第6話 番外編 強さ

(あの子は今頃、どうしているだろうな)

茅色の髪を背中に流した女性は、青く透き通った空を見上げた。冬らしく乾いた空気を吸い込んで、瞼を閉じる。瞼の裏には、無口な少年の姿が浮かんでいた。

(殺気は感じられるのに、人の気持ちには鈍いからな。……物騒な子だな、本当に)

堪えきれず微笑みが漏れる。これからもたくさんの人に出会うだろうが、あんな子には、もう巡り合えないだろう。

(そういえば、あの子が入って来たのも、冬の日だったな。あれからちょうど9年になるか……)


その日、藍珠らんしゅはいつのもように、道場の端で木刀を振っていた。

(99……100)

100まで数え終え、壁の時計を見やる。いつのまにか、次の授業の時間が迫っていた。

「もう100回は振りたいけど、今日はここまでにするか。」

藍珠は少しの物足りなさを振り払って、木刀を木桶に突っ込んだ。木刀から手を離す際に、小さくありがとう、と呟く。その次の瞬間には、藍珠の思考は違うことに向かっていた。

(今日は、新しい子が来るんだったな。授業には少し早いけれど、道場に向かおう。)

その時、ぐう、という音がやけに近くで聞こえた。

(……やっぱり、作り置きしていたパンケーキを食べてからにしよう)

藍珠は甘いものが好きだ。性格の異なる母と、そこだけは似たらしい。藍珠は手早いおやつの時間を済ましてから、改めて道場に向かった。おやつで時間を使ってしまったが、まだ授業まで余裕があるはず。そう思っていたが、道場には既に先客がいた。と言っても、藍珠はその先客に気が付くのに、少し時間を要した。それぐらい、気配が薄い。

その先客は、銀色の髪をしていた。道場の隅で正座をしたまま、眠ってしまっている。藍珠が足を踏み出すと、少年は目を覚まして、こっちを見た。

「……君が、銀河君か?」

藍珠が問いかけると、少年は訝し気な表情をした。しばらくの静寂の後、少年は言った。

「……銀霧、です」

「えっ?」

藍珠は素っ頓狂な声をあげた。慌てて、付け加える。

「そうなのか、いや、すまない。人の名前を覚えるのが苦手なのだ。」

藍珠は、渋々といった様子で立ち上がる少年の姿を見て、言った。

「木刀は……持っていなさそうだな。道場のものを使え。向こうの扉を出たら、右手に倉庫が見える。そこから好きな木刀を取ってこい。……あ、ついでに私の分も」

最後にいらない要求が加わったが、少年は嫌な顔一つせず、言われた通り扉へと走って行った。その背中を見送りながら、藍珠はふっと微笑んだ。

(いい子だ。前の道場では落ちこぼれだったみたいだから、性格が幾分曲がっているのかと思ったが……心配いらないな)

藍珠は壁際に腰かけると、こつんと頭を壁に預けた。昨日は、少年の母親と話し込んでしまったために疲れた。少年……銀霧少年が帰ってくるまで、少し眠ろう。藍珠は瞼を閉じて、眠りの坂を下って行った……。


藍珠は、かすかな人の気配に、目を覚ました。ゆっくりと辺りを見渡して、銀髪の少年を見つける。道場の隅で、素振りをしているようだ。かすかに風を切る音が聞こえてくる。藍珠は少年の邪魔をしないように、静かに立ち上がった。足元を見ると、真っすぐに木刀が置かれている。藍珠が眠っている間に、ちゃんと雑用をこなしてくれたようだ。

(どのくらい眠っていたのだろう。……まあいいか。)

「少年!始めるぞ」

藍珠が声をかけると、少年が振り返った。

「私のせいで授業が遅れてしまったな。申し訳ない。その分密度の高い授業を行うから、安心してくれ。まずは君の剣筋を見たい。……一回戦、行くぞ」

それまで平静を保っていた顔が、かすかに歪んだ。その表情に、藍珠の心もちくりと痛む。

「……そんな顔をしないでくれ。これは、あくまで模擬戦だ。今の実力を見せてくれたらいい」

その率直な言葉に、銀霧はようやく、木刀を構えて臨戦態勢に入った。前の道場で習った、基礎の技。藍珠は初めて少年と向かい合い、途端、胸が焦がされたように熱くなった。少年の未来が……闇が、見えてしまったのだ。戦う者である自分には。

―この子は……

誘うように木刀を揺らすと、少年はぎこちなく木刀を振り下ろした。自信が無いのか、嫌で仕方ないのか……踏み込みが足りないだけでなく、勢いにも乏しい。藍珠は余裕を持ってその型を受け止めると、思い切り、のように見えるが実際は少し手加減して、横に薙ぎ払った。手加減したとはいっても、8割ぐらいの力は出している。少年は派手に後方に吹っ飛んだ。

「……まだまだだな。はっきり言って、おまえはこの技に向いていない」

少年はむくりと起き上がると、恨めし気な表情で藍珠を見た。その正直すぎる態度に、苦笑する。

「その技に向いていない、と言ったのだ。剣自体の向き不向きは、まだ分からない。……どうだ、私の技に挑戦してみるか。」

少年は黙って、答えなかった。しかし、藍珠は気にする素振りを見せず、再度木刀を構えた。

「まずは構えからだ。できるだけ、軌道を読まれないように気をつけろ。それから……」

その日から、徹底的な特訓が始まった。少年はか弱そうな見た目をしているが意外に気丈で、藍珠に何度投げ飛ばされても、その都度起き上がった。少年と初めて対峙した時、確信したこと。それは、この銀髪の少年は、血の道を歩む、ということだ。それも、他の人より何倍も濃い血に塗れた道を。だから藍珠は、少年に自分が持つものすべてを教え込んだ。殺気の感じ方から、相手の予測を裏切る姑息な技まで。”堂々さ”が美しいと言われる現代には不似合いな技たちを、少年は次々に吸収していく。

(まるで……戦うために生まれてきた子のようだ)

藍珠は少年との対戦を繰り返しながら、その思いを胸の内に抱いていた。剣が向いている、向いていない、どころではない。この少年はたしかに、藍珠の技……女性の技に、驚くほど適応していた。

(本当に……面白い子だ。)

藍珠は額に汗を滲ませながら、前よりも余裕の無い動作で、少年を打ち負かした。

「……まだまだだな」

藍珠は微笑んだ。少年は初めて出会った日よりも背が伸び、いくらか大人に近づいたように見えるが、藍珠を恨めしげに見る表情だけは変わっていない。藍珠はもう一度笑みを溢して、さっきの言葉とは逆のことを、胸の内で呟いた。

そうして、特訓を始めてから三年の時が過ぎた。少年は15になり、藍珠も三本に一本は勝負を取られるようになっていた。

その日、藍珠はかすかに緊張した足取りで、道場へと足を踏み入れた。中には、既に銀髪の少年がいる。しかし、藍珠が緊張しているのは、その少年が理由ではない。

「……銀霧、成績表は持ってきたか?」

少年は振り向くと、分厚い紙を持った手をかすかに持ち上げた。どうやら本当は見せたくないのであろうそれらを、藍珠はひったくるようにして取った。

「えーと、なんだこれは。数学に、理科?……勉学の方の成績表も持ってきたのか?」

少年は仏頂面でうなずいた。本当に見せたくないのは、こっちらしい。

「……言っておくが、私はおまえに勉学の方で期待していないぞ。だから、興味はない。この成績表は、ちゃんとご両親に見せなさい。」

藍珠は一旦勉学の成績だけ返し、本命である剣試合の成績表を見た。剣試合の歴史はどうでもいいので、そこは読み飛ばし、順位が書かれた表を見る。結果は、トータルで2位。部門ごとに見てみても、5部門中4部門はどれも2位で、文句のつけようのない結果だった。藍珠は銀霧を褒めたたえようと目を上げようとして、ふと、1という数字に気が付いた。視線を右に移し、心なしか控えめに書かれた、”美部門”の順位表を見る。”美部門”はその名の通り剣技の美しさを競うもので、藍珠が唯一心配していた部門でもあるのだが……。

「……銀霧。この……美部門では、何の武器を使った?」

銀霧は何度か瞬きしてから、言った。

「薙刀です」

「……薙刀?」

藍珠は眉をひそめた。藍珠が教えてきたのは剣のみで、他の武器を教えた記憶はないが。藍珠はもう一度、成績表を見やった。美部門の結果は、1位。その下には細かい採点結果が書かれているが、どれも満点だ。

(1位を取るだけでも凄いが……満点はこれまで聞いたことがない。)

藍珠は顔を上げた。素晴らしい結果を取ったというのに、少年の顔に誇らしさはない。こんなことを聞くべきではないと思ったが、藍珠はどうしても気になって、問いかけた。

「他の部門で1位を取った人はだれか、知っているか?」

返ってきた答えは、藍珠の予想を裏切るものだった。

「俺の親友です。薙刀を教えてもらったのも、その人です」

―なんだと。そんな凄い人と仲が良かったのか。

「……そうか。その親友のことは知らんが、たぶんいい人だろう。大事にしろよ」

藍珠は興味が無い風を装ったが、内心ではどんな人なのか気になっていた。他の部門で1位を取る、いや、今の銀霧に勝つような少年が、いるとは思わなかったのだ。

(世界は広いな)

藍珠は、その時あることを思い出して、言った。

「……そういえば、銀霧。仮大会では何の部門に出るんだ?」

仮大会とは、成績をつける本大会の後に行われる大会で、学校関係者以外の一般人も観戦することが可能だ。仮大会では本大会で10位以内に入った者のみが参加でき、成績には入らないが、強者同士の熱い戦いが見られる。今回、銀霧は全部門で10位以内を取っているため、参加はほぼ確定だ。しかし、仮大会で参加できる部門は一人につき一つまでなので、それは本人が選択する必要があるのだが……。

仮大会の存在を忘れていたらしい、銀霧は何やら物憂げな表情を一変させて、渋い顔をした。それも当たり前かもしれない。銀霧は恐らく、仮大会に出場したことがない。

「……でも、やっぱりここは美部門に出るのが普通だろうな。満点を取った技がどれほどのものなのか、楽しみにしておこう」

銀霧はじれったい沈黙の後、浮かない顔でうなずいた。緊張とは無縁の子だと思っていたが、大会系は嫌いなのだろうか。

―まあ、まだ15だからな。

藍珠は、子供と大人の狭間を生きる少年と向かい合い、木刀を構えた。少年に教えることは、まだまだ残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る