなくていいから楽じゃん。高校だし」

「大学生になったら毎日私服だよ、だるいとか言ってらんないよ?」

 佐原がからかうように言う。スクールバッグを籠に入れてもらい、自転車を引く佐原の隣を歩く。服可愛いね、と言うと「親が、東京で買うと高いからってイオンとGUで買ってきてさ。まあ向こうでも買い足すだろうけどね」と返ってきた。未来へ向けた楽しそうな笑みが、ほんのりと上に持ち上がった頬に浮かんでいて、そっと目をそらす。

 佐原はすでに東京に行くことを楽しみにしているのだ。「田舎ってすぐ情報回って特定されるじゃん、人混みは嫌いだけど、都会だったら誰も他人のことなんか気にしないだろうか気が楽」と部室で繰り返し話していたことを思いだす。

 高校から歩いて二十分ほど、住宅街の端で佐原が立ち止まった。

「ここ。入って」

 高校時代、あんなに一緒にいたのに家に来たのはこれが初めてだった。屋敷と呼べそうなくらい大きな家だ。「お嬢さまって感じだね」と言うと「じいちゃんの代からの家だから、古いだけ」とあっさり流される。

「二階行って、右が私の部屋。お茶持ってくから待ってて」

「ありがと」

 言われた通り部屋に向かう。すでに引っ越しの準備を進めているのか、ものが少なかった。紙回収に出すのだろう、教材がぎっちりと紐で縛られて隅に積まれている。

すでに高校時代は佐原にとってすでに過去なんだなと、否が応でも思い知る。

へたったクッションをおしりに敷いて、佐原が上がってくるのを待った。ふすまが開く。

「お昼食べた?」

「まだ。お弁当持ってきてる」

「オッケ、私もまだだからここで食べよう」

 佐原はお湯を入れたカップやきそばを持ってきて食べ始めた。ヌード撮る前にまずお昼ごはん食べるのってへんなの、とちらりと思ったけれど、黙っておにぎりを食べた。あまりに満腹になったらおなかが出そうだから半分残して蓋をした。

「こういうのがいいとか、イメージはある? 誰もいないから下の和室とかでもいいかなとは思うけど……寒いしここでいい? 殺風景すぎて申し訳ないけど」

「うん、大丈夫」

「了解。学習机とか入っちゃうと興醒めだし、ベッドで撮ろうか」

 佐原が本棚から一眼レフを取り出し、調節し始めた。ぼうっとそれを眺めていると、「脱がないわけ?」と声が降ってくる。

「いや、脱ぐけど。そんなすぐ脱いだらびっくりされるかなって」

「いやまあ、びっくりはするっちゃするけどそういう段階はとっくに過ぎてるっていうか」

「それもそうだね」

 佐原は学習机の椅子に座り、こちらを見るでもなくカメラのレンズを覗き込んだり設定をいじくったりしていた。佐原も緊張してるんだ、と思ったらすっと身体のこわばりが取れた。

 立ち上がる。あまり何も考えないようにして、自分の部屋でそうするみたいにスカーフをほどき、セーラー服を脱いでニットになる。二枚重ねて履いていたタイツも脱いで、スカートのファスナーを下ろしてすとんと床に落とす。

 ニットも脱いで、その下に着ていたヒートテックも脱いだらくしゃみが出た。温度上げるよ、と佐原がエアコンのリモコンを探し始める。その背中を見下ろしながら、冷静な気持ちでキャミソールを脱いだ。下着だけの姿になって、ベッドに腰かける。

「ちょっと温度上げた。ごめん、もっとあっためておけばよかったね」

 佐原が振り向く。真正面から向き合う格好になり、凝視し合った。

眼球と眼球だけの生き物になったみたいだった。服を脱いだせいで、佐原が春の顔から視線を動かそうにも動かせずにいるのが気配で伝わった。こちらから目をそらす。

「まずは下着から撮る? 週刊誌のグラビアみたいなのになりそうだけどさ」

 軽い口調を装ってはいても、佐原の顔はへんなふうに引き攣っていた。笑みになるように後ろから誰かが糸で釣っているみたいに。

「ううん。脱ぐ」

 後ろ手でホックを外して、ショーツも脱ぐ。この状態で佐原のベッドに座るのはためらわれたけれど、「いいよ、座って」と佐原が言ったので腰を下ろした。温められた部屋の中で、さっきまで佐原が食べていたやきそばの匂いがうすく漂っていて、状況の異常さが際立つ。

「テストね」

 佐原がカメラを向ける。意識してレンズを見つめる。でなければすぐにでも目をそらしてしまいそうだった。気づくとつい、腕を胸のあたりに引き寄せて隠そうとしてしまう。そういう仕草を見せることの方がよほど恥ずかしく、腕と胴体をできるだけ切り離すように努めた。

緊張していたのは佐原の方だったのに、カメラを挟んだことによって裸の同級生と向き合っているという恥ずかしさがぬぐわれたのだろうか。「ちょっと横向いてみて」「顎をちょっと左にそらして、あ、いきすぎ」と時々ポーズ指定しながらシャッターを切るくらいには余裕を取り戻していた。そのことが少し悔しいような、ほっとするような、半分ずつ気持ちが波間の小舟のように揺れる。

 細いねとも、白いねとも、胸小さいねとも、裸への感想は一切なかった。佐原は淡々と撮りつづけ、「疲れたでしょ、少し休憩しよう」とカメラを下ろして言った。夢中で気づかなかったけれど、気づけば一時間以上撮り続けていた。

タオルケットを渡され、それにくるまる。佐原の匂いと同じ柔軟剤の匂いがした。

「撮ったの見る?」

 佐原がカメラをいじりながら言う。「まだ見る勇気ないや」と言うと、「撮られてる間は勇ましかったのに」と笑う。

「そう?」

「なんていうんだろ、いつも撮ってる時とは明らかに違ったよ。表情のつくりかたとかも。なんか、凄まれてる気分だった。あ、悪い意味じゃないよ。撮る分には楽しかったからさ」

「そっか、楽しいんだ」

「なんて言えばいいんだろ、貴重なものを撮ってる感じ……って言ったらなんかスケベじじいみたいか。ヌードって写真集とかで見る分にはへえって感じで見るだけだったけど、いざ撮ると迫力あるっていうか、ちゃんと撮らなきゃ、って身構える。だって被写体が目の前で身体張ってるわけだからさ」

「そだね」

「なんか、挑まれてる気分だった。ヌードの撮影って、お互い体力勝負だね」

 部屋が温まりきったせいか、頭がぼうっとする。眠くなってきた、と言うと「まあ、食べたばっかだったしね」と苦笑いする。

「ちょっと寝てたら? その間写真レタッチしとくからさ」

「うん」

 ショーツを履いたら面倒になってそのまま布団に潜り込む。佐原の匂いがする。裸みたいな格好で布団にくるまっていると、セックスってこういう感じなのかな、と雑に思いついた。

パソコンを立ち上げてデータをいじり始めた背中を眺める。視線に気づいた佐原がこっちを振り返って、寝てなよ、とやさしく言ってくれて、すうっと薄膜につつまれるようにして目を閉じた。


気配を感じて、目を開けると佐原が覗き込んでいた。額に手が置かれていて、熱が心地いい。

「五時。もうそろそろ母親が帰ってきそう」

「……ごめ、私めちゃくちゃ寝てたね」

 上半身を起こすと、佐原がつるりと視線を斜めにずらした。そういえば裸のまま寝ていたことを忘れていた。ごく自然に目をそらされたことが、どうしてだか淋しく、腹立たしくもあった。

 ――レンズ越しでしか、私のこと見てくれないわけ。

「服、着なって。風邪引くよ」

「……うん」

「あと、写真厳選してUSB入れた。なんか、夢中だったから気づいてなかったけど百枚ぐらい撮ってたよ」

 いつもデータを渡すときに使っている、蓋をなくした黒いUSBを受け取る。「ありがと」とかばんにしまうと、「それ、もう使わないから持ってていいよ」と言われた。「新しいの買ったから」

 黙ってブラジャーをつけて、キャミソールをかぶり、制服に着替えた。きちんとした服を着たいまになって、昼間のことは本当にあったできごとなんだろうか、と不思議な気持ちになる。数時間前に佐原の前で服を脱いで裸を撮らせたなんて、現実味がなさすぎる。他人が見た夢の記憶でもなぞっているような、みょうな遠さがあった。

 まだ眠気からさめきらなくてぼんやりとベッドに座っていると、「卒業したから言うんだけどさ」と佐原がしずかに切り出した。言われる前から、なぜか佐原が話そうとしていることがわかっている気がした。

「榊のこと好きだった。ずっと」

 おなかをぐっと大きな握りこぶしで抑え込まれているみたいに、呼吸が止まって声を発せなかった。痛み。けれど、それを言葉にすることはできない。

「まあ、あいつもてるから告白しようとか思いもしなかったけど。二年の間で取り合いみたいになってたし、割り込んでまでどうにかしようなんてさらさら思わなかったけど」と淡々と言う。

 佐原は本棚と向かい合うようにして椅子に腰かけている。ほんのりと微笑んでいる横顔をぼうと眺める。知ってたよ、と言うか言うまいかためらって、結局飲み込む。

 私は佐原をずっと見てたから、心が誰に傾いているかぐらい、すぐにわかった。わかった上で、どうしようもなかった。

「さっき、館野の写真撮りながらさ」

「うん」

「あいつがこのこと知ったら、悔しがるだろうなって、そういうこともちょっと思ってた。館野の裸を撮るのは私なんだ、ざまあみろ、って」

 少し考えて、気づく。佐原は、榊君が春を好きだと思い込んでいるのだ。きっと、学祭用の写真の被写体を春に頼んだから。

榊君は私のことを好きじゃないよ、と明かすのは簡単だった。けれど、彼が好きなのは他校の幼なじみだからと種明かしをすれば結局佐原は傷つく。それを春には話した、ということにも。

 駒扱いされたくない、と吐き捨てていた榊君の尖った目つきがよみがえる。ヌードを撮らせたことで、結果的に佐原の恋心のあてつけに自分は利用されたのか。とんでもない提案だったのにもかかわらず、びっくりするほどすんなり受け入れて実行に付き合ってくれた理由がやっとわかって、腹が立つとか悲しいとかよりも、そっか、と静かに穴へ吸い込まれるみたいにして腑に落ちる感覚だけがあった。

「だとしても、私なんかが榊の眼中にないことくらい、わかってるけどさ」

 咎を告白する罪人のように、佐原がとぼとぼと言葉を漏らす。誰にも言わないでいたものが重さにこらえきれなくなってあふれてしまって、液垂れするみたいに。

「私、いっそレズとして生まれてくればよかった」

「え」

「そしたらいまよりずっと生きやすかったよ。絶対に好きになってくれない人を好きになってみじめな思いすることもなかっただろーな」

 心臓に氷の塊でも押し当てられたみたいだった。相槌を打てずに固まっている春に気づかず、佐原ははーあとわざとらしいほど大きなため息をついた。わかってしまった。

佐原の世界に春は存在していない。いや、存在はしていても、景色の一部みたいなものでしかないのだ。

 しゃぼんだまの膜越しに景色を見ているような疎外感。水族館の水槽を眺めるみたいにしか参加できない世界。招待されていないのにうっかりドアを開けてしまったパーティ。一生、そんなふうにしか生きていけないのだとしたら。

 くちびるをつぐんでいると、佐原が立ち上がり、わざとらしいくらいの伸びをしてから言った。

「駅まで送ってくよ、もう暗いし」

 顔が心なしか赤かった。春が目の前で裸になった時よりも、ずっと。


お風呂を済ませて、家族が寝入ってからリビングのパソコンでこっそりとUSBの中身を確認した。

十枚の写真が入っていた。まっすぐに自分の裸を見つめる勇気が湧かず、焦点をずらしながらそろそろと眺める。

 電気をつけず、レースのカーテン越しに漏れてくる光だけで撮っていたので、薄暗い部屋の中で春の裸は異常なぐらい白く発光していた。額縁のように尖った薄い肩、寒さで硬くすぼまった乳首、翡翠のような色の血管、それを透かす白い皮膚。笑みを浮かべずに、じっとレンズを見据えている。挑みかかるように。

 まつげのかすかなふるえや心臓の鼓動が伝わってきそうなほど寄って撮影した写真もあった。黒目の硝子の中に、カメラが映り込んでいる。恥ずかしさも忘れて、一枚一枚、じっくり見つめた。

いつも佐原に撮られていた写真とは色合いが全く違う。いままではふいを狙ったやわらかい表情を切り取った写真がほとんどだったけれど、ただ裸でいるだけで、見る者を威圧するような緊張感と凄味があった。森林の中で向けられた銃を見据える野鹿、手紙を焼き払いながら青白く燃える炎、まだ誰も足跡をつけていない新雪の原野。いやらしさはほとんどなかった。それはカメラを通して春を見ていた佐原が、一切の劣情を持たずにシャッターを切っていたという何よりの証だと思った。

 全部、消してしまおうかと思った。自分のヌードを記録したのは、写真そのものがほしかったからじゃない。佐原に裸を見せたかったからだ。見せた先に何かあるわけじゃなくても、ただの写真部の同期として、高校時代の友だちとして終わらせられなかった。なんらかの方法で痕を残したかった。佐原に、春の存在を灼きつけたかった。ただそれだけだった。

受け入れられずにただ隣にいて笑うことしか、自分が果たせる役目はないのだと、そんなことずっと前から知っていた。だから、写真をだしにして佐原の前で裸になった。そうすることで見せつけたかったのは身体そのもの、なんてわかりやすいものなんかじゃない。もっと醜くひきつれて、どろどろに煮詰まって糸を引いて、出口を見つけられずに、自分の中でのたうち回り続けているもの。

ふるえる手で全選択して消去をクリックしようとした時、携帯が鳴った。思った通り、佐原からのメールの通知だった。

【お疲れ~ 写真見てくれた? 

結構たくさん撮った中でいいなと思ったものを厳選したつもりだから気に入るのがあるといいんだけど。じゃなきゃせっかく館野が脱いだ意味がないからさ。

個人的には、壁に頭をもたせかけてる写真が好き。

館野はすごく綺麗だった。

ずっと撮った写真眺めてるよ。あ、やらしい意味じゃなくて! 笑

三年間ずっと撮らせてくれてありがと。楽しい時間でした】

 二度、時間をかけて読んだ。佐原が一番好きだと言った写真を選んで表示する。

壁にもたれて、光が漏れている方へと向けられている。微笑んでいるとまではいかなくても、頬や身体から力みが抜けているのがわかった。きっと終盤に撮ったのだろう。

 消去するのをやめた。佐原が「綺麗」と言ってくれた自分の写真を消したくはなかった。見返す日が来るかは、いまはわからなくても。

 もしかしたら、自分はこのさき誰かの前で裸を見せることなど起こらないのかもしれない。自分を見つめない人しか好きになれないのだとすれば、ベッドのなかで愛しい誰かの裸を見ることも、抱き合うことも、知らないで死ぬのかもしれない。

 だけど、好きな人が自分の裸を撮ってくれた。裸だけじゃなくて、三年間、日常のいろんな姿をおさめてくれた。手っ取り早く仲良くなるためだとか、教室の中で空気を読むためなんかじゃなく、撮りたいから撮ってくれた。

【こちらこそ、撮ってくれてありがとう。

佐原が写真部にいてくれてよかった。また会おうね】

 送信。

私たちはもう高校生じゃない。だとしても。この思いはなかったことになるわけじゃないし、佐原といた時間は写真になって永遠に残り続ける。深くながく息を吐いた。

少なくとも、写真の中では、春は佐原の友だちだ。永遠に。


息継ぎ


 素顔の自分と目を合わせたのはめがねをつくった小三の冬ぶりのことだった。

鏡の中の自分をまじまじと眺めていると、「はい、今度ははずす練習ですよー」と横から看護師さんの指が容赦なく伸びてきた。ぎゃ、と思う間もなく眼球に貼りついていたコンタクトレンズをぺろりと剥がされる。右目は自分で取ってみて、と言われて、眼球を摘まむようにして二本の指で剥がす。動作の野蛮さのわりに痛みはなかった。水をたっぷり含んだ水彩画のように、視界がぼんやりとにじむ。

「慣れないうちはドライアイになりやすいので意識して目薬さしたりまばたきするようにしてください。あと、着用時間は八時間程度に留めてください」

 つけて帰られますか? と問われて、指にレンズを載せて眼球に押しつける。瞼が重すぎて開かず、もう片方の指で皮膚を持ち上げるようにして押さえていなければならなかった。結局、十分以上かけて装着するはめになった。そのうち慣れますからね、と後ろから慰めるように看護師さんに言われて、みじめな気持ちになる。芋臭いなりにおしゃれしたいんだろうなこの子、とでも思われている気がして。

 眼下を出たあと、駅のトイレであらためて鏡を見つめた。

めがねはずした私ってこんな顔してたんだな、と思う。眠たげな重い一重瞼、鼻すじの埋もれた低い鼻、小さくて厚みのある唇。思っていた以上に地味な顔だった。前髪つくったらましになんのかな、とため息をつく。

めがねをかけていた高校生までは、前髪をつくってみたい、と思いつきはしてもついに実行できずじまいだった。前髪のあるなしは結構見た目の変化が大きい。前髪切ったんだー、といちいち、そう大して仲がいいわけでもない女子の話題にされたり、されなかったとしてもへえ切ったんだ、と思われることすら疎ましかった。それは自意識過剰だよー、と同じ部活の同期には笑われていたけれど、結局三年間、前髪を分けたショートヘアを意図せず貫くことになった。

慣れないスマホで、学割が使える美容院を近くで探して、前髪を作ってもらった。「前髪あるだけで可愛い系になりましたねー! お客さまは首が長いから髪を伸ばしてポニーテールなんかにしてもお似合いになりそうですよ」と金髪のギャル風のお姉さんが言う。そうですかね、なんて浮かれてこたえながら、それもいいかな、と思ったりした。


東京は思っていた以上にらくだった。

もちろん最初は電車の乗り換えに手間取ったり、あまりの人混みの多さにげんなりしたり、通り過ぎていく女子中高生の顔面偏差値の高さや持ち物の質の良さに恐れおののいたりしたものの、田舎で生きていた時より圧倒的に呼吸がしやすかった。空気はもちろん向こうの方が澄んでいたはずなのに、東京に身を置いた途端、肺を使って大きく深呼吸できるようになった気がした。

「そうかなあ、田舎の方がのびのびしてない? 牧歌的っていうか、のんびりした子が多そうなイメージだけど」

 学食でいかに田舎は生きづらいかを説いていたら、麻婆豆腐定食を冷ましながらえりまき先輩が首を傾げた。

 澄鈴が入ったサークルで一番初めに仲良くなったのは二年のえりまき先輩だ。本名は牧村枝理だけど、サークルでは基本的に本名ではなくあだ名で呼ばれることが多い。澄鈴の場合は、苗字の佐原をもじってサーラと命名された。

「そんなわけないじゃないですか。私が通ってた高校なんて陰険で閉鎖的で排他的な空間でしたよ。大学って、教室っていう概念がないからすごいいい、楽」

「そお? あ、サーラは文学部だもんね。経済学部って意外と女子少ないから結構メンツが固まってるんだよね。派閥自体ほぼないのはいいけどね」

 その点はうちのサークルも同じだけど、とえりまき先輩がにやっと笑う。確かに、と澄鈴も笑い返した。

「東京生活はどう? 都会っぽいところ行ったりした?」

「あー……新宿は、紀伊国屋書店には行きましたけど、人多すぎて服屋とかは無理でした。春服買い足さないといけないんですけどね。それぐらいかなぁ」

「あー、服買うなら新宿渋谷は外した方がいいね。吉祥寺とかちょうどいいから今度一緒行こうよ。付き合うよ、買い物」

「頼もしいです」と相槌を打つと、あははは、と大きな声で笑った。


 東京名所を歩く会、通称「東名会」というのが澄鈴たちが所属するサークルだ。自分でも、こんな突飛でアングラ感漂うサークルに入ることになるとは思ってもいなかった。

そもそも、サークルに入る気自体、あまりなかった。図書館で本を読んだり、静かな喫茶店でバイトしたり、休日にぶらぶら風景でも撮りにカメラを持って遠出したり、そういうことで自分のキャンパスライフはぼちぼち埋まるだろうと思っていた。

そもそも、サークル、という軽薄な響きから連想されるような場所に、自分がなじめるとも思えなかった。青春、カップル、バーベキュー、みんなでわいわい飲み会……連想される要素だけで胃がもたれて、「あ、いいです」となった。入学式以降、昼休みに外で歩いているとたくさんのビラを撒く二年生たちに勧誘されたものの、ほとんど受け取らないでいた。  

全くもってノーマークだった「東名会」に入ったのは、一般教養の授業で隣になった二年生――えりまき先輩と仲良くなり、「佐原ちゃんも一回遊びに来てよ、私だけ全然勧誘できてないって怒られてさあ」と泣きつかれるようにして頼まれて、新歓に行ったことがきっかけだった。

 部室でたこやきパーティをする、というイベントだった。アウトドア系のサークルと聞いていたから、ちゃらちゃらした感じのミーハーな、教室内でまあまあ上めのポジションだった派手な感じな人たちの集団なんじゃないか、とかなり歪んだ偏見を持って臨んだけれど、意外と地味ななりの人が多く、ただ知らない人とわいわいたこ焼きを食べただけの会だった。「意外とちゃんとしたサークルですね」と感想を言うと、みんなに総出で「意外とって何⁉」「どんなイメージ持ってたの」と突っ込まれた。注目を浴びる格好になったのに、それがなぜかいやじゃなかった。

 目立つことや注目されることを忌避して生きていた高校生までの自分だったら、ありえなかったことだ。自分ではない自分を演じているような、妙なすがすがしさがあった。

「名所を歩くっていってもあくまで食べ歩きメインだし、お金かかるようなところはあんまり行かないで川とか歩いたり神社巡ったり、なんていうか地味なことばっかしてるサークルだよ。大学生っぽくはないけど、ゆるくてマジちょうどいいよ、うちは」

 帰り道、駅までえりまき先輩が送ってくれながら言った。入部しなよ、と強く勧誘されなかったことが、ほっとするというよりむしろ物足りないと思っていることに自分でも少しびっくりした。「また遊びに行ってもいいですか」と訊くと、えりまき先輩はうれしそうに「もちろんだよー! 来て来て!」と笑った。

 東名会には、十二人の新入部員が入った。そのうち澄鈴以外の女子は四人いたし、それなりに口を利きはしたものの、えりまき先輩程には打ち解けて話す仲にはなれなかった。

「高校の時から、同性の同級生って苦手なんですよね。先輩って関係の人が結局一番話しやすい」

 安いから、と連れていかれたやよい軒で八宝菜定職を食べながらぽつりと零しててみた。えりまき先輩はけろっとした顔で「何言ってんの、みんなそうだよ」と言うのでなんだか拍子抜けした。

「え、そういうもんなんですか?」

「同期ってだけでやっぱりライバル意識があるっていうか……なーんも言い訳がない状態で向かい合わされてる感じっていうの? うーっすら気まずさがあるよね。まあ仲良くなっちゃえばそのあとは案外楽なんだけどさ」

 私浪人してるから実際には同期でも一個下だけどね、と肉炒めから巧妙にピーマンをよけながら言う。嫌いなら頼まなきゃいいのに、と思いながら色鮮やかなピーマンを眺める。

「大丈夫だよ。そのうち慣れるよ。私以外に仲いい人できなかったらずっと遊んであげるって」

「え~、まじですか。ほんとそうしてください、私コミュ障なんで」

 なんだかいかにも女子って感じのなれ合いめいた会話だな、と思いつつも半分は本音だった。えりまき先輩は「どーってことないって」とあっけらかんとした顔で笑っていた。


 五月の連休は、休講が重なって七連休になったものの、帰省する気はなかった。

 えりまき先輩の予言通り、顔を合わせるうちにサークルの女子の同期とも気楽に雑談できるくらいの仲にはなった。けれど、みんな地方出身者ということもあって連休は帰省する子が大半だった。

「サーラは帰んないの? 富山でしょ?」

 連休初日に部室に行ったら、三年の西川尚登先輩につつかれた。「いやー、東京からだと新幹線代高くつきますから」と言ったら「あーそっか。遠いと大変だねえ」と同情的なコメントが返ってきた。もっと会話できないかな、と思ったけれど、先輩はまたバカボンドを読むのに戻ってしまった。

 本当は、お金が惜しくて帰らないわけではない。富山に来るときは足代をあげるから夜行バスじゃなくて新幹線使っていいからね、と母親にも言われている。とはいえ帰る気はなく、【課題が多いから帰れなさそう。こっちの友だちと手分けして片づける予定】と嘘の返信をした。そのあと母親からすぐさま電話がかかってきて、来た、と思った。

「澄鈴ぇ、元気にしてる? 全然電話してくれないじゃない。メールは面倒くさいって言うからわざわざLINE入れたのに、スタンプばっかで全然返事しないし」

「……ごめん。思ったより大学の課題多くて。重い授業ばっかり取っちゃったんだよね」

 もちろん本当はサークルの先輩の情報網を借りて、課題や試験が軽い授業だけでカリキュラムを組んでいたけれどそう嘘をついた。「ああそうなん、大学って入ってからも大変なんやね」と母親が呟く。

「連休、富山に帰ってこんが? 澄ちゃんが帰ってくると思って楽しみにしとったんに……明子おばちゃんたちも呼んで、お鮨取ろうかと思とてさ。出前で。うれしいやろ?」

 母親の声は骨のない軟体動物みたいにねっとりして、電話越しなのに澄鈴にもたれかかってくる気配がする。「ごめん、勉強があって」「締め切りが重なってる課題が多くて」「お盆は帰ると思う」を繰り返して、どうにか母親をなだめた。

「澄ちゃんがおらんくなってからねえ、お母さん老け込んじゃったみたい。二キロも体重落ちたんよ、モモも寂しがっとるよう」

 電話の背後で、ちょうどタイミングよく茶トラねこのモモがなあーお、と鳴き声を上げた。モモを目いっぱい可愛がるんだ、ということだけを考えて、「夏まで待って」と言い聞かせて電話を切った。

 母親のことは別に嫌いじゃない。母子家庭だから元議員である祖父の支援がなければ東京の私大進学なんてできなかった。ありがたいことだし、感謝してもいるのだけれど、頻繁に連絡が来るとうんざりしてしまう。心配だから、寂しいから、という母親の言い分もわかるのだけれど、都会に来てせっかく伸び伸びしているのだから放っておいてほしかった。

 母親からのLINEを非表示にする。その時、部室のドアがひらいて風が通った。

「あっつ~。あ、サーラ、こっち残ってたんだ。暇だしあんたんちで映画でも見よう」

 聞き慣れたえりまき先輩の声が救いの神の声に思えた。「えりまきー、それじゃおまえサーラの彼氏っつうかひもじゃん」と西川先輩がからかうように言う。「別にいいじゃないすか、実家生は肩身が狭いんんだから」とえりまき先輩がわかりやすく顔をしかめた。

 澄鈴の家でカレーを作った。えりまき先輩が来るときはスーパーで飲み切れなくぐらいのお酒を買うから、澄鈴の部屋にはほろよいの缶がいくつも溜まっている。缶を差し出すと、あ、という顔をした。

「これ前回飲まなかったやつだっけ。桃味かー、ホワイトソーダない?」

「すみません、こないだ暑かったんで一人で飲みました」

 えー、と文句を言いながらえりまき先輩が桃味の缶を開けた。アルコール3%くらいでは全然顔色が変わらないえりまき先輩は、結構お酒が強い。

「ほんと、お酒好きですよねー。家でも飲んだりするんですか?」

「や、全然。家族で飲む人はいないねー……父親がお酒っていうか酔っぱらってる人が嫌いで」

「ふうん」

 えりまき先輩の実家は広尾にある。知り合ってばかりの頃に聞かされて、へえ、と聞き流してたら横にいた横浜出身の一年男子が「まじすか、めっちゃお嬢さまじゃないですか」と食いついてきた。東京の街の事情に詳しくないので澄鈴にはよくわからない価値観だったが、広尾といえば大使館がずらりと並ぶ高級住宅街で、そこに実家があるというのはかなりお金持ちであるという証拠らしい。「お嬢なんですか」と冗談めかしてたずねたら、「別に。親が会社経営してるだけ」と肩をすくめて、あまり話を広げてほしくなさそうな顔をしていた。その反応がかえって本物のお金持ちっぽさを醸し出していた。

「ってかさあ、連休東京にいるならさ、遊ぼうよ」

「別にいいですけど」

 居酒屋でバイトを始めたので、自由に使えるお金は多少ある。そういえば先輩ってバイトしてるって話聞いたことないな、とふとよぎって胸がざらりとした。


 六本木の美術館は、水中に建てられたみたいにぐねぐねと曲線を描いた奇妙な外観をしていた。

「美術館ってどこもそんなもんじゃない? 建物そのものが作品っていうか」とえりまき先輩はきょとんとした顔をしていたけれど、地元にある美術館は豆腐のように面白みのないシンプルな建物でしかなかったから、初めて見る形状の建物をしばらくしげしげと眺めてしまった。「子供ん時から親に連れてこられてるから、あんまなんも考えずに来てたけど確かに変わった形かもねー」と興味なさげにえりまき先輩が呟いた。

 美術館なんて、家族で行ったことなどない。中学校と高校で、行事の一環で一年に一度行ったぐらいだ。それも、毎年同じ所へ。

 ふっと、巨大な飛行機が頭上を通ったように、手元が翳った気がした。

 もしかして、と思う。東京出身の人と自分とで、文化のレベルや見てきたものの手数で、すでに相当な差がひらいているんじゃないだろうか。いまからでは、もう巻き返しのしようのないほどに。

「学割で安くなるから」と連れたクリムトの展示にはずらりと列をなして人が並び、当日券で入ろうとしたら一時間待ちだと言われた。諦めて帰るかと思いきや、えりまき先輩は「じゃーカフェでも行って時間までつぶそうか」とあっさりと言ったのでなおさらびっくりした。当然館内のカフェも満員だったので、近くのお店に入ることにした。

「私カフェ入るの初めてです」

「あー、東京来てから?」

「違います。カフェそのものに来たことなくて」

「マジ? 富山ってそんな田舎なの? 信号ある? Wi-Fi飛んでる?」

 えりまき先輩はアイスミルクティーを飲みながらにやにや笑っている。田舎だからっていうか、と澄鈴は口ごもった。

「まあ、実際文化レベルは東京の三十分の一レベルの田舎ですけど……うち、お小遣い制じゃなくて報告制だったんですよ。お金の使い道が」

「うん」

「ノート買うからとか本買いたいとかはよくても、なぜかうち、カフェがNGで。コーヒー一杯と同じ値段でフードコートでラーメン二杯は食べられるからっていうのが理由でした。意味わかんないですよね。しかもお金はくれてもちゃんとレシートも持って帰らなきゃいけないからごまかせなくて」

 話しているうちに、急に恥ずかしさがかっと足の裏から顔めがけて血流に乗って上がってきた。よりにもよって、東京出身のお嬢さま育ちのこの人に、なんで自分の家がいかに貧乏ったらしくケチであるかを明かしてしまったのだろう。ばっかみたいですよねー、とおどけてごまかそうと表情を取り繕っていたら、すっとえりまき先輩が微笑んだ。からかうような顔つきではなかった。ポストに手紙を差しこむような静かな声で言う。

「大変だったね。サーラが東京の大学に来られてよかった」

「……本当に」

 変わった家だね、とか大変だねかわいそう、と言われるのだと思っていた。というよりも、そういってほしくてこんな話をしてしまったのだと思う。それには、都内の恵まれた家から大学に通っているえりまき先輩への意地悪な気持ちも含まれていたかもしれない。

「私の家、母子家庭なんです。小四の時に親が離婚して」

「うん」

「それはいいんですけど、母親が『お母さんだけがあんたの家族なんだからね』って何かと言うようになって。お金のこととかも、実際には母方のじいちゃんが結構支援してくれたからそんなかつかつじゃなかったはずなんですけど、自分が知らないところで私が楽しんでる、ってことを過剰に嫌がるようになって、お小遣い制だったのを報告制に変えちゃって。なーんかもう、やってることメンヘラ彼女かよ、って感じですよねー」

 誰かに話したのはほとんど初めてのことだった。えりまき先輩が同級生だったら、言わなかったかもしれない。少なくとも、高校時代、「親がうっとうしい」くらいは愚痴っても、こまかい内情を友人に話したことはなかった。

「まあでもなんとか東京に逃げてこられたんで、これからは自分の好きなようにお金遣います」

「そだね。いろんなカフェ行こうよ、楽しいよ」

 えりまき先輩はまだ何か言いたそうだったけれど、それ以上何か続けることはなかった。

 つうっとアイスカフェオレのグラスの外側を水滴が流れ落ちていった。


 七月下旬から夏休みが始まった。【いつ帰ってくるの】【じいちゃんたちにも連絡しないと】と母親から毎日のようにつつかれ、のらりくらりとかわしていたものの、毎日返信する方が面倒くさくなり、観念して新幹線の予約を取った。

 大学に行くときはコンタクトレンズをつけて多少薄くメイクはしているものの、何かコメントされるのがわずらわしくてひさしぶりに高校時代使っていためがねをかけた。

すっぴんの顔に度の強いめがねをかけると、一気に顔がダサくなる。冴えない、垢抜けない、野暮ったい、十八歳までの澄鈴に引き戻される。教室で大きな声ではしゃぐ男子や、顔の可愛さを自覚している明るい女子の存在に怯え、憎んだりしていた頃の自分に。

 お盆の時期をずらしたおかげで、幸い自由席でも窓際に座れた。ここから二時間半。本でも持ってこればよかったかな、と思いながらぼんやりTwitterのタイムラインを流し見したりネットニュースを見たりした。高校のクラスメイトたちは地元で同窓会を開くらしく、グループLINEがにぎやかに鳴っていた。ほんのちょっとはあの頃より垢抜けた自分を連中に見せつけたいような絶対に見られたくないような、どちらにせよ澄鈴が気楽に口を利ける子たちは軒並み不参加のようだったから、参加する気はなかった。

【佐原、お久しぶり! 連絡ぎりぎりになってごめん。スタバで待ち合わせよう。楽しみにしてるー!】

 写真部の同期だった館野春からLINEが来ていたので【りょ 15時11分着予定!】と送った。リスがドングリをOKの形に並べているスタンプが送られてくる。LINEアイコンの中の館野は、この間までは高校の時澄鈴が撮った写真だったのに、新しい写真に入れ替わっていた。マグカップを片手に微笑んでいる。相変わらずばかみたいに美人だな、きっと彼氏にでも撮ってもらったんだろうな、と思うと胸がちくりとした。

 高校時代一番仲が良かった同級生は間違いなく館野だ。たぶん館野に同じ質問をしたら「佐原」とこたえるだろう。明るくて気立てが良くてやさしくて誰からも好かれていて、すごくいい子だった。ただ、同じ部活じゃなかったらこういう子とは仲良くならなかっただろうな、という引け目は三年間ずっとあった。

 こんなことを思うのは最低かもしれないけれど、えりまき先輩とすぐさま打ち解けたのは先輩後輩という気安さがあるというのもあるけれど、女子としてのレベルが釣り合っているから、というのは大いにある。もちろんえりまき先輩の方が顔は可愛いけど、目が離れていて蛙みたいだと男子に揶揄されていたりもするし、本人も「あーブスつら」なんてネタにしている。そもそも顔の造詣云々というより、先輩のキャラクターの問題かもしれない。恋愛の話を振った時も「彼氏? できたことないよ、もてないもん」とあっさり言っていた。

 館野のことは好きだったけど、白熱電球のそばによると目が灼けるみたいに、近くにいすぎると時々つらかった。車窓の景色がどんどん田舎になっていくにつれて、高校時代の後ろ暗いひくつな気持ちが湯気のようにふっと浮かび上がる気がした。


 キャリーケースを引きながら、スタバに入って館野を探す。「佐原、こっちだよ」と声がして、視線を送ると館野が白いワンピースを着て手を振っていた。シンプルな服装なのに映画のヒロインみたいに引き立つ。けれどその場所が富山の駅ビル内のスタバである、ということがちぐはぐな感じがした。

「ひさしぶりー! 佐原、前髪つくったんだ。なんか新鮮。でもあんまり変わってないね、なんか安心した」

「そうかな」

館野はちゃんとメイクをしていて、眉しか描いてこなかったことをちょっと後悔した。アイスのホワイトラテを頼むと、館野が「同じので」と注文した。

「私、スタバ来たの初めてかも。結構高いよね? 時給と同じなんだけど」

 館野が無邪気に言いながら蓋を開けて飲もうとしたので、蓋の飲み口を教えてあげた。へえ、と恥ずかしがるでもなく異国のジュースを飲む子供みたいな顔でラテを飲んでいる。

「大学どう? 東京には慣れた?」

「んー、まあまあ。乗り換えは全然覚えらんないけどね……一人暮らし最高、もう戻れないと思う」

「ふーん、いいな。生活が変わらないと、まだ高校四年生みたいな気分だから」

 大学でも写真部に入って撮ったり撮られたりしているらしい。「LINEのアイコン変わってたね。部活で撮ったやつ?」と訊くと「そだねー」と短く返ってきた。彼氏? とはなんとなく聞けなかった。そうだったら悔しさや嫉妬で苦しむことは目に見えていた。

 近況報告をしあい、高校の同級生の噂を交わして、なんとなくひと段落ついた。

館野が「なんか安心したよ」と小さくうつむいて言う。「佐原、五月にこっち帰ってこなかったじゃん。なんかもう、地元捨てたのかな、って思って怖かったんだよね。佐原、富山のことめっちゃディスってたし」

「んー……母親が帰省しろ帰省しろって圧がすごくて」

「寂しいんじゃないかな」

 それがなかったら年末まで帰ってこなかったかも、と言おうと思ったけれど館野の気を悪くしてしまいそうでやめた。館野の耳にはイヤリングがぶら下がり、硝子のような水色の石がきらきらと鱗のように光を反射してきれいだった。


 夕方に母親が車で迎えに来たので半年ぶりに家に帰った。いとこたちも来てみんなでお鮨を食べた。「澄ちゃん、お姉さんになっちゃってー。キャンパスライフ楽しんでる証拠やね」と叔母が相好を崩して話しかけてくるのを、適当に流していたら隣にいた母親が口を挟んだ。

「この子、勉強勉強で忙しいみたい。課題が多いって言うんで五月も帰ってこんかったくらいやもん。キャンパスライフだなんて、そんなドラマみたいな生活してるわけじゃないんよ。ねえ?」

 顔を覗きこまれ、ああうんそうだね、と心を無にして流す。サークルに入ったことやバイトを始めたことも、当然母親には話していない。勉強で忙しい、と言えば、専門学校に通っていた母親は「そういうもんなのね」と勝手に納得する。あれこれ詮索されるのが面倒くさくてたまらなかった。

「東京、いろんなとこ行った? 東京タワーとなんやっけ、スカイツリー? もう登った?」

「……見はしたけど登ってはない」

「東京は人混みがすごいからねえ。昔雄太連れてディズニーランドと浅草に行ったけど、もうもう叔母ちゃんには無理よぅ」

 あんなところ住むところじゃねえよぅ、富山みたいにどっこも空いてるわけじゃねえもの、とじいちゃんが歯の抜けた顔で笑う。田舎まるだしの、お約束のようなラリーにいらいらする。ディズニーランドは千葉じゃんかー、と小学生の従弟がぎゃはぎゃはと面白くもないのに大笑いしている。田舎はダサい。ばかみたいにダサい。

 東京に帰りたい。そればかり思いながら、じりじりと過ごした。本当は一週間いるつもりだったけれど、あまりに退屈だったから「夏季集中講義があるから」と嘘をついて四日目に帰った。富山駅まで実家から車でたっぷり三十分はかかる。青々と田んぼが水面のようにさんざめくのを薄眼に見ながら、うつらうつらしていたらぽつと運転席で母親が呟いた。

「やっぱり都会は楽しい?」

「……まあ、それなりには」

「そう。お母さんの歳ならともかく、若かったらそうやろねえ。富山じゃあつまらんかもね」

 いやみっぽい言い方と言うよりも淡々と事実を述べるような口調だったからこそ急な態度の変化に戸惑う。推薦が決まった時から「東京なんて苦労するだけなのに」「お金飛ぶばっかりで遊べないんじゃないの」と文句ばかりつけていたのに、急に東京での暮らしを認めるような言い方をされると、裏を勘ぐってしまう。余計なことを言って噛みつかれるのも嫌なので、黙っていた。ラジオでは山下達郎が高らかに歌いあげている。

「……澄ちゃん、お母さんと違って頭いいし、富山大じゃあもったいないから都会に行くくらいがちょうどいいって言うのは、わかっとるんよ、それは。でもねえ、一人娘が東京行くがはやっぱり寂しいね……」

 そんなことないよともごめんとも言えず、黙って車窓に視線を逃す。

そんなこと言われても、と思う。澄鈴が東京に出たのは自分の努力のおかげだし、母親が言う通り実力に相応な結果だ、とも思う。

一人娘を育て終わって、母親がたった一人田舎の古びた家で淡々と枯れるように年老いていくのは、怖いし、かわいそうだとも思う。だけど、助けようがない。家が東京とかせめて政令指定都市くらいの規模の街にあればよかったのに。そうしたら都会に進学するのを「お金がかかる」「そんな遠くに行かなくても」なんて、親不孝者扱いされずに済んだのに。

窓に額を押し付けるようにして景色をにらむ。流れていくのは田んぼ、田んぼ、田んぼ、うんざりするほど田んぼばかり。久しぶりに長い時間かけているめがねが、視界を勝手に切り取る額縁みたいで邪魔くさかった。

田舎なんて、大嫌いだ。


 東京に帰ったあと、お土産を置きに部室に行ったらえりまき先輩に「免許合宿行こうよ」と誘われた。

「あー……春休み地元で取ろうかなって思ってたんですけど、合宿っていう手があるのかあ」

「通いは一カ月くらいかかるよ。いちいち授業の予約取るのめんどいし合宿でガーっと取っちゃう方が楽だよ。まあ技術は身につかないとは思うけどさ。直前の申込みだと割引で結構安くなるし、どう?」

 山形の田舎で十三日間缶詰め状態で一日中講習を受けるらしい。面倒くさいといえばそうだけれど、ちゃっちゃと取ってしまった方が楽かもしれない。幸い、九月のバイトはまだシフト提出前だ。

「わかりました。一緒に行きたいです」

「おっけ、じゃあ申込用紙書いて。あと、急ぎで悪いけど明日までに振り込まないとだから。二十一万」

 大金に怯みつつ、母親に「友達と免許合宿行く」とLINEしたら、予想通り「富山で取ればよかったのに」「帰ってきた時何も言ってなかったけど」「急に決まったの?」とポンポンと返信が来た。いいから払ってくれって、と内心悪態をつきつつ、「急でごめん でも直前だと割引で安くなるらしい」「早めに取りたいから」となんとかごまかし、振り込んでもらった。「おじいちゃんに立て替えてもらったから、あとで電話でお礼言っておいて」というLINEを見て、さすがに少し胸が痛んだ。時給七百二十円でお総菜屋のパートをしている母親が、ぽんと十万円以上の額を用意できるはずはないことくらいわかっていたのに。

「田舎だから信号そんなになくて運転楽らしいよ。っていうかUNOとかもっていこうよ」

 えりまき先輩の急な提案によって澄鈴の実家でどんなやりとりが起きているかも知らず、のんきなことを言うので若干いらっとしたものの、でもそんなに長い時間先輩と過ごすのは初めてだから楽しみでもあった。「そうですね、娯楽なさそうだし」と適当に合わせておく。

 

 教習所は山の中にあるだけあって、東京よりほんのり涼しかった。

 合宿免許ではそれぞれ時間割を渡され、座学と実習を繰り返した。一日目は座学が中心だったものの、夕方には「じゃあさっそく乗ってみましょう」と運転席に乗り込むことになった。おっかなびっくり教習所内を走り、緊張のあまり肩が凝ってしかたなかった。終業後、先輩と宿泊施設で合流する。

「疲れましたねえ」

「明日実習ばっかじゃん。こんないきなり車運転させられるとは思ってなかった」

合宿免許は短期間で免許獲得するため、ほぼ一日中暇がない。あったとしても学科試験の勉強がある。「なんか大学受験みたいですね」と言ったら「そこまではきつくないでしょ」と笑われた。

「まあでも言われてみれば浪人の時こんな感じだったかも。一日中予備校いてさ」

「そういえば先輩ってそもそも志望してたんですか? うちが第一志望?」

「ん、そうだよ。でも本当は国立大学に行きたかった」

「どこですか」

「つくば」

 へえ、と思う。でも、偏差値はともかくネームバリューだけで言えば澄鈴のいる大学の方がやや上だ。と思ったことを言うと、「そうだね、親も先生もそう言ってた」と苦笑いした。

「ねえ、お風呂行かない? ここのホテルさ、露天つきらしいよ。女子だけ」

「あ、それパンフ見た時から思ってました。行きましょう」

 着替えを持って大浴場へ向かう。澄鈴たちと同じように、夏休みを利用して免許を取りにきた女子大生でごった返していた。あからさまに目が合うようなことはないけれど、それとなく見定め合うようなひめやかな視線が交わされているのを肌で感じて、目をふせてさっさとお風呂場へ向かった。銭湯や温泉と違って、いるのは同世代の同性だけだからこそ、より周囲への関心や興味が蠢いている気配がしていたたまれない。

 三週間ずっと風呂場ではこうなのか、と思うと今からげんなりする。そもそも到着した時から、男女混合で参加しているグループが多いことに気づいてそれだけでいやな気持ちになった。「リア充ばっかでうざいっすね」とえりまき先輩に軽くジャブのつもりで愚痴ったら「え、そう? まあ関わることないし別にいいんじゃない」という返事で肩透かしを食らった。自分だけが過敏に意識して一人で勝手に精神をきりきり尖らせているのかと思うと、ますます気持ちがねじくれた。

 頭がぼうっとするほど湯船に長いこと使っていたらふらふらした。きゃらきゃらと若い女の嬌声が狭いお風呂場で反響して、よけい神経に障った。


 とうとうストレスが爆発したのは十日目の晩だった。

 高速実習で、時間割の関係なのかペアを組んだのが一緒に申し込んだえりまき先輩ではなく、別グループの女の子だった。実習で先輩ではない人と組むことはこれまでも二度ほどあったので別に驚きはしなかったものの、よりによってこの人か、とは思った。

 明るい茶髪をキャバ嬢みたいに巻いたギャル。五人の女子で来ているグループのうちの一人で、みんな足や肩や腕を放り出すような恰好をしていて教習所内をうろついていたからかなり目立っていた。直接的な表現はなかったものの、教習所のパンフレットには「極端に肌の露出が多い服は避けましょう」という注意書きがあり、澄鈴たちを含めてほかの女子たちはデニムやロングスカートの子が多かったので余計彼女たちは目立っていた。男子からも話しかけられて、ケラケラ笑いながら話している場面もあちこちで見かけた。

「よろしくお願いしまあす」と言ってさっさと後部座席に乗った女は、ミラー越しにちらちら澄鈴の顔を見てきてうっとうしかった。「危ないですよ、集中してください」となんども教官に言われた。一緒になって女がくすくす笑うのでさらに腹が立った。

 運転を交代すると、女は「こわぁい」「入れない~」とアニメの萌えキャラのような、うそみたいなぶりっこ声を連発した。うそだろ、と後部座席で唖然としたけれど、教官はあきれたり注意するどころかでれでれしながら「大丈夫、怖くないよ」「自分のペースでいいからね」と打って変わってやさしく指導していた。あまりにあからさまに態度を変えられ、さすがに無傷ではいられなかった。早く終われ、とばかり思いながら車窓をにらみつけて時間が過ぎるのを待った。

 さらにむかついたのは、浴場でその女と鉢合わせしたことだった。すべての服を脱いだ状態の、まっさらの無防備な状態で、服を着ている女と真正面から目が合った。無視するのもいたたまれず会釈だけした。さりげなく目をそらしたつもりだったのだろうけれど、さっと首から下までを視線が滑るのを感じた。喉がかっと熱くなって、ちりちりと皮膚が燃えるような恥ずかしさが湧き、さっさとお風呂場へ行った。背中で女が同じグループのメンバーに話しかけて、わっと笑い声が上がった。

 別に何か決定的なことがあったわけではない。にらまれたり舌打ちされたり、「高速実習、ブスと一緒だった」と言われたのを聞いたわけではない。でも。同い年くらいの、綺麗な女が近くにいるとそれだけで、どうしても、心の表面が毛羽立ってしょうがない。自意識過剰なのはわかっていても、喉がかっと熱くなって、それでも、それでも、それでも。

 こういうことは、いままでも――中学生、いや小学生時代から自分の人生にはありふれた場面だった。どうしようもなくいらいらして、たどり着く結論はいつも一つ。

 自分の見てくれが、可愛いと言えなくてもいいから、もう少しましなものだったら、こんなみじめな思いをすることはなかったのに、ということ。

 部屋に戻るなりベッドに伏してしまった澄鈴を見て、えりまき先輩は「のぼせちゃった? 水いる?」とかいがいしく世話を焼いてくれた。のぼせたわけではなかったものの、形式上水をもらっておいた。

「実習多いと疲れるよね。今日は早めに寝る?」

「や……実習で疲れたわけじゃなくて」

 どうにか概要だけ、昼間の高速実習とさっきのお風呂場でのできごとをかいつまんで話したものの、先輩は「気まずかった、みたいなこと?」といま一つ澄鈴のストレスの原因にぴんときていないみたいだった。詳しく話しなおそうにも、それは要するに自分のダサくてみじめなコンプレックスについてつまびらかにすることと同じだから、結局言葉を飲み込んで「まあそういうことですね」と雑にまとめた。ぱたん、と心のドアが一枚閉じる音がしたが、気づかないふりをする。

 山形の奥地に来て、ただでさえ肩身が狭くて不愉快な思いをしているのに、先輩のことまで嫌いになりたくない。

「あと四日こんな生活が続くのかあ。きついな……」

「結構みっちりスケジュールだったもんね」

澄鈴の指す「きつい」とはずれていたが、黙っていた。

「あ、でも普段いる場所がそれなりに天国だったんだなって再確認出来てよかったです」

「それは大学のこと?」

 そうです、と小さくうなずいてみせる。

「なんていうか、うちの大学それなりに偏差値いいからあんま浮かれたギャルとかパリピいないじゃないですか、普段それなりに恵まれた世界にいたんだなあって思いましたね。っていうかいたとしても教室がないから関わり合いを持たずに済むし……富山にいた頃って割とこんなだったな、ってさっき思いだしたんです。まあそれが嫌でそれなりにイイ大学目指したんですけどね」

言いながら、卑屈に聞こえたら嫌だなと思った。先輩は、宙にティッシュをそよがせるみたいにふんわりと薄く笑った。

「じゃあ、サーラはうちの大学に受かった時すごくうれしかっただろうね」

「そりゃあ、人生で一番うれしかったですよ」

 推薦だったから余計、クラスメイトを出し抜いてやった、という後ろ暗い爽快感もあった。ふ、と先輩が目をほそめる。

「私、つくば大目指してたんだけどさ」

「ああ、言ってましたね」急になんの話だろう、と内心思いながら相槌を打つ。

「研究が充実してるから……っていうのは建前で、東京から離れてたらもう、大学なんてどこでもよかったんだよね」

ふう、と小さく息を吐く。「でも、都内に同じくらいのレベルの大学なんていくらでもあるし、やな言い方だけど国立しか目指しちゃいけないような経済状況でもないからさ、当然親からすれば『何のために東京を出る必要があるの?』ってなっちゃうんだよね。だから、結局全部都内の私大しか受けてないんだ」

さすが東京生まれ、田舎とは発想が逆なんですね、私大しか受けない人なんて地元にはほとんどいなかったですよ――こんな時でも、そんな意地悪なことを思いつきはしたけれど、もちろん言葉にはならない。

先輩の表情は湖の底に沈んでしまった石のように、あまりに冷えて硬かった。

「東京に実家があって、親が経営者で、奨学金なしで私大に通えるなんてめちゃくちゃ恵まれてるなって本当に思うよ。別に虐待されてるわけでも殴られたりするわけじゃない。大学って、いろんな立場の人がいるから余計思う。サーラも含めてね」

でもね、なんかね。呟いたきり、それ以上言葉を継ごうとはしなかった。

やっとわかった。

この合宿免許は、先輩が手にした束の間の休息で、逃避行だったんだ。息継ぎにも似た。

「ってか、UNOしようよ。遊んだらやなこと忘れられるって」

先輩がにへらと笑う。スタンプのようにどこか取ってつけたような笑みではあったけれど、気づかないふりをして「じゃあ明日のおやつ代かけますか」と腕まくりしてみせる。

この人がどんな家でどんなふうに過ごしているのかはわからない。けれど、一人暮らしの澄鈴と違って、自由な夜はあと四日しか残されていないのだ。


東京へ帰る二日前になって、「ねえ、山形からなにで帰る?」とえりまき先輩から訊かれた。

「何って……行きは、私は夜行バスで来ましたけど」

 そう、と先輩がうなずく。先輩は新幹線で来ていたはずだ。

「予約ってしてる?」

「してないです」

「私が予約するからさ、一緒のバスでいい?」

「あ、いいんですか? そしたらお願いします」

「私、夜行バス乗るの初めてなんだ。なんかわくわくする」

 さすがお嬢、とこっそり思ったけれど、えりまき先輩の表情はわくわくしているというよりも、お墓参りに行く前のおとなのようにひそやかだったから何も言わないでいた。

なんとか二人とも二次試験にも合格して、免許証を発行してもらった。教習所のおじさんにまじめな顔で「合宿で取ったら全然技術身についてないから、実家なんかで練習した方がいいよ」と言われてしまい、無言で目を見合わせて苦笑いした。

東京行きの夜行バスは、本数が少ないこともあってかほぼ満席状態だった。澄鈴の隣でシートベルトをつけながら、えりまき先輩が「こんなたくさんの人が一緒に行くんだね」と感心したように漏らす。

「普段バスもほとんど乗らないからなんか新鮮。修学旅行思いだす」

 眠りづらいだろうからとえりまき先輩は空気を入れて膨らませるネックピローを持ち込んでいた。もぞもぞと体勢を調整しながら「なんかへんな感じ」と呟く。

「家にはめちゃくちゃ行ったことあるのに、サーラんちに泊まったことはないからさ。これが私たちの初夜になるんだね」

「ちょ、言い方」

 軽く肘をはたく。くくく、とえりまき先輩が喉を鳴らして笑っていると、バス内の灯りが消えた。アナウンスが始まる。

「――えー、走行中、二か所トイレ休憩をお取りいたします。アナウンスは流しませんので、乗車口の出発時刻を確認した上で休憩をお取りください」

 へえ、起きられるかなぁとえりまき先輩が息だけの声で囁く。「寝てるに越したことないから心配しなくてもいいですよ」と言うと、「夜中に知らない場所でトイレするのって、なかなか経験できないじゃん」と妙に力を込めて言う。

「……じゃ、私が起きてたら起こしてあげますよ」

「ありがと」

 おしゃべりをやめて目を瞑る。バスに静寂が戻り、アナウンスが終わったところで完全消灯されたのが気配で分かった。


 浅い眠りを繰り返しているうちに、ふっと目が覚めた。二時間ぐらい寝ていただろうか。

まもなくバスが停車する。えりまき先輩を起こそうと二の腕に触れようとしたら、すっと立ち上がった。暗闇の中で目が合い、うなずき合う。眠っている乗客たちの間の通路を、泳ぎの下手な深海魚みたいにゆっくりとかき分けるようにしてバスを降りた。

 途端、小川のように澄んだ透明な空気が全身を包んだ。えりまき先輩が「やっぱり山は空気がおいしいね」と言い、ぐーんとぎこちなく身体を大の字に伸ばした。窮屈な姿勢でいたから、筋肉が軋むのだろう。

「起きてたんですか?」

「ん。あんま寝れなくて……ちょっとカーテン開けて窓の外とか見てた。眩しくなかった?」

「や、それは大丈夫です。まあ慣れてないとバスで寝るのって難しいですよね」

 トイレから出ると、えりまき先輩が缶入りのカフェオレを飲んでいた。「寝つけなくなるのに」と言うと、「ま、夜行バスで一睡もできないっつうのも思い出っぽくていいじゃん」と微笑む。もしかしたら本当にずっと、眠れずにいたのかもしれない。

「空、きれいだね。星が粉砂糖みたい」

「ああ……山ですもんね」

「空っていうか宇宙みたい。いいね、すごく」

 単なる田舎ですよとか、星が見える以外にいいところないですから、とか、田舎へのディスは思いついたけれど口にしなかった。えりまき先輩は、サーカスに見入る子供みたいにまっすぐな目をして空を見つめていた。

「サーラの地元もこんな感じなの?」

「さすがにこんな山ん中じゃないですけど、まあだいたいこんな感じかな」

「いいね」

 短く言いきって、ふっと空に向けて笑う。東京に実家がある人に言われても、と思わないでもなかったれど、黙っていた。

「帰りたくないな」

 空を見上げたまんま、先輩がぽつと呟いた。

「……一緒に、私んち帰ります?」

 言いながら、そういうことじゃないんだろうな、ということはわかっていた。先輩は笑みを澄鈴に向けて「ありがと」とだけ言った。

「おとなになったら……一人暮らし、できますよ。遠くに本社がある会社ばっか就活で受けるとかすれば、こっちのもんじゃないですか」

「うん」

「後輩が酔って介抱してたら終電逃したとか、そういう言い訳に、全然私のこと使ってくれていいですからね」

「ありがと」

 どれだけ澄鈴が熱っぽく訴えかけても、どこか先輩の反応はうつろで、風に吹かれる洗濯物のようにどこか力なかった。

しばらくして、どちらともなくバスへ歩いて行った。ふと、思いついて、「先輩」と背中に話しかける。

「免許取ったのって……いつか、東京を出た時のためとかですか?」

 都内にいれば、運転免許なんてほとんど生活に必要がないはずだ。田舎出身の自分にとって免許を取ることはあまりにも普通すぎてすぐ受け入れたけれど、もともと都内出身の先輩が思い立つとしたら、理由はそれくらいしか、思い当たらない。

「サーラは頭がいいね。そうだよ」

 振り返らないまま、先輩が言う。それ以上、言葉はなかった。 

 澄鈴は、黙ってついて歩いた。ほんの少し、涙が出かかって風が吹くたび目がひんやりとした。

 きっとこれからも先輩と二人で数えきれないぐらいごはんを食べて、カフェに行って、遊びに行くだろう。じゃれつきながら、街じゅうを歩き回るんだろう。

 だけど、東京のどこ行ったって、どんな遊びをしたって、先輩は東京を離れたがっているのだ。いままでも――これからも、きっと。ずっと。

 

さわれない月


学祭のミスコンがなくなるかもしれないんだって、と噂を教えてきたのは同じ研究室の同期の女の子、真木さんだった。「なんで?」とまっすぐ目を見てたずねると「さあ、それは私も知らないけど」と口ごもる。

「確かにほかの大学でもミスコンっていま廃止されてるところ多いよね。たまにニュースで見る。時代にあってないから、って」

「時代錯誤云々以前に、女性差別もいいところだよね、ミスコンって。まあ、志田さんにそれを言うのもへんだけど」

 真木さんが視線をどこか斜めに流して笑う。どう返したらいいかわからず、曖昧に笑っておいた。

 雪野は一昨年、大学二年の時にミスコンに出て優勝した。具体的な票数は知らされていないけれど、二位に大きく差をつけての一位だったと運営のスタッフが後日教えてくれた。エントリーしてから学祭当日まで一か月、ツイッターでアイドルみたいに自撮りを載せて「今日も投票をお願いします♪」とほぼ毎日投稿しなければならないことは恥ずかしかったけれど、二年経ったいまとなってはミスコンのことはほとんど忘れていたし、うっすらとしたいい思い出、という淡い印象しかない。研究室でも散々冷やかされたし、それと同じぐらい応援してもらった。優勝したことによって、研究室訪問に来た一年生に「うちの研究室はミス泉南大の女の子が在籍してるんだよ」と先輩や同期たちが雪野のことを引き合いに出すようになったのは、かなり、恥ずかしかったけれど。

「学祭、ちょっと寂しくなるかもね」

 雪野の言葉に、真木さんがほんの少しだけ首を傾げた。

「そうだね。でも私、ミスコンのステージって実は見に行ったことないんだよね」

「あ、そうなんだ。でもそういうものだよね、私もないもん」出場者経験があるくせに雪野はミスコンを見に行ったことはなかった。去年だって、ちらっと通り掛かって「盛り上がってるなあ」と思ったくらいだ。

誰がミスコン廃止を訴えたんだろう。誰が、ということではなくて学祭の運営スタッフが時勢を鑑みて中止を決めたんだろうか。どう思う? と真木さんに話を振ろうとしたところで、「あ、図書館から資料延滞のメール来てる。返さなきゃだ」と鞄を持って立ち上がってしまった。


 工学部の中でも、建築学科は比較的女性が多い傾向がある。とはいえ、雪野たちの代は男子が八割で、同期は雪野と、真木さんと、もうひとりしか女子がいない。もうひとりの子はバイトで忙しいらしく、ほとんど研究室にも製図室にも顔を出さないので、あまりメンバーとして同期にも先輩にもカウントされていない。

 設計講評会が終わり、いつも使っている韓国風の居酒屋にみんなで行った。学年で固まろうとするのを「バランスよく座りなさい、せっかく先輩後輩いるんだから」と教授が手で制した。雪野の横にいた真木さんが院生たちのいるテーブルへ行き、雪野は助教授の嘉山さんに呼ばれるまま隣に座った。

去年別大学から来た嘉山さんは、三十代半ばで教授より二回りも若く、ノリもいいので男子学生と仲が良かった。かっこいい、イケメンだ、という人もいたけれど、いつも香水の匂いを強くさせているので、正直苦手意識があった。でも、いつも人に囲まれているので、あまり話したことはない。

「志田さん、であってるよね。あんまりちゃんとしゃべったことないからさ、どういう人なのかなって」

 隣に座ると、嘉山さんから強い香水の香りと、その奥に煙草の匂いがした。笑うと目じりに皴が寄って、強面の顔が柔らかく見えた。髪が長く後ろでくくっているので、助教授というよりは美容師とかデザイナーだと言われた方がしっくりくる。

「ありがとうございます。確かに、飲み会とかでも話したことないですよね」

「俺、この大学来るまで東京の別大学の建築学科のゼミにいたんだけどさあ、男子大みたいなもんだから女の子なんてほぼほぼいなくて。初めて志田さんを見た時、横浜にも随分垢抜けた女の子がいるんだなあってちょっと衝撃だったんだよね」

「え……垢抜けてますかね、私。文系キャンパスの子たちの方がずっと華やかですよ」

「でも、ミスキャンパスに選ばれてるんでしょ? その子たちよりずっと高みにいるじゃん」

 褒めているつもりなのだろうけれど、いやな言い方だった。居心地が悪くて小さく肩をすくめてみせるだけに留める。周りの男子たちは「そうそう、うちの研究室の星だから」「建築学科のなかで志田さんを知らない男はいない」と無責任に騒ぎ立てる。へえと嘉山さんは小さく笑った。胸ポケットに入った煙草の箱が、布を突き破りそうなくらいシャツから角を透かしていた。

そのあとはごく普通に、誰かがバイトの時の失敗談を披露して、それ以降ミスコンの話題にふれられることはなかったのでほっとした。


 建築学科の就活はかなり早い。優秀な学生は学部生の時から目をつけられているので、建築会社が囲い込みをするからだ。

年が明けて、ポートフォリオの制作や証明写真の用意に追われはじめた。説明会があったのでリクルートスーツで大学に行くと、お茶部屋と学生が呼んでいる休憩室に嘉山さんがいた。

「お疲れさまです」

「お、志田さん久しぶり。スーツも似合うね」

 就活だったので、とこたえると「コーヒーつくってあるよ、飲む?」と訊かれた。あまり長居したくなかったけれど、断るのもへんかな、と思い「いただきます」と自分のコップを持ってきてコーヒーを淹れた。

「志田さんはどこを志望してるの。ゼネコンとか設計事務所? って、だったら学部で卒業しないで院に進むか」

「ええと……営業職と、あとは小さい設計事務所をメインに受けてます。都内に残るか、地元に戻るかも少し迷ってて」

 地元は岩手県の盛岡で、小さいけれど面白い建物をつくる設計所がいくつかあった。もともと地方のまちづくりに興味があって建築学科に入ったこともあり、Uターン就職と都内での就職は半々くらいで受けるつもりだ。院に進まないことにしたのは、正直に言って、建築学科の設計製作のあまりのハードさに耐えかねたからだった。

「あ、関東の子じゃないんだ。地元どこ? 都内?」

「いえ、盛岡なんです」

「うへー。そんな田舎に帰るのもったいないよ。志田さん、東京でも通用するレベルの美人なのにさ」

 就職の話をしているのに容姿を引き合いに出されて驚いていると、嘉山さんは雪野の反応を違うようにとらえたらしい。にっこりと笑い、「ほんとほんと、俺、長いこと東京の大学いたからさ、結構目肥えてる方だよ。保証する」とさらにつづけた。だとしてもどうして地方での就職が「もったいない」につながるのかわからず黙っていると、嘉山さんはコーヒーを啜りながら呟いた。

「ミスコンの話を先に聞いてたけど、実際話すと志田さんって随分印象違うね。あ、いい意味でね」

「……何がですか?」

「もっと自意識強い、打算的な感じの女の子なのかと思ってたよ。設計もわりとちゃんとしたのつくってるしさ」

 要するに見くびっていたと本人を前に明かしているも同然なのに、嘉山さんはしゃあしゃあと言う。むっとして黙っていると、「俺、就活はしてないからあんまり助言とかできないけど、何かあれば力になるよ。OBOGの紹介とかは、院生よりも俺の方がコネ持ってると思うし」とどこか得意そうに言った。

「……ありがとうございます」

「連絡先教えてよ」

 断りたかったが、OBOGの紹介ができる、というのはやはり魅力的だったからLINEを教えた。「アイコン、自分の映り良い写真とかじゃないんだ。ますます好印象」とよくわからない褒め方をされて、曖昧に流した。相槌を打つのにも疲れていた。

「じゃ、そろそろ部屋戻るわ。何かあったら相談して」

「はい。ありがとうございます」

 一人になり、やっと安堵した。コーヒーを飲もうとカップに口をつけかけたが、塵が表面に浮かんでいるのが目に留まって、洗面所にぶちまけるようにして中身を捨てた。


 遅くまで研究室で作業していると、すでに夜の九時を過ぎていた。帰る支度をしていると、航大からLINEが来ていた。

【お疲れー。今日家行っていい? 忙しい?】

【いまから家に帰る! 九時半にはついてると思うから、それ以降なら大丈夫だよ】

行く、とすぐに返事が来た。

 一歳年上の航大と付き合って一年経つ。別大学の医学部生である航大とは、ミスコンがきっかけで付き合った。学祭に見に来ていた航大に、たまたま声をかけられたのだ。

「ドレス、めちゃくちゃ似合ってました。あの、付き合ってる人とかいますか」

「いないですけど」

「あの、初対面なんですけど……すごくきれいだと思いました。よかったら一回デートしてくれませんか。一回だけでもいいんで」

 女の子に困っていなさそうな、線の細いいかにもインテリ然とした航大をすぐに「いい」と思ったわけではないけれど、声をかけられたのは悪い気分じゃなかった。遊ばれたらやだな、と思いながらデートしていた、と告白されたときに打ち明けると航大は「ひどいなあ」と鷹揚に笑った。

「俺だって、知らない女の子にいきなり声かけてデートに誘ったのなんて初めてですごい勇気出したんだよ? あと、俺も本当にこの子彼氏いないのかなってちょっとだけ疑心暗鬼だったし」

「そうなの?」

「だって本当にびっくりするくらい可愛い子だったし、ましてやミスコンのグランプリまで獲ってたし。自分に自信があって、社会人の彼氏とかいて学生なんてお呼びじゃない、みたいな感じなんじゃないか、とか悩んでたんだよ。俺なりに」

 まあでも一応は俺医学部だし、医者になるし、とぼそぼそと航大はつづけた。雪野よりずっと頭が良くて将来も約束されているのに、どこか卑屈なくらいの謙虚さがある航大がとても魅力的に思えた。お互い多忙な生活をしていたけれど、一週間に一度は合間を縫ってどちらかの家に行って一緒に過ごした。

 電車に乗って帰宅する。マンションについたところで、ふっと手元が薄い影に覆われた。「追いついた」と後ろから航大が声をかけてきて、思わずきゃっと悲鳴を上げた。縮こまって肩を硬直させている雪野を見て「ごめん、不審者みたいだよな」とすまなそうな顔をして頭を掻いている。

「雪野って、リクルートスーツだと余計スタイルよく見える」

「そう?」

「うん。背高くって脚長いから似合ってる。パンツスーツなのが逆にそそられるわ」

 苦笑いで流す。今日、嘉山さんにもスーツ姿を言及されたことを思いだしたからだ。

「なんか、今日元気なくない? 就活、もうお疲れ気味?」

 部屋に上がってスーツから部屋着に着替えていると、航大が声をかけてきた。やっぱりわかるんだ、とほんのり心が温かくなるのを感じながら、「新しく来た助教の人が、なんとなく好きになれなくて」と愚痴をこぼした。

「助教って男?」

「そうだけど」

「好きになれないってどういうこと? なんかいやなことされた? セクハラとか」

 急に航大が顔色を変えて早口に言うので、慌てて「まさか、そういうんじゃないよ」と首を振った。

「なんか、ミスコンのこととかいろいろ訊かれて、ちょっといやだっただけ」

「雪野に興味があるってこと? やめてよー、ちゃんと彼氏いるって言っておいてよ。雪野はただでさえ目立つし可愛いんだから」

 後ろから抱き寄せられる。なんだか心配させるためにわざと話したみたいになってる、と恥ずかしくなったけれど、あまり嘉山さんとのやりとりの詳細を話すのもためらわれて「お風呂入ってくるね」と腕をすり抜けた。


 ミスコン廃止のお知らせは、ツイッターでも流れてきた。ふうんと思って流し見しただけだったけれど、結構大きな話題になって拡散されたらしい。別にうちの大学に始まったことじゃないのに、と思っていたら、その理由は自分にあると知ってぎょっとした。

「タイムライン見てたらさー、知ってる人が流れてくるんだもん。びびったわ」

 教えてくれたのは同じ研究室の瀬田君だ。飲み会の時、嘉山さんの隣にいて雪野を「研究室の星」と言った男子で、誰にも話していないけれど、二年生の時に告白されたことがある。

 瀬田君が見せてくれた画面では、【ってか過去の泉南大のミスコンの優勝の子綺麗すぎwwwこのレベルを継続するのは確かに無理かもだけど、ミスコン廃止は残念】というコメントと共に、雪野がミスコンのアカウントで投稿した写真が四枚転用されていた。二年も前なのに、と言うと「いやあ、それだけ衝撃の美しさってことでしょ」と瀬田君がにやにやする。

「引用リツイートのコメントも盛り上がってるよ。ほら」

 画面を覗き込む。【どうせ大したことないんだろと思ったらこの子はガチで可愛い。女神】【こういう子を発掘するためにもミスコンはやるべき。どうせモテないフェミさん(笑)がひがんで廃止にさせたんでしょ?】【ミスコン、ルッキズムがーとか女性差別がーとか言うけどそんなに悪いイベントだとは思わないけどなー】などとリプライが並んでいた。

「確かに志田さんの勝ち方って圧勝って感じだったもんなー。ツイッターも一番フォロワー多くなかった?」

「そうだけど」

 こんなふうに、自分が知らないところで過去の遺物を勝手に掘り起こされて拡散されるのはあまりいい気持ちがしない。ただ褒めるならともかく、ミスコン廃止への批判に関係のない自分が土俵に引っ張り出されてあれこれ言われている、ということに抵抗を感じる。顔写真が出されているせいで、まるで雪野がそう思っているみたいに見える。別に、ミスコン廃止に反対しているわけでもなんでもないのに。

「優勝者としてはどうよ。ミスコン中止って、やり過ぎだと思う?」

「……そうは思わないよ。確かにいまの時代にはあんまりあってないイベントかなって思わないでもないし。不愉快に思う人がいるなら無理して継続する必要もないのかなって」

 自分で言いながら、思う。ミスコンに反対しているのはそもそも誰なんだろう。そういう人たちからすれば、過去の出場者はどう目に映るのだろうか。

「……でも私はミスコンがそれなりにいい思い出だから、差別的だとか時代錯誤だって言われるのはちょっと悲しいかな」

「まあ、志田さんってグランプリ獲ってるしね」

 そこはあんまり関係ない、と言いたかったが、はたして本当にそうなのかわからなくなって黙っていた。「ミスコン中止に反対する人も結構いるっぽいよ。ま、俺らもう四年だから正直どうでもいいけどね」と話を振ってきたくせに瀬田君はなげやりにまとめて、「先輩にパース見せる約束してんだった」と部屋を出て行った。

 なんとなく不安になり、ひさしぶりにツイッターをひらいた。【泉南大 ミスコン】と検索する。ざっと見た感じでは、中止を嘆く声と中止に賛成する声は半々くらいの割合のようだった。

「お疲れさま」

 ドアが開き、真木さんが部屋に入ってきた。そういえば初めにミスコン中止のニュースを教えてくれたのは真木さんだった、と思いだす。

「めずらしいね。ツイッター? あんまりやってないイメージ」

 携帯画面が見えたらしい。「ミスコン中止の件で、ちょっと気になって」とこたえる。

「ああ、せっかく中止が決定したのに揉めてるみたいね。外野がとやかく言うことじゃないのに」

「外野って、別大学の人って意味? それとも、ミスコンにエントリーしてる人以外の人?」

 真木さんはきょとんとして「ああ……」と小さく呟いた。ちらりと雪野の携帯に目を落とす。

「志田さんって、優勝した以上はこれからもずっと当事者だもんね。ミスコン中止云々に意見する権利を本当に持ってる数少ない人かもね」

 棘がある言い方ではなかったけれど、目の前で線を引かれたような気がした。思い切ってたずねる。

「真木さんは、ミスコン開催ってどう思う? 中止に賛成?」

 茶色いふちのメガネの奥で、すっと瞳が暗くなるのを感じた。雪野と目があう寸前、目を伏せる。

「……それ、私こたえなきゃだめかな」

 言い捨てて真木さんは製図室へ立ち去ってしまった。雪野一人が取り残される。

一瞬のやりとりで一体何が起こったのかわからなかった。どうして? と何が? が胸で混ざり合い、しばらく呆然としていた。

ツイッターの画面をぼうと眺めて、スクロールする。「#泉南大のミスコン開催に反対します」というタグがついているツイートがふと目に留まった。白い、ねこのぬいぐるみのアイコン。

【私はすでに卒業した身ですが、ミスコンが開催されているだけで、毎年うっすらと傷ついていました】

【そういうことを言うと『ブスの僻み』と笑われるので、中止してほしいと思ってはいても大っぴらには言えなかった。だから、今回の件でミスコンに反対の意見が集まり、中止になったことを知り、あのイベントで傷ついていたのは私だけじゃないんだなと思ってほっとした】

【私みたいに感じている女の子は多いと思う。そういう子が少しでも今後減っていきますように】

 ――ミスコンが開催されているだけで、毎年うっすらと傷ついていた。

 ――中止してほしいと思っていても言えなかった。

 そういう目でミスコンやミスコン出場者を見ている同性もいるのだ、と知り、みぞおちにすっと冷水が流れ込んだ気がした。

ミスコンに出たことに後悔はないし、おおむね楽しい思い出として記憶している。けれど、自撮りを投稿するたびに届くたくさんの応援メッセージや賞賛のコメントに混じって、セクハラめいたリプライや卑猥なDM、あるいは容姿の誹謗中傷が届くこともそれなりの頻度であった。「こんな可愛いのに彼氏いないんですか? 立候補しちゃっていいですか」「華奢で童顔で、正直かなりタイプです(笑)水着の投稿ってないんですかね」などとねっとりと糸を引くような粘ついたリプライやメッセージを送ってくる人たちが絶えず、気持ち悪かった。ミスコンが終わるまではミスコン出場者という着ぐるみを着て、にこにこしていなければいけない。頭ではわかっていても、無遠慮な視線やむきだしの欲望を生のままぶつけられて平気でいるわけじゃなかった。汚いものをなすりつけるだけなすりつけて立ち去られていくような、不愉快さだけが溜まっていった。

そういうことがあったので、てっきりミスコン出場者へのハラスメントが過剰になったからミスコンが中止になったのだと思い込んでいた。けれどそれだけではないのかもしれない。

もしかしたら、ミスコン中止を訴えている人たちは、雪野のようにミスコンに出た子や出たいと思っている子のことを、いいようには見ていないんじゃないだろうか。それどころか自分たちの「敵」とみなしているんじゃないだろうか。

背中がうすら寒くなって、研究室をあとにした。


明日必要なエントリーシートの印刷ができていない。

思いだしたのは夕食を済ませたあとだった。そもそもそのために研究室に立ち寄ったのに、真木さんとミスコンの話をしていて、急に冷たくされたショックで用事を忘れていたのだ。

 航大に「プリンター借りに行っていい?」とLINEしたら今日は友だちと鎌倉にいるから、帰ってくるのは終電になると返ってきた。説明会は午後二時からだから、それでは間に合わない。

すでに化粧を落として部屋着姿だったので、マスクを着けてパ―カーを上から羽織り、下だけショートパンツに履き替えて大学まで向かった。すでに二十二時をまわり、蒼白い蛍光灯に煌々と照らされた廊下のリノリウムがひんやりと光っている。

 コピー機のある部屋のドアの擦りガラス越しに明かりが白く漏れていた。誰かいるのかな、と思って開けると、嘉山さんがコーヒーを飲んでいた。うわ、とすんでで声を上げそうになるのを必死で飲みこみ、「お疲れさまです」と声をかける。

 プリンターの前のパソコンを使って企業の採用サイトでログインする。プリンターの性能が古いのか、なかなか動作しない。

「もしかして印刷のためだけに大学来たの?」

 嘉山さんが面白がるように声をかけてくる。パソコンに顔を隠すようにして「明日の説明会で提出するので」と端的に返した。

「なんか、家からそのまま来たって感じするもんね。それ部屋着?」

 嘉山さんがマグカップを持って椅子から立ち上がった。ゆっくりこちらに向かってきて、雪野の背後に立った。硬直して動けずにいると、画面をのぞき込み「プリンター動いてないね。明後日メンテナンスの業者が来るって堺先生が言ってたから、今日は使えないかもよ」と言う。

「……そうなんですか」

「助教室で印刷してあげるよ。PDF、このUSBに移して」

「ありがとうございます」

 そっか、家でPDFを保存してコンビニで出せばよかったのか。気が動転したあまりそんな簡単なことを思いつかなかったことを悔やみつつ、「助かります」と言って助教授室について行った。

 院生は相部屋だけど、助教授以上になると個室があたえられる。めったに入ることがないので、こっそり見まわした。きちんと喚起をしていないのか、うっすらと黴臭い。

「印刷できました。ありがとうございます」

「全然。よかったね」

クリアファイルに入れて渡される。意外ときちんとしているんだな、と初めて嘉山さんに好意的な印象を持った。

「ありがとうございました。これで明日の説明会に出せます」

「夜遅いし、気をつけてね。っていうか、あれか、送っていった方がいいか」

「ええと、そんなに遠くないし、大丈夫ですよ」

「いやいや、女の子の学生をこんな時間に一人で帰させてたらまずいでしょ」

 そういって、一緒に助教授室を出て戸締りしてしまう。面倒くさいな、と思いながらも、しょうがないので一緒にエレベーターまで歩く。

「雪野っていい名前だよね」

 唐突に嘉山さんが呟いた。え、と言うと「いや、最初苗字かと思ってたから、下の名前って知ってびっくりして、印象に残ってたんだよね」と歯を見せて笑う。吊り目のせいか、笑っているのに威嚇されているような印象がある。

「よく、言われます」

「きらびやかすぎなくて、おとしやかな響きが志田さん本人の雰囲気とあってるなあって」

 なぜ、この人の褒め方は褒められている気がしないのだろう。曖昧に笑って「父親が決めたみたいです。冬に生まれたので」と無難に返した。

「ふうん。ああ、盛岡生まれって言ってたもんね。肌白いし、きれいだよね。あと関係ないけど志田さんは首が長いのがいい。ポイント高い」

 狭い空間の中で、顔を覗きこまれそうになって、驚きすぎて鞄を落とした。慌てて拾い集めるふりをして、さっと彼から距離を取る。

 なぜだろう。いやなことをされたわけでも言われたわけでもないのに、この人と長い時間、二人きりでいたくない――。大学から駅までは徒歩八分。それまでの辛抱だ、と無心で歩く。横着してショートパンツでなんか大学に来るべきじゃなかった。露出しているぶんだけ、なんだか心もとない。

「志田さんって彼氏いるらしいね。医学部の」

 しばらく黙っていたら、ふいに嘉山さんが言い出した。え、と戸惑っていると「瀬田君が言ってたからさ」とにやにやされる。

「そうです、けど」

「ミスコン出るまでは結構長いことフリーだったのに惜しいことしたーって、騒いでたよ。彼もまあばか正直っていうか……まあ、気持ちはわかるけどね」

 さらりと言って、嘉山さんが押し黙る。こちらの反応をうかがっているのが間でわかった。わかったからと言って、どうともいいようがなくて、足元に目を落とす。

 張り詰めた頑なな空気が伝わったのか、それ以上嘉山さんは話しかけてこなかった。駅に着いたところで「あ、彼氏が迎えに来るみたいです」と携帯画面を見ながら言う。ああ、と嘉山さんはくぐもった声で呟いた。

「一緒に待ってたら……まずいか。じゃあ、お先に。お疲れさま、就活頑張ってね」

「プリンター、ありがとうございました。おやすみなさい」

 改札前で別れる。改札を通ったあと、嘉山さんがこちらを振り向いたのが気配でわかったけれど、携帯を操作しているふりをして目を合わせなかった。階段を降りていき、ようやく視界から彼が消えて、どっと背中から汗がにじんだ。

疲れた、怖い、やっと一人になれた、帰りたい、航大に会いたい。ホームに降りていったら嘉山さんが待ちぶせていそうで、しばらく改札の前で自分の腕をずっと擦っていた。パーカーの下で、びっしりと産毛が逆立っていた。


大学二年の秋のミスコンに出るまで、雪野は処女だった。

 それまで中高一貫の女子校育ちだったこともあり、共学の大学では文化の違いに驚愕する場面が多々あった。特に驚いたのは、サークルのさまざまな新歓イベントに顔を出した時に、話しかけてくる先輩が「何ちゃん? 学部どこ? 出身は?」と一通りのプロフィールをたずねてきたあと、こう訊いてくることだった。

 ――彼氏はいるの?

 男女は関係なかった。ほぼ初対面で、そんなことまで切り込んでくるのか、と正直ぎょっとした。けれどかなりの頻度で初対面の先輩もしくは同級生に問われるので、大学と言うのはこういうものなのか、と思うようになった。「彼氏いないです」「いたことないです」と言うと、みんな口を揃えて「えーもったいない!」「絶対すぐできるよー!」と騒いだ。

 可愛い、モテそう、彼氏いそう。そのたぐいの言葉を投げかけてくる時、みんな、雪野に好意的な意味で、時には媚びるニュアンスも込めてそう言っているのはわかっていた。初めは、気恥ずかしさはありつつも悪い気はしなかった。あまりになんども訊かれるので、「ずーっと女子校だったんで、そういうのはあんまり興味なくて」とこたえるテンプレートまでできた。あーそうなんだ、もったいない、と先輩たちが顔を見合わせてうなずくところまで、いつも同じような流れだった。

女子校育ちだから夢見がちなんでしょう、理想が高いんでしょう、選んでるんでしょう、と言われ続けて面倒くさくなり、「そもそも恋愛にそこまで興味ないんです、誰かを好きになった経験もあんまりないし」と正直に打ち明けた。一瞬、静まり返ったあと、みんなが言った一言はやはり「もったいない」だった。

 その時は何も思わなかった。けれど、ミスコンに出ることになった二年の時に、サイトに載せるためにプロフィールを埋めていたら、石に蹴つまずくようにして手が止まった。

 ――好きな男性のタイプは?

 趣味や特技、自分の長所と短所、好きな食べ物。よどみなくこたえていた途中で、この質問に出くわした。ミスコンって、そういうものなのだろうか。気になって他大学のページも見に行った。やはりどの大学のミスコンでも「好きな男性のタイプ」「好きな男性のしぐさ」「理想のデート」といった質問が定型で用意されていた。なんか、こたえたくないな、と思ったものの、空白にするわけにもいかず「やさしい人」とだけ記入した。「好きな男性のしぐさ」という質問は、迷った挙句「頑張っている人は素敵だなと思います」にした。何人かから「あの質問だけ微妙に答えになってないよね」と突っ込まれたけれど、笑って受け流した。

 初めて、ミスコンのミスという単語を意識した。女性、という意味だけではない。未婚の、という枕詞がつく言葉であるということを。

 ミスコン出場を薦めてきたのは学祭委員と兼部していた軽音部の同期の女の子で、「絶対雪野が出たら優勝する、保証する」とそそのかされて、最後には「ファイナリストが足りなくてこのままだと開催できなくなっちゃうよー、お願い」と学祭委員長を引き連れてきてまで説得に来たので仕方なく出場を決めた。

雪野が所属している軽音部自体がかなり大所帯のサークルだったこともあり、ほぼ組織票でグランプリを獲れたんだろう、と冷静に思っている。とはいえ、勝敗関係なくミスコン出場をきっかけにサークルや学部以外の知り合いも一気に増えたし、見知らぬ人から応援や賞賛の言葉をもらうのはくすぐったくもうれしかった。航大と出会えたのも、ミスコンに出たおかげだ。

 それでも、航大と付き合うことになった時――「好きな人と付き合えることになった、うれしい」というよろこびより先に「これでもう『なんで彼氏つくらないの』って訊かれないで済む」という計算がちらっと頭をよぎった。ポーカーフェイスでいつもクールに見えた航大が、いざ彼氏彼女という関係性になると途端に「雪野、好きだよ、大好き」「あー、なんでこんな可愛いんだろ」と中身が入れ変わったようにあまえてきたのが、嬉しいというよりも困惑と驚愕の方が強かった。それで気持ちが醒めるということはなかったけれど、恋愛すると人ってこんなに人格が変わるものなんだろうか、それとも航大が特別そうなんだろうか、とうっすら疑問に思った。

 付き合って一年経ついまも、時々恋愛感情で航大と温度差を感じることがあって、本人に指摘されたことはないけれどいつもうっすら後ろめたい。彼氏ができた、とサークルで話すと今度は「彼氏どんな人」「どうやって知り合ったの」「いつも何して遊んでるの」ととめどなくつつかれた。みんなどうしてそんなに他人に興味があるんだろう、といつも不可思議に思う。

 

早くから動いていたこともあり、五月の半ばに内定が一つ出た。中堅どころの飲料メーカーの企画営業職。第一志望ではないけれど、女性向けのビールが大ヒットしたことで有名になり、就活生に人気のある会社だ。そこにみとめてもらえたんだ、ということが自信につながった。

久しぶりに大学に顔を出しに行った。嘉山さんのこともあって、来るのはひと月ぶりだった。ちょうど、同期が後輩たちとコーヒーを飲みながらだべっているところだったので、「内定出ました」と報告すると、みんな拍手して祝ってくれた。

「よかったじゃん! これで就活終わり?」

「ううん、まだ選考中のところが多いし、まだ続けるつもり。内定出たところは、第一志望ではないから」

「そっかー。でもこれでひと段落つけるしよかったね。一個でも内定あったら精神的にだいぶ楽になるんじゃない?」

 真木さんが声をかけてくれた。それがうれしくて、少し前にミスコンのことでへんな空気になってしまったのも忘れて「そうなのそうなの、ありがとう」と意気込んで相槌を打つ。

 ひと通り就活の話をし終わったあと、男の子たちは「学食行こうぜ」と連れ立ってぞろぞろと出て行った。夕方の十八時で、そろそろ帰ろうかな、と思いつつ携帯を見ていたら「このあと予定ある?」と真木さんに訊かれた。部屋には二人だけだ。

「ううん、おなかすいたからそろそろ帰ろうかなって」

「よかったら一緒にごはん食べない? この研究室、実質私たちしか四年の女子いないのに、ちゃんと志田さんとしゃべったことってないなあってふと思って」

 それに今年で卒業しちゃうしね、と真木さんがうすく微笑む。笑うとうさぎがつけた足跡みたいに左側にだけえくぼができた。「うれしい、行きたい」と言うと、真木さんのアパートでお好み焼きを作って食べることになった。


 真木さんの家は大学のある最寄り駅から二駅の住宅街だった。こぢんまりとした部屋はきれいに片づけられていた。建築以外の本、特に小説がたくさん本棚に並んでいて、ぼうっと眺めていたら「恥ずかしいからあんまり見ないで」と横から腕を引かれた。

「ごめん。私、部屋に本ほぼないから、めずらしくて。読書家なんだね」

「私、本当は文学部に憧れてたんだよね。親に就職先ないからって止められて理系選んだクチでさ。ま、建築も好きだけどね」

 座ってていいから、と促されて待っていると、手際よく棚からホットプレートを出してテーブルにセットする。包丁とまな板を持ってきて「キャベツ切って」と言われて、なるべくこまかくなるように千切りにする。

「ホットプレートあるなんてすごい。よくお好み焼きつくってるの?」

「うん。私、訛りが薄いから気づかれにくいけど、関西出身なんだ」

「あ、そういえばそうだったね」

 横浜にあるうちの大学に滋賀から来ているなんてめずらしいな、と研究室に配属された日の自己紹介で思ったことをいまさら思いだした。それぐらい、真木さんと個人的な会話をしたことがなかったんだ、とふと思う。

「志田さんって確か東北だよね。仙台とか?」

「ううん、岩手。盛岡の田舎だよ」

「へえ。私たち、横浜を拠点に正反対のところから出てきたんだね」

 確かに、と笑い合う。真木さんの作った生地に、キャベツの千切りを混ぜて焼いた。「上に載せるんじゃないんだ」と言うと「こっちの方が火通るから結局食べやすいんだよね」と真木さんが呟いた。

「できた」

「おいしそう」

 きれいなきつね色の焼き目が食欲をそそる。冷蔵庫からおたふくの絵が描いてあるお好みソースを出してくれて、思わず「懐かしい、なんか実家みたい」と指さした。

「あー、普段お好み焼き作らなかったら家にないよね。ホットプレートってあると便利だよ。火加減ミスることがまずないし」

「そうだね、あとなんか楽しい、パーティっぽい」

「二人だけだけどね」

 しばらく無心で食べて、生地がなくなるまで真木さんがてきぱきと焼いてくれた。

「そうだ、お酒買ったんだった。飲もうよ」

「だね。志田さん、内定おめでとう」

 ほろよいの缶で乾杯した。真木さんはお酒が弱いのか、少し飲んだだけなのに頬がほんのりと赤くなり、ランプのように内側から火照っている。

「ありがとう。まだまだ就活はこれからだけどね」

「っていうか、全然話変わるけど、こないだごめん。感じ悪かったよね」

 真木さんが小さく頭を下げた。なんのことかわからず、え、え、と戸惑っていると、「ミスコンのこと」と小さく苦笑いした。「志田さん、ミスコン出てる当事者なのに、やな感じの態度取ってごめん。しかももとはと言えば私がミスコン中止のこと話題振ったのにね」

「全然。そんな、謝るようなことじゃないよ」

「そうかな。私、結構意図的にああいうとげのある態度を取ったから。なんか、あとからおとなげなかったなって反省した。いまさらだけどごめん」

 びっくりして二の句を継げなかった。同世代の同性に、こうも正面切って謝られた経験がほとんどないというのもあるし、真木さんが自分の非を認めて、雪野に謝罪するために自分から話を蒸し返したということ自体にも驚いていた。

「ううん。まあ、確かにちょっとびっくりはしたけど、こっちこそ、真木さんになにか嫌な思いさせたのかなって思って、心配になったから。そうじゃないならよかった」

「んー……志田さん個人にいやな思いさせられたとかではない、全然。でも、ミスコンについては正直あんまりいいイメージ持ってないかな、私は。それでつい、出たことある志田さんに八つ当たりした。ごめん」

 ミスコンが開催されるだけでうっすら傷ついていた、とミスコン中止に賛同している人のツイートを思いだす。真木さんも、ミスコンに対して苦々しい思いを抱いていたのだろうか。

「ミスコン中止についてさ、研究室で男子がちょっと話してたことがあって」

「ああ、うん」

「出たい人が勝手に出て興味ない人は投票とか見に行くとかしないで放っておけばいいだけの話なのになんで騒いでるんだ、みたいなことを瀬田君が言ってて。で、みんなも確かにそうだよねってうなずいてて」

「うん」けど私は違うと思ってて、と真木さんが髪を耳にかけた。

「でも開催してる以上は、少なくとも女子はみんな、ミスコンに出ていない女子に自動的に分類されるんだよね。でも男子は自動的に審査員になるから、傷つかないし高みから降りてこない」

「うん」

「だからといってミスターコンもやれば平等かっていえば、そうじゃないと思うし、女子の中にも審査員としてミスコンに参加してる子もいると思う。そもそもそんなのなんにも考えずにミスコン流し見してる人たちが多数だろうしね。私が自意識過剰な見方をしてるっていうのはわかってるの。でも、なんだろうな」真木さんは弱った紋白蝶のようにゆっくりとまばたきした。「なんだろ、もしかしたら自分の所属してるコミュニティで志田さんがミスコンに出てたから、そういうふうに思ったのかも。別にやっかんだり僻んだりしてるんじゃないし、ミスコンに出ることを批判的に思ってたわけじゃないよ。でもね、知ってる人が出てる以上、無関心でも無関係でもいられないからさ」

 ごめん、まとまりないよねと小さく笑う。浅くえくぼが影を生む。

「まあ、雑にまとめると、私はミスコンが中止になるのは時代にあってると思うしいい流れだと思ってる。ミスコン開催に肯定的な人は純粋にすごいなって思うよ。出たい人が出ればいいじゃん、みたいな、そんなふうに思えれば一番楽だから」

「そっか」

「それとは別に、私、志田さんのこと見直したんだよね。ミスコンに出てたって聞いた時」

「え、そうなの?」

 そうだよとにやっと笑った。そういう表情を見たのは初めてで、ねこみたいで可愛いなと思う。

「この人自分が綺麗だって自覚あったんだ、って。あ、ミスコンにふさわしくないとか美人じゃないって言ってるんじゃないからね」

早口で言われ、気圧されるようにして、うん、とうなずく。

「なんというか志田さんって、ふわーっとしてるじゃん。天然っぽいし」

「よく言われる」

「私、そういうところちょっと苦手だなって思ってたんだよね。いっそめちゃくちゃ計算高いとか、いろんな男の子とっかえひっかえしてるとかだったらまだいいのに、って思ってた。そつがなさすぎて、まっとうに劣等感抱いてたの。でも、ミスコン出てたこと知った時、あ、自覚はあるんだ、ってなんか、ちょっとほっとした。って、なんだろうね、この話」

 うつむいていた真木さんの頭に、つむじがふたつあるのが見えた。

 なんとなくミスコンの話題が途切れて、いまさらのようにお互いのプロフィールについて話し始めた。真木さんは家庭教師のバイトをしていて、文芸サークルに所属しているらしい。自分で書いたりもするの? と訊くと「たまにね。恥ずかしいから絶対読ませられない」と頼む前から断られてしまった。

「志田さんって他大の人と付き合ってるんだよね? どういうつながり?」

 酔いが回ったのか、真木さんの目はほんのりと桃色がかっている。まさか真木さんに恋愛の話を振られるとは、と内心苦笑いしつつ「ミスコンがあったあと、声かけられたの」と明かした。

「えっ、ナンパされたってこと⁉ すごいね、綺麗な人ってやっぱそういうできごとが起こるんだ」

「うーん、ナンパなのかな。本人は真面目なタイプだから、ナンパって言葉から連想してイメージすると結構びっくりされることあるよ。前キャンパス近くで友だちと会った時に『もっと怖そうな人と付き合ってるのかと思ってた』とか言われて、彼が結構へこんでた」

「じゃあ、よっぽど志田さんがタイプで、一目惚れしたから勇気だして声かけたんだね。すごい好きってことだよね。それって」

 感心したように真木さんがうなずく。気恥ずかしくて、視線をテーブルに逃がす。

 真木さんがお手洗いに立ったので、スマホの通知を確認した。LINEにたくさんの通知が来ている。グループLINEが動いてるのかな、と思ったら、そうではなかった。思わず息を呑む。

【雪野さん、内定おめでとう! 研究室の四年生から聞きました。結局何も役立てなくてごめん(苦笑)でもまだ就活つづけると聞いたので、全然頼ってください】

【雪野さんのためなら多少無理してでもつながりひっぱってくるので、興味がある会社あれば気軽に教えてー】

【あと、こないだは最後まで送っていけなくてごめん 大丈夫だった?】

【とにかく、内定おめでとう! よかったら今度ごはんごちそうします この間途中で置いてきぼりにした謝罪も込めて(笑)】

 嘉山さんからだった。

茫然といくつものメッセージを眺める。彼もたったいまこのトーク画面を見ていて、向こうからあの三日月のような目が雪野を見据えているような気がして、さっとスワイプして画面を閉じた。

 どうしよう。既読をつけなければよかった。無視したくても、研究室に行けばどうしたって嘉山さんとは顔を合わせることになる。どう対処すればいいのだろう。

「どうしたの?」

 部屋に戻ってきた真木さんが声をかけてきた。話そうかとも一瞬迷ったけれど、同じ研究室だし、あまりおおごとにはしたくない。「ううん、遅くなるしそろそろおいとまするね」と言うと、駅まで送ってくれた。

「じゃ、また大学で。就活頑張ってね。気分転換がてら研究室来てね」

「わかった。お好み焼きおいしかった、また遊ぼうね」

 手を振り合って別れる。恐ろしくて携帯の通知を見られずにいたけれど、ホームでこわごわとLINEをひらいた。嘉山さんから不在通知が二度かかっていることに気づいて、血の気が引く。

 ――どうしよう。

 ――どうしたらいい。

 迷った挙句、【電話取れずすみません。真木さんとごはんを食べていました。内定、無事に一つ目が出ました。ありがとうございます】というメッセージとうさぎがお礼を述べているスタンプを送った。なんでこちらがこんなに気を遣わなければならないのだろう、と思うと苛立たしさと腹立たしさで喉がかっと熱くなった。トーク画面を閉じたそばからつづけざまに嘉山さんから【お疲れさま】【どこで飲んでたの? 俺もいま駅前で飲んでるよ】とメッセージが送られてきた。本当にずっと雪野の返信をいまかいまかと執念深く待っていたんじゃないかと思うと怖くてこわくてたまらなかった。航大の家に泊まりに行こうかとも思ったけれど、「明後日学会の発表があるから内定祝いは週末にしよう」と夕方にやりとりしていた。邪魔するわけにもいかない。こんなことならいっそ真木さんの家に泊めてもらえばよかった。

 電車の中で一切スマホを見ないまま、最寄り駅で降りる。改札を出て、スーパーがまだ空いていたので水を買わないとな、と方向転換したところで「あ、いた」と呼び止められた。

呼吸が止まるかと思った。嘉山さんが赤らんだ顔で「やっほー」と柱に凭れるようにして立っていた。

あまりのことに声も出せずに固まっていると、あろうことか嘉山さんは「あ、びっくりしてんの? っていうか顔赤いね。酔ってるじゃん」と顔に手を伸ばしてきた。唾液でぬれた犬歯が笑顔からにゅっとはみ出ている。干し柿のような甘ったるい匂いの息が届き、手が頬をかすめそうになった瞬間、雪野はうずくまった。大きな声で、さけぶ。

「痴漢です! この人痴漢です! 助けて、誰か助けて!」

「え、ちょっと、」

「痴漢です! 助けてください! 誰か! 誰か!」

 たくさんの人の足音がばたばたと近づいてくる。酔っているせいか泣いているせいなのか、水中で聴いているみたいにすべての音や声がくぐもって響く。大丈夫ですか? 逃げるなよ、おい、出口ふさげ、立てますか、抵抗するな、大丈夫ですよ、あの男は取り押さえましたよ、大丈夫ですよ、もう大丈夫。

 嗚咽が止まらなかった。助けて、助けて、となんども呟いているうちに、胃がひくひくと痙攣するのを感じた。猛烈な吐き気がこみあげてきて、ばね仕掛けの人形のように立ち上がって植え込みに駆け寄る。胃の中身を吐き捨てた。どろどろと熱い胃液が口の中を汚す。

 背後ではたくさんの怒号が飛び交っている。振り向いて確かめる気力など一滴も残っていない。もう、何ともかかわりたくない。知りたくもない。大丈夫ですか、と女性が遠慮がちに声をかけてきた。「水がほしいです」と言った声が、引っ掻き傷のように乾いてかすれていた。


 暴行されたわけではないので、警察沙汰にはならなかった。けれど、嘉山さんは大学を辞めた。大学側に懲戒免職されたのではなく、自分の意思でそうしたらしい。しばらく噂が波のように研究室で満ち引きしただろうことは想像がつくけれど、就活をしているという理由でほとんと顔を出さずに済んだ。どうせいろんな気持ちの悪い憶測が飛び交っているんだろうとは思ったけれど、わざわざそこに飛び込んで正しい情報を主張する気になんかならなかった。

 一カ月して、ほとぼりが冷めた頃、新しい助教授が赴任してきたと真木さんがLINEで教えてくれた。最近どう? だとか元気にしてる? とか、そういう様子伺いは一切なく、淡々と研究室の近況を送ってくれたのが、返って深い気遣いを感じてありがたかった。

【そうなんだ、連絡ありがとう。うれしい。そろそろ就活に決着つきそうです】

【そっか。また落ち着いたらお茶でもしよう。最近チャイにはまってます】

 可愛らしいカフェを背景に、チャイとスコーンの写真が送られてきた。【いいね、行ってみたい】と返すと、週末に一緒に行くことになった。

 

 先に店内に来ていた真木さんは、こっち、と軽く手を挙げた。ネイビーのチャイナシャツがぱりっとして似合っている。

「なんか久しぶり。あ、髪切ったんだ。いいね、イメージ変わった」

 真っ先に変化に言及してもらえてうれしい。「うん、証明写真と違うから面接で『え』って顔されちゃうこともあるけどね」と返すと「首がきれいだから短い方が映えるよ」と真木さんが言った。いつだったか彼に言われたことと同じだったけれど、不愉快な気持ちは一切湧いてこず、ありがとう、とこたえた。

 チャイとスコーンのセットを頼む。店員さんが去って間ができたあと、「大変だったね」と真木さんがケーキにそろそろとナイフを入れるようにして切りだした。「私の家に来た日に会ったんだよね? その話聞いてすごいびっくりした」

「ああ、そうなんだよね。心配かけたよね」

「でも、なんで最寄り駅知られてたの?」

 真木さんはぽつと訊いた後、「あ、ごめん。仲を詮索してるとかじゃなくて、単純にそこにまずびっくりしたから」と慌てたように付け足した。そうだよね、と苦笑いを返す。

「もちろん付き合ってたとかじゃないよ、住んでる場所についても話したこともない」

「え、何それこわい」

「私、一回だけ助教部屋のコピー機でエントリーシート印刷したことがあって。その時データを借りたUSBに移して、消さなかったの。それで住所見たんだと思う」

 真木さんが絶句した。いたたまれない気持ちになって、運ばれてきたチャイに口をつける。シナモンの香ばしい匂いがした。

 真木さんは、大変だったよね、と小さく呟いて、「でもね」とつづけた。

「私、嘉山さんのこと、全然責められないし、笑えるような立場じゃないんだよね」

「え」

「私、嘉山さんのこと好きだったんだよね。まぁ、恋愛的な好きっていうより推しって感覚が近いけど」

 風がたなびいて湖の表面に水紋が広がるようにして、しずかに真木さんが笑みを浮かべた。二人を結びつけてイメージしたことが一切なかったので、素で驚いてしまう。

「……知らなかった」

「赴任してきた時から見た目がタイプなと思ってたんだよね。院の先輩にぽろっと話したら、嘉山さんにもしゃべっちゃったらしくて。それ以来、あんまり挨拶してもらえなくなっちゃった。研究室入って目があっても、おまえじゃない、みたいな顔されて。まぁ、それはあまりに被害妄想入ってるかもしんないけど」

真木さんはあくまでも、降り初めの雨のように淡々と話した。どれほど彼の態度に傷つき、打ちひしがれたことだろう。けれどそれを雪野に垣間見せるのは矜持が許さないのだろうとも思う。

「嘉山さんが志田さんにしたことは、どんな事情があったとしても許されるようなことじゃないし、辞めることになったのはしょうがないことだと思う。でも、ちょっと立場が違ったら、糾弾されて研究室追い出されてたのは私だったかもしれないって、話を聞いて思っちゃったんだよね。私と嘉山さんで、何が違ったんだろうって」

「……うん」

「こんなこと、よりにもよって志田さんに言うことじゃないかもしれないけど……嘉山さんがしたこと、共感できるの、私は。肯定するわけではないけど、エントリーシート盗んでまで志田さんに執着した嘉山さんの気持ちは、痛いぐらい想像がつく」

だって私がそうだから、と真木さんはくちびるを歪めるようにして笑った。うつむきながら髪を耳にかけるしぐさで、ああ、恋をしていたんだ、とわかった。

「嘉山さんね、志田さんの容姿がすごくタイプで、美人だ美人だって騒いでるのを瀬田君とかは知ってたんだって。って、ごめん。こんな話、聞きたくないよね」

「ううん、大丈夫。知りたい」

「男子たちは、志田さんは就活で全然研究室来ないのによくそれだけで執着できるよな、って言ってたんだけど……私は、笑えなかった。見た目が綺麗、って理由で固執するなんて浅はかだって思われてもしょうがないのかもしれないけど、すごく切実だと思うんだよね。むしろ原始的で、抗えない引力で惹きつけられてるってことだからさ」

真木さんの眉がぐっと下がっている。なんと返していいかわからず、チャイのカップで指先をひたすら温める。

 すごく、きれいだと思いました。はにかみながら、航大が話しかけてきたことを唐突に思いだす。嘉山さんと何が違ったのかと言われれば、うまく言語化して説明することはできない。

「志田さん、すごく怖い思いしたよね。本当にそのことは気の毒だと思うし、嘉山さんのしたことは悪質だと思う。でも、でもね」真木さんの目がほんのりと、波立つようにうるんでいる。「私が嘉山さんに惹かれて、いいなって……好きだなあって思ってたことは、否定したくないなって思ってるの。そんなこと言われても困るよね、ごめん、でも、ほかに話せる人もいなくて」

 真木さんの目から、夜露が自身の重さに耐えかねて葉から落ちるようにぽつっと涙が零れた。ごめん、と言って真木さんはしばらく目を閉じていた。血管が透けるほど白いまぶたが、うずくまるうさぎのようにふるふるとふるえていた。

 ミスコンと、嘉山さんの辞職。これで二度目だ、と思った。また、真木さんを傷つけてしまったのだと思った。面と向かって謝るために家に誘ってくれたのに。今日だって、研究室には顔を出しづらいことを配慮して場所をカフェにしてくれたのに。

 どちらも雪野のせいではない。けれどもし、私たちが男の子だったらこんなことにはならなかっただろうか、と思ったら視界の底がにじんだ。

 

就活が終わって、ようやくひと段落ついた。卒業設計のために研究室に頻繁に出入りするようになったけれど、自分が腫れ物として扱われているのをひしひしと感じていづらかった。真木さんとも、話さないわけでもお互い避けているわけでもなかったけれど、水面の泡だけを掬い取るような当たり障りのない会話しかかわせないでいた。

うだるような夏がすぎ、遊びに、バイトに、卒業設計にと飛び回っているうちに秋になった。「最後の年だし、雪野の大学の学祭に行きたい」と航大に言われて、一緒に回った。サッカー部からケバブを買ったり、美術部で二人の似顔絵を描いてもらったり、おばけやしきに入ったりそれなりにはしゃぎながらまわった。運営しているほとんどが一、二年生ということもあって、まるで他大学に遊びに来ているようなふわふわとした疎外感がないでもなかった。

「ミスコン、今年は中止になったんだね。調べてたら今年は開催しないって昨日知ってちょっとびっくりしたよ」

「ああ、うん。女性差別につながるからって、反対の声が前からあったみたい」

「まあ、キャンパスで一番可愛い子を決めよう、って公の場でやるイベントとしてはよくよく考えたらグロテスクかもね。俺は雪野と出会えたからミスコンには大感謝だけど」

航大が朗らかに言う。笑い返す気になれず、そうだね、と浅くうなずくにとどめた。

「あの時、ステージでスピーチしてた雪野に一目惚れして、出待ちしてなかったらこうして付き合うことなんてありえなかったもんな。なんか、そう思うと感慨深い」思いがけない言葉に、つんのめりそうになった。

「え、出待ちしてたの? 偶然会ったんだと思ってた」

「まさか、そんなうまいことあるわけないじゃん。作戦勝ちだな」

 航大が無邪気に笑っている。

その笑みを見ても、気持ち悪いとも怖いとも思わない。でも、もし雪野が男の子だったら、はたして自分たちは友だちになっていただろうか。「なってたでしょ」と蓋でもするみたいに航大はこたえるだろうと想像はつくからこそ、少しだけ後ろめたくて、もの悲しかった。

「航大」

「うん?」

 いつもだったらミスコンが開催されているはずだったステージでは、新しい企画として学生のコンビによるお笑いコンテストが開かれていた。観客はまばらだけれど、時々小さな地割れのような笑いが起きている。

「ううん」

 きっと真木さんは学祭に来ていない。ミスコンじゃなくて、お笑いコンテストに代わっていたよと教えたら、その方がいいねとうなずいてくれるだろうか。スマホのカメラを起動して、ステージの写真を撮る。

 残りの学生生活は、たったの五か月しか残されていない。トーク履歴のずっと底にしずんでしまっていた真木さんのLINEに、【学祭に来てます。ミスコンはお笑いコンテストに代わったみたい】【お好み焼きのお礼で、今度はうちで鍋しませんか】とつづけてメッセージを送った。写真も送ろうとしたところで、既読がついた。とんと心臓がつま先立ちしたみたいに跳ね上がる。

【寒くなってきたしいいね。久しぶりに話そっか】

 携帯の向こうで、真木さんがほんのりと笑っているような気がした。楽しそうじゃん、どうしたの? と航大にたずねられ、「ううん、友だち」とだけ返す。枯葉の匂いの混じった風がふっと通り抜けた。


セーラー服を脱げない


顔採用。WADエージェントのインターネット広告事業部に配属され、顔合わせもかねたミーティングで集まった二十七人を見て、瞬時にそんな単語が彩夏の頭にひらめいた。集められたメンバーをこっそり見回せば、揃いも揃って美男美女ばかり。確実に自分は下から数えた方が早そうだ。ひえ~と思いつつ、順番にメンバーの顔を見回す。

めがねをかけた真面目そうな女の子と目が合ったが、すぐにそらされた。見覚えがある。名札の〈森川〉という名前を盗み見て、同じく新卒の同期だと思いだした。入社前の研修で何度か見かけた気がする。いわゆる陽キャっぽい、自分と似た匂いのする学生が多いから、彼女のようなタイプはめずらしくて逆に目立っていたのだ。

 あの子も同じ配属だったのか。

 先輩社員がこちらに注目、というふうに片手を上げて話し始めた。

「えー、新卒の方が十三名、うちのチームに配属されました。皆さんにはアカウントプランナーとしてこの部署に配属されてます。ま、最初は研修ばっかりで面白い作業はないかもしれないですが、吸収が早い方だと入社二か月とかで大口案件の商談獲ってくるとかもザラなんで、ガツガツ取り組んじゃってください。まだパソコンのアカウント設定が終わってなくて、午後から順次人事からチャット飛んできた方から下の窓口まで取りに行ってください。それまでは自習です」

 そう言って配られたのはWADエージェントの代表取締役が書いたビジネス書だった。「これ読んで、簡単な試験受けてもらって、合格するまで再試験受けてください。あ、そんなに難しくないんで怖がらないでね」

私の同期なんてこの本読まずに試験受けて合格してるから、と先輩社員が微笑むとぱらぱらと遠慮がちな笑いが起きた。インスタグラマーみたいな、ザ・整形顔というわけでもないのにすごくきれいなバランスの小顔美女で思わずほうっと見とれてしまう。彩夏だけではなく、ほかの新卒メンバーも眩しそうな顔で先輩社員を見つめていた。こんなに綺麗で美人で、かつ急激な成長を遂げている大手メガベンチャーの広告代理店であるWADでチームマネージャーをしているなんて、とんでもないハイスぺだ。

「あ、お昼はどこで食べてもOKでーす。菓子パンの自販機とかもあるんで。十七時からzoomで打ち合わせがあるから、各自自己紹介考えておいてね。解散」

 先輩たちはさっと立ち上がってそれぞれ散らばり、残された新卒同士はちらちら顔を見合わせつつ「どうする?」「コンビニ行くとしたらビル外だよね、買ってこればよかったわー」などと口にして、なんとなく一緒に移動する流れになる。

「ってかさっき説明してた先輩、めっちゃくちゃ美人だったよねー。どんだけ顔小さいんだよ、ってめっちゃガン見しちゃった」

 一瞬静かになったので、思い切って話を差し込んでみた。一拍おいて「わかる! 新木優子に激似」「あ、女優の? 俺も好き」「っていうかそもそもこの会社、全体的に顔面偏差値高すぎ!」と盛り上がる。まだメンバー間のキャラや力関係がわからない今、自分の発言で会話の流れができあがったのがちょっぴり快感だった。「ねー、研修の時グループ一緒だったよね? 配属も一緒だったね!」と後ろから見覚えのあるギャルっぽい女の子がしゃべりかけてきた。

とりあえず今後気軽に話しかけられるメンツを何人か確保しておきたい、みたいなこの空気、なんだか高校の新学期みたい、と思う。


 同じ配属になった十三人のうち、すぐに仲良くなったのはギャル風の小柴愛菜と院卒の柏木美月だった。三人で社内のフリースペースでお昼を食べることが通例となり、「あの人かっこよくない?」「うっそ、ああいうのが好みなんだ。わたしは濃いの無理」と通り過ぎていく男性社員を見定めてこっそり騒いだりInstagramで【社畜ライフすたーと★】と同期をタグ付けした投稿をストーリーに流したりした。

 インターネット広告事業部の新卒歓迎会で新人が芸を披露することになり、散々LINEグループで【どうする?】【小田がおぼんで高速でチンコ隠すとかでよくね?】【じゃあ全剃りしないと!】【なんで乗り気】【みせんな】【うちら横で控えてるから高速で隠しても見えるんじゃないの?】【みっちゃんさすが冷静】【去年はにゃんこすたーのなわとびネタを全員でやったらしい】【あえて今年も被せでいけばややウケは確実】【ややウケは逆に恥ずいて】と雑な精度の大喜利大会が繰り広げられたあと、結局ゴリラや馬の被りものをしてKPOPを踊る、という体育祭レベルの出しものに決まった。「言うてもWADの内定勝ち取った人たちが集まってるのに、アイデアは貧困だね」とドンキで買い出しに行った時にさらっと愛菜が呟いて、「いやそもそもこの案出したの愛菜ちんじゃん」と男子にどつかれていた。

男子五人、女子八人という微妙な割合で、もっとも地顔が整っていてスタイルのいい愛菜がマドンナ的ポジションにつき、みんなより年上でしっかり者の美月は姉御キャラいじりされ、大学時代お笑いサークルに所属していたことが速攻でバレた彩夏はお調子者として認定されている。女子グループの中ではこの三人が中心になって話をまとめる、というのがすぐに定着した。

それなりに高い倍率をくぐり抜けて広告代理店の営業に新卒で入ってきたのだからみんな前へ前へ自分が自分がというタイプなのかと思いきや、長いものに巻かれろタイプの比較的おとなしい性格の子もいて、まあそういうバランスも見てこういうメンバーで配属されたのかな、とも思う。

 中でもひときわ静かな森川はフルネームが森川繭なので「もりまゆ」というあだ名がついたものの、いつも輪の一番そとっかわでぼうっとした顔で突っ立っていることが多い。LINEグループではスタンプ以外の発言は一切しないし、お昼も一人でとっていることが多いようだ。

このチームメンバーでディズニーのアフターファイブ行っちゃう⁉ と盛り上がった時、一瞬(森川さんも誘う?)みたいな目配せが飛び交った。日程調整が合わずに流れたものの、今後もし同期旅行や飲み会があったとしても、森川繭は来なさそうな気がする。コミュ障だから同期になじめない、仲がいい人がつくれない、というわけではなく、そもそも同期含め誰に対してもあまり心を開いてない感じがするのだ。なんで広告代理店の営業を目指してかつ採用されたんだろう、と思った。

いつものように三人でごはんを食べている時「もりまゆってなんかいつもシラフって感じ……あ、悪口とかじゃないけど」と美月がぽろっと呟いた。悪口じゃないけど、ってなんか陰口を覚え始めた小三女子の言い回しみたい、と内心ウケたけどさすがにもう社会人だしなあ、と思って「あークールだよね~」と流しておいた。

 研修は眠かったり退屈だったりするけれど、こっそりチャットで同期と雑談できるからそれなりに楽しい。大学と同じで勤務中に携帯を見ていても怒られないし、社員証でオフィスビル内の改札をくぐるたび、いかにも社会人っぽい仕草がまるでコントの出だしを演じてるみたいでちょっとだけ面白い。就活きつかったけど頑張ってよかったー、といまのところ思う。


「三浜さん、再来週の水曜日の夜空いてたりする?」

 いつもならチャットで話しかけてくる先輩がわざわざ席まで来て話しかけてきた。四歳上で彩夏の指導係である梨帆さんだ。

「再来週って六月の頭ですよね? なんもないですよ」

「その日取引先と飲み会があって、顔合わせもかねて新人ちゃんも何人か連れて行こうかと思ってさ。まあ早い話が接待だからちょっと面倒だけど、いてくれるだけでいいから、ね」

「えー、イケメンとか来ますかねえ」とまぜっかえしたら「やー、野ざらしのたぬきみたいなおじさんしかいないから期待はしないで」と苦笑いして去って行った。

 その背中を目で追っていたら、思った通り森川繭のところで止まり、同じように肩を叩いて話しかけていた。ここのところ彩夏と森川繭はセットで扱われることが多い。営業のロールプレイング相手を組む時も、商談についていく時も大体一緒だ。愛菜と美月もそれぞれ別の同期と組まされているので、ひょっとすると馴れ合いを見抜かれて引き剥がされたのかもしれないな、と思う。

 かっこいいから広告代理店で働きたい、くらいのモチベーションでWADを志望していたものの、新人研修が明けた今は、午前中は先輩の同行もしくは指導、午後はひたすらテレアポをさせられている。スマホでバスケの試合を見ながらかけていた男子の同期が死ぬほど先輩に怒られたらしいけれど、いまのところアポ獲得の打率は彼が一番いい。「女の方があたりやさしいだろうし有利なんじゃねーの?」といぶかしげな顔をされたが、女だろうが新人だろうが知らない人にそっけなく「営業のお電話はお控えください」「興味ないので結構ですけど」とガチャ切りされてばかりだ。うざいとか死ねとか言われすぎて、営業の仕事をこなしているというよりもただ人権をすり減らしているだけのような気がする。さすがに五月の連休明けともなればそれなりにスルースキルも生まれつつあるけれど。

 思った通り、森川繭はいまのところテレアポの打率は一番悪い。彩夏は単に企業に挨拶に行くだけのいわゆる「挨拶アポ」で件数を稼ぐことを覚えてノルマを楽にクリアしているが、森川繭はいつも電話口でぺこぺこ謝っている。

 一体なんでこの子、この会社にいるんだろう。きっと本人も思っている。

「へーそんな子いるの? めちゃくちゃ顔が可愛いとかなら採用もまあそうかなって感じだけど、そういうわけでもないのにWAD受かったんだね。なんなんだろうね」

「やっぱりコネかなあ」

「いやあ、御社は言うてもゴリゴリ実力主義のベンチャーだからね。社長直属の親戚、とかじゃないかぎり潜り込めないと思うよ」

 四月の合コンで出会ってすぐに付き合い始めた将也は、四歳年上の競合広告代理店の営業だ。ライバル会社の同職種と付き合うなんて、と初めは抵抗がうっすらあったもの会社の先輩よりもよほどフランクに仕事のコツや業界の裏話を教えてくれるのでいまでは付き合っておいてよかったーとしか思わない。広告代理店の営業だから当然稼ぎもいいし、顔もそこそこかっこいい。二回目のデートで「二軒目バー行く?」と言ってさらっと手をつないできた時は「いろいろ慣れてそー」と墓石みたいなひんやりした気持ちになったけれど。

「あー明日の商談ダリー、クライアントがめちゃくちゃ面倒くさい人でさー、納期ぎりぎりになって仕様変えてくれっていいだすんだよなー」

 将也が彩夏のベッドでゴロゴロと寝転がりながら言う。「早めに寝る?」と訊くと「おいで」と猫なで声で腕をこちらに向かって伸ばしてきた。明日朝礼スピーチの順番が回ってきているから話す内容をつくっていたのだけれど、手を止めてベッドに向かう。将也が素早い動きで太ももを撫でまわしてきて、それに合わせて猫のような甘い声をあげながら、明日早起きしてスピーチの原稿完成させよう、と思う。


接待当日、「こういうのは人数多い方がいいから」という薄い理由で、彩夏と森川繭を含めた女性社員四人で飲み会に参加することになった。

「無理してアルコール飲まなくていいし、お酒継いだりするのも最初だけだから」と梨帆さんに言われていたものの、取引先が全員男性でほとんどが四十代以上のおじさんということもあり、いざ飲み会が始まるとザ・接待という雰囲気でしかなかった。目の前の人のグラスが空になったらお酒を勧めて、よくわからないけど昔の武勇伝らしき自慢話に延々と相槌を打つ。全く面白くはないけれど、高いお店を取っているだけあってしゃぶしゃぶ自体はおいしかった。

彩夏の隣に座っていた森川繭は、とある男性が取り箸と間違えて自分の箸をじかに鍋に入れてからは、一切鍋のものに口をつけようとしなかった。彩夏だって、げ、とは思ったけれど、食べないのはあまりにあからさますぎると思ったので「お肉おいしい~」と無邪気を装って食べ続けた。向かいにいたツーブロックの男性に「なんか君、合コン慣れしてそう」とからかわれ、咄嗟に「そんなことないですよう」と笑い返す。

「うそ~。なんなら俺、あったことある気がする。人にも自分にもどんどん酒飲ませて、ずっと肉食べてる子」

「えー、合コンなんてうちらの世代で行くわけないじゃないですかあ。コスパ悪いですもん。時代はマッチングアプリですよう」

 がはは、と雑に笑い声が立ってそれなりに席が盛り上がる。森川繭は、ずっとちびちびとレモンサワーを啜っていた。


 そのまましゃぶしゃぶ屋で解散するかと思いきや、二軒目のカラオケにどうしても行きたいとごねられ、しぶしぶついていった。本当は帰りたかったが、先輩の一人が夫の看病のために帰宅したため彩夏と森川繭は残らざるを得ず、だらだらとした足取りでカラオケ館に流れ込んだ。

「カラ館ってコスプレが無料なんですよ。女性陣、着て盛り上げて下さいよお」

 おじさん群の中ではまだ分別のついてそうな若手社員がよりによってそんなことを言い出したので、当然彩夏たち三人は凍りついた。「えー」「もうそんなの着ても誰も得しないんでー」と雑に流そうとしたけれど、おじさんたちはすっかりテンションが上がって「いいねいいね」「三浜さんなんかは保育園児のコスプレが似合いそうっすね、童顔だから」と勝手なことをしゃべって、タッチパネルでコスチュームを注文させようとした。

「じゃあわたしメイドで」

 まっさきに気持ちを割り切ったのであろう梨帆さんがノリよく言うと、おおーとさらに歓声が上がった。彩夏は? と笑顔で振られ、「あ、じゃあセーラー服で」と言うと「いいねー」とおじさんがみっともないほどはしゃいだ。うっわきも、と思いはしたけれど、カラ館のコスプレは学生の時何回も着たことがあるから、まあ別にどうってことはない。

「ねえ、森川さんは何着る? メイドとセーラー服どっちがいい?」

 男性社員に顔を覗きこまれ、森川繭は「いえ」と口ごもって顔を斜めにうつむかせた。「ちょっとー」「ほかの二人は着るって言ってるんだからさあ」とヤジがとぶ。さっさと誰かが歌でも入れてくれればまだ場がなあなあになるのに、皆森川繭を見ている。空気を読んだ梨帆さんが「あっじゃあ私とおそろいでメイドでいい? 二着頼むね」と取り繕ったが、森川繭はうなずかなかった。きっと顔を上げて、「着たくありません」と言った。

 しん、と一瞬このカラオケルームだけが真空に取り残されたような沈黙が鋭く貫いた。いやいやノリ悪すぎでしょ、と誰かが苦笑いする。空気が白濁した唾液のようによどんでいく中、森川繭は顔を真っ青にして、荷物を持って部屋を飛び出していった。

「……まじか~。なんかすみません。盛り下げちゃいましたね」

 最初に口火を切ったのは梨帆さんだった。あ、そっち側に立つんだ、と一瞬思った。おじさんたちは、扱いづらい新卒に手を焼く梨帆さんをまあまあと慰めるムーブに移った。何これ、と思った。

 森川繭は戻ってこなかった。「電話かけてみて」と梨帆さんに言われてなんどかかけたものの、やはりつながらなかった。「外見てきて、ごめん」と言われ、喧騒を抜けだす。

 帰ったんだろうな、と思いながらたん、たん、と階段を下りて一階まで一応行く。カウンターに大学生らしき集団がいるだけだ。

すぐにあの部屋戻るのもな、と思って外に出て左右を見渡すと、隣のファミマの前でスーツの女の子がうずくまっているのが見えた。ゆっくりと近づく。

「森川さん? 大丈夫?」

 泣いているんだろうかと思ったけれど、彩夏の声に反応して顔を上げた彼女はただうつろな表情を浮かべているだけで、泣いてはいなかった。

「……水買ってくるね」

 ゆらりと立ち上がり、ゾンビのような足取りでファミマに吸い込まれていく。すぐにエビアンを手にして出てきた。ごくごくと飲んで、やっと彩夏と向き合って「ごめん、わざわざ外出てこさせて」と小さく謝った。

「……それは別に。戻る?」

「申し訳ないけど、体調悪くなったから帰ったってことにしてくれますか? あの場に戻ったら、なんか、本当に吐いたりしちゃいそうだから」

 弱々しい笑みを貼りつけた顔が痛々しい。「コスプレ、そんなにやだった?」と小声でたずねると、片頬がひくりと動いた。

「コスプレがどうこうっていうか……コスプレもしたくはないけど、なんか、雰囲気が無理だった」

「無理って?」

「若い女は、自分を楽しませるために勝手に使っていい存在、って思われてる感じが無理だった。あれは人間じゃなくて、モノ扱いじゃないですか。あんなのコミュニケーションじゃない」

 ごめん、と森川繭は駅へ歩きだした。あまりに青い顔をしていたので、タクシー乗り場まで送っていったほうがいいんだろうかと一瞬思いはしたけれど、梨帆さんがメイド服を着て一人でおじさんたちの相手をしていることを考えて、店に戻った。


 体調悪いみたいで、と告げるとふりふりのエプロンを身に着けた梨帆さんは「ああ、うん。ありがとね」と驚くでも心配するでもなくひらりと手を振った。おじさんたちは長渕剛やテレサ・テンを歌ったり楽しそうだった。卒業旅行費を稼ぐために短期で入ったスナックでバイトした時に死ぬほど聴かされた歌ばかりだ。

 セーラー服着てよ、としつこくねだられたのでトイレで着替えて戻ってきたら、勝手に「セーラー服を脱がさないで」が予約されていた。世代じゃないんで知らないですよー、とごまかしつつも、結局梨帆さんと二人でデュエットした。出だしのさびは有名だから知っていたけれど、AメロとBメロの歌詞をテキストで見るのはこれが初めてだった。


デートに誘われて

バージンじゃつまらない

おばんになっちゃうその前に

おいしいハートを食べて


 歌い終わった後、「おばんってなんですか」とたずねたら「おばさんのこと! オバタリアンとか聞いたことない? 流行語だよ、流行語」とおじさんが得意げに説明した。じゃあ皆さんはおじんなんですか? とちらっと思ったけどもちろん言わないで「へ~知らなかったぁ」と笑顔で流しておく。

おじさんってなんで自分たちは歳を取らないって信じ続けられるんだろう。っていうかこの歌、タイトルからしてやばいけどこれが大ヒットして茶の間に流れて子どもたちが踊り狂ってたの、かなり怖い。「エッチ」「バージン」という直球で卑猥な単語を歌うたびに、みんながニヤッと笑うのも気持ち悪かった。

結局駅前で解散したのは二十三時半だった。

「ごめんねー、人数減っちゃって大変だったよね」

 梨帆さんが含み笑いしながらタクシーを捕まえる。「家西永福だよね? 私笹塚だから乗っけてくよ」と相乗りさせてもらった。社会人になってから仕事でタクシーに乗るのは初めてだ。まあ、残業じゃなくて単なる飲み会だったけれど。

「まあでも接待っていうか、結構学生ノリに近いですね」

「結局いばってんのはじじいばっかだからさ。ベンチャーとはいえうちもお客さんにはこういう原始的な媚び方するしかないんだよねー」だからメイド服くらい着ますよ、と呟く。

 ふ、と間が空いた。

「ま、たまにいるんだよね。ああいう場に慣れてなくてテンパっちゃったり怒ってその場離れる子……でもこういうの積み重ねで大口の仕事振ってもらえたりするからさ」

 名前を出さないまま、梨帆さんが早口で呟く。

「そうなんですね」

「そ。次も三浜ちゃん声かけていい? ノリよくて助かったわぁ」

 盛り上げるのうまいよね、と上機嫌な顔で笑いかけられる。酔いが回ったのか、そのまま目を瞑って眠ってしまった。

 

 翌日、森川繭はいつもどおり出勤していた。さすがに気まずいのか、すれ違っても彩夏の顔を見ようとはせず、小さく会釈しただけだった。梨帆さんは昨日のことには一切触れず、いつも通り業務を割り振って「じゃあ何かあったらチャットしてね」と打ち合わせへ行ってしまった。

 テレアポ部屋では同期たちがインカムをつけてスタンバイしており、「やっほー」と愛菜と美月が並んで手を振っている。これ幸いと隣へ行き、「あとでお昼一緒行こ」と誘った。「あーいいね」「このメンツのランチ久しぶりじゃね」と小声ではしゃぐ。

 十二時までがっつりテレアポを三十七件こなして、美月が先輩から教えてもらったという会社から少し歩くけれど安くておいしいパスタ屋さんへ向かった。

「あのさ、昨日私初めて接待行ったんだよね」

 テーブルについてすぐ、口火を切った。

「あーマジ? うちらそれ来週だわ」「何それ、そんなのあるの?」愛菜と美月が口々に言う。どうだった? と訊かれ、「いや、マジでカオスだった」とこたえた。

「まあ基本おじさんばっかが来てさ、しゃぶしゃぶ行ったのね。まーそれはいいんだけど、二軒目はカラオケでさ、コスプレしてよ、って強制してきてさー」

「うーわきも。無料キャバクラかよ」とのけぞりながら愛菜が低い声で呟いた。

「それで? 彩夏もコスプレしたわけ?」と美月に訊かれ、「それがさーあ!」とふしをつけて話し出す。

「私のほかに先輩ともりまゆ……森川さんも一緒だったのね。で、先輩は結構ノリよく『じゃあメイド服で~』って空気読んでたんだけど、森川さんが『私、着たくありません!』って叫んでカラオケ飛びだして、逃げたの」

 えええ! と二人の声がこだました。予想通りの反応がちょっぴり痛快だった。

「それでさー、結局戻ってこなくて、体調不良ってことで帰っちゃったんだよね。あ、私はセーラー服着たよ」

「うーわ、いろいろキツ。ってか昨日そんなことあったんだね、あの子ふつーにしてたから全然気がつかなかった」すげーね、と愛菜が意味ありげに眉を片方上げる。美月もジェノベーゼをフォークで巻き取りながら苦笑いしていた。

「そりゃまあ私だって言えるもんなら『コスプレとかマジきしょいんでいやです』とか言いたかったけどさー、先輩が空気読んでメイド服着るっていうんだもん、そりゃ合わせる以外ないじゃん? 一応仕事なんだからさー私情を優先するのってどうなのって感じ」なんかいまの発言お局くさかったかな、と思ったけれど、愛菜が「それな! 彩夏が正しいよ」と力強くうなずいてくれたのでほっとした。美月は「代理店の接待ってそんな感じなんだねー」と顔を顰めている。

「あの子、絶対出世しなさそう。っていうかずーっとそのノリで一年貫くんだとしたらうちの部署から外されんじゃね?」

 意地悪い口調というよりも医者がカルテでも読むような抑揚のない口調で愛菜が言い放った。溜飲が下がるかと思ったけれど思ったよりもすかっとはせず、「それなー」とだけ返した。


 あの晩コンビニの前で自分を抱きしめるようにしてしゃがみこんでいた森川繭を見て、なぜだか自分が二十歳に戻ったような感覚の引き攣れがあった。ああこのシーン大人になっても訪れるんだ、と思った。

彩夏が大学時代所属していたお笑いサークルにも、森川繭みたいな子はいた。

 お笑いサークルは演者がメインで、代にもよるが全体的には男子の方が多い団体だった。ライブには出ない裏方のスタッフと呼ばれる子たちは逆に女の子が圧倒的に多かった。というよりも、〈お笑いサークルの女子マネやりませんか?〉というような集め方をしていたので当然と言えば当然だった。原則スタッフは女子だけね、という暗黙のルールがあり、時々男子のスタッフ希望が現れても「演者として入らない?」と無理に説得するか断るかのどちらかだった。

「なんでスタッフって女子だけなんですか?」と初めて新歓をする立場になった二年の時にたずねると、男子の先輩は「あーなんでだろうな、昔からの伝統だから」とこたえた。「けど、人数は集めた方がいいじゃないですか。男でも女でも」と食い下がると、あー、と何やら腑抜けた声を出し、言った。

「男子に小道具の買い出しとか店の予約とか使いっ走り頼むの、なんかかわいそうっつうか気まずいじゃん。絶対演者が気ぃ遣っちゃうって」

 な? と苦笑いで念押しされ、まあそうかもしれないですねー、となんとなくうなずいてしまった。以降、別の女の子たちから「なんでスタッフって女子だけ?」「男子の希望者断るの、もったいないよ」と声が上がった時は、「そういうもんだからさ」「運動部のマネージャーだって女子だけじゃん」と薄い理由をいくつか並べ、率先して丸め込んだ。お笑いサークルの中では演者の方が立場が強いような風潮があったから、スタッフの子たちは「彩ちゃんがそういうなら」と案外あっさりのんでくれたけれど、それでも時々、喉に引っかかる魚の小骨みたいにいつまでも抵抗する子もいないでもなかった。

「それって、誰かの世話をする役目は女子がしろ、みたいな話ですか? それってめっちゃおかしくないですか?」

 高校の時からかけていそうな度のきついめがねの奥で、小さな一重の目がますます奥まっていた。新歓で入りたての頃は、裏で男子の先輩たちに「宅浪生ちゃん」とあだ名をつけられていた、見た目通り生真面目だったあの子。

「誰かの世話……っていうか、希望して演者じゃなくて裏方のスタッフになってるんじゃん。そういう言い方って、うちの部でスタッフやってる子皆に失礼だよ」

「私たちが希望してスタッフとして演者さんの代わりに雑用やったりライブ準備したりするのと、初めからそういうことをする子たちを女子に限定するのって全然別次元の話だと思うんですけど」

 問い詰められながら、なぜか胸がざわざわした。黙らせなくちゃ、という強い使命感のようなものが胸から湧いてきて、きっと彼女をにらんだ。

「スタッフが女の子だけじゃ不満? 男子も入れなきゃだめ? 力作業は結局演者の男子がやってくれてんじゃん」

「スタッフにも男子を入れてほしい、って言ってるんじゃないです。女子だけをスタッフ対象者にすることに差別っぽさがあるから嫌、って話をしてるんですよ。女子に限定しなきゃいけない理由を教えてください、彩夏さん」

 お笑いサークルにはあまりいないタイプの、いかにも「受験勉強を頑張ってきました」という感じが透けて見えるまじめな子だった。だからスタッフの中でもほんのり浮いていて、あまり友だちもいないみたいだった。だけど、ネタ見せやライブのあとわざわざ話しかけてきて「彩夏さんの書いた漫才、面白かったです」「もしYouTubeとかでほかのネタあがってたら見たいです」と褒めてくれたことがあって、それなりに心の中では可愛い後輩だなと思っていた。でも、こんなふうに盾突かれると急に彼女に対していらいらと不信感と憎しみが湧いてきた。ぴしゃりと平手打ちするように言葉を放った。

「うちのサークルにずっといたいなら、いまのルールに従うしかないよ。私たちが入部する前から決まってるんだから」

 彼女がそのあとなんと言い返してきたのか覚えていない。ただ、ろうそくが消えるみたいに表情がすっと暗く切り替わった奇妙な静けさだけは、いまでもうっすら記憶にある。目を見られなくて視線をそらしたときに、度の強いめがねのレンズのせいで頬の線が大きくすれ違っていることに気づいたことも。

 籍はずっとおいていたはずだけれど、彼女がサークルに顔を出す頻度はだんだんと減って、とうとうその年の追いコンは出ず、以降会うことはなかった。彩夏が卒業するまで、あのサークルのスタッフはずっと、女子だけだった。

 だけど、彩夏のなかで、あとあとになって違和感がじわっとにじみではじめた。先輩の、「男子に小道具の買い出しとか店の予約とか使いっ走り頼むの、なんかかわいそうっつうか気まずいじゃん」という台詞。女子に雑用を頼むのはなぜかわいそうでも気まずくもないのか。どうしてそれを、問いただせなかったんだろう。

まあそうかも、と先輩の勢いに押されてうなずいてしまったのは、彼の苦笑いには彩夏を共犯者として認めるような仲間意識が透けていて、どこか誇らしさとうれしさを感じてしまったからかもしれない。お笑いサークルの演者としてはめずらしく正統派のイケメンで、ネタもそこそこ面白くてアンケートでは常に上位メンバーである先輩に、当時彩夏は憧れていた。いちどだけ飲み会のあと酔っぱらった勢いを借りてキスしたことがあるけれど、いろんな女子に手を出していたということを、彼が卒業したあとになって知った。


 七月になり、テレアポで森川繭が老舗百貨店のWEBサイト全面リニューアル、という大口案件を取ってきた。うわやられた、と歯噛みしていると「悪いけど三浜ちゃんも一緒に担当して」と先輩に指示された。いつもなら新人であっても担当者は本人のみで上司がサポートする、という流れになるはずなのに。ほんのりとした期待も込めて「なんでですか」とたずねると、先輩は困ったように首を傾げた。

「あー……理由は追々。ま、超大型案件だから慎重に進めていきましょう。私も全面的にバックアップするからね。自分たちだけでは動かないで」

 理由はなぜなのかわからなかったが、他人が獲ってきた大きな仕事に乗っかれるのは正直ラッキーだ。テレアポは苦手なはずなのに、数をこなしているうちに森川繭も慣れてうまくなったんだろうか、と思うと正直かなりくやしいが、まあ数撃ちゃ当たるのがテレアポだしなあ、と自分に言い聞かせる。

「三浜さん、一緒に案件担当してくれるんだよね? ごめん、よろしくお願いします」

 自分の案件の見積書をつくっていると、森川繭がわざわざ席まで来て話しかけてきた。普段、ちょっとした用事はほぼすべてチャットでやりとりしているから、「のわ」と少し驚いてしまった。森川繭は困ったような顔をして突っ立って、彩夏のパソコン画面を眺めている。何、と思っていると、「そのことで、一回打ち合わせしたいから今日か明日時間取れる?」と言われた。緊張感が伝わる言い方だったので、もしかしたら先輩からの指示なのかな、と思う。

「いいよ、今日の十六時……あ、やっぱ十七時で」

「わかりました。じゃあまた話しかけるね」

 くるりと森川繭が席へと戻っていく。自分のファインプレーで獲った案件なんだからもっと堂々としろよ、となぜか殊勝な姿勢にいらっとしてしまった。


 窓際の、ボックス席になっているフリースペースで作業していると、「ごめん、お待たせしました」と向かいの席に森川繭が滑り込むようにして座った。

「ダブル担当者の案件って初めてなんだけど……私は何をしたらいいの?」

 単刀直入にたずねる。森川繭はまばたきしたあと、「そのことなんだけど」としずかに切り出した。

「私、来月会社辞めるんです」

「え」

「転職先の内定が、出て。辞める間際のテレアポですっごい大きい案件獲ったから三浜さんが指名されたんだと思う」

「……私が引き継ぐってこと?」

「メインは先輩じゃないかな。でも大型案件だから三浜さんにも手伝ってもらう、ってことみたい。ごめん、私もあんまり詳しくはないんだけど」

「へー……」

 まさか棚ぼたになるのかな、と一瞬期待してしまったのでがっかりしたけれど、どちらにせよ関われるならどちらにせよラッキーだ。森川繭はほんのりと困ったような顔をして微笑んでいた。

「……っていうか、早くない? 転職。まだ六月だよ」

「ね。自分でもびっくり。でも、営業はやっぱり向いてなかったなって。もともとデザインチームに行きたくてWADは受けたんだけど、こっちに配属になって、案の定全然着いていけなくて、先輩からも何回も面談で呼び出されてガッツがないとかやる気を感じられないとかって、結構詰められてたんだ」

「あー……きついね」自分で営業を望んでいたのなら自業自得だが、不本意な配属なら不運としか言いようがない。

「うん、でも私には向いてないなって確かに思ったし、次は小さいちいさい会社の裏方の仕事だから。力抜けたら急にのびのびできたのかな、辞める間際に大きい案件獲れちゃって」

「そっかあ」

「そういうこと、です」

 大きく渋谷の街を切り取っていた窓から容赦なく西陽が差してきて、森川繭がからからとブラインドを下ろした。都会の高層ビルで働いてる醍醐味ってこれなのかもなあ、と見るたびにちょっとうっとりしていた景色が見えなくなっていく。

 ――あの接待があったからなのかと思ってたよ。

 無神経を装って切り込もうとしたら、【終業ミーティング、外回り入ったから十分後からやりまーす】【大丈夫そ?】と先輩からチャットが入った。「あ、ミーティング始まるね」と森川繭が呟く。

「打ち合わせの続き、そのあとでいい?」

「うん。転職の話とか聞きたいし」

 森川繭は小さく肩をすくめて「三浜さんには必要ないんじゃないかな」と苦笑いした。決めつけるような言い方に少し腹が立って何か言い返してやりたかったが、先輩からzoomのURLが飛んできたのでうやむやになってしまった。


 ミーティングが終わると、定時まであと十五分しか残っていなかった。こんな細切れの時間で話すのもな、と思って黙々と作業報告を書いていると、「あの」と話しかけられた。ぱっと顔をあげると、森川繭と真正面から目が合った。片方だけ一重瞼であることにいまになって気づく。

「三浜さんって、最寄り、西永福ですか?」

「そうだけど、あれ、私そんな話したっけ」

 さすがにそんな細かい個人情報は同期だと愛菜と美月にしか話していなかったはずだ。森川繭はあせったように「ごめん、携帯に定期入れてますよね? 前ちらっと見えたから」と口走った。この子は話すとき「ごめん」から始めることがとても多い。「私も井の頭なの。三鷹台」

「え、マジで? 遠くから来てるんだね。っていっても一本で来られるか」ということは今までも同じ線の電車で通勤していたのか。全く気づかなかった。

「定時上がりだったら、もしよければ一緒に帰りませんか?」

「あー、いいよ。私、各駅だから時間かかっちゃうけど」

「大丈夫」

 一緒に渋谷駅の井の頭線ホームまで歩いていく。始発なので並んで座れた。

「次の仕事、デザイン系なの?」

「あー……ううん、事務採用。でもデザインにもゆくゆく関わることはできると思う。WADと違ってすごいちっちゃい会社だから、給与もかなり違うんだよね。家賃安い物件にしておいてよかった」

「有給ないのによく面接とか行けたね」

「そこはまあ、頑張って。土日とか夜に面接させてくれるところもあるから」

「ふうん」

 静かで奥手そうなのに、入社してすぐ転職活動するなんて意外と行動力あるな、と思う。それほどうちの会社いやだったんだろうか。まあ、いやだったんだろう。こんなにネームバリューがあって給与もかなりいい会社、辞める方が勇気がいると思うけれど。

「接待の時、ごめん。ちゃんと謝ってなかったから、それ、辞める前に言いたくて」ぽつと森川繭が言った。「汚れ仕事を押しつけるみたいになっちゃって…頭真っ白になって帰っちゃったけど、私が空気最悪にしたあとのフォローとか、大変だっただろうなと思って」

「あー……うん。まあ大変だったけど、まあみんな酔ってたし別に怒ってはなかったよ」 横並びだから、さっきのボックス席よりずっと話しやすい。「そりゃ私も先輩もコスプレなんかしたくはないけどさー、でも、それやってお客さんが満足して仕事くれるなら、まあしょうがないかなって。セクハラはセクハラだけど、触られたわけでもないんだしまだぎりぎり許される範囲ではあったと思うよ」

 っていうか営業ってそういうもんだし。私たちがいるのってなんでもありの広告代理店だし。そう続けたかったが、もう転職先決まってる人に言ってもな、と思って心の中でだけ吐き捨てた。

 森川繭は黙っている。たっぷりと間をおいてから、「私はそうは思わないかな」と静かに切り返した。え? と訊き返した自分の声に、険が混じった。

「したくない、なら、する必要ないと思う……じゃないとまた、同じ人と飲み会に行ったら同じこととか、それ以上のことが要求されるじゃないですか」

「それはそうだけど」

「もちろん、伝え方とかは立場上、工夫しなきゃならないと思います。私みたいに捨て台詞吐いて勝手に帰る、って、ほんともう最低というか社会人としてどうなのって、いま言いながらめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど、でも、だからと言って、あの人たちの要求、っていうか欲望に素直に従うのも、正しいわけじゃないと思う……」

 たん、たん、と電車が揺れる。すう、と脳の温度が下がっていく。

 あんたはこっちの世界から逃げたくせに。向いてなかった、なんて格好の言い訳を盾にできる狡さがあるくせに。やりたいことしかやりたくない、なんて、そんなんじゃやっていけるはずない。WADの新卒の倍率は千倍とも言われているのに、御託と言い訳ばっか並べてばかみたい。

 それなのにどうしてか、言葉にはならない。言っても伝わらない、とか、どうせこの人辞めるし、という諦念やあきれのせいじゃない。

 森川繭が言っていることは、単なる言い訳なんだろうか、と思ったからだった。大きく切り分けすぎた肉が喉にとどまっているみたいに、うまく呑み込めない。どう見ても向いていなかったテレアポは「嫌です」「やりたくありません」と突っぱねなかったのに、コスプレは自分の意見を主張して拒否した。この子は単に私情だけでああいう振る舞いをしたわけじゃ、ないんじゃないだろうか。けれどそれを認めてしまったら。

「あの、三浜さん」

「うん?」

「私になんか言われてもうれしくないと思うけど……三浜さんは営業に向いてると思うし、これからも頑張ってください」

 予告された通り「あんたが言うなよ」とうんざりしながら聞き流したけれど、「だね」と短く返した。これからは残業がうんと増えるだろうし、すでに地雷っぽいお客さんをあててしまったから来月当たり何かトラブルが起こりそうな気はしているし、毎日「早く金曜日にならないかなあ」と時計をチラ見しながら働いているけれど、私は絶対あの会社を辞めない。きっしょいな死ねよ、と思いながらこれからも仕事をもらうためには偉いおっさんたちの相手をしつづけるのだ。

 だって、男が作った社会では、男のルールに従っていた方が結局女も得をするのだから。

「でも、私、三浜さんとかほかの女性が、これからも男性たちから、ああいう……ことを求められて、こたえなきゃいけないんだとしたら、悲しい。私にそんなこと言う資格、ないかもしれないけど」

 車窓の中で、森川繭はくちびるを小さく結んでうつむいていた。この人、あとひと月でいなくなるんだな、と思いながら、それでも何も声をかけられないまま、西永福で別れた。


 帰宅後、家で動けずにいると、将也から【家行っていーい?】とLINEが来た。誰かと一緒にいればこの気持ちがまぎれるかもしれない、と思い、OKとウサギが踊っているスタンプを押した。

 のろのろとベッドから立ち上がって部屋を片付け、可愛い方の部屋着に着替えて、急いでお茶漬けを作って流し込む。しばらくして【今駅着いたー だるいからタクで行く】とLINEが来た。じゃああと五分で来るじゃん、と慌ててシンクの食器を片付けて、部屋にファブリーズを一吹きした。がちゃん、とドアがチェーンに阻まれる音がした。

「おつ~。ごめ、急で。飲み会リスケなったから来ちゃった」

「ううん、いいよ。会いたかったからうれしい」

 俺も俺も~、と将也が狭い玄関の土間で突っ立ったまま彩夏を抱きしめた。体温の高い将也の胸で匂いをいっぱいに嗅いだら泣きだしたくなった。煙草と香水と汗の匂い。

 部屋に上がるなりすぐ服を脱ぎ出したので部屋着を渡す。自分の家みたいに、「おいで」と手を引かれてベッドに連れていかれた。

「っていうか今日さ、人事から急にチャット来てさー。あ、そいつ元々新卒の時は営業で一緒だったんだよね」

「……ふうん」

「何かと思えば、インターンの内定者の子でめちゃくちゃ可愛い子がいて、昔地下アイドルの活動やってたらしいんだよ。人事のくせして、なんとかインターン生と接触できないか業務中に熱く語ってきてめっちゃうざかったわー」

 内容が薄いわりにすっと話が頭に入ってこない。「……元アイドルやってた子がインターンで来るってこと?」と頭の中で組み立ててからたずねると「そ。まあアイドル云々は俺が名前でググってわかったことだけどね」と得意げに笑う。ほらこれこれ、と見せられたチャット画面では、みずみずしい笑顔を向ける女の子の写真が貼られていた。人事だとかいう男は異様なテンションで「可愛すぎる」「どうにか近づけないか」などとチャットを返している。無垢な写真とあまりに乖離したやりとりが禍々しく思えて、思わず言い放った。

「え、インターンで来る子のこと勝手にネットで調べたの? それで地下アイドルやってたこと知ったってこと? なんかそれって、」

気持ち悪い、と続けようとして、彼氏という関係性の将也にぶつけるにはあまりに手厳しいことに怯んで押し黙ると、将也は心外だと言わんばかりに言い返してきた。

「え、それぐらいはよくない? そもそもそんな情報、世界中にオープンにされるんだし、本名で活動始めた時点でそれはわかってるでしょ。っていうかさ、商談前にクライアントの名前ググってFacebookとかやってないかリサーチしておく、みたいなのは営業でよくやるじゃん。彩夏だって俺が教えた時『何それめっちゃ賢いね』とか言ってたよね?」

 将也の大きな二重の目が威嚇するように見開かれて、額にくっきりと横皺が浮かんでいる。そうだけど、と彩夏が言葉を詰まらせていると、「何」とやけに冷たく言い返してくる。怖かったけれど、思ったことを並べた。

「その子からしたらさ、受けた会社の中の人たちが勝手に自分のこと調べて接触したいとかどうとか言われてるって、気分良くないと思うよ。っていうか私ならいやだもん」

「別に全世界に発信してるわけじゃないじゃん、グループチャットですらない個人チャットだよ? むしろ自分の情報を発信してるのはその子でしょ。別にエロい写真回したわけでも容姿批判してるわけでもないんだし、これくらいのことでそんなこと言われなきゃいけないの? そもそも俺じゃなくて人事の奴からの発信だしさ」

 かくんと力が抜けた。

この人は、内容が卑猥なものもしくは誹謗中傷じゃなければ本人の許可なく勝手にあれこれ品評してもいいと思っているのだろうか。それをする権利が自分にはあるとどうしてこんなにもまっさらに信じていられるんだろう。

将也は「まあ、アイドルとかなんとか知らんけど、俺は女子大生には興味ないから。な?」と赤子をあやすようにぎゅっと口角をあげてみせた。彩夏が突っかかってきたことを、可愛い見た目の女子大生への嫉妬によるもの、として落とし込んでしまいたいらしい。

 ばかじゃないの、と思ったけれど、これ以上何か反論したところで将也の方がずっと口達者なのだからまた丸め込まれてしまうのは目に見えていた。「湯舟ためてきていい? 薔薇の入浴剤入れていい?」とあえて話題を変えると、戦闘態勢だった将也の眉から力みが抜けて、「ああ、うん」と拍子抜けしたような返事が返ってきた。口論になれば自分の方が強いのはわかっているから、もうちょっと言い合って私をやりこめたかったのかもな、となんとなく思いながら浴室に逃げ込んだ。

お湯を張りながら、ぼうっと膝を抱えて座り込む。どばばばばばばば、と水が湯槽を叩きつける音が狭い浴室に響き綿る。

 無料キャバ嬢として接待をしなければいけないことも、彼氏がどこか女性を自分たちより下にいる、適度に愛玩して飼いならす程度の存在として見ているらしいことも、全部放り出せればいいのに、そんなことは到底できないまんま、川に浮かんだ笹舟のようにすらすらと進んでいく。愛菜や美月に愚痴を垂れ流しながら、それでも男たちには文句を言えないのだ。なんで私ばっかり、と思いながらも、その理由はわかっている。

 ――だって男がつくったルールに乗っかってた方が、絶対楽だし、得するじゃん。

 自分に言い聞かせる。浴室の向こう側で、将也が音楽を流しているのか、知らない洋楽が薄く響いていた。


非恋愛レボリューション2020


 コロナ禍の影響で、ボーナスが四割カットされるらしい。朝のミーティングで上司から報告を聞いて思わず悲鳴を上げそうになった。上げなかったのは、先輩がまつエクで重そうな瞼をまばたかせながら「ま、しょうがないよね」と言ったからだ。

「派遣さんなんて給与カットどころか契約切られてるから。正社なだけうちらは首の皮一枚で助かったのよ」

「はあ」

「まあ、不満はあると思うけどこういう状況じゃしょうがないよ。あ、月末だから早めに営業から領収書と請求書提出させておいてね。どうせあいつらまたため込んでるから」

 セルフネイルでグレーに染められた指先をひらりと振って上司が立ち上がる。解散、と呟いて同僚の繭が立ち上がった。一緒に席に戻るついでに「ねーどうする、ボーナスカットだって」と小声でささやく。

「んーまあうちらもモロに打撃受けてるもんしょうがないよ。つか旅行代理店の友だちなんて三か月まるまる休みだって。その間も給料っていうか手当は出てるから資格学校行ったり家でヨガやったりしてるらしいよ。マジ羨ましいわ~」

「ええ⁉ いいなあ、働くだけ働かされて挙句給与減らされてるうちらとは違うね」

「それな~せめて毎日テレワークにしてくんないかなあ」

 有香たちが勤務する施工会社は、親会社が旧体制すぎるせいか今のところ隔週でしか在宅勤務を実施していない。人数が少ないからというのと、顧客であるマンションオーナーは年配層がほとんどのためオンラインでの営業ができないからというのが主な理由らしい。「誰かがコロナに罹ってくれれば会社もオールオンライン化に踏み切ってくれるのにね」とあっけらかんと繭が不謹慎なことを言っていたが、いまのところ誰も休む様子はない。

 一時期は毎日座って通勤で来ていたが、五月の連休が明けるともう小田急線はコロナ前の七割くらいには乗車率が戻っている気がする。このご時世に通勤電車乗ってる人って総合的に見れば世間平均よりは下だよなあ、と思いながら最寄り駅につくまでTwitterを流し見する。在宅で毎日十時起きになった、と呟いている大学のサークルの後輩をミュート設定にした。

こっちは相変わらず毎日六時半起きだ。いいよなエンジニアは、と思う。事務職はどれだけ年次が上がろうが役職に就こうがいまの会社にいるかぎりは手取り三十万まで上がれば相当いい方だ。固定費を下げるために川崎に住んでいるのがあだとなって、感染を気にしながら長々と電車で揺られる羽目になっている。ばかばかしいったらない。

 緊急事態宣言が出た時は、まるで町ごと湖の底にしずんでしまったみたいに人が消え、店の明かりが消え、静まり返っていた。会社の口座にお金を振り込むために渋谷に出たら、昏く静まり返った街に「日本に元気を!」という政治家のスピーチがスピーカーから繰り返し流れていて、言葉と街のようすの乖離がSF映画のようでひたすら怖かった。街を歩く誰もがマスクをしている風景も、初めはまるで星新一の世界が具現化されたような違和感があったが、いまではすっかり慣れ切っている。


「いつまでこういう生活なのかなあ。まさか真夏までマスク生活なんてことはないよね」

「いや、山中教授が三年はこういう生活になるって日経新聞の記事で言ってたよ。すぐには収斂しないでしょう」

 日曜日から泊まりに来て、有香の家でテレワークをしていた大智がなぜか得意げにいった。最悪じゃん、と先ほど自分が作った親子丼を口に運びながら思う。

「そういえばさ、今日、ボーナスカットの話されちゃった。四割カットだって」

「うーわマジかー、つらいね」

「もともとの額が雀の涙だけど四割カットってほぼ半額ってことでしょ? 本当やだ、せめて毎日わたしも大ちゃんみたいに在宅がいいよう」

 ITベンチャーの営業をしている大智は、そもそもコロナ禍になる前から週に二度は在宅勤務を推奨されていたので、三月のかなり早い段階から完全在宅勤務に切り替えていた。資料をつくる時はNetflixで映画を流し見しながらつくって、作業がない時は昼寝だってできるし身体が訛ってきたらささっとジムに行って汗を流すことすらあるらしい。有香の会社がまだ完全出社のままだった時、「俺がかかるとしたら絶対有香からだよなあ、電車ってマスクしてない人結構いるし」と冗談のていで言われて喧嘩になった。

「かわいそうに。まあでも医療系で働いてる人とか配達員の人は週五で現場出勤だからなあ。そういう人たちと比べたら有香は恵まれてるよ」

 大智が慰めるように言う。それを言われればこちらは黙るしかない。

実際そのとおりなのだ。現場を離れられない職の人は、「近づいたら感染する」とウィルス扱いされて差別されることもあるとLINEニュースで記事になっていた。妊娠している人や学生、身寄りのないお年寄り、子どもを育てている家族、医療の現場で働く人、運送業などのインフラ業で働く人……そのどれでもなく、職を失ったわけでもない有香は確かに「恵まれて」いるのだろう。でも大智の言い分はどこか釈然としない。小学生の頃、給食を食べきれずに泣きながらスプーンを運んでいたら担任の先生にあきれた顔で「アフリカには給食を食べたくても食べられないで死んでいく子がたくさんいるのよ」とはっぱをかけられた時のような、なんの表情を浮かべればいいのかよくわからない気持ちになる。

「今日も泊まる?」

「ごめん。明日Amazon届くからごはん食べたら帰るよ。プロテインが切れててさ」

 そう言って空になったどんぶりを持って台所へ行く。在宅勤務の結果筋トレがルーティンになった大智の背中は、よれた部屋着を着ていても見事に背中が引き締まっているのが見てとれて、しばらく眺めた。


 二〇二〇年、というドラえもんの世界のような未来めいた西暦に、世界がこんなふうに様変わりするなんて誰が予測しただろう。

 二月頃はまだ、中国でへんな風邪が流行ってるね、くらいにしかニュースでも取り扱っていなかった。それが、六月の今は外で通り過ぎる誰もがマスクを着けて歩いている。毎週のようにあった飲み会はすべてなくなり、娯楽はインターネットを介したものばかり。TwitterやInstagramを見ていると、絵や勉強を始めた子たちもちょいちょい見かけるけれど、そういうことを始めるとこの、マスクを着けなければ電車にも乗れない世界が臨時のものではなく現実の延長戦であることを認めるような気がして、いまひとつそういう「おうち時間」的なムーブに乗れずにいた。

 もう二〇二〇年なのだから、画期的な誰かの発明によって新薬が開発されたりワクチンができたりしてあっけなく収まるにきまっている。小学生のような願掛けを守る意味もあって、有香は手料理やお菓子作りに凝ることも、DIYに励むことも、資格勉強に励むこともしなかった。変わったのは土日の予定ががら空きになって暇になったことくらいだ。そういう時、心の底から彼氏が自分の住む最寄りから三駅の場所に住んでいてよかったなあと思う。大智がいなければ、退屈のあまり発狂していたかもしれない。

「あんたは運いいよ、わたしなんて彼氏と別れたタイミングで自粛だもん。このタイミングでマッチングアプリやったって常識ない人としか出会えないじゃん? 不安だらけな時こそ彼氏ほしいのに誰かとデートすらできないってホント地獄だよ」と繭はほぼ毎日のように愚痴っている。二十七歳の有香の二歳上の二十九歳だから余計あせりを感じているのだろうな、とは思うのだろうけれど、さすがに口に出しては言えない。

 七歳年上の大智とは去年の秋から付き合い始めた。会社からウィルスもらってこないでよ、と口うるさく言ってくるわりに自分が外出した時は大して丁寧に手洗いうがいをしない横着なところがあるけれど、顔もタイプだし同世代の中ではかなり稼いでいる方だし有名な大学を出ているし、いわゆるスペックは申し分ない。有香が「ふられたらどうしよう」と思うことは時々あっても、向こうが同じ心配をすることはほぼないだろうな、とうすうす思う。

「二年以内には結婚したいよね」「同棲したらこういう家具ほしいなあ」などと時々踏み絵めいた文言をかわしつつあるから、このまま何事もなければ結婚するんだろう、と思う。地元の大学を不合格になって名前も知らなかったようないわゆるFランと呼ばれる大学に行くことになった時や、あらゆる面接に落ち続けて拾われるようにして入った小さな会社で安月給で働くことが決まった時は、まさかこんなふうに「結婚」というちょっぴりずるい方法によって帳尻合わせができるとは思ってもいなかった。

すべては、コミュニティ外の人間と出会えるマッチングアプリというツールで「おっぱい大きい子っていいよね、あと髪が長い子」という女性への雑な理想像を持つ大智と出会えたおかげだ。「仕事への熱量が高い人」だとか「頭が良くてディスカッションが楽しめる人」なんて女性がタイプだったら二回目のデートにすら誘われなかっただろうが、Fカップの胸が減らないように夜もブラジャーをつけて、髪を丁寧にブローするだけで大智の理想的な恋人でいられる。ばあちゃんの代から巨乳の家系でよかった、と思う。

「いつまでコロナコロナなんだろなー。早く前みたいに外でデートしたいよ。夏にはディズニーとかプールとか行けたらいいよな」

 ごはんを食べ終わったあと、ベッドでぬいぐるみみたいに抱っこされながらいちゃいちゃしていたらふいにささやかれた。「あ、いいね~それまでにダイエットしなきゃ」と返したら大智は満足そうに笑みを深くした。


「副業って興味ある?」

 同じタイミングで会社を出たら、ふいに繭が言った。「ないっ」と間髪入れずにこたえると、繭は間をおいてから「違う! そういうんじゃないから!」と慌てたように言った。あまりの剣幕に、道の何人かがちらっとこちらを視線だけでうかがってきて恥ずかしい。

「勧誘じゃないよ。ほんと、そういう怪しいやつじゃないから」

「……急に前置きなく今の切り出し方で副業って言われたら誰だって怪しむでしょ」

 正直に言えばいまだってかなり怪しいと思っている。事務の唯一の同期でかなり仲がいいだけに、はっきり言ってショックなくらいだ。

「だーかーら、全然違うって。あのさ、わたし実はマンガ描いてるの」

 思ってもみない単語に、つんのめりそうになった。

「え、そうなんだ⁉ そういえば繭って結構……というか相当絵上手いよね」

 上司の依頼で事務所のドアに【外から帰ってきたらまず手洗いうがい!】という貼り紙をつくり、下にいらすとや風のウサギがうがいしながらなぜかドリブルしている絵が描いてあった。いらすとやでよかったのでは、と思いはしたけれど、かなり上手だったので結構社内で話題になったのだ。

「で、コミケでマンガとか売ってるわけ。っていうかなんなら、たまーにネットで連載してるのね」

「え、お金もらって……てこと?」

 繭が照れくさそうにうなずく。すごーい! と歩道でぴょんぴょん跳ねると「あんたが動くと乳がうるさいから」と言ってコメダ珈琲に連れていかれた。安いのに量が多いから二人の間では鉄板だ。

「え、どういうマンガ描いてるの?」

 誘ったから奢る、と言われたのでカフェオレとシロノワールまで注文した。うず高い入道雲のようなクリームをスプーンで掬っていると、繭はあっさりと「いまリンク送った」とスマホを操作しながら言った。「先に言っとくね。結構ガッツリのBLマンガ」

「BL……」

正直人生でほとんどふれたことのないジャンルだ。送られたリンクを開くと、コミックサイトに飛んだ。いろんな種類のイケメンがたくさん出てきて、なんだか華やかな内容だ。終業直後に読むにしては意外と台詞の文字量が多かったので、読むのは諦めて画面をスクロールしつづける。

「どう思う?」

「どうって……なんだろ、絵上手いね。本屋で売ってるほんとのマンガみたい」

 われながらあまりに稚拙な感想しか口にできない。繭を落胆させるのでは、とはらはらしたが「ありがとう」と淡々と口にしただけだった。絵やマンガを褒められることに慣れているんだろうな、と一拍おいてから思う。

「でもすごいね、会社員やりながらマンガ家なんて。いつからやってるの?」

「大学の時から書いてはいたから、社会人になってもちょいちょいTwitterとかpixivとかでアップしてたよ。でもデビューしたのは本当に最近。マンガでお金もらってるっていう実感あんまりないままなんだよね」

 いくらくらいもらえるの? と無神経を装ってなにげなくたずねると、思っていた額よりずっと高い額が返ってきたので思わず「うっそいいなあ」と声を上げてしまう。途端、繭がアップルウォッチをつけていることやいつだってまつエクをしていることの理由が分かった気がして、そわそわと落ち着かない気分になった。実家暮らしが長かったと話していたから貯金多いのかな、なんて邪推していたが、ほかに収入源があったからなのだろう。

「副業かあ……でもすごいね、それだけ稼げるなら会社員じゃなくてマンガ家だけでやっていった方が年収上がりそう」

「あー、いろんな連載抱えてる人はそうかもね。でも私アイデアがぽんぽん思いつくタイプじゃないから、働きながらちょこちょこマンガとかイラストでお金もらえれば充分かな」

 いいな、すごい、羨ましい、ずるい、でも私は繭と違って彼氏いるもんね……さまざまな感情に蓋をするために、中学生のようなマウントで動揺している気持ちを落ち着かせようとしているのが我ながら情けなかった。

 上がる見込みのない安い給与、作業としか言いようのない面白みのない仕事、創業四十年という歴史だけが自慢の規模の小さな会社勤務で、生活水準を劇的に上げるとしたら結婚くらいしか方法がないこと。似たような境遇のぬるま湯で、「しんどいよね」「でもまあ身の丈にはちょうどいいよね」と言い合っていた仲間が、自分が知らないところで輝いて活躍する場と才能を持っていた、ということに打ちのめされていた。別に自分は何も努力していないのに、いやだからこそ、同じくただの事務員だと思っていた繭がマンガ家としての一面も持っていたということで、出し抜かれた、と思った。

「でさあ、副業興味ない? って訊いたじゃん」

「あ、うん」

「私のアシスタントとして、ちょこっとバイトしない?」

 高校時代の漫研の子とやっていたものの、その子が転職したことで曜日が合わなくなってしまったらしい。「そんなに難しい作業じゃないよ、塗り絵みたいなもんだからさ」と繭が簡単に笑う。

「時給千円で、お昼はうちの近くの王将奢るし、おやつも出す。安くて申し訳ないけど、これでどう?」

「……一回だけやってみて、続けるかはそのあと考えるのでもいい?」

 おずおずと言うと、ぱっと繭が顔を明るくした。

「マジで! ありがとう! 超助かる、そしたら土曜日うち来てくれる? くわしいことはまた、金曜日に」

「ん、わかった」

 思ってもみないことになった。土曜日はちょうど大智が会社の人とフットサルをするとかで暇そうだなあと思っていたからちょうどいい。小田急線の中で繭のマンガを読みながら帰った。


 思っていた以上に、マンガのアシスタント作業は楽しかった。

 マンガの下書きに繭がペン入れして、指定された場所をべた塗りする。乾いたら消しゴムかけ。「細かい作業もしてみる?」と言われたのでトーン貼りにも挑戦した。途端にコマがマンガっぽくなって「これちゃおで見たやつだ」と楽しくなる。

「有香、結構手先器用だね。風景とか描けたりしない? 背景とか描けるならもっと時給上げるんだけど」

「それはさすがに無理だって」

 おやつにはウーバーイーツでミスドを頼んだ。有香は自分のお金で出前を頼んだことがない。結構いい暮らししてるんだろーな、と紙と資料だらけの部屋を見回しながらこっそり思う。

 繭の部屋は十畳ほどで、壁一面の本棚にマンガがずらっと並んでいた。ベッドにはたくさんのキャラ物のぬいぐるみ。デスクに飾っている平たいイケメンたちはアクリルスタンドというもので、有香が子供の頃は見たことがなかったものだ。「繭って普段の姿だけだとオタク感ゼロだよね」と言うとうれしそうな顔で「でしょ」と言う。

「やっぱさあ、あの会社って不動産系だからオタバレしたらやーな絡まれ方しそうでさあ……しかも描いてるものが思いっきりドエロいBLだもん。俺たちのことも描かれちゃうんじゃね? とか騒いできそー」

「あー、高田君あたりは言ってきそう。あいつデリカシーゼロだし」

「ジム行って女の子と遊んで営業で稼いで、みたいな体育会系王道人生歩んでるような人にはこういうこと分かち合おうとも思わない。こういうジャンルがあるって知らないで死んでいってほしい。なんか、隠れキリシタンみたいなもんなんだよね、オタクって。業が深い」

 それは業が深いって言いたいだけだろ、とこっそり思ったけれど、内心羨ましくてたまらなかった。

有香には趣味がない。もちろん、可愛いカフェに行くことや洋服を買うのは好きだけれど、単なる消費活動だし、楽しい反面「あーお金つかっちゃった」という罪悪感もうっすらとある。ジムに通いなよ、と大智にはしょっちゅう誘われるけれど運動は大嫌い。かといって繭のように何かをつくる才能もない。結局、家で映画やYouTubeを見て時間が過ぎるのを待っているだけだ。

「ねえ、ずっと不思議だったんだけど繭ってなんで事務やってるの? もったいなくない?」

繭は有香と違って国立大学出身だし、頭もいい。新卒の時は有名な広告代理店にいたそうだ。なんでわざわざうちに来たんだろう、と経歴を知った時は首をひねった。

「んー頭使い過ぎなくて時間に余裕のある職種がよかったんだよね……あと、ベタだけど、やっぱ好きなことを仕事にしちゃうと逃げ場がないと思うよ。マンガでミスったら『まあでもわたし会社員だしな』って思えるし、仕事できなくても『まあわたしマンガ上手いしな』って思えるから楽なんだよね」

「ふうん」

 いいなあ、ずるいなあと思ったけれど、何の努力もしていない自分が口にしていい感想ではないことくらいわかっていた。「よっし、そろそろ再開すっかあ」とミスドの箱をてきぱきと片して繭が立ち上がった。

 夕方の四時に作業が終わった。「これ楽しかったからさ、また声かけてほしい」と言うと繭は嬉しそうに「助かる、もちろんもちろん」と笑顔でうなずいた。とはいえ、アシスタントが必要なのは月に二度程度らしい。

「イラストとかも描いてるんだけどさ、それはお金もらってやってるやつじゃなくてかんっぜんに趣味としてやってるからさあ。お金出せる作業って月二が限度なんだよね」

「そっかあ……」

 繭が教えてくれたTwitterアカウントは、フォロワーが五千人もいた。「ニッチなジャンルだから小規模だよ」と言っていたが、たくさんのファンが繭のあげる作品にコメントをつけている。描いている人同士でオフ会をして交流することもあるそうだ。

「繭、すごいね。こんなにファンがいて」と言うと「彼氏いない仲間が多いから、気はまぎれるかなあ」と苦笑いした。自虐しているようでいて、有香に気をつかってそういっているような気がしていたたまれなかった。


「なんかさー」

「ん?」

「私も繭みたいに、なんか作ってみたいな。すぐ影響受けてバカみたいなんだけど」

 三度目のアシスタントをしていた日、思い切って言ってみた。

 繭は目を見開いたあと「超いいじゃん」と言った。「絵描いたりするの?」

「あー……描いたことないけど、でもアシスタントやってたらやっぱ、描きたくはなるかな」

「いいじゃんいいじゃん、っていうかさ、来週のメルマガ配信のヘッダー、わたしがデザインまかされてたけどさ、一緒にやろうよ」

 休日に仕事の話をされているのにげんなりした気持ちにならなかったのはほとんど初めてのことかもしれなかった。「うん、デザインのこととか教えてほしい」と言うと、「オッケーオッケー」とぶんぶんうなずいてくれた。

 繭には言わなかったが、マンガで副収入を得ているのがあまりにうらやましくて、こっそり自分でも探すことにした。内職の業務委託を探せるアプリに登録して、自分でも請け負えそうな仕事を探してみた。

 結果は散々だった。名刺五百枚のスプレッドシートへの打ち込み、データ整理、テープ起こし……これなら自分でもできそう、と思った仕事はどれも単価がびっくりするほど安かった。単価十円で名刺百件入れて千円なら、繭の家でおしゃべりしながら線を引いたりトーンを貼る方がずっと楽しい。けれど、ロゴをつくるとか企業のLINEスタンプデザインだとかYouTubeの脚本づくりだとか、楽しそうな仕事は単価が高くてもほとんどが経験者のみの募集だ。

 自分ができることは、どれもこれも単価が低い。サイトの最低値で示されている業務ばかりだ。それはそのまま、自分への値段のように思えてみじめな気持ちになった。すぐにサイトを閉じた。

 うすうす気づいてはいたことだ。社会人五年目で会社は二社目だが任されている仕事内容は一年を通してほぼ代わり映えしない。盛り上がりもないし、「この業務が好き」と思えるような作業も正直ない。繭と一緒にメルマガのヘッダーや画像を制作するのは楽しかったが、上司に「勉強熱心なのはいいけど、やっぱり次からは森川さん一人でやってもらうね。事務員二人の手が止まると支障が出るから」と苦言を刺されてしまった。繭は「余計なことに巻き込んだね、ごめん」としょげていた。せっかく楽しかったのに、とますます哀しくなった。

 わかっている。事務員には事務の仕事があって、メルマガのデザインを考えたりサイトに掲載するマンションの写真の加工をしたり、そういう仕事はいまのところ外注のデザイナーに頼んでいる。けれど最近は繭に依頼されることが増えていて、「新しくデザイン部をつくって、事務員はもう一人新しい人雇ったらいいんじゃないの」という案も出ているらしい。打診されたけど未確定要素多すぎて断っちゃったよー、残業増えそうだしと繭があっけらかんと話していたが、正直、笑顔が凍りつきそうだった。同じような境遇で文句を言いながら仕事をしていたはずの繭が、能力を見出されていまいる場所よりずっと楽しそうで輝ける場所に引っ張り出されようとしている。給与だって上がるはずだ。本当ならば友だちとして喜ぶべき抜擢のはずなのに、事務の方が楽だからと断った繭の野心のなさに胸を撫でおろしている自分がとてもちっぽけでみじめでさもしい存在に思えた。

 ――転職、しようかな。

会社まで家から一本で来られるし、職場の人間関係もまあまあだし、業務自体は楽だから残業もほぼない。だけど、五年後も十年後もいまの生活のコピーでしかないのだと思うと、このまま現状維持を続けることに初めて危機感を覚えた。

帰りの電車で転職アプリを登録した。それだけでちょっとだけ今の生活から脱却したような気になってしまったことが後ろめたかったけれど、こんなご時世でも意外なくらい求人情報が出ていることにどこかほっとした。


「土曜日家行っていい?」と大智から電話が来たので「その日、面接あるから夕方からならいいよ」と言った。え、と電話の向こうで大智が目をまるくしたのがわかる。

「何、転職するの? コロナ真っただなかのいま? 悪いこと言わんからやめなよー」

「え、う、やっぱ、そうかな」

「絶対条件下がるって。そもそも土曜日に面接って、その会社平日休みなの?」

「ううん、土曜日も会社にいるからOKですって連絡来たからそうしてもらったの」

 へえ親切だね、と言われるかと思いきや、大智は「げえ」と顔を顰めた。

「なんかブラックくさいな~。どっちにしろこの状況下で会社動くのはリスク高すぎるよ。別にそんなに不満ないでしょ。なんかやなことあった?」

「ないけど……」

「だったらなおさら絶対タイミング今じゃないよ。やっと緊急事態宣言終わったところなのにさ」

 ばかだなあ、と言わんばかりに大智が言い募るので、書類選考が通った喜びも忘れて、休日に面接を入れてしまったことが急にいやになってきた。断ってしまおうかとも思ったけれど、行くだけ行ってこれで転職は取りやめよう、と思った。


 クローゼットの奥からひさしぶりにスーツを引っ張り出すと、なぜか実家のタンスの匂いがした。スカートはファスナーがぎりぎりだったので、諦めて別の黒いパンツにした。そもそも服装の指定はなかったので、別に問題ないはずだ。

 面接はオンラインでも可、とあったけれど、対面の場合一律で交通費が千円もらえるので会社面接を選んだ。通勤圏内の駅にあったので、帰りに足代でスタバ行って季節限定ラテ飲むぞ、とそれだけをモチベーションにして会社に向かう。

パンにまつわる情報サイト「小麦クラブ」を運営するWEB会社だった。有香が応募したのは事務の枠だが、デザイナーも同時募集していたのと、【まだまだ新しい組織。職種にとらわれず、社員の『やりたい!』を応援する社風です】と書いてあったのに惹かれて応募した。それに、パンは有香の好物でもある。求人サイトでは、パンの試食をするスタッフの写真も掲載されていて、なんだか楽しそうだった。

 ビルのエレベーターで四階に降りる。オフィスの室内とじかにつながっていたので、中に踏み入っていいものか迷っていると、ひょっこりと人が顔を覗かせた。三十歳ぐらいの若い女性だ。

「あ、藤平さんですか? 土曜日にわざわざすみません。私、やりとりをしていた中川です」

「藤平です。本日はよろしくお願いいたします」

 慌てて頭を下げる。マスクをつけているので確かではないが、さして有香と歳が変わらなさそうだ。確かアプリ内のメッセージでは、肩書きは代表取締役だったような気がする。こんな若い人が社長をしているのか。

「今日は私以外出勤してないんです。カジュアル面談なので、あまり気負わず話してくださいね」

「はあ」

「コーヒーで大丈夫ですか? お水もあります」

「お水でお願いします」

「はーい」

 こういうご時世なので、と紙コップの水を出された。社内は有香の部屋をほんの少し広くしたぐらいでかなりこぢんまりとしている。

「藤平さんは、いまは施工店の事務員としてお勤めなんですね」

「そうです」

「コロナ禍で建築業界は結構苦戦なさっているみたいですね。何か影響はありましたか」

「ええと……ボーナスが四割カットになる、っていうのは言われました。でも、あとはあんまり変わりないですね」

「オフィスのバックヤードだと、あまり直接的な変化は感じないかもしれないですね」

 中川さんは一瞬マスクを外して水を飲んだ。やはり、かなり若い。口紅を引き忘れたのかくちびるの色味が薄く、そのせいで子供じみた印象だったが、逆に親しみやすくて好感を持った。ちゃんとメイクしたら相当綺麗なんだろうな、と思う。

「でも、このタイミングで転職って、結構思いきりましたね」

「ああ、知人にも言われました……現状維持がいまはベストだよ、って。でも、ずーっと五年間事務しかしてなくて、たぶん給与もそんなに上がる予定なくて、不安になってきてほかの会社も見てみようかなって思った感じです」

 うんうん、と中川さんはうなずいて「五年目だと慣れてきたぶん、仕事がルーティンになっちゃいますもんね」と言った。「毎日が前の日とさほど変わらないというか、景色がずっと変わらないってなると……ちょっとしんどいかもしれないですね」

あっさりと的確に言語化されたことにびっくりしつつ、「そうなんです」とうなずいた。

「でも、藤平さんは確か事務で応募してましたよね」

「はい。それ以外経験がないので……でも、できたらデザインとか企画とか、やったことないこともしてみたいなあって。求人見て、業務がわりと自由そうだなと思って、あとパンが好きなので応募しました」

 なるほど、と中川さんは小さくうなずいた。

「デザインは全くの未経験?」

「はい。あ、でも最近友だちの手伝いでマンガのアシスタントしてます。べた塗りとか、トーン貼りくらいですけど」

「へえ。それは面白そうですね。ちなみにどういう内容?」

「あー……っと、男の人同士の恋愛ですね」

 引かれるかもしれない、と明かしてから思ったが、中川さんは喉をのけぞらせる勢いで笑った。

「なるほど、BLですね。私も嫌いじゃないですよ、むしろわりと好きです。たまにTwitterで流れてくるのを読んだりしてるし」

「ひょっとしたら知ってるかもしれない。クリスティーヌ秋倉って言うんですけど」

 こっぱずかしいペンネームを口にすると、中川さんは「え、超有名絵師さんじゃん」と呟いた。敬語が外れている。

「うっそ、私あの先生ファンですよ。高校相撲部のシリーズがすごい好きだったな」

「私が手伝ってるのは、大学の弱小将棋部の『毎日がてんや★わんや』って連載なんですけど」

「知ってる! 課金して読んでる!」

 中川さんは手を叩いて笑った。今日面接ドタキャンしないで良かった、と心から思った。


 結果から言えば、有香は内定をもらえなかった。事務の手が足りていない今、「できればもっとクリエイティブな業務がしたい」と思っている有香とはニーズが合っていない、というごくまっとうな理由だった。

 ただ、と中川さんは電話先で言葉をひるがえした。「ちょうどいま、知り合いのパン屋さんがノベルティでエコバッグつくりたい、って話が出てるの。ただうちのデザイナーがつくると、まあプロだから結構予算がオーバーするのと、なんというか、デザイン的すぎてイメージに合わない、って言われちゃって」

「はあ」

「まあ要するに、もっと素人っぽい、ヘタウマテイストのさらっとした描き味のイラストが描ける人を探してるみたい。藤平さん、やってみませんか」

「ええっ、私がですか⁉」

「マンガ家さんのところでアシスタントの仕事してる知り合いが安く描いてくれるかも、ってもう話通しちゃってるの。そんなに気負わなくていいので、描いてみてもらえませんか? ほんと、子供の落書きみたいなクオリティでいいから。むしろ、そういう力の抜けた絵のバッグがつくりたいみたい」

「わかりました、私でよければやってみたいです」

うろたえつつも承諾すると、中川さんは「ありがとう! 助かります」と声を跳ねさせた。

 せめてイメージをください、と泣きつくと、メールで過去に作ったパンモチーフのノベルティの写真が送られてきた。中川さんがスタッフに囲まれて、パンフェスでのぼりを立てている様子まで送られてきた。バンダナやTシャツもつくっているらしい。

 ヘタウマねえ……と呟きながらコピー用紙を引っ張り出して、マジックペンでフランスパンを描いてみた。左がへしゃげたからやり直し。もう一回。今度は、フリーハンドのわりにきれいに描けた。でも、ちょっと歪んでるくらいの方が落書きっぽくていいんだろうか。

 迷いながらパンに顔をつけて、ついでに湯気も書き足して、送られてきたパン屋の名前もローマ字で下に書き足した。中学生の頃、色ペンを駆使してcampusの表紙を精一杯可愛くデコっていたのをなぜか思いだした。

 さっそく写真を撮って送ろうとして、ふと繭がメールヘッダーの画像を作っていた時二パターンつくって上司に選んでもらっていたのを思いだした。エコバッグのイラストの謝礼は五千円と言われている。それなら一つだけ送るのは失礼だし、どちらにせよ「もっといろんなパターンが見たいです」と言われそうな気がする、

 結局、三日かけて三つのパターンをつくった。一つ目は流し目をしているセクシーなフランスパンが横たわっているシンプルなもの、二つ目はクロワッサンや食パン、カヌレなどいろんな種類のパンが集合写真を撮った風のもの、三つ目はパンの家族がパリの街並みを散歩しているもの。【こんな感じでどうですか】とおそるおそる中川さんにメールを送ったら、すぐに返信が来た。

【藤平さん、お疲れ様です‼ 三枚も用意していただいてありがとうございます。全部可愛いですが、個人的に二枚目の、パンたちが集まってプリクラ? を撮っているイラストがお気に入りです! 先方に出してみるのでお待ちください】

 熱のこもった感想が届いて、目の端に涙が浮かぶくらいほっとした。全然だめです、なかったことにしてください、やり直しです。いろんな悪いパターン、もしくは音信不通になって返事がこないことすら考えた。自分だけがいいと思っているものを誰かに見せるって勇気がいるんだな、と思ったのは初めてだった。繭は自分なんかよりずっとすごいことをしているのだ。

【先方も、二つ目の絵が気に入ったそうでこちらがエコバッグにプリントされるそうです! どうもありがとうございました。謝礼を振り込みますので、請求書と銀行口座情報を送ってもらえると助かります。また、もしよければ同じような案件があれば藤平さんに振ってもよいでしょうか。ご検討をお願いします】

 通ったんだ……。 

 ほっとして、 みるみるおなかの底がよろこびで熱くなった。事務員をしていた五年間、いちども感じたことのない充足が身体をいっぱいに満たしているのがわかった。


「誕生日、何ほしい? こないだ言ってた、なんだっけ、ピアスにする? 前ほしがってたじゃん」

 金曜日、大智がハイボールを飲みながら訊いてきた。二人でよく来る、安いわりに料理が凝っている韓国風居酒屋の個室で、こっそりテーブルの下で胡坐をかきながら「んーとね」と返す。

「イヤリングのこと? ごめん、あれ自分で買ったんだ」そんなに高くなかったし、というひと言は飲み込んでおく。「買ったの? なーんだ」と大智が拍子抜けしたように言う。

「一瞬、転職活動してたじゃん? それで面接受けた会社の人と仲良くなって、パン屋さんのノベルティのイラストを描く仕事したんだよ。ほら、これ試作品」

 中川さんから送られてきた、自分のイラストがプリントされたエコバッグの写真を見た時のくすぐったさとじんわりとした達成感を分かち合いたくてスマホ画面を見せる。へえすげえ、と大智が素で感心したように覗き込んでいる。

「有香って絵うまいんだな。マンガ家の手伝いもしてるくらいだしなー、へー、すげー。可愛いじゃん。俺もほしいもん」

「そうそう、アシスタントしてる話をしたら『安く絵を描いてくれる人を探してる』って声かけてくれて。内定はもらわなかったんだけど、業務委託、っていうの? こういう、イラストの仕事があればこれからも振ってもらう予定」

 話しているうちにこそばゆくなって意味もなくへへっと笑ってしまう。大智は「いくらで請け負ってるの?」と言った。

「五千円だよ」

「んー……微妙だなあ。買い叩かれてない? それ、有香が決めたの? 向こうのいい値?」

 いい値、という言い方がすでにこちらを下に見るニュアンスを含んでいて不愉快だった。むっとしながら「向こうに言われた額だけど」と言うと、大智は、やっぱり、と言いたげに苦笑いした。

「ま、これぐらいのクオリティだったらぱぱっと描けるだろうし、向こうとしても安く素人に発注できるし、ウィンウィンかあ。暇な時のお小遣い稼ぎとしては悪くないかもね」

 これぐらいのクオリティ。

 素人。

 暇な時のお小遣い。

 大智が発した言葉一つひとつが貝が吐き出した砂のようにざらざらと耳に引っかかった。

 大智が言っていることは断片的にはあっている。確かに有香はイラストやデザインに関して全くのど素人で、仕事がもらえたのは奇跡的に近しく、たまたま中川さんが繭のマンガのファンだったおかげでつながった仕事だ。けれど、まるで有香がいいように安く仕事をさせられたかのような言い分には腹が立った。そもそもお金が目的で仕事を請け負ったわけじゃない、と言い返したかったが、相場を調べたり単価交渉をしなかったのは事実だ。ほんの少しだけ、「確かに中川さんの条件を鵜呑みにすることなかったかもな」と考えてしまった自分が卑しく思えた。

「まあ、誕生日何ほしいか考えといてよ。付き合って初めての誕生日だしさ、奮発するよ?」

 にこにこと顔を覗きこまれたが、グレープフルーツのサワーを飲み干すふりをして笑みは返さなかった。すごく、すごく、いやな気持ちだった。金属めいたえぐみのある酸味が舌に残った。


 イラストの仕事をしたことを話したくて、繭に「たまには外でランチ行かない?」と勤続で初めて誘った。「お、めずらしい。いいねえ、おいしいハンバーグ屋さん知ってるよ」と繭が連れて行ってくれた。

 いつもは自分で握ったおにぎり二つと、夕食の残り物や冷凍食品を詰めた簡単なお弁当で昼食を取っている。もちろん節約のためだったが、イラストの謝礼と繭の元でのバイトでちょっぴり余裕はあるのだし、と思うと心が華やいだ。営業マンが毎日のように「ラーメン行く?」「いや、今日は定食がいいっす。ダイエットしてて」と話しながら昼に出ていくのを、おにぎりを食べながら見送るのが日課だったけれど本当はすごく羨ましかった。

店内はサラリーマンでごった返していた。「どうしたの? お弁当忘れてきたとか?」とメニュウに目を落としながら繭が言う。

「あ、ううん。実はさ、知り合いから絵の仕事をもらってノベルティのイラスト描いたんだ。それ見せたくて」

 エコバッグを見せると、「わっ、超かわいい! 何これ有香が描いたの⁉」と目をまるくした。大智よりもずっと手ごたえのある反応が返ってきてうれしくなり、そうそう、と経緯を話した。

「えー、すごいじゃん、やったじゃん。よくこの仕事もらったね、縁ってすごいね」

「その人が繭のファンだったおかげだよ。ほんと感謝。ここ奢るよ」いいっていいって、と繭が笑いながら手を振った。

「確かにこのテイストはプロ……っていうか絵を描き慣れてる人間には出せないクオリティだよ。いい感じにゆるくてほっとする雰囲気だもん。奢らなくていいからさ、このバッグほしい。私の分ももらえないかなあ」

「試作品はくれるみたいだから、二個送ってもらえないか頼んでみる」やった、おそろいで使おうよと繭が朗らかに笑う。

「ってかさあ、うすうす気づいてたけど有香は絵の才能、だいぶあるよ。こないだ即興で背景描いてもらったけど全然使えたし、センスあると思う。今度さ、一緒にコミケとか出ようよ」

「いやいや、私マンガなんて描けないよ。技術云々以前にストーリー思いつかないし」

「コミケって、マンガじゃなくてもいいんだよ。キーホルダーとかクリアファイルとか、グッズ売ってる人も多いよ。こういうエコバッグとかもね。絶対売れるって!」

 同じブースで売ろうよ、宣伝手伝うから、と熱心に言われ、繭とならそれも楽しいかも、と思って承諾した。ハンバーグ定食は肉汁がたっぷりあふれていて、ああ、普通の会社員ってお昼が一日の楽しみだったりするのかもな、と思って悔しくなった。


 エコバッグの試作品が届いた頃、中川さんから「別のパン屋さんで、パンフェスで着る用のTシャツのデザインをしてほしいそうです」と連絡があった。

「前のパン屋さんは、うち以外でもう一つ会社を挟んでたこともあってあまり謝礼を出せなくて申し訳ありませんでした。今回は仲介がうちだけなのと予算にも余裕があるそうなんで、二万円でどうでしょうか」

「ありがとうございます、やります」

「前のエコバッグ、相当評判よかったです。また藤平さんの絵が見られるの楽しみにしてます」

 電話を終えると、よっしゃあ、と大きな声が出た。ベッドで寝転んで株価を見ていた大智が「どうしたの、いいことあったん」と声をかけてくる。

「Tシャツのデザインすることになった。謝礼も跳ね上がったんだ。二万だよ、二万」

「へえー。ほんと、ちょうどいいバイト見つけたね、よかったね」

 大智がスマホから目を離さないまま言う。役職についていて、ボーナスが百万単位で出て、たぶん有香の三倍近い年収をもらっている大智からすれば、こんな額で大はしゃぎしている有香が学生みたいに見えるんだろうな、とも思う。

 けれど、正真正銘自分の力だけで仕事を勝ち得たのだ。さっそく明日繭に話そう、と思っていると「有香、ベッド来なよ」と大智が猫なで声で呼びかけてきた。「くっつこう、おいで」

 一瞬うっとうしいような気持ちが湧きそうになったが、甘えたいんだろうな、最近後輩の指導で疲れてるしと思いつつ隣に寝そべる。ぎゅうっと大智が上から覆いかぶさるようにして抱きしめてきた。

「ちょっと大ちゃん、重いよー。苦しい」

「ごめん。最近筋トレさぼったせいで太ってきたんだよね。ごめんごめん」

 大智がごろんと有香を抱きしめたまま寝返りを打つ。ベッドの上で真正面から目が合う。

「俺ら、付き合って半年とかじゃん。で、有香は来年二十八じゃん」

「ああうん、それがどうかしたの?」

「俺さ、有香が三十歳になるまでには結婚したいなって正直思ってるんだけど、どう? もっと早く結婚したい?」

 ――ん?

 大智は出来のいいテストを母親に見せびらかす小学生のような顔をして有香の顔を見つめている。褒めてもらうこと以外、想定していない甘えきった顔。

「え、なにそれ……プロポーズってこと?」

「違うよ! だったらもっとちゃんとしてる時に言うだろ。じゃなくて、俺は有香と結婚したいなーって思ってるってこと」 

 それはつまりプロポーズでは? と思いはしたものの、堂々巡りになると思ったので「そだね、私も大ちゃんと結婚したいなー、早く同棲したいなー」とあまったれた声をつくってこたえた。大智が多少満足げな顔をしたのでああこれがしたかったのかとほっとしたものの、なんとなく腑に落ちない。

欲しがってもないものを買わされたような、アウトレットでぱんぱんの紙袋を持って出たものの首をひねりながら返ってきた時のような気分だ。確かにある満足感の中にインク数滴分の不満が垂れ落ちて、けれどすぐににじんで見えなくなってしまう。

 二十八歳、低学歴、事務員、年収二百八十万、顔は中の下レベル、長所は料理が人並みにはできることと胸がFカップあるぐらい、貯金は四十万程度。こんな自分が生涯で出会える男性の中で、大智はきっと一番条件がいい。ばりばり営業でお金稼いでるし、デート代はほぼ奢ってくれるし、やさしいし、「ちょうどいいブス」なんて昔の彼氏に揶揄されたこともある有香を「可愛い」と言ってくれる。そんな人が結婚したいと言ってくれているなんてすごくありがたいことで、本当ならすぐにでも役所に行って婚姻届けをもらって指輪を三つ並べた写真をInstagramに投稿して大智を囲い込むべきなのだ。わかっている。けれどそんな熱意がどうしても、心の中のどこを探しても見当たらない。

結婚したい、と言われたことはもちろんうれしいのに、なぜか釈然としない。千円以上払ったコーヒーが、酸っぱくておいしくないのに飲み干さなきゃいけない時のような、妙な腹立たしさと苦々しさがある。

 確かに結婚はしたい。かなりしたい。確かに、子供のことも考えてできれば二十代のうちにしたいとも思っていた。けれど、いざ彼氏に「三十歳になる前には結婚したいんでしょ?」と決めつけられるとなぜだか反発したくなるのはなんでなんだろう。早すぎるマリッジブルーってやつ? と無理やり感情を型に流し込んでみたもののうまく型抜きされてくれなかった。

 将来への不安を誰かに肩代わりしてもらって楽をしたかっただけなのかも、と思いついたのはセックスが終わってトイレに入った時だった。ベッドに戻ると、すでに大智は口を半開きにしていびきをかき始めている。太ったせいか、いつもは気にならないのになぜか今日に限って耳に障って寝つけない。小さなシングルベッドだから、距離を取ることもままならない。

 一人になりたい。

 っていうか一人で生きていけるようになりたい。

 大智と付き合っていて――というか、ほかの誰かであっても、男の人と付き合っている時にそう思ったのは初めてだった。思いついてしまったことに動揺したけれど、その思いつきは茶柱みたいにふかふかと胸の底を漂って、しばらく消えなかった。


 中川さんが「パンフェスに参加してみませんか?」と誘ってくれたので、土曜日の午後横浜の赤レンガ倉庫前に行った。イベントは自粛していたものの、屋外ということもあって小規模開催が決定したらしい。せっかくなので、と思い繭と一緒に行った。

「わ、結構人いるね。盛り上がってるじゃん」

 繭が指さす方向には、ブースやキッチンカーがたくさん並んで、パンの焼ける香ばしい匂いが風で流れてきた。さすがに人はまばらだが、閑散としているほどではないので少しほっとした。

「藤平さん! ありがとうございます。あ、お友達も一緒なんですね」

 フェイスガードをつけた中川さんが二人分のVIP来場者カードをくれた。スタッフは皆紺色のパーカーを着ている。社内のデザイナーさんが作ったらしく、ロゴがスタイリッシュでかっこいい。よくみたらフェイスガードにもパンのシールが貼ってある。

「この子、いつもマンガのアシスタントしてる子です。あ、クリスティーヌ秋倉です」ちょおっ、と繭があせった声で結構強めに肘鉄を食らわしてきたが、途端に中川さんはきらきらと目を輝かせた。

「秋倉先生ですか⁉ うわあ、『てんわん』の連載いつも楽しみにしてます、誠君と千歳君のかけあいがすごい好きです」

「いやあ、こちらこそ、えーっと、有香がお世話になってます」

 挨拶を一通り済ませたあとは、いろんなお店のパンを試食して回った。有香がエコバッグをつくったお店もあった。手描きっぽいイラストをプリントしたTシャツを売っているお店もあったので、へえこういうのも可愛いなと参考にしたくて写真を撮らせてもらった。VIP来場者カードをぶら下げているからかあちこちからパンやノベルティを手渡される。

「へー、こういうイベントがあるんだね。知らなかったわ。楽しいねー」

 繭はあちこちでカヌレを買ってきたらしく、ずいぶんたくさんの袋をぶら下げている。もらうままにパンを食べていたせいで、すっかり満腹だった。ベンチで休んでいると、中川さんたちがビラ配りをしているのが小さく見えた。なんだかおとな版の学祭みたいだな、と思う。

「なんか、いいな。一日中ブース立つのも売るのも大変だろうけど、お客さんと交流できるし楽しそうだよね。事務って結局社内で全部完結してるからなー……」

 ぽつと呟くと、繭が「え、何、転職するつもり? するなら声掛けしてよね」と慌てたように振り向いた。しないって、と苦笑いしつつも、どこかうれしかった。

「まあでも、ちょっとずつ副業のペース増やしていけたらいいな。わたし、あんまり趣味とか打ち込めるものないから、繭が羨ましかったんだよね」

「有香は彼氏いるからいいんじゃん? 恋愛が趣味みたいなもんでしょ、しょっちゅうアプリを駆使してさ」

「んー、そうかなあ」

 確かに、コロナの前は彼氏ができるまではとにかくいろんな人とデートをしまくり、時には判断を誤って腰から下を貸し合うだけの不毛なセックスを挟み、彼氏ができればやはりせっせとデートとセックスに明け暮れた。ダイエットや料理にはまったこともあるけれど、結局はそれも根っこの原動力は同じ〈彼氏をつくる〉ためだった。それなりに忙しかったし、充足感もないでもなかったけれど、別れればすべてがゼロに戻って同じことの繰り返しになるたびにうっすら絶望した。思えばそれは事務員としてのキャリアと似通っていたかもしれない。

「なんか、そういうのしばらくはいいや。繭とマンガ描いたりノベルティ用に絵描いてる方が楽しい。楽しいっていうか自分のためになってる感じがする」

 なんだそりゃ、と繭が笑う。よし、と腹を決めて有香は立ち上がった。

「私さ、コミケ用にマンガ描いてみたい。コマ割りとかわかんないし、絵も下手だから、四コママンガでいく」

「まじでー! いいねいいね、私も有香先生の四コマ読みたい」

 おっしゃ、とマスクの中で小さく呟く。世界は大きく変わってしまった。だけど、自分もまた小さな一歩を踏み出したのだ。

 遠くで中川さんが有香に気がついて手を振っていた。少なくとも、自分のゆるい線の絵のファンは二人いるのだ。歩きだして、ブースに近づいて行った。


湯気を分かち合う


ひと口味見して、酸味が足りない、と思った。

 酢を足そうと思い冷蔵庫を見て、酢飯に使ったきり切らしていたことを思いだす。カルディで買ったガラムマサラでも入れてみようか、と一瞬思ったけれど、マヨネーズを手に取って扉を閉めた。輪を描くように回し入れて、菜箸でかきまぜてもう一度お玉で掬って舐めてみる。ん、とうなずく。酸味だけじゃなくまろやかさも加わってバランスがよくなった。火を止めて、マグカップ型のスープ皿によそう。

 今日の献立は焼鮭を主役に、筍と菜の花の胡麻和え、韮とジャガイモのかきたまスープ、春キャベツとカブの塩昆布のサラダにした。昨日作ったセロリとミニトマトのピクルスもまだ冷蔵庫にあると思いだしたけれど、スープにマヨネーズを足して酢の物は足りているから明日の朝ごはんに回すことにする。テーブルに並べて写真を撮ってから食べ始める。

まだ十九時十五分だ。夜の時間はつくりたてのスープのごとくたっぷりと揺蕩っている。目に見えないものに押し出されるようにして、小さく息を吐いた。

 翠って料理は上手いのにセックスは下手だよね。

金澤さんに言われたのは食事中のテーブルだったか、それともベッドの上だっただろうか。食事中にしてはあんまりな発言だから、やはり行為のさなかか、終わりに言われたのだろう。付き合っていたのははるか昔、新卒時代の話なのに、何かにつけて思いだす。

「料理とそれを結びつけるのってへんじゃない?」と言い返したのは覚えている。たぶんまだ、あの頃の自分は人前で「セックス」と発音することに抵抗があった。

金澤さんは「食べることとエロって、そんなに遠い事柄じゃないと思うけど。どちらも生きていくことそのものじゃない」と言った。特別かっこいいというわけでも整っているというわけでもないのに、声が低くゆったりと話すせいか色気のある男の人だった。

 菜の花にほんのり辛みと苦みがあって、スープで流し込む。どのおかずもそれなりの出来だが、どこか統一感がなくてばらばらな献立になってしまった。明日はもうちょっと、バランスを考えて献立を決めなければ。

 返信しようとするそばから連投されるチャットの通知もなければ、クライアントからの無理難題に近いようなメールの通知もぱたりと止まっていると、一つひとつの料理の味がいつもよりくっきりと鮮やかに舌に残る。いつもなら平日の夕飯――というより夜食は、コンビニのホットスナックだったり、もやししか具のない袋めんだったり、カロリーメイトだったりしたから、味のことなんて考えずに口に運んでいた。ぼそぼそしていたり、ぱさぱさしていたりする食感だけがいつまでも唇のあたりにまとわりつくので野菜ジュースかエナジードリンクで流し込んでいた。今日のような、季節の野菜や旬の食材を使った手の込んだ料理も好きだけど、いまはなぜか、ただガソリンを車に給油するように口にしていた味気ない食事もどきがやけに懐かしかった。いまごろ同期たちは施主の無茶な要求に頭を抱えたりドライアイに目薬を差しながらパースを引いたりして汲々しているだろうか。先週までの翠のように。

スマホの通知が光った。【奇遇だね。私も休職中なので良ければ来週ランチでもどうですか?】――茅部美青からだった。【何曜日でもいいよ。決めちゃってくれれば!】というメッセージとことりが羽で〇をつくるスタンプを送っておく。

通院以外、来週は何も予定がない。こんなに暇なのは大学の学部生時代以来のことかもしれない。平日を指定してくれたらいいな、とひそかに思っていたら美青は火曜日の十三時を提案してくれてほっとした。


美青は三年目に社内の先輩と結婚して退職した元同期だった。翠たちは、日本で三番目に規模の大きな、いわゆるスーパーゼネコンの設計として働いていた。

とても優秀な子だったから、結婚を機に会社を辞めると聞いた時は驚愕した。「転職するってこと?」と訊くと美青は苦笑いして「上司にも訊かれたけど、違うよ。しばらくはパートでもしようかな」と言った。「子供がほしいからさ」

「ああ……そういうこと」風船から空気が抜けるような声になってしまった。失礼だったか、と一瞬焦ったが、美青は、くふふ、と楽しそうに笑った。

「うちの親、二十七歳で私のこと産んでるんだよね。昔からこの年齢は節目としてどこかで意識してたから」

 恋愛沙汰にあまり興味がなさそうだった美青が、虹を眺めるようにどこか夢見るようなまなざしで語るので正直面食らった。結婚相手の先輩も、子供はすぐにでもほしいそうだ。「だから一級取らなかったんだね」と呟くと、「そう。ま、大変だしね」と小さく呟いた。

 翠と美青が所属する意匠設計部では、二年目以降一級建築士の資格を取得することを推奨されていた。学生の時からいくつものコンペで名前を挙げていた美青は同期の中でも一目置かれていて、けれど一向に試験を受ける気配がないから内心訝しんでいる同期も多かった。てっきり独立の準備でもしているのかと思っていたから、結婚と知って肩透かしを食らった。

「パートって、うちみたいなゼネコンとか設計事務所で働くの? CADオペレーターとか」

「どうかな。設計はもう、なんというかこの三年ですでにおなか一杯って感じなんだよね。もう全然違う職種でもいいと思ってる。事務とか、販売とか接客とか」

「え、え、設計辞めるの? 美青が? うそ」

 絶句していると「完全に辞めるかはわからないよ、子供の手がかからなくなったら思い立ってやり直すかもしれないし」と朗らかに言った。それって辞めるってことじゃん、と思ったけれど、あまりに食い下がると不愉快に思われる気がして「美青の子供はきっと優秀だろうね」と話題を別の方向に逃がした。「できたら二人ほしいんだ」と鈴のように弾んだ声で言われ、ああもう完全に思考を切り替えてるんだなあ、と淋しくなった。

 数年ぶりに会うかつての同期が再会の場所に指定したのは根津にあるカフェだった。二人とも住んでいるのは都内東部なのになぜ、と思っていたら、著名な建築家がリノベーションを手掛けた古民家カフェらしい。かつての戦友の中に建築への関心が全くなくなったわけではないということがうれしかった。店の雰囲気に合わせて麻のロングワンピースを選んだ。

「おまたせ」

 店の前で建物の外観を写真におさめていると声を掛けられた。振り返る。胸の前で手を振る女性がいた。

白いシャツに青っぽいワイドパンツ。細面の白い顔に、そばかすがさらさらとまぶされている。いつもおだんごにまとめていた髪は少年のように短く切りそろえられており、めがねをかけているので書生さんのようだ。目が合うと、めがねの奥で細い目が垂れ下がり、知っている美青の要素を見つけられてほっとした。

「美青。久しぶりだねえ」

「ほんとにね。翠ちゃんと会うのすごく楽しみだった。私から、もっと早くに声かければよかった」

 普段、同期や上司からは「真木さん」か「真木ちゃん」と呼ばれることの方が多いので、下の名前で呼ばれるのはなんだか面映ゆくも新鮮な心地がした。入社当初、群を抜く優秀さゆえにほかの同期から淡く距離を置かれていた美青と仲良くなったのは、「真木さんの下の名前、翠っていうんですね。私、名前に色が入ってる人、好き。親近感湧くから」と美青の方から話しかけてきたことがきっかけだった。美(み)青(あお)、という不思議な響きの名前は大学教授をしている彼女の祖父がつけたのだと教えてくれたことも、ふと思いだす。

 店内は空いていた。運よく中庭に面したソファー席に通してもらう。美青は「ここはスパイスカレーがおいしいみたいよ」と言った。

「へえ、そうしようかな。でも、Googleレビューみたらパフェ頼んでる人が多かったな」

「あ、甘いものの口で来た? それもいいね」

「でもカレーって聞くとカレーが食べたくなってきた」

 結局、美青はオムライスを、翠はカレーを頼んだ。

水を口に運びながら「会社、二カ月休むんだ」と言った。初夏みたいな匂いがする、と思ったら、レモン水のようだ。「なんか、残業時間八十とか九十とかだったのにいきなり予定がまっさらになって、毎日持て余してる。今日以外、外出る用事は通院くらいしかなかったし」

あらかじめ簡単にメッセージで近況を伝えてはいいたので、美青は特別驚くでもなく小さくうなずいた。

「そっか、お疲れさま。そうだよね、いきなり時間空くとそれはそれで困るよね。いまのところ家で過ごすことが多いの?」

「ん、そうだね。あんまり一人であちこち出かけるの、得意じゃないし、昼間からどこ行けばいいのかもよくわかんないし」

「精神的な休暇を取るなら家にいるに越したことないけど、ずーっと家にいると、それはそれで息が詰まっちゃうからさ、図書館いいよ。お年寄りが新聞読んだり大学生がレポート書いたりしてて、静かだし」

「ああ、いいね。久しぶりに読書でもしようかな」

 いまの住吉のマンションに越してから、図書館のカードを発行していない。そもそも最後に小説を手に取って目を通したのはいつのことだろう。学生の頃は思考の行間を埋めるように読みふけっていたのに、最近はめっきり縦書きの母語にふれていない。

「私、チームの主任というか、責任者を始めて任されて」

「おお、そこまで昇ったんだ。さすがだね」

「すごい、充実もしてたしやりがいもあったんだけど……去年の秋ぐらいからかな。耳鳴りが止まらなくなった。仕事中、何しててもずっと聞こえてて」

「ふーん……冷蔵庫の唸りみたいな?」

「それの、もっと甲高くて直接頭蓋骨に響いてくるバージョンかな。仕事量自体が一気に増えたわけでもないし、ものすごく重い案件でもなかったんだけどね。なんなんだろ、ほんと」

「少しずつ翠ちゃんの中で水位が溜まっていって、たまたまこのタイミングで耳鳴りってかたちで溢れてきちゃったのかもしれないね」

 そうだね、と苦笑いする。美青の、詩的で文学的な言い回しが懐かしかった。

「というわけで二か月間暇なんだ。美青はどう、休職中って言ってたけど、主婦をしてるってこと? 瑠璃人くんはえーと、もう何歳になったんだっけ」

 あのあとすぐに「妊娠した」という報告をもらったから、四歳か五歳のはずだ。今日は幼稚園? とたずねようと口をひらいて、ふと、一歩踏み出す前に大きな水たまりに出くわしたように戸惑った。

 美青は、お寺の仏像のようにやさしく微笑んでいた。微笑んでいるのに、瞳が薄暗く翳っている。どうしたの? とたずねると美青は自分の腕で肩を抱き、へんに傾いだ姿勢のままうつむいた。

「報告してなくてごめん。るりは生まれてすぐに亡くなったの」

 あまりのことに声が出ない。事故だろうか、それとも病気だろうか。訊くに訊けず、黙りこくっていると「元々、障害がある状態で生まれてきて、長くはないとは言われてたの。四カ月の時に、呼吸、障害で」と続いた。

 美青はそこで言葉を切った。泣きだすかと思ったけれど、ふーう、と長く深い息を吐いて、姿勢を正した。継ぎ木のように腕で自分の身体を支え、まっすぐに座り直す。

「……知らなかった。そんな、大変なことがあったなんて」

「うん。四年、経つんだけどね」

 自嘲するように笑う。四年経ったのにこんなに立ち直れていないんだけどね、という意味だろうか。そんなの、年月なんて関係あるはずがない。美青の身体から生まれてきた命が、期限が短いと医者に宣告されて、小さいまま亡くなって。

ゆらゆらと自分の中で熱がこみ上げてきて、少し力を込めれば涙があふれてきそうだったけれど飲み込んだ。いま翠が涙を流したところで、泣いていない美青を気遣わせるだけだし、友だちの子供が亡くなってしまったという耐えがたい事実に対して、かける言葉が見つからないから強い感情吐露をしてうやむやにしてしまおうとしているだけなのではないかと思った。二、三度力を入れてまばたきして、目の表面の潤みを逃がす。美青は、風で倒れるすすきのように力なくうなだれていた。

「美青」

 なんとつづければいいのかわからない。わからないまま、継ぐ言葉を探す。つらかったね。違う。すごく悲しい。それも違う。今日、会いにきてくれてありがとう。ずれている。美青は悪くないよ。それはそうだけど、私がかけるべき言葉じゃない。もっと、疲れて倒れている人にタオルケットをかけるような、いらなかったらよけてもいいと言えるくらいの、重荷にならない、けれど身体を温めるような言葉、そんなものこの世のどこにも存在していないかもしれないけれど、でも、何かを差し出せないか。

「私にできることがもしあるなら、なんでもしたいって思うよ。何もしないでほしいなら、そうするし、思いつかないなら、一緒に考えたいって、思う……」

何年も会っていなかったくせにおこがましい、偽善かもしれない、かえって重荷になるのかもしれない、とってつけた言葉だとあきれられるかもしれない、瞬時にいくつもの懸念が波のように押し寄せてきて自己嫌悪しそうになったけれど、ゆっくりと顔を上げた美青が、まっすぐに翠を見つめた。深く翳っていた目に、みるみるうちに涙がせり上がった。

「翠ちゃん、あの、私ね」

「うん」

「一人だとまだ、考えが止まらなくて、外で食事とかお茶とか、できないんだ。だから、今日みたいに明るい時間帯に二人でごはん食べたい。いつも、平日のお昼はカップ麺とか菓子パンとか、簡単なものを家で食べるだけだから」

「わかった。じゃあ、次は私の家でお昼食べない? 休みとって久しぶりに自炊凝り始めて、昨日はパン焼いて自分でハンバーガー作ってみたんだよ。あ、写真、見る?」

 携帯の画面を見せると、美青は「おいしそう。翠ちゃんの料理、食べたいな」と微笑んだ。

「……ねえ、るりの写真も見てくれる?」

「もちろん」

 美青に抱かれて満面の笑みを浮かべる瑠璃人くんを見て、ふと思った。

書生さんのような美青の短髪は、もしかしたらわが子の生前の姿をなぞっているのかもしれない。「美青にそっくり」と呟くと、携帯画面を差し出したまま泣きだしてしまった。


 金曜日の昼に美青が家に来ることになった。

食べられないものある? とLINEすると、【火の通ってない玉ねぎとレバー】と返ってきた。あれこれ迷ったものの、何度か手料理をふるまう機会はありそうだし、まずは奇を衒わずに得意なパスタを食べてもらうことにした。

辛いものは好きだというので、メインはアラビアータにして付け合わせはしらすと桜海老のシーザーサラダ、鶏肉のコンフィを出すことにした。デザートはいちごでも出そうか。美青がタルトを買っていくと言ってくれているので、それはやめて紅茶とチョコレートくらいに留めておいた方がいいかもしれない。あれこれ考えているとアイデアが止まらなくなって、いくつかメモを取った。

一人暮らしの歴自体は長いが、初めから料理に凝っていたわけじゃない。大学四年の時に同じゼミの女の子と親しくなり何度か家によぶようになったことがきっかけだった。

最初は鍋やお好み焼きやカレーなど学生らしい簡単なものばかり作っていたけれど、だんだん一品料理に飽きてきてあれこれ試しているうちにレパートリーが増えた。「真木さんの料理って、ざっくり作ってるように見えて正確というか緻密な感じがする。つくってる設計と同じ」と言ってくれた彼女は、大学を学部で卒業して、建築系の会社ではなくIT企業に就職して翌年結婚した。たまに近況報告の連絡を送ってきてくれるものの、配偶者の地元である博多に引っ越してしまったので「会おう」という話は出ない。

木曜日に通院のついでに買い出しに行った。耳鳴りの症状はだいぶ和らいだものの、片頭痛がするようになって新しい薬を処方された。先生に「最近何かはまっているものはありますか」と訊かれて「料理を再開しました」とこたえたら「それはいいですね。私も見習わないといけないんですが、手際が悪いから苦手で」と微笑まれた。お医者さんなのに、 と不思議には思ったものの口にはしなかった。

ゼミのあの子も、器用そうに見えて料理は下手だったな、と思いだした。丁寧に磨き抜かれた真珠のように艶々とひかる容姿の、うそみたいに綺麗だった志田さん。心の中では「雪野」と呼んでいたけれど、なぜか恥ずかしくてずっと苗字で呼んでいた。本当は真木さんじゃなくて、真木ちゃんと呼んでほしいと思っていた。

金曜日は雨だった。赤い傘を差して美青が現れた。めがねが湿気で曇ってしまっている。

「雨大丈夫だった?」

「うん全然。むしろこういう天気の時に出かける口実があってありがたかったよ」

 さくらんぼのタルト買ってきた、と紙袋を渡され、冷蔵庫にしまう。「なんか、平日のお昼に友だちの家あがるのって、背徳感あるね。大学生の時でもそんなに機会なかったよ」と美青がうれしそうに言った。妙にテンションが高い。

「座ってて。もう、できあがってるから」

「うわあ、いい匂い。今日、朝ごはん抜いてるからおなかぺっこぺこ」

 ラグにぺたんと座り込んで、美青が腹を擦ってみせる。お茶とグラスをおくと、すかさず汲んでくれた。

「今日、何作ってくれたの?」

「えーと、アラビアータのパスタと、鶏肉……じゃなかった鴨肉のコンフィとサラダ。あと、昨日の晩ごはんの残りだけどミネストローネもあるよ」

「すごい、お店みたい。ランチなのに一品じゃない」

「雨の中来てもらってるのにパスタ一皿じゃ味気ないでしょ」

「えーうそ、うれしいな、お皿とか出す?」

「私が台所から持ってくるからテーブルに並べて」

 バケツリレーのように料理と食器を運ぶとローテーブルがいっぱいになった。「すごいねえ、なんか飛びだす絵本みたい」と美青が目を輝かせる。絵本、という単語にぎくりと意識を引っ張られたけれど、美青は特に意識していないのか、無邪気にスマホのカメラをテーブルに向けていた。

「ねえ、次は私、絶対お店でごちそうさせてね。全然タルトじゃ足りてないから」

「そんな、いいよ。素人の趣味の延長なんだからさ」

 二人で並んで食べた。音楽でもかけようかなと思ったけれど窓から雨音が聴こえていることに気づいて、そのままにした。美青は何度も「おいしい」「ありがとう」と述べた。

「あーあ、私が働き盛りの営業マンで、美青みたいな奥さんがいたらめちゃくちゃうれしいだろうなあ……って、この発言前時代的と言うか、女の人に家政婦的な役割求めてるイヤな人みたいな発言だったね、ごめん、忘れて」

「そんなこと思わないよ。普通に嬉しい」

「翠ちゃんはいま、付き合ってる人いるの?」

 アラビアータを食べている美青の唇が、化粧品でいたずらした子供みたいに赤く染まっている。「ちょっと前までいたけど別れた」とサラダからしらすだけ取りながらこたえる。

「そっかあ」

「私、いつも恋愛続かないんだよね。なんなんだろうね」

「どういう人が好きなの」って、なんかこういうノリ女子高生みたいだね、と美青が笑う。

「うーん。結構わかりやすいかも。なんかこう、もててる人を好きになることが多いかな。だから、上手くいかないんだろうね」

「そうかあ。私、もてそうな人とか人気者って、あんまり信用できないから正反対かもなあ。知っての通り夫も全然女っけないタイプだしね」

「んー……なんだろ、信用できないからこそいいって思っちゃうんだよね」

 だって裏切られたとしてもしょうがないと思えるから。心のなかで付け加えた。きょとんとされるかと思いきや、美青は「だとしても裏切られた時の傷が減るわけじゃないんじゃないの?」とまっすぐ言葉を放った。果物ナイフで林檎をまっぷたつにするようなためらいのない言葉に思わず黙り込む。

「って、ごめん。その手の保険が有効なことってあんまりないんじゃないかなあって、ちょっと思っただけ。実体験があるわけじゃないから推測だけど。私も夫も、お互いに初めて付き合った人でそのまま結婚したんだよね。全然経験ない子供がなんか言ってる、って流してくれればいいから」

 美青が早口で言い募り、耳を赤く染めて浅くうつむいた。初めて同士で付き合って、そのまま結婚するなんて、こっちからすればなんだか宗教画の中の世界みたいだ。

 雨の日は空が白っぽくてカーテン越しの光が意外とまぶしい。うーん、と首をゆっくりと回した。


 妻とは友だちみたいな感じなんだよね、と彼が小さく呟くのを聞いた時、あ、まずい、と思った。金澤さんと同じ言い訳を遣っている人だ、と思った。

 正真正銘相手がいない人を好きになってもうまくいかずにあしらわれることがほとんどなのに、相手がいる人とはいつもすんなりと、ドアノブをひねって軽く前に押し出すくらいのなめらかさで始まる。けれど終わりもドアが閉まるような素早さであっけない。

 飲み会にはほかにも女の人は何人もいたのに、飼い主を探す犬のような従順さでまっすぐに彼は翠に近づいてきて、嗅ぎ当ててきた。シャーペンでさらさらと描いたようなきれいな顔をしていたが、セックスは乱暴だった。そして、終わるたびに言った。

 ――おまえは世間知らずだから、ちゃんとわきまえていた方がいいよ。

 わきまえるって何を、と言うと「教えると学ばないから」と目を閉じて寝てしまう。その繰り返しだった。会えば傷口が拡がるだけなのに、押し分けられて貫かれると何も考えられなくなった。パブロフの犬だな、と嗤われた。

「もう終わりにしたい」と翠から告げると、いつもなら皆ほっとしたように離れていくのに、彼は違った。激しく翠を罵倒し、かと思えば人が変わったように慈愛に満ちた抱き方をした。連絡を絶っても家の前で待ち伏せされ、会社携帯の電話番号も盗み見られ、昼間でも平気でかけてきた。やめてほしい、疲れた、あなたがわからない、怖い、と泣いても彼は怯まなかった。心から怖いと思っている一方で、枕のように雑に抱き寄せられて彼の匂いでいっぱいになると、この人から離れるなんて不可能なのではないか、と思ってしまい、拒みきることができなかった。

 恋愛感情なのか性欲なのか、自分でもわからない執着に絡めとられて、仕事をしていてもつねに精神が剝き出しの心臓のようにひりついていた。落ち着くことなど一切なく、荒々しいジェットコースターに乗っているような日々は突如終わった。

「もう会わない」と当然のように鍵を使って翠の部屋に入り込んでいた彼が宣言した。「子供が生まれるんだよ。来月ね」と煙でも吐き出すように言った。

「……そうですか」

「ほっとした?」彼は翠の反応をじっとりと眺めていた。安堵と言うよりも、もはや脱力の方が近かったものの、その方が彼を満足させるだろうと思って力なくうなずいてみせた。

もうこの人と会うこともないのか。彼と離れることは生身から皮膚を引き剥がすよりも難しいのではないかと一時は思うほどだったけれど、引き際はいつもの通りあっさりとやってくる。そう嘆息していると、ふいに毒矢が放たれるように言葉が飛んできた。

「翠は、子供を持たない方がいいよ」

「……何?」

 不愉快と言うよりも不可解の方が強く、訊き返した。

「翠は自己愛が強すぎる。自分ばかり見つめているから、結婚はしない方がいいよ。またこうやって俺みたいな男と浅瀬で遊ぶくらいがちょうどいいんじゃないの」

せせら笑うでもなく、まっすぐ翠の目を見つめて言う。彼の口調は、聖書の一説でも読み上げるように迷いがなかった。

「……自己愛、って、私、むしろない方だと思うけど」

「自信がなくて卑屈だから、って言いたいの? それと自己愛は全く別物だよ。自分のことばっかり見つめすぎてて視野が狭い、って意味だよ」

 用は済んだ、と言わんばかりに彼が立ち上がり、合い鍵を投げ捨てるようにこちらに寄越して部屋を出て行った。しばらくうずくまったまま立ち上がれなかった。ザーザーと激しく雨が降っていることに気づいて洗濯物を干しているベランダを覗き込んだら、のっぺりとした奥行きのない闇が広がっているだけだった。雨ではなく、耳鳴りがしているのだと、その時やっと気がついた。

 それからだ。起きている時間ずっと、休みなく、虫の羽音にも似た鬱陶しい耳鳴りが止まなくなってしまったのは。


「もうすぐ四回忌なの」とショートパスタをスプーンで掬いながら美青がごく静かな声でささやいた。「だから、次に会うのは再来週かな」

 二人で食事を取るようになって、ちょうどひと月が経った。週に一度か二度会って、外もしくは翠の家で食べている。こんなに頻繁に会っていたら次会う時には話すことがなくなってしまうのでは、と懸念していたのは初めの数回だけで、すぐにその心配はしなくなった。話が弾むからというよりも、二人で沈黙を分かち合っていても、不思議と、その間に湯気を立てる皿が並んでいれば気にならなかった。

 自分の身体から出てきた命を見送ってから、四年が経つ。想像もしたこともない岸辺にこの人は何年も前から立っているんだな、と思う。

「そういえば美青の休職って、期限決まってるの?」

「ううん、決まってない。休職って言っても、親戚がやってるカフェをね、人手が足りない時バイトで手伝ってただけなんだけど、新しく大学生の子が入ってくれたから、そんなにシフトに入らなくてもよくなったの」

 もう、設計職には戻らないのだろうか。訊いてしまいたいけれど、簡単に口にしていいこととも思えず、曖昧にうなずいた。あんなに才能があって建築が好きだったのに、もったいない。けれど、元同僚というだけの自分が、簡単に美青の人生を「もったいない」と決めつけるのはあまりにも傲慢だ。たかが耳鳴りがする程度で休職した翠には、会社に戻れば席はある。

「そういえば、こないだやっと図書館でカード作れた。意外と手続き面倒なんだね、住んでる証明として水道料金の明細持って行ったよ」

「あー、確かに結構厳格だったかも。本借りた?」

「三冊だけね。小説なんて読むのほんとにひさしぶり。昔は電車とかお風呂とかどこででも開いてたんだけど、いまはもう、読むぞ! って気持ちをつくらないとなかなかひらけないや」

「あくまで娯楽として楽しめればいいんじゃないかな。無理ない範囲でいいと思うよ」

 美青が何冊かエッセイを薦めてくれて、メモを取った。

「小説読んでるとさ、いろんな人が出てくるじゃない。それこそ、子供を亡くした人とかも」

「そう、だね」

「夫には、つらくなるだけだから読むのやめたらって言われたんだけど、案外そうでもないんだよね。こういう受け止め方もあるなあとか、自分もそうだったなあとか、違ったなあとか、共感できてもできなくても、救われる部分って絶対あるから」

「救われる、かあ。確かに物語を欲してるときって大なり小なり救いを求めてる時なのかもね」

 学生の頃は、恋愛小説はどこかファンタジーとして楽しんでいた。いま読んだら、共感したり、恥ずかしさを覚えたりするのだろうか。思わず苦笑いを零したら「なんか思いだした?」と美青が歌うようにたずねてきた。

 

 あまりにもいやでいやで長い間認められずにいたが、おそらく自分は恋愛体質なのだと思う。

小学校五年生あたりからだろうか。大学を卒業するまで、〈好きな人〉がいない時期はほとんどなかった。常に誰かのことを目で追っていた。早い段階から恋愛に興味や憧れはあったけれど、その相手が、振り向いて翠と目を合わせて微笑むことはほとんど、いや全くなかった。恋に片思い以上のことを望めないのが自分の人生なのだろう、と長く思い込んでいた。

 結局初めて誰かと付き合ったのは、社会に出てからだった。院卒だったからすでに二十五歳になっていた。その相手が金澤さんだ。当時の直属の上司だった。

 ドライブデートに誘われた当日、あいにく小雨が降っていた。男の人とみなとみらいと赤レンガ倉庫に行く、という定番すぎるデートを「なんか大学一年生みたいですよね」と茶かしながらも、内心日程が決まった日からずっと楽しみにしていた。それなのに、雨。なんか私の人生ってずっとこの調子なのか、と助手席で落胆していたら、「予定変更する?」とごく落ち着いた声で金澤さんが言った。

 え、と何気なく返すと、車窓を指さされた。目を向けると、笑ってしまうような名前のラブホテルの看板が百メートルほど先にネオンブルーに照っていた。

驚いたり、慌てたりする選択肢もある、とはその時頭になかった。あは、と空中に吹き出しを浮かべるようにして発声した。そして一生分の勇気を振り絞って、言った。

「それもいいかもしれませんね」

「じゃあ」

 コンビニ寄ろうか、と車がセブンイレブンへ吸い込まれた。飲み物何にする? と訊かれて、喉乾いてないからいいです、とこたえたら苦笑いしてコーヒーと水を掴んでレジへ持って行った。じゃあ行こうか、と金澤さんが呟いて、鍵を差し込んでふと首の角度を変えた。と思ったら、顔を覗きこまれてキスされた。

 それがファーストキスだった。躊躇うことなく舌が入ってきたから、食べられてしまうのかと思った。

 ホテルでは結局最後までできなかった。あまりに激しい痛みのせいだった。申告しなかったことを咎めたり、驚いたり、戸惑ったり、という過剰な反応はなく、そうか、と言って「初めての人とするのは、初めてだな」と金澤さんがなぜか照れくさそうに呟いて、それがどこか誇らしげにも見えた。だから、気まずい思いをしないで済んだ。

 四十代の人の肌はどこか和紙のようにさらりと乾いていた。翠ばかり汗をかくので、「恥ずかしい」と濡れていない背中を叩いたら「汗っかきなのか、エロいな」と満足そうな顔をされた。

 仕事の帰りに車でどこかに行ってごはんを食べてホテルか翠の家でセックスをする。その繰り返しだった。手料理をふるまったらすごく喜ばれた。いつも家で食べてるくせに、と思ったけれど、こういう関係や場面でそういうことを言うのって無粋かな、と黙っておいた。

 彼氏だとか、付き合っているとか、あまりそういう言葉は使わなかったし、当てはまらないことも承知だった。だから考えないようにして、ただ会ってつながれば気持ちがよかった。不純物が交わらない、とてもわかりやすいやりとりだけを交わしていた。既読がつくつかないとか、彼氏の態度が最近冷たいとか、結婚してくれるのか不安だとか、そんなことでいつまでも小鳥のようにかしましく騒ぎ立てる子たちがままごとで遊ぶ幼児のように見えた。

 金澤さんとの終わりは曖昧だ。神戸の現場に彼が出向になり、初めはこまめにLINEしたり電話したりしていたものの、それこそ、自分がずっと「ばかみたい」と見下していた子たちがしていることをそのまま、五年以上周回遅れでなぞっているだけに思えてふっと体温が下がった。彼の方でも気配を察したのか連絡頻度はすぐに間延びして、年始になっても連絡が来なかったから「ああ終わったのか」とやっと思った。

その二年後に本社に戻ってきたものの、役員に昇進した彼とはフロアが違うから会うことはない。会ったらどうしよう、と時々ばったり出くわすさまを思い浮かべるものの、また彼と寝たいかと言われればよくわからなかった。

 仲の良い同期の女の子・紗枝一人にだけ、「もう終わってることだからね」と念押しした上で彼との関係を話したことがある。ええ、と彼女はどこか悲鳴のような声を上げて口元を覆った。

「うわ……金澤さんってそういうタイプに見えなかった。なんかショック」

「ショック……って、社員に手出してたこと?」

「んー、なんだろ、それはもちろんそうだけど不倫してたとか相手が社内の新卒だとか全部ひっくるめてもろもろ。なんにせよ別れられてよかったね、不倫で深みにはまると大変だよ。私の友だち、奥さんにばれて慰謝料どうのこうので激揉め真っ最中でさ。聞いてて本当に滅入る」

 眉をひそめて、唇を尖らせて話す紗枝にはけして他者のトラブルを面白がるようなニュアンスはどこにもなかった。ただただ、不愉快そうに眉間と顎に力がこもっていた。

ふと、顔に西陽が差すようにして、こうこうと顔が朱に染まっていくのを感じた。

 紗枝は翠が過去のことを懺悔したと思っている。そのていで話したのだからあたりまえだが、翠にはその意識はなかった。黒歴史とも、後ろめたい過去とも、捉えていなかった。

むしろその逆だった。だから話したのだ。

 社内の誰もが彼の仕事ぶりや設計の実力を認めている。紗枝もその一人だった。「金澤さんの昔のパース見たら緻密過ぎてひっくり返っちゃった。神業って感じ」と目を輝かせていた。

 紗枝を選んで打ち明けたのは、仲の良さや口の堅さを信用して、というよりも、少しでも羨ましがられるんじゃないかというくだらない思惑があったからかもしれない。結果は、汚泥でも見るような表情で金澤さんについて罵られただけだった。言わないでいてくれただけで、きっと翠のことも愚かだなあと憐れんだことだろう。

 紗枝はゼミの後輩と四年付き合って、旅行先の北海道でプロポーズされて、いまでは毎日同じ家で暮らしている。同職種だから二人とも多忙だけど、そのぶん理解が深いし互いのストレスや過労をいたわりながら暮らしている。羨ましいとか妬ましいとかというよりも、額縁に飾られた異国の風景画でも見るような気持ちで眺めている。確かにこの世に存在しているのだろうけれど、いったいどこにあるのか、どうしたら辿り着けるのかてんでわからないまま、毎日横目で通り過ぎているような。

「まあさ、そういう付き合いって良くはないとは思うけど、真木ちゃんはまだ若いうちだったのは不幸中の幸いだと思うよ。予防接種っていうか、ワクチンみたいなものだと思えばさ」

 彼と付き合ったあと、関係を持った人は軒並み相手がいる人ばっかりなんだよね。そうぶちまけたら、この子は今度こそ翠のことも道路にへばりつく吐瀉物でも見るような目で見るのだろうか。頭の中でちらと想像だけして、「そうかも」と薄く返事をした。

 

「私の家に来ない?」と初めて美青に提案されて、和菓子を買って行って錦糸町のマンションを訪れた。

「いらっしゃーい」

 生成色のエプロンを身に着けた美青が迎えてくれた。通されたリビングには、酢飯の匂いが満ちていた。

「あ、お寿司……?」

「手巻き寿司にしようかなって。私、翠ちゃんみたいに料理うまいわけじゃないから、失敗がないのってこういうのかなあって」

「えー、嬉しい。華やかだね」

 ソファーで待つように言われて座ると、テレビ台に乳白色の小さな壺が置いてあるのがすぐ目についた。言及した方がいいのか、それとも、言われるまでは触れない方がいいのか。

 自分だったら、思い出を聞いてほしい。そう判断して「綺麗な色だね」と言った。代名詞を使わなかったのに「でしょう、ありがとう」とすぐに反応が返ってきた。

「瑠璃色のいれものも探したんだけど、ちょうどいいサイズのがなくてね。でも、白も可愛いかなって」

「真っ白じゃなくて柔らかい色なのがいいね」

「そうそう。あ、準備終わったからこっちのテーブルで食べよう」

 ダイニングテーブルには、酢飯と画用紙ほどの大きな海苔、そしてたくさんの具材が用意されていた。タコ、イカ、まぐろ、サーモン、茹でた海老、細く切られた錦糸卵。紫蘇や大葉、刻んだ生姜とたくあん、さらには短冊切りの山芋や叩き梅干しもあって大人向けなのがうれしい。「なんか小さい時の誕生日会みたい」と言うと「用意は意外と簡単なんだけど、手軽にゴージャスな気持ちになれていいよね」と美青がエプロンを外しながら言う。

 前に向かい合って座り、手の平に程よいサイズに千切った海苔を載せて、温かな酢飯をほんの少しよそう。紫蘇とまぐろを一緒に箸で摘まんだところで、「離婚しよう、かなあと思っててさ」と美青が切りだした。

 あまり驚きはなかった。美青の話には、夫がほとんど登場しなかった。翠がなんどか「先輩は元気?」と差し向けても、「うん、変わらずかな」と実家のようすでも述べるようにあまりにも淡々としていた。

「元々子供がほしくて結婚したから、彼からは去年あたりから次の子供の話をされたんだけど、ちょっと、受け入れがたくて。もちろん私も前向きには考えたかったんだけど、なんかね。好きな人がいるんだって」

「うあ……そっか」

「なんかすれ違ったっていうより、歩くスピードが私がのろすぎて気がついたら置いてかれて彼が二周めに入ってた、みたいな感じかな。まあ、しょうがない。正直、私も彼にはもう恋愛感情はとっくの昔にないし、家族というよりも連帯責任者って感じがしてたしね。なら解散しちゃおうってことで」

 あんま暗い理由じゃないしそこまで落ち込んでないよ、と美青が微笑んだ。強がりには見えなかった。

 美青の夫にとっては前に進むための別れなのだろう。けれど美青にとってはどうなのだろう。この人は、次の岸辺にたどり着くために、また海に入って泳ぎ始めることは考えているのだろうか。

そもそも前に進むって、なんだ。別なパートナーを見つけて、再婚するとか、子供を持つことなのか。じゃあ、その予定も希望もない翠の人生は、停滞つづきなのか。

「……結婚って、どうだった?」

 適切なコメントが浮かばず、なんだかピントがずれた問いになった。「えー」と美青が首をひねった。

「なんだろう……こうなってしまったけど、彼と結婚してたこと自体はよかったと思ってるよ。でも、もしるりが健康な子供として生まれて生きてたら、死ぬまでずっと一緒にいたのか、って思うと、それはそれでえーそんな人生かあ、みたいなへんな感じする。って、こんな妙な感想聞きたかったわけじゃないよね。ごめん、結婚自体はいいなと思うよ。自分がまたしたいかって言われたら、あんまり具体的には考えづらいけど」

「そう、かあ。私、美青にごはんつくるようになって、結婚っていいんだろうなって、初めて素直に思ったんだよね」

「え、なんでなんで」

 美青がたくあんとイカを海苔ではなく大葉でくるんで食べている。おいしそうだから、真似して大葉を手に取る。

「んー……おいしいねって言い合いながら違う身体で同じものを食べるのって、なんだか……なんだろう……」

 セクシー、あるいは官能的、と言おうとしたものの昼間に言うにはちょっとな、と別な表現を探していると「あはっ、確かにそれってちょっとエッチかも」と美青があっけらかんと笑った。あまりそういうことを口にするキャラじゃないと思っていたから少しぎょっとしたものの、感覚が伝わったのはうれしい。「そういうこと」とうなずいた。

「でも、男とか女とか、結婚するとかしないとかじゃなくても、誰かとあったかいごはん食べるのってないがしろにしちゃだめだなって思った。耳鳴り云々がなくても、どっかで身体は壊してたと思う」

「あの会社は過労がデフォルトだからね。独り身に戻るし、私でよければいつでも相手になるよ」

 美青がにっと笑う。うん、ありがとう、と泣きたい気持ちで相槌を打った。

「美青は……うちにはもう、戻らないの?」

「うん。戻らないかな。いまね、管理栄養士の資格を取ろうと思って勉強してて。このとおり、料理は全然得意じゃないんだけど、とはいえモノをつくること自体は得意だったから、そんなに向いてないわけじゃないと思う」

「ふうん……」

「なんか、全然違うことを始めてみたいなって、前から思ってはいたの。だから、宅建とか看護とか、いろいろ齧っては見たんだけど、食べることに興味が湧いてきたから、管理栄養士。手伝ってるカフェの運営にも役立つと思うしね。というわけでしばらく実家に身を寄せるかも」

「え、東京から離れるの?」

「っていっても私の実家、前橋だからそんなに遠くないんだけどね。ここは夫に譲ることにした」

 吹っ切れた、とは言えなくても、美青の表情の底にはほんのりと明るさが灯っていた。諦めたのではなく、この人は受け入れたんだ、とふと、思った。

「だから、いまほど頻繁には翠ちゃんとごはん食べられなくなるけど……今日よりはずっと手の込んだものをいつかふるまうよ」

「うん。楽しみ」

 実家に身を寄せるということは、再婚の意思はほとんどないということなんだろうか。そんな邪推をして、どこかほっとしている自分が、とてもみにくく思えた。

 本当はずっと前からわかっている。

 金澤さんも――去年の秋に別れた彼も、短い季節を使い捨てるように翠を通り過ぎていった誰もが、翠を愛していたわけじゃない。彼らと過ごした時間は楽しかったし、刺激的だったし、気持ちがよかったけれど、それは彼らがはなから翠とは楽なことや気持ちがいいことしか分かち合おうとしていなかったからだ。家事をしながら流すYouTube、満員電車で聴く音楽、週にいちど開くかどうかのために解約していない映画のサブスク、酔っぱらった帰りにゲームセンターで戯れに遊ぶクレーンゲーム。そういうたぐいのもの。暇潰しの遊具。

 かといって被害者としてふるまうには、その時々の時間を翠が心の底から楽しんでいたことも事実だった。ずっと、自分だけが連れていかれない遊園地にやっと入れたような気持ちだった。もう降りないと取り返しがつかなくなるよと誰かが下で叫んでいても、メリーゴーランドやジェットコースターに乗ることをやめられない子供のような気持ちで、めくるめく景色の数々を貪るように味わった。

 あれは性的搾取だった、自分は被害者なのだと主張することも選べると知っていた。選ばないでへらへらと笑って見せる翠を、どこかじれったそうに紗枝が見ていたことも、覚えている。

「美青」なんだかこの子を呼ぶといつも猫に話しかけるみたいな発音になっちゃうなあ、と思う。

「うん、なになに」

「私さ、前付き合ってた人に、『お前は自己愛が強すぎるから子供を持たない方がいい』って忠告? 注意喚起? されたんだよね。なんなんだろうね」 

 せっかく明るい話をしていたのに、と思いながらも、どうしてかぶちまけてしまった。ああ。子供じみたふるまいにわれながらうんざりする。

 みんながあたりまえのように手に入れているもの。あたえられている居場所。押し出さなくても漕ぎ始める舟。辿り着く対岸。

自分だけが、とひしがれるのは子供のすることだ。だけど、よりにもよって自分の役目じゃなくてもよかったはずなのに、と歯噛みすることばかりなのは、それこそ自己愛が強い証なのか。

 美青はほそい目をめがねの奥で見開いた。「ひどい呪い」と川底の水のような声で呟く。

「第一に、自己愛が強いことと親になる資格……というか親になるかどうかの選択がどうして結びつくんだろう、って感じ。そもそも自己愛が強いことを、まあそれが翠ちゃんの人となりにとって事実かどうか私にはよくわからないけど、正すべき粗みたいに扱うのも、センスがないなあって思うよ。翠ちゃんはその人のことを忘れられないのかもしれないけど」

 学会で後輩の粗末な発表を質疑応答で責め立てる先輩のようにすらすらと並べたあと、美青は哀しげに微笑んだ。それは美青のどんな表情よりも、浮かび慣れているような気配があった。

「そうだね。すごく、最低な人だったんだけどね」

 彼を愛しているからではなく、幸せだった時の自分を忘れられないから、記憶にすがりついてしまうのかもしれない。だとすれば、自己愛が強い、という指摘はそんなにまとはずれなものではなかったのだろう。

「ま、善人だから誰かを好きになる、ってことじゃないからそればっかりはしょうがないんじゃない? 私は恋愛をほとんどしないまま結婚して、それももう終わるんだけどさ」

 心臓に刺した刺青のような鮮やかな記憶を傷だらけの腕で抱えて、それでも、自分の舟を漕がなければならない。誰かの大きな船に引き揚げてもらうあまい夢を捨てられず、水底へ落ちてしまった美しい花や宝石や季節の破片の煌めきのゆくえをいつまでも見送りながら、それでも、同じ場所に留まり続けることなどできない。

「一緒にするなって感じだけどさ。恋愛って、とびきりおいしかった食事みたいなものなのかもしれないね。味わいなおそうと思ってえずいたところで、戻ってこないじゃない?」

「えぐいなあ……でも、そうなのかもね」

 うんざりするような長い、ながい道の途中で、バス停のベンチで休憩をともにする程度の短い間でも、美青と生活を分かち合った。また誰かと笑い合って温かな食事をともにするまで、粛々と歩みを止めない。そんな、奇跡みたいなことがまた起こりうるのかなんて、わからないけれど。

「ねえ、難しくない範囲でいいから……東京を離れても、たまに、しんどい時は連絡し合って手巻き寿司パーティしない? 私、ずっと海苔、切らさないようにしておくよ」

 美青はきゅうりをつまみ食いしながら「すんごくいい、簡単だしね」と笑顔でうなずいた。それは、幼児を「いいこ、いいこ」するような深い慈愛に充ちていて、胸がいっぱいになった。

ピクニックでレジャーシートを広げるみたいに、美青が笑みを深めた。

「死ねないなら、しぶとく生きていくしかないもんね」


昼避行

 

名前があった。牧野枝理、という見失ってしまいそうなほど存在感のないフルネームの上に、金色の小さな冠が載せられてて小さくひかるまぼろしが確かに見えた。

「あ、ママ九時半だよ。受かってた?」

 パソコンの前で放心していると、なるかが隣に割り込んできた。あるよと指す前に目ざとく見つけて「あ、あったあった。合格じゃーん」と声を弾ませる。ぐ、と胸の深いところを押されたように、かっと熱が喉へと急にこみあげてきた。

「お母さん、どしたの?」

「……なんでもない」

 まさか資格に受かった程度のことで泣くとは自分でも思わなかった。感動系のドラマやアニメを一緒に見ていても泣くことがない母親がいきなり涙を流し始めたら動揺させるだろう、と思い、「トイレ行ってくる」となるかの脇をすり抜けた。娘の前で泣くのは気恥ずかしくもあった。

 宅建に、受かった。なるかを連れて、この牢をようやく出られる。


 二年半にわたるマスク生活もようやく終結のきざしが見えてきた。感染病が世界を覆いつくし始めた当初は終わりなど見えるはずもなく、まだほんの九歳だったなるかがあまりにも不憫に思えて胸を痛めたものだが、こうして過ぎてしまえば「意外と短かったな」と思っているのだから、我ながら愚かしいよな、と思わないでもない。

 二年半で大きく枝理の生活は変わった。

 まず、夫婦三人で暮らすのを辞めてなるかとともに実家へ戻った。二度とこの家で暮らすことはないだろうと思っていたが、ほかに選択肢はなかった。もちろんアパートを借りることも考えたが、「ここで暮らせばいいだろう」と父親に呼びつけられたのを断り切れずに転がり込む格好になった。

二つ目は、離婚をした。そもそも実家へ移ったのも、元夫が医師だからで、感染リスクを極力下げるには生活を分けて暮らす必要があった。その結果精神面での擦れ違いがあまりに大きくなり、話し合いの末離婚をした。

マスク生活や、定期的に予防接種を打つことや、なるかが雑に手洗いうがいを終わらせようとするのに目を光らせることは、正直どうだってよかった。もちろん、二〇二〇年の初期頃は不安と恐怖でいっぱいだった。けれど、それも夏にはすぐに慣れた。

 問題は生活そのものだった。

「なるか」

 遥か昔は自分が遊び部屋としてあたえられていた小さな部屋をノックした。なにー、と返ってきたので中に入る。

「お母さん、試験受かったじゃない? だから、こっちの仕事辞めて、溝の口に戻ろう」

「え? お父さんのところってこと?」

「違うよ。お母さんと二人で暮らすってこと。どう思う?」

 なるかはきょとんとした顔で「どう思うって何が」とおうむ返しに繰り返した。確かに、あまりにも形式的な問いだったなと思い直し、「賛成してくれる? それともこのままおじいちゃんちで暮らしたいなら、考えるから」と問うた。言いながら、考えるからと言ったってこの家をいま出なければずっとこの家の子供と孫として自分たちは生活していかなければならないんだよな、と思い、脳が砂時計の中身のように揺れた。

「えー……うーん、車で学校通えてめっちゃ楽なんだよねー。家広いし。でもじいちゃんの前で携帯さわってるとめっちゃなんか言ってくるから、いいよ。お母さんと二人暮らしでも」――前半をはらはらしながら聞いていたので、膝から崩れそうなくらい安堵した。なるかが祖父との暮らしの継続を望んだとしても強硬的に連れていくつもりはあったものの、それは枝理が親にされたことをそのまま娘に同じことをしているだけに過ぎないことは自覚していた。

「ここ、いつ出るの?」

「それは……まだわからない。なるべく早く出たいとは思ってる」

「ふうん。あーあ、お嬢さま生活もこれで終わりかあ。最後になっちとみゆみゆ呼んでいい?」

「いいけど、できたら平日にしてね」

「うん。っていうかお母さんも、友だちは学校ある日しか連れてきちゃだめだったの?」

 なるかの目は父親譲りで、垂れ目の枝理と違ってほんのりと吊り上がっている。ねこのような明るい茶色のまなこを見つめ返しながら「お母さんは学校ある日もだめだったんだよ」となるべく悲壮感が漂わないよう気をつけながら呟いた。冗談だと思ったのか、なるかは「え、やば」と低く返しただけだった。


 結婚を踏み台に家をようやく抜け出したにもかかわらず、その結婚のせいでまた実家に娘をつれて舞い戻ることになった時、この世に神なんていないのかと思って本当に落ち込んだ。

 とはいえ医者として最前線のまさしく戦場で職を全うしている夫に感染病をうつすわけにもいかず、もっと困難な状況にいる人は周囲でもたくさんいた。実家にだけは戻りたくなかったが、元夫の実家は熊本で都内から押しかけることなど到底頼めそうになかったし、マンションを新たに借りるにも「数カ月のことだろうから」と夫に言い含められて、やむを得ず実家を頼った。住むのではなく滞在しているだけ、と言い聞かせているうちに、夫から離婚したいと言い渡された。理由を問いただすと、元々考えていたと苦々しく言い渡された。感染が拡大した時、かなり初期の段階で「別居したい」「実家に戻れないか」と打診されたのは、勤務先からの指示かとばかり思っていたが、単純にこの状況を渡りに船とばかりに逆手にとっただけらしい。

 応じられない、応じてほしい、の応酬が半年続き、感情的に詰り合っては疲弊し、こんなにひどい言葉を投げつけあった人間とまた生活をともにするのはさすがに無理があるなとこちらが折れる格好で離婚が成立した。なるかは初めは大泣きして憔悴しきったようすだったが、二年経ったいまはけろりとして「お母さんも再婚すればいいじゃん。米田ちゃんの家、お父さんは血がつながってないんだってえ」などと言ってくる。

 せめて養育費に加えて家賃を援助してほしい、とも交渉したが、それが難しいのもわかっていたから無理には強請れなかった。「ずっと見ないふりしてたけど、あなたは俺じゃなくてもよかったんだろうし、なるかが生まれてから余計そう感じることが多かった」と電話口で普段無口な夫が鼻を啜りながら訴えるのを聞いたせいでもある。

 実家を出るタイミングがあったとすれば離婚時だった。「彼がマンションを出ていくそうだから」とでも言えばよかったのに、ばか正直に事実を伝えたら「それならこのままうちに住んで、うちの会社を手伝えばいい」と父が決めた。なるかの学校がオンラインから登校へと切り替わった時も検討したが、従業員の一人に車での送迎を業務として父が手配してそれで済んでしまった。出ようと思えば出られたのだが、そのタイミングで母親が乳癌で亡くなり、それどころではなくなってしまったというのもある。

実際、ありがたかったのだ。専業主婦の状態で離婚した自分に職を与え、衣食住を実家に用意してもらって、なるかの世話も買ってくれている。

 けれど、ともかく――ともかく、家を出る。そのためには。

 父と話さなければならない。


 じいちゃん、となるかの前でそうしているように話しかけようとして咄嗟に飲み込み「話したいことがあるんだけど」と声をかけた。

「なんだ」

リビングのソファーで夕刊に目を通していた父親の丸まった背中が少し傾いだ。昔は岩のように大きく見えたものだけれど、さすがに七十を前にしたいまはか細く薄い。それでも、自分を威圧して阻む壁のように思えて仕方がない。回り込んで向かいのソファに浅く腰を下ろす。

「転職しようと思ってる」

「……俺の会社を辞めるのか?」

 すでに声にはとげがびっしりと逆毛立っている。新聞からは目を離さない。

「うん。友達の……伝手で、内定が出そうだから。正直、給与も申し分ないの。だから、父さんの会社は辞めようと思ってる。急でご」

 めん、と続けられずに飲み込むかたちで途切れた。肩が反射でびくりと跳ねる。父親が手のひらで天板を叩いたのだ。自分の頭をそうされたように、強い衝撃を受けた。

「だめだ」

「……どうして?」

「どうしてもこうしてもない。いまお前が抜けたら回らなくなる。よりにもよって経理が抜けるなんてどれだけ社員に迷惑かけるかわかってるよな?」

「それは、わかってます、けど」

 じゃあいつだったら辞めていいの、と尋ねたかったがやめた。辞めることがそもそも父の意向次第になっているということがおかしいように思われたからだ。こんなにも初手でつまずいて、父親に委ねるような訊き方をしようとした自分に嫌気が差した。

「そもそも私が来る前は深山さんが一人でやってた仕事量でしょう? 元通りになるだけじゃない」

「お前が来る前と後じゃ業務量が違う。いまやっと二年分の赤字を補填し始めてるところなのに、経営側のお前が水を差してどうする」

経営側とは言っても別に役員でもなければ給与に色をつけてもらっているわけでもない。経営方針についての会議にも出席していない。もちろん出席したいわけでも名ばかりの役員手当てが欲しいわけでもないが、こういう時ばかり家族経営であること盾に使われるのは業腹だった。

けれど言い返す言葉がついてこない。離婚するかしないかで夫とやりあった時は、「こんなにも自分の中には相手を詰り、謗る語彙が積み込んであったのか」と自分でも驚くほどの勢いで夫に言いたいことをぶつけたというのに、父親の前では全くその勢いがついてこない。夫と比べるまでもなく稚拙な論理をぶつけられただけなのに、どうして根ごとむしりとられて握りしめられている苗のように力なく黙っているのだろう、自分は。

「……とにかく、今はだめだ。明日もあるんだから早く寝ろ」

 父親は最後まで枝理の顔を見なかった。この人はいつも、枝理を人と扱うということがない。子供の時から、ずっと。


【報告です。実家、出ようと思ってる なるかと川崎のどこかに戻ります】

【来月アパートに引っ越す予定 住所は追って送る】

 元夫にLINEしたら、休みだったのかすぐに既読がつき、電話がかかってきた。

「一体どうしたの? 何かあった? 仕事は辞めるの?」

 出るなり矢継ぎ早に問いただされて弱い力で苦笑した。それが元夫の癖なのだ。

「ずっと、出たいとは思ってたんだけど契機がいくつか重なったって感じかな。仕事はまだ辞められてないけど、どうにかする」

「次の仕事とか、どうするの」

「私、宅建受かったの。だから、うちとは別な不動産会社で働くかな」

「ああ……そうだったんだ。勉強してたのか。すげえな」

「もともと知識のある分野だから、そんなに苦労ってほどの苦労はしてないよ」

「まあそうか。で、なんでいきなり実家出たの? 前から思ってたんだけど、あなたと親御さんって別に仲、悪くないよね? むしろ、仲いい方だと思うけど。長く実家暮らしだったわけだしさ。それに、お義母さんが亡くなってまだ二年とかでしょう、出ることないんじゃないの」

 結婚する前、さんざん説明したような気がするのだが、配偶者には何も伝わっていなかったのだろうか。元夫は典型的な医療一家の生まれだが、そこから想起されるようなぎすぎすした雰囲気や厳格さはなく、皆フラットで中立的な感覚の持ち主で放任主義の両親とは程よい距離を保っている。所詮こういう人には、いくら説明しても理解しがたいのだろう。「とりあえず報告だけ。なるかの学校は変わらないからご心配なく」と電話を切ろうとしたら」「いや待って」と元夫が早口に言葉を挟んだ。

「なるか、俺が預かろうか」

「え」

「転職してばたばたするだろうし、引っ越しもあって大変でしょ。正直忙しさは前とそんなに大差ないんだけど、さすがにもう十一歳だったら、なるかも一人でだいたいのことはできるだろ」

「……だったら私といるのと大して変わらないじゃない。それじゃ意味ないと思うんだけど」

「そう、だけど」元夫の口調が歯切れ悪くなった。「まあどうしてもきつかったら頼ってほしい。あなた、最後の最後まで我慢して、最終的にボン! て爆発するタイプだから」

 稚拙な表現でばかにされたような気がしていらだったが、あながち間違ってはないな、と思い黙っていた。

「じゃあ住所決まったら教えて。お金でなんか困ったら送るから言ってくださいよ」と電話が切れた。相変わらず自分のペースで生きている人だなと半分あきれた。もう半分は、こんな人と十年一緒に暮らしていたということへの不思議さだった。

まだ二十二時だった。なるかに電話を替わってやればよかっただろうか。まあ先々週の日曜日に会っているしまあいいかと思いなおす。しなければならないことなら山のようにあるのだ。

ブックマークしていた転職サイトを開く。検索欄に【宅建】と打ち込むと、すっと背すじが伸びた。こんなところで足を引っかけられて阻まれている場合じゃない。なるかと二人で、生きていく。


小学三年生の頃だろうか。実家が会社経営しているということが、おそらく父母経由でクラスメイトにもばれていじめられたことがあった。自慢していたどころか親の仕事の話になっても「うちのお父さんもサラリーマン」と話を合わせていたので、あまりに理不尽だと思い母親に泣きついた。靴を隠したり悪口を言い立てる級友たちの言い分は、「うちらのことばかにしてる」「絶対バカにして笑ってたんだよ」という、あまりに被害妄想的なものでそれも悔しくて泣いた。それ自体は、もしかしたらあれくらいの年代の女子小学生のなかではよくあることなのかもしれない。

 けれど母親伝えで事態を知った父親はふんと鼻で笑った。そしてわざわざ子供部屋にやってきて「いいか枝理」と説教を垂れ始めた。「嘘をつくからこんなつまらないことを言われるんだ。明日学校でちゃんと言ってやれ。私のお父さんは不動産会社を経営する社長です、会社に雇用されているつまらないサラリーマンとは全然違う人種です、ってな」

説教をしているわりに、父親は湯船に浸かる人のように鼻の穴を膨らませてどこか気持ちちよさそうだった。

「……雇用って何」

「会社に雇われてるってことだ。言われた仕事をこなしてお金をもらうだけの働き方ってことだな。うちに呼んで、家を見せたらいい」

 当時枝理たちは広尾のタワーマンションに住んでいた。別にプールがあるわけでもメイドや執事がいるわけでもないのに呼んだって余計ばかにされるだけだ、というようなことをもごもごと口にしたら「バカだな」と一蹴された。「まあ、おまえはこの家が普通の家と思ってるみたいだからな。連れてくればわかるだろ。母さんに段取りさせる」

 そういって、枝理の誕生日会と称してクラスメイトに招待状を出した。母親が凝った切紙でつくったカードはクラスでも話題になり、びっくりするほどたくさんの子が詰めかけに来た。もちろん枝理の誕生日を祝うためではなくどんな家でどんな催しがされるのか、という純粋な、もしくは意地悪な野次馬根性で集まった子たちばかりだった。

 あれほど盛大に父親が枝理に対してお金を費やしたのは初めてのことかもしれない。

 わざわざレストランの料理長を雇ってできたてのローストビーフやグラタンをふるまい、ウェディングケーキのミニサイズ版のような豪奢なケーキを取り寄せ、なんの伝手を使ったのか、きわめつけには当時売れっ子だったマジシャンのタレントまで呼んでショーまでした。一時間のショーをしてもらうのに父親が払った額をあとから知って、本当に言葉が出ず、絶句した。

父親が用意したものが豪華で見栄えするものであればあるほど枝理の気持ちは冷えていったが、クラスメイトたちはやんややんやの大盛り上がりで、「枝理ちゃんってすごい」「お父さんが社長って、こんなにすごいことをしてもらえるんだ」と手のひらを返したようにまっすぐ賞賛し、羨み、悔しがっていた。復讐してやった、という爽快感などどこにもなかった。早く終わってみんながこの日のことを忘れてくれるにはどうしたらいいかばかり考えていた。

すべてを取り仕切っていた父親は悪童たちが見せるリトマス紙のように素直な反応を見て満足げだったが、当然「来年も呼んで!」「次はジャニーズの誰誰がいいなあ」とせっつかれるはめになった。非難の気持ちも込めて父親に言いつけると、「来年はシンガポールでお祝いするから招待できない、とでも言っておけ」とにやりと笑った。「そう言われることくらい俺はわかってるんだよ。こういう言い訳があるからあれだけ豪勢に大盤振る舞いしたんだよ」

どうだ頭がいいだろうと言わんばかりに父親が堂々と言うのを聞いて唖然とした。

嘘をつくからこんなことになるんだ、と言っていたのはお父さんなのに……と言い返す勇気はなく、こっそりと母親に告げ口した。母親は困った顔で「まあ、お父さんは見栄だけをエネルギーにここまで頑張ってきたような人だからね」と呟いた。その時はあまりぴんとこなかったが、歳を重ねるにつれて、母親が言った意味を理解した。

同じ学年で誰も同じ受験者がいない難関中学に合格するまでの三年間、心臓を氷水に浸されているようなつねにキリキリした感覚で過ごした。「また枝理の家で遊びたい!」「芸能人と会いたい」と級友にせがまれるたび、「塾に行かないとだから、ごめん」「お父さんが忙しくて、頼んでも断られてるんだ」などとかわしつづけた。また陰口を叩かれているのを見えないさざなみが押し寄せるがごとく肌で感じたものの、勉強に集中することでどうにか気にしないふりをした。

親が会社を立ち上げていて、社長の娘で、タワーマンションに住んでいること。特に大学生の頃は、「東京に実家があって、しかも港区なんていいなあ」と地方から出てきて奨学金を借りている学友にため息をつかれることが多々あった。もちろん、お金に何不自由なく暮らしていること自体は、ありがたいことだと、思っていた。でも。

――親から離れて暮らせる理由があるあなたたちの方が、うらやましい。

けっして言葉に出していうことはできない言葉が、ずっと、喉の奥で引っかかってくるしかった。


新しい住居はかつおぶしの出汁のいい匂いがした。

リュックをどすんと下ろすなり、なるかはくんくんと鼻を鳴らし「くさ」と呟いたが、それ以上は文句を言わなかったのを見ると受け入れはしたらしい。そもそもうどん屋に勤めることにしたのは、なるかが麺類の中で一番うどんが好きだからなのだが、それを言うのは押しつけがましいだろうと自戒して黙っておく。

濃い醬油煎餅のような色合いの丸いちゃぶ台、タンス、そして色あせた畳。最低限の家具は取りそろっているし、広さは七畳だからテーブルを寄せれば二人分布団を敷けないこともない。枝理たちが来る前に急いで掃除したのだろう、つんと漂白剤の匂いがする。

「っていうかさー大丈夫なの?」

「何が」

「これってさ、夜逃げでしょ?」

 小学五年生の娘からおとなびた単語が出てきて少したじろいだ。そして実際にこれは夜逃げだ。まさしく。あきらめて苦笑いする。

「そうだね。夜逃げ。お母さんたち夜逃げしちゃった」

「ウケるー、なんかドラマみたい」キャッと猫のように短く笑ったあと、なるかは頬に笑みを残したまま「じいちゃん、やばいかな」と呟いた。さあねえん、とわざと軽さを装って受け流す。

 なるかの夏休みが始まった七月十七日の夕方、えいやと最低限の荷物をまとめて家を出た。「ちょっと出かけてきます」と形式上だけ声をかけて。

 行き先は熱海のうどん屋だった。住み込みで時給八百円、家賃はなし。こんな好条件の場所はない、と思い、すぐに求人にあった電話番号に問い合わせた。わざわざ東京から行けば怪しまれるかと思いきや、「娘が夏休みなもので、旅行がてらに」と言ったらすぐ納得してもらえた。

 いまごろ父親はどうしているだろうか。警察にでも連絡していたら面倒だ。部屋の書き置きがあるから、万が一そうだとしても単なる家出として取り扱われるはずなのだけれど。

「大丈夫だよ。わかるわけないんだから」

「だよねー。なるかたちうどん屋さんの上に住んでるんだよ。あんなおっきなタワマンに住んでたのに……逆シンデレラじゃん」

 ぎゃはは、となるかが自分で言って自分で笑っている。思春期の入り口に立って、生意気なことを言うようになったけれど、まさしくこの子は私にとっての唯一の太陽なのだ、と思ってぎゅっと抱きしめた。暑い! と枝理の中でなるかがくぐもった声を上げて逃げ出そうとする。


 プープーと通知がうるさい。ぎょっとして携帯を見たが、浮かんでいたのは元夫の名前だった。見たい名前ではなかったにしろ、最悪の事態ではないようだ。

 それはそうだ。父親の電話番号も実家の電話番号も、あらかじめ着信拒否にしている。

「もしもし」

「あああやっと出た。いまどこにいるの? 俺のところに牧野さんから連絡があったんだけど……あなた、なるか連れてどこにいるんですか。皺寄せがこっちに来て困る困る」はあああと滝のようなため息がノイズ音をがさがさ言わせながら聞こえてきて思わず耳を離した。

「それはすみませんね。知らないんだから知らないって言っておけばいいでしょ」

「それであの方の気が済むわけないでしょ。いいから戻ったら? 本当に取り返しがつかなくなるよ?」

 他人となった男の言葉だが聞き流せなかった。「取り返しがつかないって、何」と棘のある口調でおうむ返しに問い返す。おお怖、と元夫が低く呟いた。

「まあ……わかんないけど、縁が切れるとかそういうこと。勘当するとか言い出しかねない剣幕でしたよ」

「勘当なら、願ったりかなったりだよ。もういい? まだ夕飯食べてないの。なるかは元気だから心配しないで」

 替わってよ、と言われるかと思いきや、「ああうん、それならいいんだけど」と歯切れが悪いまま電話は切れた。離婚時に「お父さんなんか大嫌い」と泣きわめかれたのがいまだに響いているのだろう。浮気や不貞が離婚理由ではなかったのでかすかに憐みの情もないでもないのだが、なるかの心が何よりも大事なんだから、と言い訳して特に元夫へのフォローをしないで二年経った。携帯を置いて振り向く。なるかは本を読んでいたが、ひらいているだけだろう。

「ごめん。ごはんにしようか」

「おなかすいたー」

「親子丼にするね」

 手早く冷蔵庫の中から材料を取り出す。ワンルームなので電話の話は筒抜けだろうしなるかも相手に察しをつけているだろうが、何も言わないでいてくれた。ごめんよ、と思いながらいつもより多めに砂糖を入れる。そういえばあまりにばたばたしていたのでみりんを買い忘れていた、買わねば。

「いただきます。ごめん、二日連続丼もので」

「いいよ、お皿洗い楽だし」

 なるかがクールに言う。この子のこういうところ好きだなあ、救われるなあ、と思うものの、おそらく元夫譲りだと思うとほんのり苦笑いしてしまう。

「ねーお母さん」

「なあに」

「夏休み終わったら家、戻るの? さすがにここから学校いけないでしょ」

 なるかの目にはほんのりと不安の色が灯っていた。「電車乗っていくの、だるいなー」とひしゃげた声で呟く。

「さすがにランドセル背負わせて電車乗せられないよ。ちゃんと、歩いて通えるところに引っ越す」

「それってじいちゃんちじゃなくて川崎に戻るってこと?」

「うん、そのつもり」

「ふーん」

 離婚の後すぐに夫は横浜に家を移しているから、元の家と近かったとしても気兼ねすることもない。

 転職先ならすでに決まっていた。川崎市高津にある中堅どころの不動産会社だ。待遇もアクセスも希望通りだった。社宅も用意してもらえる。年齢やシングルマザーであるという不利な条件があったものの、業種経験者ということで優遇してもらえた。ただ、空きが出るのが九月からということで、すぐにでも働きたいと交渉してみたものの、最速でも九月一日からの出社になるとのことだった。

 その間に親の会社を辞めて、家を出る許可を取る。できなくはないだろうけどなんて面倒くさいんだろう、と気持ちがめげかけた時、ふ、と思った。

 許可。自分の人生はいつまで、その枠組みの中に組み込まれ続けるのだろう。父親が許してくれるような選択肢を選んで、請うて、したてに出て、父親の顔色を窺ってどうにか許しを得る。大学も、就職も、結婚も、全部そうだった。この先も……たとえばなるかがうんと大きくなって高校や大学を選ぶ時も父はきっと口を出してくる。

「なんでそんなものを選んだんだ、ばかなのか」

「くだらん」

「そんなことできるわけがないだろう」

 自分に降りかけられた数々の矢の数々からなるかを守りたくても、そもそも父の傘下にいる以上は、限界がある。わかっていて動けずにいた。だって。

 ――お父さんが怖いから。

 あまりにも子供じみた、ばかげた理由だ。いまも、父が鬼のような形相で自分たちのことを探し回っているのではないかと想像するだけで内臓を手で直接引き絞られているような冷たい幻痛に襲われる。けれど、いつまでもあの家にいるわけにいかない。

「なるちゃん」

「なにー」

「榮澤学園の受験、本当に受けたいなら受ける、でいいからね。ほかに行きたい学校あるなら、お母さんそっちでも応援するから」

「あーなんだっけじいちゃんが言ってたやつ? その時テキトーに試験受けて落ちればいいと思ってたわあ。いままで忘れてたんだけどむしろ」

 じゃあ別の中学がいい、男子がいるとウザいから女子中がいい、と途端になるかが饒舌にしゃべりだす。ふと、十一歳の頃の自分のそばにこの子がいたらどれだけ慰められて勇気づけられただろう、と思い、そんなことはけしてかなわないということに、しばらくひしがれてしまった。


 日々はなまけものの小学生の描く絵日記のように単純明快に過ぎた。

 朝は七時に起床。眠たがるなるかをどうにか起こして朝食を食べさせて八時から階下の厨房に立つ。十四時から十七時までは休憩で、十九時に上がり。そのサイクルだった。

「お母さんがうどんなんてこねられるのお」などとなるかに憎まれ口を叩かれたが、麺を打つのはもっぱら親方の役目で、女将が茹でて、できあがったものに薬味を載せてお客のところへ運び、片付けるのが枝理の役目だ。普段は二人でやっているが観光シーズンだけパートを募集しているのだという。普段どういう仕組みで二人で回しているのかが心底不思議なほど、開店から閉店までやることは尽きなかった。汗だくになって店内を駆け回った。

 なるかはといえば、女将からもらった古い自転車に乗って出かけまわっている。とはいえ暑さも相まって大概図書館へ行って本を読んだり宿題を読んだり昼寝をしたりして過ごしているようだ。「この辺の子ってやっぱ田舎の子だからちょっと服ダサいんだよねえ」などと言うのでたしなめておいたが、心の中では遊び相手を欲しがっているのはわかっていた。

夜になれば元の学校の友だちとLINE電話をしながらオンラインゲームをしてコミュニケーションを取れるのでそれなりに楽しんでいるようだが、それでもストレスは発散しきれないのだろう、ぽつぽつと腕や腹のあたりに赤い発疹ができていた。最初はダニかと思っていたが、枝理にはできていないので精神的な症状のようだ。口では「別に。じいちゃんいないしこっちの方がマジで楽、まあうどんは飽きてきたけど」と言っているが、急に環境を変えられて心が追いついていないようだ。

どうしたものかと思い、女将に相談したら「夏期講習はどう? 常連さんで面白い塾の先生がいるのよ」と言い出した。「塾っていっても、お部屋を貸し出して……フリースペースっていうの? そこで子供が勉強できるようにしてるんだって。中学生が多いみたいだけど、なるかちゃんおとなっぽいし、そういう場所の方があってるんじゃないのかねえ」

「へえ、そんな場所があるんだ。友だちができるかもしれないし、そこなら図書館よりも退屈しないかもしれないですね」

「じゃあ、三橋さんにもなるかちゃんのこと話しておくわ。そんなにお月謝も高くなかったと思うし」

 その昔は高校の先生をしていて、隠居生活をしながらその塾を開いているそうだ。女将の息子さんの昔担任してくれていたらしい。

「まあ、すっかりじいさんだけど自由で面白い人よ。友だちつくりに行くくらいの気持ちで、通わせたら気分転換になるんじゃないかねえ」

「ありがとうございます」

「このへん、子供の娯楽がないからねえ。ずーっと外にいるんじゃ暑いだろうし、気にはなってたのよ」

 申し訳なさそうな顔で笹の葉っぱみたいに肩をすくめる女将に丁重に御礼を言い、夕食の時それとなくなるかに話してみた。嫌がるかと思いきや「行く行く」と二つ返事だったので、よほど話し相手に飢えているのかな、と罪悪感が少し沸いた。

「明後日お休みだからどこか行く? 熱海にいるのに温泉行かないんじゃもったいないし、日帰りで温泉でも行かない?」

「えー……それは別にいいや。プールならいいけど」

 小五じゃ親とお風呂にはもう入りたくないかあ、と少し落胆したものの、海のそばにある温水プールに行くことにした。水着になるなんて本当にいつぶりだろう。多少は余分の肉が落ちたし、そこまで体型に懸念はない。「イオンで水着探そうか」というと、なるかが「おいっすー」と携帯に目を落としたままうなずいた。


 地元民らしき家族でごった返していたが、とはいえ地方の人混みなのでうんざりするほどでもない。浮き輪を一つ借りてひたすら流れるプールでなるかと二人流されていた。

「ねーなんでプールの水って普通の水より水色なんだろ」

「底の色を反射してるんじゃない?」

「ううん、青くないよ白だよ。じゃあ底が白いコップに水入れたらこんな色になるの?」

「ならないね。不思議だね」

 プールの水はぷりぷりと弾力があって体をつるんと吞み込んだ。その感覚があまりにも懐かしい。赤ちゃんと幼児の境くらいの男の子をアヒル型のミニボートに乗せた親子が通り過ぎ、昔三人でも海やプールに行ってたなあ、と思いだす。

「こっち来てからなるかは日焼けしたね。って、お母さんもか」

「えマジ? 図書館の中にいるから大丈夫かと思ってたけど……窓際で読んでるから日焼けしたのかなーやだなあー」

「日焼け止め、途中で何回か塗り足さないと効果薄れちゃうからね」

「えーだってあれ汗かいたらベタベタするじゃん? プールだったらまあ水で流れるしいいんだけど」

 お昼は売店のカップラーメンを買って食べた。こういうところで食べるとやけにごちそうって感じだね、と言いながらずるずる啜っていると、なるかがぽつりと水滴を落とすように言った。

「おじいちゃんってさあ、お母さんのこと嫌いなの?」

「……どうなんだろう」こんなところでそんなことを訊かれるとは思わず、動揺しすぎて反射的に半笑いを浮かべてしまった。「そう見えてた? まあ、お母さんがおじいちゃんを嫌ってるように見えたなら、まだわかるけど」

 なるかは首をひねり、「嫌ってるっていうか怖がってる感じ」と言った。正直すぎる感想に、今度こそ苦笑いするほかない。娘から見てもそう見えていたか。

「……おじいちゃんはねー、なんというか……嫌われてるわけではないけど、子供のころから怒られることばっかりだったからねえ」

「でもお母さんって真面目じゃん。怒られるような子供だったってこと?」

「悪さをして怒られる、とかではなかったかな。期待通りにできなくて怒られる、って感じかな」

 なるかは顔をしかめて「虐待じゃん」とぴしゃりと言った。「そういうのさ、ハラ、ハラ……ハラスメントっていうんだよ。一学期に総合で習った」

「ふうん、いまの小学生は進んでるねえ」お母さんのんきすぎるよ、となるかが顔をしかめた。

「まあわたしは要領いいからやべえ怒られモード発動する、って察知したら受験勉強しなきゃ~って逃げてたけどさ。でもおじいちゃんのことはウザいなって思ってたよ」

「ウザい、ねえ」

 家族に対して――実の親に対してそんなふうに軽やかに評して身をひるがえすことができていたら、何かが違っていただろうか。少なくとも大人になって実家に戻って親の会社に経理社員として組み込まれることもなかっただろう。

「そういえばお父さんからLINEきた? どこにいるか訊かれた?」

「あーうん。あ、チクられたらやばいから教えてないよ。塾とか川の写真送ったら羨ましがってた」

「そう」

「お母さんたちって離婚してからの方が仲いいよね?」

「……そう?」

 今日のなるかはやたら鋭い角度で切り込んでくるな、と思いながら視線をカップ麺のまるまったエビに逃がす。なるかは大きくうなずいた。

「うん。なんかさ、一緒に暮らしてた時は……なんか、じいちゃんと暮らしてる時みたいだったよ、お母さん。あんまちゃんと意見言わないし」

 返す言葉に詰まり、「そっかあ」としか言えなかった。なるかは空気を読んだのか「早く川崎引っ越したいねー」と呟いた。


 なるかにねだられて買ったパピコを二人で分けながらうどん屋に帰ると、すでに閉店時間なのに店内に照明がついていた。路地裏をかけていく鼠の影でも見てしまったように、厭な予感が胸を走る。ぎゅっとなるかの手を握った。

 中に入ると、案の定父親がカウンター席に座り、斜め向かいの壁際に困ったような顔をして女将がもたれかかり、親方はむっすりとした顔で仕込みをしていた。ゆっくりと父親が顔を上げ、どこか枝理の頭の後ろの方に目をやった。低く、押し潰したような声で言う。

「遊びまわってきた挙句、やっと帰ってきたのか」

 地獄の底から響くような声色だった。めまいがした。

「枝理ちゃん、いまお父さまがお見えになって……連絡おそくなってごめんね」

 異様な気配を察知してか、親方が目で制するのを無視して女将がいつもより早口で言う。なるかが枝理の後ろで身体を硬直させている。一瞬、目を硬くつむった。元夫が教えられるわけもないから、興信所でも使ったのだろう。

「ここの二階に住んでるんだってな。さっさと来い。わざわざ迎えに来てやったんだ」

「お父さん。遠くまで来て悪いけど帰ってもらえますか。私は……もう、あの家には帰らないつもりでここにきてるの」

 親方が女将となるかを連れて奥へ入っていく。なるかと目でしっかりとうなずきあった。何かあればすぐいく、と言ってくれているのだろうが、自分が父親を制さなければ。

「は?」

 威圧するように父親が声を発する。耳がびりびりする。やめて、こわい、謝って言うことを聞いてお父さんの機嫌がなおるまで静かにしていなくちゃと小さい枝理が足元でうずくまる。でももう自分はとうに自立したおとななのだ。

「会社、急に穴開けてごめんなさい。それは本当に申し訳ないと思ってる。でもそれはお父さんに悪いって思ってるっていうより、社員さん全体に迷惑かけたことへの謝罪だから」

「……何を、たわごとを」

「なるかの学校の送り迎えとか、そもそも住まわせてくれたこととか、金銭的な援助とか、本当にありがとう。でも、もういいかげんお父さんと離れたいと思いました。だからもう、私たちのことは放っておいて」

 父親の顔が怒りのあまり青黒くなっている。本当に、民話に出てくる青鬼のように恐ろしい。この男が……はたから見ればやせ細った老人でしかないこの人が、私は本当に、怖くて、こわくてたまらなかった。王と侍従の関係性から出られることなど一生ないのではないかと思っていた。

「私、お父さんのことずっと怖かった。大人になったら関係が少しは変わるかなと思ったけど、子供の頃からなんにも、変わりませんでした」

「怖いって、別に俺、この二年でおまえやなるかに怒鳴ったりしたこと、ないだろうが」

「それは、私たちがいつも顔色窺ってたからだよ。お父さんの機嫌があの家のルールそのものでしょう? もう、その中でしか生きられないのはいやなんだ。ごめん、帰ってください」

「枝理」

「帰って」

「枝理……おまえ、あんまりふざけるなよ」

「ふざけてない。私は、お父さんと……あの家と、縁を切るつもりで、なるかとここにきてるから」

 父親はぱんとばね人形のように立ち上がった。殴りかかってくるのではないかと思ったが、そのままぴしゃりとドアを開けて出ていった。車に向かっていく針金人形のような影を呆然と見送る。最後まで父親と目が合わなかった。そもそも自分も父親の目をきちんとは見ていなかったのかもしれない、と思う。

「……枝理ちゃん、大丈夫か」

 親方が奥からそろそろと出てきた。わっとなるかが泣きながら飛び出してきて抱き着いてきた。女将まで子供のような顔をしてべそをかいている。あまりの剣幕で会話していたから筒抜けだったのだろう。

「遅い時間に、ご迷惑おかけしてごめんなさい。もしまた父親が来るようだったら、私、」

「ちょっとちょっと枝理ちゃん、あと二週間でしょう? 辞めるなんて言わないでよう。うちの人が追っぱらうから」

 追っぱらうは枝理ちゃんの前じゃ失礼だろう、と親方がぼそっと呟き、張り詰めていた空気がやっとたわんだ。「泣いたらおなか減った」となるかが照れ隠しなのかぶっきらぼうに言い放つ。

「じゃ、おいなりさんでも食べる? ごまをまぶした酢飯詰めてあるのよ」

「わー、食べたい」

 いそいそと女将が冷蔵庫からタッパーを取り出す。四人ならんでカウンターに座り、無言でいなりずしを食べた。冷えたお米の粒が、噛むごとにじゅわっと甘い出汁がにじんで力が染み渡るようだ。

みな思うことがあったが黙っていたのに「なんかさ、うちら鬼退治終わった後の打ち上げみたいじゃない?」となるかが無邪気に言い放ち、間を置いたあと笑い声がはじけた。普段無口な親方が、米粒を飛ばす勢いで笑っているのがなんだかうれしかった。

「ねえねえ、もしまたじいちゃん来たら警察呼んだら?」

「さすがにそれは……容赦がなさすぎるかも。でももう来ないような気はするなあ」

「そうねえ。でも私たちの方がやや若いから二人がかりだったらなんとかなるかも。ねえお父さん」

「いやあ……常連さんの目もあるからなあ……」

 枝理の父親を倒す、という意見でなぜかなるかと女将が一致しているのがおかしかった。出汁がしたたるほどつゆがたっぷりと染みたいなりずしは、涙が出るほどおいしかった。


 うどん屋のパートを辞めるまで、父親が熱海に姿を見せることはなかった。なるかは夏期講習に通ううちに仲良くなった中学生の女の子と意気投合したらしく、引っ越したら手紙を出すのだと張り切っている。本当にこの子は自分の子なのかと思うほどの行動力と開示力だなあ、と感心するのと同時に、見た目だけは子供の頃の枝理にそっくりななるかがけして自分のミニチュアではないことがじんわりとうれしかった。

 最後の日、女将が「商店をやってるお客さんがくれたから」と手持ち花火に誘ってくれた。

「あーあ、せっかくもうちょっとで涼しくなるのに川崎に帰るのかぁ」

 なるかがぶつぶつ言いながら仏壇のろうそくを使って火をつける。ホースから吐き出される水のごとくの勢いで光の滝が勢いよく生まれだす。

「新しい部屋、カーテン水色にしたいなー」

「ニトリで見ようか。あ、やっぱ高いから通販にしようかな」

「ちょっとなるちゃん、サンダル燃えそうよ、向き変えて、向き」

「ぎゃあああ」

 きゃあきゃあ言いながら花火をせっせと消費していく。

あと少し、娘と二人で、遠い海辺の街で夏休みを過ごす。花火を地面に向けていると、なるかが「お母さん、地球を指揮してるみたい」と笑った。


ははたち


 宝石や花をかたどったような美しいケーキがショーケースの中で選ばれるのを待ってちんまりと並んでいた。

同居人であり、今日誕生日を迎えた館野春の趣味がケーキの趣味がわからず、勘でショコラオランジュタルトとニューヨークチーズケーキ、それから自分の好みでモンブランを注文した。三つしか入っていないケーキの箱は、重心が安定しない。両手で底を固定して運ぶことにした。

 カードキーで部屋に入る。リビングに入ると、テーブルにたくさんの料理が並んでいた。

「おかえりなさい」と館野がレンジから皿を取り出してテーブルに置く。彼女の好物の小籠包だ。「今日伊勢丹のデパ地下で豪遊しちゃった。だからちゃんとお皿移し替えたよ」

「超おいしそう。ケーキ買ってきたから冷蔵庫入れてくれる?」

「ん、ありがと。楽しみ」

 館野がスリッパを鳴らしながら箱を持って行ってくれる。エビチリや春巻き、八宝菜、天津飯まである。「今日は中華の気分だったからさ」と館野が箸ととりわけ用の菜箸をテーブルに置いた。

「あ、昨日ワイン冷やしておいたからさ、開けようよ」

「見た見た。ありがとうね」

 ワイングラスはないので普通のコップで乾杯した。

「誕生日おめでと。あ、そのワンピース新しいね。伊勢丹で買った?」

「ううん、通販で取り寄せたのが届いたからこれ着て買い物に行ったの。誘惑が多かったから何も買わないで通りすぎるの大変だった~」

 いつもは黒かネイビーのワンピースをばさりとかぶっていることが多いのに、めずらしく深緑のサテンのような艶のあるノースリーブのワンピースだった。ピアスとネックレスは喪に服すような黒真珠の揃いのセットを合わせている。

「ブラックのパールなんてめずらしいね。似合う。もしかしてそれもおろしたの?」

「これは昔親から譲り受けたの。若い時は使い時がわかんなくてずっとしまってたんだけど、この歳だと普段使いしても浮かないなと思ってつけてみた」

「うん、白だと冠婚葬祭感が出ちゃうっていうか品よくまとまりすぎるから、黒の方がいいかも」

「だよね」

 鮮やかなオレンジ色のエビチリを口に運ぶ。さすが、百貨店で買っただけあって本格的なお店で出された料理のようにおいしい。「私の誕生日の時もこのお店がいいな」と呟くと、「じゃ、また買っとくよ」と館野がにやりと笑う。

「四十歳かあ」

 館野は四月生まれで、澪は七月生まれだ。同級生だからこそ、自分の年齢についてあれこれ所感を気兼ねなく言えるんだよな、と思いながら口にする。

「三十歳ぐらいの時は、四十歳までにはさすがに人生の方針がどっしり決まってるもんだと思ってたな」

「なあに、それ」館野が春巻きを頬張りながら首を傾げる。

「なんて言えばいいんだろう……人生のことがわかりかけたり、諦念っていうのかなぁ。欲望から離れて水のようになめらかに生きてるんだと思ってたよ。体感的にはまだ、二十九歳の時に『次は三十歳かぁ』って思ってた時と全然変わらない」

「んー……もうちょっと大人になってるって思ってた、みたいな意味? それは確かにそうね」

「かな。いつまでも自分の中身が二十九歳で止まってるってやばいよね」

 館野はワインを手酌で注ぎながら「私だってそうよ?」と笑う。「結婚して子供を産むっていう選択肢をしなかった女はみんなそうじゃないかな。もしかしたら子供産んでても永遠に二十九歳くらいの気持ちで生きてくのかもね」

「五十歳になったら『まだ三十九歳ぐらいのつもりだったのに』とかって言ってるのかも。なんか、リアルに言ってそうでなんかやだな、言いながらぞっとした、いま」

 あはは、と館野が大きく口を開けて笑う。

見た目だけで言えば、自分たちはおそらく四十歳には見えないだろう。とはいえ世間からすれば、というよりも二十代の頃の自分たちから見れば立派なおばさんであることに変わりはない。そう思うとなんだか肩というよりも膝の力がかくんと抜けそうになる。

 別にずっときれいな見た目をキープして「お若いですね」「とてもそんな歳には」と驚かれたいわけじゃない。もちろん、社員や知り合いに「え、中川さんって今年四十歳なんですか。見えないですね」と言われればそれなりに嬉しいのだけれど、それをいちいちありがたがっている自分がくだらなく思えてうんざりする。

かといって「もう土俵降りたから」と見た目に取り繕うことをすべてなげやりに放棄したいわけでもない。ただこのさきもずっと「○歳にしては自分はどうなのか」「実年齢よりは若く見えているのか」ということから逃れられないのかと思うと、頭を掻きむしりたくなるほど面倒くさくてたまらなくなる。

「ねえ、おなかいっぱいになったしケーキ出していい?」

 返事を聞かずに館野が冷蔵庫へ向かい、箱をテーブルに置いた。中を開けて「わ、可愛い……けど重そうだからお風呂入ってからにしようかな」と箱を閉じた。思わず笑ってしまう。

「それそれ、私もお店でケーキ選びながら思った。なるべく軽いのがいいなあって」

「ごめん、澪のチョイスにケチつけてるとかでは全然ないよ。でも、やっぱりケーキ見ると真っ先に『食べきれるのかなあ』って思っちゃうね、最近は」

 ごはん片づけちゃうね、と館野が言うので「主賓なんだから休んでてよ」とソファに押しやって、ラップした皿を冷蔵庫に詰め込んでいく。ありがとー、と館野がほがらかな顔でこちらを振り返った。

「でも、去年は誕生日の予定仕事しかなかったから、今年は澪が一緒に祝ってくれてよかった。節目の年に一人だと、ちょっとほんとに落ち込んじゃいそうだから」

「ま、そのためのルームシェアですから」

 館野の三十歳の誕生日はどうだったのだろう、とふと思う。自分は? どうにか記憶を手繰り寄せようとしてやめる。

どちらにせよ、現在の人生には残らなかったものだ。いまさら思い返したところで、懐かしめる相手がいるわけじゃない。

 煙が黙々と、煙突からほそくながく空へ昇っては消えていく。ひとりきりで抱えている思い出とはそういうものだ。


 二十代半ばの自分が、四十歳の澪がどんな仕事をしていて、誰と暮らしていて、休日に何をしているかを推し当てることは不可能なんじゃないだろうか。

 パン屋に特化したメディアサイトを運営するWEB会社は、法人化して今年で十年目を迎えた。十年の間になんども「もうだめかもしれない」「今度こそだめかもしれない」と重圧で胃がちぎれそうな思いをしたけれど、社員は現在二十三名、売り上げもここ三年は黒字を保っている。「十年の大台に乗ればもう安心でしょう」と言われることも多いが、社員の生活を抱えている身では気が休まることはない。

 まさか自分が会社を立ち上げて「社長」と呼ばれる立場になるとは想像もしていなかった。最初の数年はサークル活動の部長でも務めるような感覚だった。そう思うことで精神的な負荷を和らげたかったというのもある。

 澪は二十四歳で結婚して、二十五歳で離婚している。元の苗字に戻り、文具店に立ち寄ってハンコを買い直しながら「どうせ元通りになるならあんな面倒くさい手続きするんじゃなかった」と思った。

 正直、三十代は仕事に目いっぱいでそれ以外の記憶があやふやだ。とはいえ、恋愛だのセックスだの目先の欲とつゆだくの自意識で溢れていた二十代の頃よりは精神的に参ることがぐっと減って、そういう意味では生きやすかった。このさき自分はどうなっていくのだろう、という不安を多忙で蓋をして仕事に奔走していただけでもあるのだが、単純に会社の経営は刺激的で楽しかった。

 再婚もしなかったし、子供も持たなかった。でも、勢いで始めた会社はそれなりに枝葉を伸ばして、それなりに稼げるようにもなったし、会社員時代の頃には想像もしていなかったような大きな仕事を三つも四つも同時並行でこなすようになった。

 だから大丈夫。何も為さなかったわけじゃない、と思う。誰かに問いただされたわけでもないのに、時々自分に言い聞かせてしまいそうになる。


 話したいことがある、と経理担当である西間雛菜が白い顔をして昼休みに話しかけてきた。げ、と思いつつ、「もし今日の晩空いてたらごはん食べない? 奢るからさ」と沖縄風の居酒屋の予約を取らせた。

久しぶりに早く仕事を切り上げられそうだから今日は書店にでもよってそのあとコーヒーでも飲もうと思っていたのに、と思いつつ「話ってなあに」と切り出す。西間は青白い顔をしてうつむいた。

 実は転職を考えていて、と予想通りの返事が来た。給与条件のいい、メガベンチャー系で営業職の内定が紹介伝手で出ているらしい。どうせ人材紹介の報奨金目当てで大学の後輩に手当たり次第に声かけて引っかかったのがこの子、みたいな感じなんだろうなあ、と思いつつ「そっかあ」「どんな会社?」とヒアリングをすすめる。

頭ごなしに転職を反対されると思っていたのだろう、西間は目を見開いて少し驚いていたものの、ゆっくり話し出した。IT系で、既存顧客多めのルート営業で月給三十万万で年二回ボーナスあり。今の西間の待遇からは年収が百万近く上がることになるから、それはそれは魅力的に聞こえることだろう。

「そっかぁ。んー、正直に話してくれてありがとう。西間さん経理だし、いきなりやめられて穴開けられるとかなり困るポジションだからさ、話してくれてすごく助かった」

 洗いざらい話したことで安堵したのか単に酒に弱いのか、西間のまるい顔にはランプが灯ったような幼い赤みが差しつつあった。一人の欠員のために求人を出せるほど予算に余裕がないことは午後のうちに確認済みで、であれば今夜の自分の課題はただ一つ。西間の転職へのモチベーションを下げて、引き留めること。経理職で条件がいい方に移る、と言われれば正直ぐうの音も出ないのだが、営業職の内定なら勝機はありそうだ。

「どっから話そうかな。えーと……営業の仕事って、イメージできてる?」

「まあ、なんとなくですけど」

 当然社内にも営業は十名在籍している。社内は広いワンルームなので、営業が何をしているのか、職種は違っても西間の席からでも把握はできているはずだ。

「まあ、手短に伝えるね。正直に言えば営業はあなたには向いてないと思う。もし会社内のジョブチェンジっていうの? 部署異動の相談だったとしても、今の西間さんだったら、私は営業部には回せないかな」

 みるみる西間の顔が石鹸のように白く硬くなっていく。表情の変化に気を引っ張られないように、努めて淡々と話した。

「誤解しないでほしいんだけど、西間さんの能力を否定してるわけじゃないからね。これはあくまで適性の話。たとえば、明日からテレアポ百件してくださいって言ったら、あなたはどうする」

「えっ」西間は絶句したのち、言葉を継げないのか目をうろうろとさまよわせた。

「いやだよね。うん、テレアポってみんないやなの。営業をしてる人でもね。でもしなくちゃいけない、じゃないとお客さんが全くいない、って状況の時に、西間さんがどんなふうに取り組むか、想像できる?」

 西間は困惑したようにただ澪を見つめるだけだった。自分の頭で考える前から、誰かが事態を展開させてくれるんじゃないかと期待している。そういうところなんだよな適性って、と心の中で言葉を転がす。

「いろんな人がいると思う。初めからやる気がなくて、単に数をこなすだけが目標になっちゃって全然アポにつながらない人とか、なんとか根性で一件でも二件でも少しでも早く仕事を取ろうってむきになる人とか、誰かが頑張ってくれればそれでいいか、って他人任せになる人とか……でね、営業に向いてる人は負けず嫌いな人。うちでいうと、そうだねえ、千葉ちゃんとか丸山君がそのタイプかな。悪く言うとガツガツしてて、ライバルを蹴落としてでも遮二無二頑張れる人」

 西間は消えかけたろうそくでも見守るように不安げな表情をしてテーブルに目を落としていた。早くこの話終わらないかな、と思っているだろうことを感じ取って、まとめに入る。

「西間さんのいいところは、正確な数字が出るまで何度も確認して丁寧に仕事してくれるところだと思うのね。あと、マイペース。これは悪い意味じゃなくて、人に流されないって結構強みだと思う。けど、営業に向いてるかで言えば、ちょっとガッツとチャレンジ精神が足りないかな」

 すでに湯気を立てなくなってしまっている豚足に箸を伸ばす。味が染みていておいしい。

「もし、エンジニアを目指します、って話だったら応援したかもしれない。技術職は勉強を続けていればスキルが伸びるからね。でも営業として一からっていうんだったら、もう少し自分の適性についてじっくり考えてもいいかなって思うよ。それに、もし営業が未経験で月給三十万が本当だとしたら、ちょっと出し過ぎな気がする。インセンティブがあんまり高くないかノルマが厳しいんじゃないかなぁ。そこもちょっと要確認かなって私は思った。経営者からのアドバイスは、ま、そんなところ」

 西間はぽっちゃりとした指をテーブルの下組んでうなだれてしまった。なんだか万引きで捕まった中学生の補導に付き合う先生みたいだな、と思いながら「すみません、サングリアの赤で」と追加で注文した。


 勝負あったな、と判断したのでそれ以降は転職の話は蒸し返さず、西間のプライベ―トの話を堀り下げた。休みの日何してるの、と訊いたら「彼氏と遊んでます」と返ってきて、正直意外だなと思った。どこで会った人なの、何してる人なの、とさらにたずねたら、実は大学卒業以来、ずっと婚活をしているのだと告白された。

「うっそ、だってまだ西間ちゃんって二十三とか四でしょ? 私の時ですらその歳はまだ早いって言われてたよ。そんなに結婚願望強いの?」

「結婚したいですよ。生まれた時からずうっと不景気だし、子供の頃はコロナコロナで暗かったし……早く安定したいんです」

「精神的な意味? それともお金?」

 西間はハイボールをちびちび飲んだあと「両方です」とこたえた。「私、別に可愛いわけじゃないしもてるわけでもないから、せめて若いうちに動いておかないとって思ってて……いまの彼は公務員だし、まじめだから付き合ってます。でも、いつどうなるかなんて、わからないから」

「なるほどねえ。いまの子って手堅いね」

 公務員とはいえ同い歳で一般職なら、さして西間より大幅に稼いでいるというわけでもなさそうだ。それなら自分の給与を引き揚げたい、と考える西間の考えもわかるし、健全だと思う。けれどいまのタイミングで彼女に去られるわけにはいかない。求人に回せる予算がない状態で経理に穴をあけるわけにいかないし、どちらにせよ、野心が薄い西間が営業には到底向いていないだろうことは事実だ。

 酒に弱いのか、杯を重ねた西間は赤い顔でぶつぶつとくだをまき始めた。

「子供の時から、自分はみんなに負けてて劣ってる、って意識が消えないんです。でも結婚さえすれば、少なくとも私は誰かの奥さんになれるわけじゃないですか、早くそっち側になりたいんです」

「まあ、誰かの妻って確かに便利な肩書きだよねえ」

 西間みたいなまじめで堅実そうなタイプでもそういう発想になるんだな、と思いながら氷の解けたお冷を喉に流し込む。西間は小さくうなずいた。

「社長は自分で会社やってるから別にいいかもしれないですけど、私、しばらくは経理でほそぼそとやってくしかないから……なんというか、ずーっと敗北感をうっすら背負ったまんま生きてくのが怖いんです。だから転職していまいる場所をちょっとでも変えたら変わるのかなって、ちょっと思っちゃいました。でも私が営業ってよくよく考えたら無理ですよね、待遇聞いて浮かれちゃってばかみたい」

「まあまあ……頑張り次第では昇給ももちろん考えてるから、もうちょっとうちで続けてみようよ。西間さんのことは結構評価してるからさ。ね?」

 お会計を済ませる。西間は「ありがとうございます」とぼそぼそとお礼を述べた。どうにか社員が踏みとどまったらしいことに、心の中で息をついた。

 敗北感。

 その言葉が西間から漏れた時、感じたのは後ろめたさと申し訳なさだった。経理職で月給二十一万は、東京の相場を見ても安くも高くもない額だ。かつ、西間はまだ若く、横浜の実家から通っている。妥当とは言わなくても、正直に言えば西間が待遇に不満や不安を持っていることはあまり想像できていなかった。

たとえばネットワーク周りの仕事も覚えさせてヘルプデスク業務もまかせられれば給与はもう少し底上げできる。西間がパソコンにくわしくないなら勉強の時間を取らせるなりなんなりして、彼女の会社員としての市場価値を高めてやる。そういったことを、しようと思えばできるのに予算や時間の兼ね合いで全くせず、多忙を言い訳に蓋をしてみないふりをしていた。

 もっと余裕があれば、と思う。目先のことで手いっぱいなのだ、いまは。


 家に帰ると、館野も帰ったところらしく玄関で鉢合わせした。いつもはしない香水の気配がして思いついたまま「デート?」と問うてしまう。館野は苦笑いして「そっちこそ」とだけ言った。

 館野はめったに自分の恋愛沙汰について話さない。「もう懲りた」というのが館野の言い分だけれど、本当のところは謎に包まれている。

「私は社員と面談っていうか、転職考えてふらふら迷ってたからうちにいた方が安泰だよーって励ましてただけ。って、LINEしたじゃん」

「ふうん。実際残ってほしい社員だったの?」

 鍵を開け、リビングのソファにどかりと腰を下ろす。そろそろラグのクリーニング出さなきゃなあ、と思いながら「五分五分。一人の定員のために出す求人広告費がもったいなくて」と正直にこたえた。

「そんな子なら無理に引き止めなくてもよかったんじゃない? どうせ長くないよ」

「まあね。結婚願望強めだったから結婚と同時にあっさり辞めていきそう」

 館野はしずしずと部屋の隅でワンピースのファスナーを下ろした。無遠慮にその背中を眺めてしまう。着物のように袖がふんわりと広がったロングワンピースだ。少女のように薄くか細い背中があらわれる。

「誰かと誕生日のお祝いでもしてた?」

「まあ、そうっちゃそうだけど、澪が思ってるような相手じゃないよ。仕事で長いことお世話になってる人。男性だったしね」

「……館野ってさ、男の人から誘われたときどうしてるの」

 ごまかされるか黙秘されるかと思ったのに、あっさりと「基本はお断りするよ。恋人います、って言えば大概引いてくれるし」とこたえた。「別にそれは澪だって変わらないと思うけど。好きになれそうにない人から誘われたって、こたえる方が失礼でしょ」

「……そだね」

 ごめん、と好奇心で軽率にたずねたことを謝ったけれど、ちょうど館野はいつも部屋着にしているトレーナーをひっかぶったところだった。代わりに「今週の土曜日、クリーニングにラグとか布団とか持っていくよ」と声をかけた。ありがとう、とトレーナーから顔を出した館野がしゃぼんだまの表面のように淡く微笑む。

「大丈夫だよ。恋人つくって出ていく、みたいな事態がありうるとしても澪だから。私には起こらないよ」

 はっきりと口にされると、誘導尋問させたようでかえって後ろめたい。館野は「湯船溜めてくる。私先に入るね」とリビングを出て行った。


 インテリアデザイナーをしている館野春と知り合ったのは、引っ越し先の神楽坂で行きつけになったバーだった。

 長い間、武蔵野市で家賃五万八千円の古びたアパートに住んでいるのを会社の社員たちに折にふれてぽろっと話したら「仮にも経営者なのに信じられない」「雇用主がそんな貧乏くさい家に住んでたらこっちが不安になる」と非難轟轟の嵐で、もっと身の丈に合った家に住めと散々つつかれたからだ。ご丁寧に事務員の子が「会社から一本で来られるマンションで物件をいくつかピックアップしました」とスーモのURLを送ってきた。身の丈、というあるんだかないんだかよくわからないものにはあまり頓着はなかったけれど、実際に蓄えは十分あるんだし経験としていわゆる「いい家」に住んでみてもいいのでは、と思い一番家賃が高かった神楽坂のデザイナーズマンションに引っ越すことにした。

 さすが人気なだけはあって、神楽坂はどの駅にも出やすく、かつ女が一人でもふらっと入りやすい、雰囲気のいい小洒落た店はいくつもあった。いくつか巡った中で、オーナー自らがリノベーションデザインしたらしい小さなバーを気に入って週末立ち寄るようになった。同じ金曜日にカウンターによくいる女性と顔見知りになって、会えば会釈くらいする仲になった。見た目が端正なだけに冷たい雰囲気の人だと勝手に思っていたから、「こんばんは」と向こうから話しかけられた時は意外に思った。

「金曜日しかいらっしゃらないみたいですね。私、結構な頻度でこの店来てますけど、週末しかお見かけしないから」

 うなじで切りそろえたショートカットが小さな顔を際立たせて似合っていた。誰にも懐かないねこのような大きな瞳でひたと見つめられ、「落ち着いて飲めるのが週末くらいなんで」とどぎまぎしながらこたえた。

「じゃあ、結構お仕事忙しいんですね。どんなことしてるんですか」

「一応、WEB会社の経営です。小さいですけど」

「なるほど、経営者の方だと時間をつくるのが難しいかもしれないですね」

 女性は館野と名乗り、フリーランスで家具のデザイナーをしているのだと話してくれた。「え、インテリアつくってるんですか、かっこいい」とはしゃぐと、「会社をつくって誰かを雇うことの方がよほどすごいと思うけど」と苦笑いされた。

 分野は違うとはいえデザインの仕事をしているという共通点もあり、ワインを重ねながら話し込んだ。話しているうちに、二人が同い歳であることも判明した。店に通っている頻度でうすうす察していたが、館野は独身で、恋人はいないとのことだった。すいすいと顔色を変えずにワインを流し込みながら館野が言った。

「次は昼間に会いましょうよ。六本木の展示興味ありませんか? 仕事柄チケットもらうことが多いんだけど、一人じゃ面白くないから」

「え、行きましょう行きましょう! 私引っ越してきたばっかりで、近くに友達いないからうれしい」

 女子高生のようにはしゃぎながらLINEを交換して、展示会やバー、居酒屋なんかで月に三度ほどのペースで会うようになった。お互いの家に行き来するのにさほど時間はかからず、出前を取ってお酒を飲む、ということが増えた。「この先誰かと生きていくっていうことが自分の人生には二度と起こらないんだと思う」としたたか酔った頭でこぼしたら、猫が腕の中に入り込むようにさりげなく館野が言った。

「私もたぶん、恋愛はもういいかな。ねえ、いっそルームシェアする?」

「ルームシェアかぁ」正直考えたこともなかった。寮にいた経験もなく、誰かと一緒に住んでいたのは結婚していた時だけだ。館野はにこりと笑う。

「恋人相手だと、いつ終わるんだろう、ってリミットをどこかで気にしながら暮らさなきゃいけないじゃない? もう、そういう緊張感も含めて恋愛っていいかなって。澪さんもそういうタイプなのかなって、ずっと思ってたんだよね」

「あー、うん、もう恋愛はいい。擦り減るだけ」

 デザイナーとして独立しているうえに不動産運用もしている館野とは金銭感覚も合いそうだった。手折った白百合のように美しい容姿をしている館野の言う「恋愛はもういい」がどれほど真実に基づいた言葉なのか疑りながらも、二人で神楽坂内の家族用マンションに引っ越した。それが一年前のことだ。


【今から帰る。お弁当買うけど館野の分いる?】

【ありがとう。外で澄ませたから大丈夫。今、姪が家に来てる。急でごめん】

 歳が離れた姉がいると聞いたことがあるから、その子供だろうか。館野は実家とほぼ絶縁状態だと話していたから、意外だなと思った。

 家に帰ると、玄関には確かに見慣れない靴があった。かかとがところどころ剥げている、ストラップ付のハイヒール。せいぜい高校生か、大学生あたりだろうか。

 リビングから館野が顔を出した。

「おかえり」

「ただいま。姪っこちゃんが来てるんだって?」

「ああうん、急に連絡が来て」

 部屋に入る。ソファで若い女の子がスマホをいじっていた。「楓。一緒に暮らしてる中川さん」と館野が声をかけると、ゆらりとスマホから顔を上げる。首が茎のようにほそい。

「楓ちゃんね。こんばんは」

「……こんばんは」

 黒く伸ばした長い髪、カラコンなのか目はヘーゼルナッツのような明るい色で、化粧をしていない薄い顔と少しちぐはぐな印象だ。くちびるが薄いところがかろうじて館野との血縁関係を感じさせた。

「いまおいくつなの」

「二十歳。大学生」と館野が代わりにこたえた。楓はどこを見ていていいのかわからない、と言いたげな所在なさげなふぜいでぼうっとしている。歳のわりにぼんやりした子だな、と思う。

「楓。頼みがあるからうちに来たんでしょ。中川さんには自分でお願いしなさい」

 館野の声に、楓が澪を見つめた。戸惑いつつ、なあに? とたずねると、ためらうようなそぶりを見せたのち、「今日からしばらく、泊めてもらえませんか」と言った。

「しばらく……ってどれぐらい?」

「まだわかりません」

 ぼそぼそとこたえ、うつむいてしまう。困り果てて、説明を求めて館野を振り返ると小さく肩をすくめた。そして言う。

「この子ね。妊娠してるんだって」


 疲れたから横になりたいと言って館野の部屋に楓が移ったのち、「出産するつもりなの?」と声を潜めてたずねた。館野は「現実的には難しいと思う」と言った。「相手も学生みたいだし」

「そう」

 それ以前にあんな覇気のない子供じみた子が親になるなんて無理があるんじゃないか、と思ったが、館野を前にして親族を貶すのは憚られて飲み込んだ。代わりにたずねる。

「今日、それで急に家に来たの?」

「うん。一人でいると不安なんだって。相手の子は実家暮らしだし」

 楓は都内の大学の二年生で、神楽坂から歩いて通える場所にキャンパスがあるらしい。「早稲田?」とたずねるとちいさくうなずいた。せっかくいい大学にいるのに、と思ったのを読み取ったのか、館野はそれ以上話を広げようとしなかった。

油膜と油膜が箸でくっつけられてひとつになるようにして、ほぼなし崩し的にぬるりと三人での暮らしが始まった。楓は館野の部屋でベッドを使い、館野は客用布団を敷いて寝るようになった。

 楓はひどく人見知りで、自分から館野や澪に話しかけることは少なかった。女友だちも少ないようで、キャンパスではつねに一人で行動しているらしいと館野から聞いた。そういう子が彼氏と半同棲になったり避妊もしないでセックスするなんてへんだよねえ、と館野がぼやくので「逆でしょう」と思わず突っ込んだ。「コミュニケーションが下手な子の方が恋愛でずぶずぶに相手に依存しちゃうのってあるあるだと思うよ。適切な距離感がわかんないからすぐに切り札きっちゃうんじゃないかな」

「うーん……そうなのかな」

 館野はいま一つ飲み込めていなそうな顔で首を傾げた。レズビアンで、かつ恋人がいた時期よりもいなかった時期の方が人生でずっと長かったらしい彼女には、こういう感覚がわかりかねるのだろう。

「セックスって、コミュニケーションの最後にくるものじゃないのかな」

「そんなことないよ。セックスだけは男のニーズを裏切ることがないから、順番がひっくり返ることなんてよくあることでしょ。あれだけ若かったら特に」

「澪もそうだった?」

 まっすぐな瞳でたずねられ、そういう時期もあったかな、とあえてあっさりとうなずいてみせる。館野は顎を沈めたまま、上げようとしなかった。 


 熱病のように、セックスの数を打つことに熱中していた数年のことをとりたてて思いだすことはない。けれど、忘れたわけではないし、なかったことにできるとも思っていない。

 初潮が来る前には、それなりに自分の見た目が人目を引くことは知っていた。勉強は大嫌いだったし、メイクと服くらいにしか興味がなくて、怠惰な性格で何を始めても長く続かなかったけれど、恋愛だけはやめられなかった。懲りなかった、と言いかえた方がいいかもしれない。

 頭がいいわけでもない、極めたいことがあるわけでもない、夢中になって取り組める趣味があるわけでもない――ただ、圧倒的に若くて、自分を良く見せる方法には長けていて、そして、とても暇だった。だから、その武器を最大限生かさなければと思った。主に、できるだけ条件がいい男の人と結婚するために。

 面白いくらい上手くいった。傲慢ではあってもプライドが高くないぶん、素でバカで善良な女の子のふりをする技術がすぐれていたからだと思う。本命の彼氏は別にいても、顔がいい男の子や有名大学を出ている男の子、芸能人かぶれの仕事をしている男の子といい雰囲気になれば、すぐに家に行って寝た。こんなポケモンもいるならじゃあゲットしとこう、くらいの感覚だった。SNSで似たような遊びを繰り返しては実況中継を垂れ流す女の子はたくさんいて、男性のスペックや連れていかれたレストランのレベルでひそかにマウントを取り合ったり逆にやっかんだりもした。

 一過性の熱病のようなものだと思う。そういうたぐいのアカウントで有名な子がある時「本命以外全部切って同棲始めました」とツイートして一切の更新をやめてしまったことをきっかけに、ほかのアカウントも更新頻度が落ちて、遊びの数を競うよりもいかに本命の恋人に愛されているか、結婚をほのめかされているか、惚気でマウントを取り合うフェーズに移行した。確かにもう遊びすぎてセックスも飽きたなあ、と澪自身もアカウントを削除して、遊び相手を見つけるためのアプリもすべて退会した。

 体力と時間と若さが有り余っている時に遊びつくして、若さを失いきらないうちに申し分ないプロフィールの男と結婚した。我ながら「器用だなあ」と思ったし、女としてこれ以上ない〈あがり〉だと思った。

 あとは子育てに専念するだけ。疑問も不安も、何もなかった。あの時は。

 

 体調が悪かったので自宅で作業しようと思い夕方に帰宅した。お風呂場に明かりがついていて、覗き込むと浴槽の中から楓が泡だらけのスポンジを握りしめて「おかえりなさい」とこちらを見上げていた。

「ただいま……なんか、おなか痛くてしょうがないから今日は家で仕事する」

「具合、悪いんですか」

「ん、単なる生理。私、昔っから重いんだよね」

 ロキソニンを水で流し込み、ソファに横になった。明日は午後から商談が二つある。その二つとも資料がまだできあがっていないから、寝ていられる時間はせいぜい十五分程度だ。腰に鉄球でもぶら下げているみたいに重くてたまらず、鈍痛に引きずられるようにして瞼を閉じた。

 リビングに楓が入ってきたのが風の動きでわかった。「十五分経ったら起こしてくれる? 多少手荒くてもいい」と目を閉じたまま声をかけた。わかりました、と返事が来る。

 チチチチチ、と低い舌打ちのような音がキッチンから聞こえてくる。右のガスコンロは調子が悪くてチャッカマンを使わないと火がつかないのに、と思いながら目を閉じる。諦めたのか、しばらくしてからポットが湧くこぽこぽという音がした。

 そういえば館野は家にいないのだろうか。部屋でイヤフォンを挿してひたすらにモニターと向き合っている華奢な背中を思い浮かべた。気配が薄いところが、姪と館野はよく似ている。風のない春にしか飛ばない、爪を立てれば破いてしまいそうなほど薄くほの白い蝶のような。

「中川さん」

 意識が飛んでいたことに気づく。ふ、と自分の身体に影が落ちて、そばに楓が立っているのがわかった。目を開けられないまま、身体を起こす。コンタクトレンズが眼球に貼りついて乾燥している。目をしばたかせると、テーブルの上でマグカップが湯気を立てていた。

「お吸い物作ったんでよかったら飲んでください」

「……ありがと。助かる」

 冷えた指先をカップで温める。ふと見下ろすと膝掛けが身体にかけられていたことに気づいた。楓がキッチンへ戻る。そういえば今日の夕食当番は自分だった。

「楓ちゃん、悪いんだけど今日……」

「夕食ですよね。私、つくりますよ」

「ありがとう、ほんと助かる」

 つわりや体調不良はないらしい。だとしても中絶の期日は刻一刻と迫っているだろうに。今日で楓が居候して三日目だ。仕事を始めなければ、と思いながらも声をかけてしまう。

「ねえ、うちに来てから病院には行ったの?」

「……先週、婦人科に行きました」

「それってうちに来る前じゃない。次はいつ行くか決まってるの?」

「いえ」

 たんたんと一定のリズムでキャベツを刻んでいる。この子はどうして人生の一大事にこうも無関心でいられるんだろう、といらだちを覚える。館野も館野だ。叔母として強い言葉をかけて決心を促すぐらいのことをしたっていいだろうに、食卓でかわすのはとるにたらない世間話ばかりだ。核心をつくような会話は一切ない。自分のいないところで交わしているのだろうか。だとすればこの子はあまりにものんきにふるまいすぎている。

 女の身体や価値には、所有者の意思とは関係なく、どうしたってリミットがある。取り返しがつかないことになったら、どうするつもりなのか。

「ねえ、彼には妊娠のこと話してあるの?」

「はい」

「なんて言われたの」

「……まだ大学生だし、育てられる自信もお金もないから、おろす以外選択肢ないんじゃないの、って。すごくおびえた顔してました」

まあ男子大学生なんてそんなものだろう。むしろ、すぐにでも処置を受けようとせず煮え切らないでいる楓の方がよほど異常だ。

「叔母の館野が言わないなら、私から言うね。あなたは子供をおろした方がいいと思う」

 沈黙の中で針を落としたように、リビングの中で自分の声がぴんと反響した。

「まだ二十歳でしょう。いまおなかにいる子を本当に幸せにしたいなら、産まないことよ」

 キャベツを刻む音が止んだ。うつむいたまま、「どうしてですか」と楓が言う。

「考えればわかることでしょう。母親が産むかどうか迷ってる時点で、その子は幸せになれないと思う。ただでさえ不安定な時代なんだから」

「たぶん、そうだと思います」

 ぼそぼそと楓が同調した。覇気のない応え方にいらだちが募る。

「おろすのが怖い? 罪悪感がある? 手続きが面倒? それなら館野と私とでフォローしてあげるから。なんならご家族に言わないでもいいんだよ。時間が経つのを待ったところであなたのおなかのものはなくなるわけじゃない。妊娠していないことにはならない、ちゃんとわかってる?」

「わかってます」

「だったらどうしてなの」

 楓はこたえなかった。また、淡々と食材を切る作業に戻った。

「悪いことは言わない。決断は早い方がいいよ。あなたのためにも、子供のためにも」

 パソコンを持って立ち上がり、自室へ向かった。せっかく楓が入れてくれたお吸い物にほとんど口をつけないまま残してきたことにはすぐに気がついたけれど、取りに行く気はなかったし、楓も部屋まで持ってこようとはしなかった。


「正面から楓に切り込んだみたいね」

 館野の声に、顔を上げた。

 夕食も食べずに黙々と資料作成に没頭しているうちに、またロキソニンの効き目が切れてきた。リビングに入って薬を流しこんだところで、声が差し込まれた。

楓はおらず、館野はシャツにアイロンをかけているところだった。ほとんど無表情で聞き流していたくせにしっかり叔母に告げ口をしたのか、と思わず苦笑いが漏れる。そういうところは歳相応に子供らしくてかわいげがあるな、とのんきな感想を抱く。

「言ってやったわよ。館野はそういう説教みたいなことできないだろうし、してもないんだろうなと思ったからさ」

「うーん……姪と言ってもかかわるようになったのもだいぶん大きくなってからだしね。東京の大学に出たいらしいから世話してくれって、兄貴が」

「へえ」

そのわりに急に押しかけてきて居候させてくれ、と頼むのはかなり図々しいんじゃないだろうか。ガスコンロの上に残された鍋を温め直す。今日は豆乳鍋だったらしい。

「あの子、いつまでこの家にいるつもりなんだろ」

 よく考えもしないまま思ったことを呟く。館野が振り向いて、「ごめん。迷惑だよね」と言った。「勝手に話進めちゃって申し訳ない。最悪、私と楓で、楓の家に移るよ。っていうか、はじめからそうするべきだったよね」

「ああごめん、そういう意味じゃないよ。姪っ子が困ってるなら助けたいと思うのは当然だし、別に迷惑かけられてるとは思わない。ただ、先のことを考えてるようには見えないから、こっちとしても心配になる」

 そうだね、と館野がしずかに相槌を打つ。

「私、親族で唯一あの子にだけは自分のセクシュアリティを話してるの」

「……え、そうなの?」

「大学受かってすぐ、一週間ぐらいかな。下宿先の部屋が空くのを待つまで、私、楓を今みたいに家に泊めてたのよ。その時に『私レズビアンなんだよね』って。まあ、いい大人だし、めったに会うこともないからいいかなって、なんとなく」

 どちらかと言えば慎重で口が重い館野にしてはめずらしい。澪が彼女の恋愛対象について知ったのも、会って一年してからだ。もちろん、話のふしぶしや雰囲気からなんとなく見当はついていたから、あまり驚かなかったけれど。

「いまの子ってやっぱり教育であれこれ習うからなのかな、『へえ』くらいで全然びっくりされなかったし恋人の有無についても訊かれなかったの。それで、姪に対しての感想としてあってるかわかんないけど、その時初めて楓に対して『やるじゃん』って、好感を持ったんだよね。通じ合った感じがしたというか」

「それを楓ちゃんの側でも感じとって、それで館野に連絡してきたのかな」

 たぶんね、とシャツをたたみながら館野が言う。機を織る織女のような、たおやかな仕草だった。

「ねえ、楓ちゃん何か言ってた? マジうざかったー、とか」

「そんなこと言われてるわけないってわかってるくせに」と小さく苦笑いする。「まだ踏ん切りがつかない、ぎりぎりまで考えたい、って言われて、私はそれ以上言えなかった。ふがいない叔母で申し訳ないよ、厳しく言ってくれてありがとう」

 そんなことでお礼を言われてもなあ、と思いつつ、温まった鍋を火から下ろしてお椀によそう。面倒だから猫まんまにしちゃお、と白米も入れた。ダイニングで雑炊もどきをたべる。冷蔵庫の中身以外の食材もいくつか入っていたので、楓が買い出しに行ったのだろう。まめだな、と思いながらまいたけとえのきを口に運ぶ。

 そもそも豆乳も家にはなかったはずだ。ひょっとすると、澪が生理痛だったからわざわざ鎮痛効果のある豆乳を買ってきて鍋に使ったのだろうか。館野が考えを読んだようにひょいと言う。

「例によって生理痛ひどいみたいね。豆乳余ってるからよければ温めて飲んで。って、楓からの伝言」

「……私に気遣う前に自分のこと大事にしろっつうの」

 ふふ、と館野が紙を擦るような笑い声を立てた。


 エコー写真でいちどだけ見たわが子は、大きなカシューナッツみたいな姿をしていた。カシューナッツを食べるたびに、「胎児みたい」と思っていたからそんな連想をしたのかもしれない。それ以降は、あまり何も考えずに口に運ぶようにしている。

 ルームシェアを始めて半年ほど経った頃、「私、子供おろしたことあるんだよね」と館野に打ち明けた。きっかけは、海外のゲイのカップルが養子をもらうまでのドキュメンタリーを二人で見ていて、館野が「昔付き合っていた子に養子を提案されたことがある」と呟きを漏らしたことだ。

「そうなんだ。女性同士の方がなんというかうまくいきそうだよね」

「そうでもない。結局経済的な問題が大きくて、断念するレズビアンカップルが多いみたい。その子に関してはそもそもピロートークの一環で口にしただけで本格的に考えてたわけでもないみたいだけどね」

盛り上げるためだけに「結婚したいね」っていう悪い男みたい、と言うと「一緒一緒。たち悪いよね」と館野は苦笑いした。

「館野は子供ほしかったの?」

「ほしい、ほしくないで考えたことはないかな。はなから自分の人生には現れない存在でしかないから」

 製品説明を読み上げるような淡々とした声色だった。自分なんかよりずっと難しい次元で子供について十代の時から悩み、葛藤を抱いていただろう館野に、無神経なことを訊いてしまったことを悔やんだ。そして、話した。

「私、離婚原因は子供なんだよね。産みたくなくて、おろした」

「そうだったんだ」

「初めは産むつもりだったの。子供身籠って、普通によろこんでたんだけど、性別がわかった時に、急に怖くなった」

 テレビ画面の中で、男性ふたりはモニターに表示されたたくさんの赤子の写真を見比べて、楽しげに選んでいる。彼らはどちらの性別の赤子を迎え入れるのだろう。かわいらしければ、あるいは親の遺伝子の条件が良ければどちらでも構わない、と考えるのだろうか。

 遠慮がちに館野が言葉を挟んだ。

「……もしかして女の子だった?」

「そう」もし、性別が男の子だったら、自分は産むことを選んだだろうか。時々考える。「こんな世界で、女の子を育てるのは、自分には無理だと思った。歳をとって余計、そう思う。あの時、産まない選択肢をしたのは賢かったなって思うできごと、いっぱいあるよ」

 館野は押し黙っていた。

 館野さんって髪短いの似合うよね、と出会ったばかりの頃言ったことがある。館野は「ありがとう」と困ったように微笑んで「職業上、仕事相手のほとんどが男性なの。ちょっとでも女性性を消したくて、独立してからずっとベリーショート」と言った。顔の小ささや首の長さを際立たせる短い髪は確かに似合っていたけれど、館野にとっては己を守る盾としての、やむを得ない選択肢だったのかもしれない。

澪も「女は楽だよな」というニュアンスの言葉を同業者からかけられたことがたびたびあった。自然と、スカートではなくパンツスーツがメインユニフォームになった。社長は脚きれいなんだから出しちゃえばいいのに、と女子社員に言われ、女使ってるとか言われるから、とは言えずに「いやあ、遅刻したとしてもいざって時に走りやすいからさ」と粗雑なキャラを装って笑って流した。

日々のセクハラ、あるいは性的搾取めいた投げかけやまなざし。制服を着ていた中高生の頃はしょっちゅう痴漢の餌食になったし、マンションのエレベーターで男性と二人きりになると緊張感が走る。数え上げればきりがない。塾の帰りに露出狂に遭った。夏服のスカートの生地が薄くて脚が透けるのを同級生にからかわれた。男子がクラスの女子の容姿のランキング表をつくって仲間内で回していた。サークルの宅飲みで率先して片づけをしていたのはいつも女子ばかりだった。結婚前勤めていた会社の上司に「痩せたよね」と腿の上に手を置かれた。夜道、後ろから急に二の腕を掴まれて「飲みに行きませんか」と見知らぬ男に声をかけられた。せっかく探していた条件と合致する部屋が見つかったのに一階しか空きがないせいで泣く泣く諦めた。商談のあと、「食事でもどうですか」としつこく誘われたのを断ると逆恨みされ、仕事が受注できないよう根回しされた。仕事が成功したのを「女を使って仕事を取っている」「若い女の娯楽の延長」と叩かれた。

年齢は関係ない。一貫してずっと、自分たちは差別され、搾取される側の性別だった。こんな世界に、女の子を産み落としたところで、自分が経験した地獄を再体験させてしまうだけなんじゃないだろうか。そう思うと、女の子であるわが子を産むことはもはやグロテスクなエゴにしか思えなかった。

だからおろした。そして、夫とは離婚した。

「俺は自分の遺伝子を残したいだけだったのに。産みたくないなら最初から言ってほしかった」と言う捨て台詞を聞いて、この人は別に澪という人間と結婚したわけではなく、若く、子産みに適している女性の一人として手近な人間関係から選んだだけなのだと思った。自分の生まれなかった娘が、夫のような、女を自分の自己実現の手段として見ているような男性に人生を搾取されずに済んだだけでも産まなかった意味があった。そう思って口の端だけで昏く嗤いながら判を押した。

いろんなことにうんざりした。大して好きでもない、稼げもしない仕事をつづけなくてもよいという理由で経営者である恋人との結婚にすぐに飛びついた過去の自分に。子供を持ちたくない、と言う価値観がはっきりした以上、再婚をして誰かの経済基盤の恩恵にあずかるというスケープゴートは二度と使えないことに。男の子を生んでいたとしたら、おそらく子育てと家事だけで二十代後半から四十代半ばまで自分の人生を捧げることになっていたであろうことに。

女にはそういう生き方が、男からも女からも求められているということに。

「ねえ、この人たち二人とも弁護士なんだって。ベビーシッターを雇って、二人とも仕事は辞めないみたい。それができれば本当に理想的だよね……」

 館野の言葉にテレビ画面に目を戻すと、カップル二人が今後の子育てについて話していた。経済的に潤沢に余裕がある両親のもとの子供として引き取られる赤子は、どんなふうに成長していくのだろう。社会的地位も、経済基盤も、子育てもすべて諦めるつもりのない二人の目は、自分たちの正義や人生を疑うことのない強靭な光に満ちていた。

「女の人にとってさ」ぽつりと館野が呟いた。「子供を産めば人生を諦めることになるし、人生を優先させれば子供を諦めなくちゃならないっていうのがいまの日本の現実だよね。男の人はそうじゃないのにね」

「そうだね」

 十代の頃、母親が「自分が行けるレベルの中で、無理をしてでも一番いい大学に行きなさい」「それがいやなら手に職つけなさい」と口うるさかったのをふと思いだす。

 母親は知っていたのだ。男性ありきで人生設計をしていたら、足元を掬われるということに。いいお嫁さんになりそう、はすなわち、男性の人生が都合よくなめらかにまわるよう、便利なアシスタントになってくれそう、という意味も含んでいるということ。結婚をしてうまく行かなくても、独り身のままでも、強く生きていけるよう、自分の足で立って歩きなさいと暗に伝えたかったのだ。

「わたしたちがおばあちゃんになる頃には、女の人がもっと自由に生きられる世界になってたらいいのにね」

「最近、ズボンの制服穿いてる女の子が増えてるみたいにね。本当にちょびっとずつは変わってるんだろうけど、どうだかね」

 テレビの中の二人ほどではなくとも、澪と館野だって、世間から見れば随分余裕のある立場にいることくらい十分承知している。都内の広いマンションに住んでいて、多少は自分がしたい仕事を選べるし、自由に使えるお金は手に余るほどある。自分のためだけに生きてお金を遣っているということに、羨望や憧憬だけではなく批判的なまなざしを感じることも、まったくないわけではない。自分の中で「これでよかったのだろうか」という悔恨がうっすらとは残っているからかもしれない。

 舐められないよう、強くあろうとしてきた。虚勢を張っているうちに、本当に強い人間になっていた。それが本当に自分の望みだったか、いまはもうよくわからない。

 

 赤ん坊みたいな匂いがする、と思った。

仕事の手を止めてキッチンに行って正体がわかった。楓が鍋でホットミルクを温めていたらしい。

「中川さんって、いつもこんなに遅くまで起きてるんですか」

「って言ってもまだ一時じゃない。っていうか、楓ちゃんこそ早く寝ないと肌荒れるよ」

 夕方に剣呑なやりとりをしたのに、変わらない態度で話しかけられたことに内心ほっとしていた。横顔だけでひっそりと笑う。

「なんか、おなかすいちゃって。ホットミルク飲みますか?」

「せっかくだからもらおうかな」

 マグカップを手渡されて「ありがとう」と受け取る。シナモンを入れたのか、かすかに香ばしい風味がした。

「月曜日に、検診の予約が取れました」

「そう」

「まだ、なんて返事するか決めてないんですけどね」

 この期に及んで甘えたことを、と眉をひそめたけれど、楓の表情は風にさらされた彫刻像のように硬く、唇が強く引き結ばれていた。

「中川さんは、産まない方がいいって思ってるんですよね」

「そうだけど」

「私、わからないんです。考えれば考えるほど、自分がどうしたいのか、どうするのが正しいのか、わからなくなって」

 ぼそぼそと楓が不揃いな小石でも並べるみたいに言葉を零す。

「あの、月曜日病院行ったら家に戻ります」

「そう」

「突然押しかけてきて、すみませんでした。迷惑でしたよね」

「それは別に、そんなことないよ」

 自分がこの子にかけてやれる言葉は、教えてやれることはまだあるのではないか。どうしてそんなにおせっかいな気持ちに駆られるのか自分でもよくわからなかった。もどかしさにせかされるまま、「あのさ」と言葉をかけた。

「土曜日か日曜日空いてる?」

「両方何もないです」

「じゃあ日曜日でいいや、私とどこか行こう。場所とかはこっちで考えとく」

 はぁ、と楓はわかったようなわからないような顔をしてうなずいた。ひさしぶりに車でも借りてみようかな、と好きな子を口説き落とそうとする男の子みたいに算段を立てる。


 館野にも声をかけたが、あいにくイベントの設営があって土曜日の晩から泊りがけらしい。「経営者の私なんかよりずっと忙しい叔母だね」と助手席の楓に話かけると、そうですね、としずかに相槌が返ってきた。

「中川さんと春ちゃんって、なんで同居しようってなったんですか」

「ん、気になる?」

「性格が正反対な気がして」

 他人に興味などなさそうな物静かな姪から見てもそう見えていたのか、と苦笑した。

「そうだね。学生の時とか若い頃に会ってたら仲良くなってないタイプだと思う。私、館野みたいにまじめじゃないし、だらしないし、昔はもっとちゃらちゃらしてたから」

「ちゃらちゃら」若干古い言い回しが気になったのか、楓が小さく繰り返す。

「一緒に暮らそうって言ってきたのは館野の方だよ」

「意外です」

 この先右です、とナビが読み上げる。わかってる、と口の中で呟きながらハンドルを切る。

「もともと神楽坂で一人暮らししてたの、両方。お互いそこそこ稼いでるし、一緒に住んだらいろいろ便利なんじゃない? って」

「ふうん」

「あと、二人とも人生の中で結婚することはないだろうなって思ってるから、なんだろうな、将来設計が似てたってのもあるかもね」ナビの声が途切れるのを待ってから続ける。「二人とも、子供を持たない人生を選択したわけだし」

 高速道路は混んでいそうだったので、下道から行くことにした。「海と湖だったらどっちがいい」と訊いたら「どっちでもいいですけど、人少なそうなのは湖かな」と楓が答えたので、山梨の河口湖を目指している。

「楓ちゃん」

「……はい」

「産むつもりなのね?」

 ミラーで表情を確かめる。こくりと楓がうなずく。

「彼には伝えた?」

「いえ……どうせ、やめろって説得されるだけなんで」

 一人で産んで育てるつもりなのか。ばかな。

「子供自体は、いつかはほしいって思ってたんです」

「だからって」

 いま産むのは早まりすぎている、と言おうとして、口をつぐむ。楓が先に話し始めたからだ。

「私、今の大学は推薦で入ったんです。私大だから私以外でもそういう子はたくさんいるし、エスカレーター式で内部から上がってきた子も多くて」

「そうなんだ」

「普通に一般入試で入ってきた子たちは、ちゃんとやりたい勉強が決まって、目標がある子も多いんです。でも、私はただ入れそうだから受けただけだし、学部もすごく適当に選んだだけ。サークルも入ってないし、学部に友達もいない。たまたま学科の同期と仲良くなって、付き合うことになってそれなりに楽しい、くらいしかなくて」

「うん」

「妊娠がわかった時、大変なことになってしまった、って思いました。でも、ほんのちょっとうれしかったんです。私もお母さんになれるのかもしれない、って」

 楓の頬はほんのりと紅潮していた。桃のような白い産毛が陽でかすかに浮かび上がる。

「いい大学に行っていい会社に入る、とかよりも、ずっとずっと、そっちの方が私は頑張りたいし、頑張れる。ちょっとそう思ったんです」

「……それは」今から、少女のようなこの子に意地悪なことを言うのだ、という緊張でハンドルを強く握り直した。「勉強や就活を放棄する格好の理由になるからなんじゃないの」

 楓はひるまなかった。

「そうかもしれないです。でも、勉強や仕事と同じくらい、子供を育てるって大切なことじゃないんですか」

 そうかもしれない。理屈はあっている。

 でも、生まれてくる子が幸せになれる保証は――。そう反論しようとして、でも、とすぐに考えが翻る。

 楓が、学生であること。かつ、相手も学生で、認知をするかどうかもわからないこと。でも、妊娠した楓本人が子供を産むことに前向きでいて、実現したいと思っている。生まれてくる子供が不幸になる可能性の前で、楓の意思は紙屑のように蔑ろにされていいものなのだろうか?

 別に子供は宝、とは思わない。旧時代的な考えだとすら思う。だけど、妊娠した女の子がいて、「産みたい」と当事者が心から望んでいるのであれば――周りの大人たちが、社会が、手を差し伸べて助けるようなしくみがあるべきなんじゃないのか。

 たとえば館野や澪が、その役割を担うことだって、できるんじゃないのか。その中で産まれてきた子は、もう不幸だと決めつけられる必要はないんじゃないのか。

「最初は、自分の意思とは関係なく、おろすしかないって思ってました。そういうものだから、って。でも、春ちゃんに手術の付き添いのお願いをするためにLINEしたら、電話がかかってきたんです」

 ――私たちなら、あなたを助けられるかもしれない。まだ判断の猶予があるなら、とりあえずうちに来なさい。

 私たち、と館野は言った。

「館野は」ささやくような声になった。「初めから楓ちゃんが子供を産むことを肯定していたのね」

 楓は微笑むだけだった。

道が空いてきた。お昼はほうとうでいい? とたずねると、いいですね、と返ってきた。


 せっかく湖に着いたというのに、長い時間車に揺られていたせいか妊娠の影響なのか、楓はすっかり助手席で寝入っていた。まったく、と思いつつ、湖の周りを走り抜ける。午後の陽を浴びて、湖の表面がきらきらと鏡の破片をばらまいたような銀のきらめきにみちていた。

 あの時澪の胎の中にいた赤子は生まれていればいま十五歳になっていた。

自分の判断には一滴の後悔もない。けれど、楓が中絶をすべきかどうかとはまったく関係がないのに感情的に「おろした方がいい」と口走ってしまったことを小さく悔やんだ。

 お金は確かにかかるだろうが、楓の父親は税理士をしているらしいし、支援をあてにすることはできるだろう。叔母の館野にも経済的な余裕はある。もし子育てをしながら勉強したいのであれば休日のベビーシッターくらいは格安で引き受けてもいいし、社会に出たいと楓が望むなら、デザインの勉強でもさせてまずはパートとして雇うこともできる。幸い、歳の近い友人たちの子育てはひと段落したくらいだから、声を掛けたらベビーシッターのパートをやりたいという申し出もひょっとすればあるかもしれない。楓がシングルマザーに万一なった時に、甘い言葉とともに近づいてきた男が本当に善人かどうか、人事としてそれなりに人を見てきた澪が勝手にジャッジしてやることもできる。

 ふと、西間と飲んだ夜のことを思いだした。自分の立場であれば、西間がいまいる場所よりも一段階も二段階も高いところへ引き上げる手助けができるのに、余裕のなさを理由に目をそらしていた。楓が妊娠していることを知った時も、リスクばかり数え上げて「産むべきじゃない」と本人につきつけた。社会はそんなにあまくはないのだから、と。

 でも――社会が甘くないとして、日本の政治経済を信用しきれないとして、女性の方が生きづらい国だということが事実として横たわっているとして、それでも、それを理由に子供を産むことを否定すること自体、していることは社会や国と何ら変わらないのではないか。なるべく負担なく、易しく子供を育てるために、手伝えることやアイデアを出すことはできるのではないか。

 それもまた子育ての一つのバリエーションなのではないか。

 なるべく速度を落として道を進む。

 ペーパードライバーだった澪が車を運転できるようになったのは離婚して数年経ってからだ。母親になっていたらきっと一生誰かの助手席でしかこんな山奥まで来ることは叶わなかった。

だけど、産まないことを選んだからこそ、産むことを選んだ誰かの助けを担うことができるのかもしれない。

 大地が見開いた大きな瞳のように湖はそこにどっしりと在り続けている。雨も陽も吸い込んで、百年後もそこに在る。ずっと。


 二人暮らしの日々に戻った。整理整頓されていた部屋は、つねになんらかの食器がテーブルの上に置き去りにされ、脱いだ形でズボンが床に落ちたまま放置され、洗面所の鏡には水滴の痕が残るようになった。大学にも行っていたのに、楓はずいぶん家を綺麗にしてくれていたのだなあと今になって知る。

「ねえ、月一で頼んでるハウスキーピング、今月で契約切ってさ、同じ値段で楓ちゃん呼んでバイトしてもらった方がいいかもね」

 ふふ、と館野が笑みをこぼす。

「家事くらいなら適度な運動のうちに入るだろうしちょうどいいかもね。大学近いし」

 来年の初冬が出産予定らしい。大学は夏の期末試験まで在籍して、そのあとは休学手続きを進めるとのことだった。楓の恋人は、話し合った結果、大学には在籍したまま、楓の親が養育費を立て替えて払い、卒業した後籍を入れることになったらしい。楓は「別に、父親はいてもいなくても子供の幸せはそんなに変わらない気もしますけどね」とクールに言い放ち、両親をあきれさせたそうだ。あの子は案外肝が据わってるよね、と館野はどこか誇らしげに笑っていた。

 自分の親、叔母、そして叔母の友人である澪。頼れる大人がこれだけいれば、楓としても怖いものはないのかもしれない。ちゃんと頭数に私のことも入れてくれてるといいけど、と思う。

 ソファに座り、ベランダではためいている服たちを眺める。網戸から、初夏の、緑の濃い匂いが風で運ばれて室内をふわりとかきまわす。

「私さぁ」

「なーに」館野がオリーブの木に水をやりながら返事を寄越す。ということは日なたに出て服を取り込む係は自分か。

「子供を産まないからには、代わりに何か大きなことを成し遂げなきゃなんないって思って、仕事頑張ってた側面が結構あった気がするんだよね」

「あー。それは、大いにあるよ、私も。じゃなきゃリスク背負ってまでフリーランスにならなかったかも」

 だよねえ、と共犯めいた苦笑いを交わし合う。

「でも、女性が……っていうか男でも女もでも関係なく、ただの人間として、なんにもなさずに、大成もせずに一生を好きに生きたって全然いいんだよね。もう、大成しちゃったからこれからもそうするしかないんだけど」

「そうだねえ、あなた会社つくっちゃったもんね」

「ね。別に後悔してないしあの時がむしゃらにチャレンジしてよかったーって思うけど、男いなくても生きていけるようにとか、独身だけどみじめに見えないようにしなきゃとか、そういうのから解放されて生きててもよかったのかもなあって、なんか急に思った」

「そうねえ。突然会社畳んでさ、もし財政的に苦しくなってさ、下北沢のせっまい四畳でルームシェア、とかでも私はいいよ。楽しそうだもの」

「うはは、いいね」

 みじめとかみじめじゃないとか、何かをなしたとかなしてないとか、社会で何かを貢献したとかしてないとかじゃなく、もっと解きはなたれたい。かつ、楓や、未来の子供たちが、そうしてのびのび生きていける手伝いができるなら、何でも惜しみなく手を差し伸べられる人間でありたい。

「今日さー、出前とかUverとかじゃなくてさ、一緒に何か作らない? 餃子とかコロッケとか、買った方が安いものを時間かけてせっせと作りたい気分」

「いいね、どうせなら皮から餃子作ってみたい」

 買い出しに行くために、館野がジャージのズボンを履き替えている。その間にベランダへ行き、すっかり乾ききって陽の匂いのするシャツたちをハンガーごと取り込む。風が強く吹きつけて、シャツの袖が抱きつくような形で澪を包んだ。

 もうすぐ夏になる。楓も呼んで、三人で花火をできたらいいな、と思う。女ふたりぶんの服を両腕に抱え込んで、館野の待つ部屋へ戻る。


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湯気を分かち合う @_naranuhoka_

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