第22話 秘密とプライド

翌朝、霧が教室のドアを開けた瞬間、冷たい空気が流れ込んだかのような感覚に襲われた。そこには腕を組んで待ち構えている鳳条瑠璃がいた。彼女の鋭い視線が問答無用で霧を捉える。


「桐崎君、ちょっと来てくれる?」

命令口調だが、どこか張り詰めた雰囲気がある。その様子に霧は首をかしげた。

「えー、なんだよ。別に怒られるようなことしてないけど」

「いいから」

霧は渋々後をついていき、人気のない階段の踊り場にたどり着く。瑠璃はそこでようやく振り返り、真剣な目で霧を見つめた。


「昨日のこと、誰にも言わないで」

ピンと張り詰めた声に霧は少し驚いたが、すぐに軽く笑った。

「昨日って……何のこと?」

わざととぼけたように首をかしげる霧。

「とぼけないで。あなた、見てたでしょ?」

「あー鳳条さんが泣いていたところ?」

その瞬間、瑠璃の顔が一気に険しくなり、鋭い目つきで霧を射抜いた。

「……私が泣いてたとかそういう話を広めたら容赦しないから。覚悟しておいて」

「怖いな。でも、そんなことしないよ。面倒くさいし」

霧はあっさりそう返す。それでも、瑠璃の緊張した表情は少しも解けない。

「本当に言わないわね?」

「本当だってば。俺、そんなにペラペラ話すタイプに見えるか?」

「ええ、あまり信用できるとは思えないけど」

霧は「ひどいなー」と笑いながら頭を掻いた。その仕草に少しだけ気が緩んだのか、瑠璃の眉間の皺がわずかに和らいだ。

「……とにかく、忘れてちょうだい。あのことはなかったことにして」

「はいはい、分かったよ。昨日は鳳条さんが幽霊みたいに座り込んでいたことしか話さないよ」

また軽口を叩く霧に、瑠璃は明らかに苛立った表情を浮かべた。瑠璃の手が霧の襟をぐいっと掴み、瑠璃の顔が間近に迫る。

「本気で殴るわよ」

「冗談だって。そんなことしないでくれよ。鳳条さんのイメージに傷がつくよ」

霧が肩をすくめて言うと、瑠璃は更に顔を近づけ低い声で脅す。

「そんな冗談を言える立場だと思ってるの?」

その迫力に、さすがの霧も冷や汗をかく。

「本当に言わないって。前に奢ってくれた借りもあるしな」

その言葉を聞くと瑠璃は静かに掴んでいた手を離し、表情を緩めた。

「……そう。ならいいわ。でも、余計なこと言ったらただじゃ済まないから」

「わ、わかってるよ!」

霧は慌てて手を挙げるが、その顔にはまだどこか茶化すような笑みが浮かんでいる。

「でも、もし話したらどうなるの?命削られるとか?」

「……今ここで削ってあげましょうか?」

瑠璃が睨みを効かせながら一歩踏み出してきた瞬間、霧はすぐさま手を振りながら後退した。

「冗談!マジで冗談だから!」

瑠璃は霧を睨みつけたまましばらく無言だったが、やがて呆れたようにため息をついた。その表情にはわずかな疲れが滲んでいる。

「……本当に冗談ばっかり言ってるわね、桐崎君。少しは黙ってられないの?」

「それはちょっと無理かな。俺、静かだと不安になるタイプだから」

霧は口元に軽い笑みを浮かべて肩をすくめる。それに瑠璃は再びため息をつき、視線を逸らした。


「あなたみたいな人と沙羅がどうして仲が良いのか、未だに理解できないわ」

「それ、褒めてるの?それとも嫌味?」

霧が挑発するような口調で返すと、瑠璃は少しだけ唇を歪めた。それが微笑みなのか、軽蔑なのか判別がつかない。

「好きに受け取ればいいわ」

「じゃあ、褒められたってことでいいかな?」

「……呆れたわ」

瑠璃はわずかに首を振りながら、踊り場の窓から差し込む朝の光を見上げた。その横顔は、普段とは違い、どこか物憂げにも見える。霧は無意識にその横顔に目を留めてしまった。


瑠璃はしばらく無言で踊り場の窓の外を見つめていた。霧が何か言おうとしたその瞬間、彼女がぽつりと呟く。

「私の家族は完璧を求めるの。失敗なんて許されない。努力が足りないとか、能力がないとか、すぐそう言われる。だから私は、常に最高の結果を出し続けなきゃいけない。それが私の……運命みたいなものよ」


「運命って……鳳条さん、そんな大げさなこと言わなくても」

霧は肩をすくめながら軽く笑った。しかし、瑠璃は霧の視線を無視するように視線を窓の外に向けたままだった。


「大げさじゃないわよ。本当に選択肢がないの。私が背負うべき責任は、私にしか果たせないものなのよ」

「いや、でもさ」

霧は首を傾げながら反論する。

「そんなに頑張る必要ある?家族の期待とか責任とか言うけど、鳳条さんはまだ高校生だろ?無理して全部背負う必要なんてないんじゃないか?」


瑠璃はようやく霧の方を向いた。その目にはわずかに寂しさが滲んでいる。

「……あなたには分からないでしょうね。何の責任も感じないで適当に生きられる人には」

「まあ、確かに俺は適当に生きてるけどさ。鳳条さんもそうしたら?たまには肩の力抜いてさ。ほら、俺が肩揉みしてやろうか?」

霧の軽口に瑠璃は無表情を保とうとしたが、うっすらと眉間に皺を寄せた。

「……本当に救いようのない馬鹿ね」

「ひどいなぁ。ちょっとは慰めたつもりなんだけど?」

「余計なお世話よ」

霧はしばらく黙って瑠璃を見つめた後、ふと首を傾げて口を開いた。


「なあ、鳳条さん。なんでそんなこと急に言い出すんだよ?」

瑠璃は一瞬だけ霧を見つめ返し、すぐに目をそらして窓の外へ視線を戻した。その横顔には、どこか迷いが混ざったような陰りがある。

「……別に、理由なんてないわ。ただ……」

「ただ?」

霧が促すように尋ねると、瑠璃は小さく息を吐き出した。

「あなたみたいに自由に生きてる人が、どんな風に答えるのか知りたくなっただけ」

霧は意外な言葉に目を丸くした。

「自由に生きてる人って……俺はそんな大層な人間じゃないけど?」

瑠璃は肩をすくめながら、わずかに苦笑したように見えた。

「そうなんだけど、責任とか、期待とか、そういうのに縛られずに自分のペースで生きているように見えるから」

「…ま、大抵の人は鳳条さんほどプレッシャーかけられてないと思うけど」霧は頭を掻きながら答える。

「でもさ、責任なんて無理して全部抱えなくてもいいんじゃない?たまにはサボるとか、誰かに押し付けるとかすれば」

「押し付ける?そんなことしたら、ますます私が無能だって思われるだけよ」

「それでいいんだって。無能だと思わせとけば、期待も減るだろ?」

霧は真剣な顔で提案するが、その言葉に瑠璃は思わず少し微笑んだ。

「馬鹿ね。そんなことが許されるなら誰も苦労しないわよ」

(無能だと思われるのは一番嫌なんだろうな。鳳条はプライドが高いから)と思いつつ霧は「そうだな」と頷く。


「ま、俺が鳳条さんの立場だったら、最初から全部放棄するけどね。無能キャラ全開で、期待されない方向にシフトチェンジするわ」

「そうね。あなたにできることなんてそれくらいでしょうね」

瑠璃は淡々と言い放つが、その口調にはどこか冗談めいたニュアンスが混ざっているようだった。

「俺だって少しくらいは頑張れるよ。……まあ、ほんの少しだけど」

霧がニヤリと笑ってみせると、瑠璃はわずかに表情を和らげた。けれど、すぐにその笑みを隠すように真顔に戻り、霧をまっすぐに見つめた。

「桐崎君」

「ん?」

「念のために言うけど、昨日のことも、今日のことも、もし誰かに話したら許さないから」

瑠璃の言葉は静かだったが、その瞳にはいつもの冷たい鋭さが宿っていた。

「わかってるよ。言わないって」

霧は瑠璃の迫力に少し圧倒されつつも、どこか可笑しさを覚えた。


「本当に信じていいのね?」

「そんなに俺のこと信用できない?いや、俺も完璧な人間じゃないけど、約束くらい守れるって」

「信用できない訳じゃないけど…冗談を言って本音を誤魔化す人を見ていると、少し……不安になるだけ」

「誤魔化しているつもりなんてないけど。ま、とにかく、墓場まで持ってくって約束するよ。それでいいだろ?」

「……それでいいわ、話は終わり。戻りましょう、授業が始まる」

「あいあい、了解。さすが鳳条さん、時間に厳しいね」

霧が軽い調子で応じるが、瑠璃は何も言わずに階段を上っていった。

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