透き通る闇

松本凪

第1話

 夜の静けさの中、アパートの一室に響く時計の音だけが、無機質に時を刻んでいた。その音が妙に響くのは、誰もいない部屋でひとりきりだからだろうか。望月由紀は、机に向かって黙って考え込んでいた。

 彼女の目の前に広がるのは、整理されていないノートや書類、開かれた教科書だった。それらを手に取ることなく、由紀はただ無意識にその場に座り込み、過去の記憶に浸っていた。

「私……人生、終わったな……」

 その言葉が、意識の奥底から漏れ出した。高校時代の友人、田辺明日香との出来事が、まるで昨日のことのように思い出される。あの時、彼女のためにできたことは何もなかった。彼女を助けることも、言葉をかけることも、ただの傍観者でしかなかった自分。それが、今も重く胸にのしかかっている。

 由紀は、ふと視線を外に向ける。深夜の街並みは、ただ静かに眠っているかのようだった。しかしその静けさの中に、彼女の心を締めつけるような圧迫感がある。あの時、もっと踏み込んでいれば、明日香は違った未来を歩めたのだろうか。それとも、どうしても避けられなかったのだろうか。

「私には、もう何も……」

 その瞬間、部屋の隅に置かれた携帯が震えた。由紀はその音に驚き、ふと目を向ける。スクリーンには見覚えのある名前が表示されていた。

『山崎 真』

 由紀は一瞬だけ躊躇い、そして受話器を取った。真は、大学で知り合った数少ない友人であり、今でも彼女と連絡を取り合っている数少ない人物の一人だ。

「もしもし、由紀?」

「真……久しぶり」

 少しだけぎこちない声が響く。会話はお互いに気まずさを感じながらも、どこか温かいものを感じさせた。

「特にこれといって用はないんだけどさ。最近どうしてる? 元気してる?」

「うーん、元気かな……ただ、ちょっと考え事が多くて」

「考え事?」

「うん。最近、昔のことをよく思い出すんだ」

 電話の向こうでしばらく沈黙が続く。由紀の過去に何があったのかを真は知っている。だが、それを尋ねることはなかった。彼女が話し始めるのを待つしかなかった。

「明日香のこと……思い出して」

 その言葉に、真の声が僅かに震える。彼の中でも明日香の死は、未だに大きな痛みとして残っているに違いなかった。

「由紀……それは、どうしても忘れられないのはわかるけど、無理に過去を引きずるのはよくないよ」

「わかってる。でも……」

「由紀がどうしても許せない気持ちがあるなら、それを乗り越えなきゃ前に進めないよ。何年も経った今だからこそ、できることがあるんじゃないか?」

 真の言葉は、まるで由紀の心の中に落ちる石のようだった。彼女は少しだけ黙り込む。その言葉が、自分の中にずっと閉じ込めていた何かを解放するきっかけになるのだろうか。

「ありがとう、真。ちょっと考えてみる」

 通話が終わり、由紀は再び机に向かって考え込んだ。過去の重荷をどうにかすることはできない。しかし、今からでもできることがあるはずだ。明日香のために、彼女にできなかったことを今ならできるのだろうか。

 翌日、由紀は決心を固めた。彼女は、大学時代に仲良くしていた友人たちに再び会うことを決めた。そして、明日香の死に関する真実を掘り下げることを心に誓った。

 その日から、由紀は自分の足で歩き始めた。過去を振り返り、他の人々に向き合う勇気を持つために。彼女はようやく、心の中で閉じ込めていた闇を少しだけ解放することができた。

 しかし、それでもまだ完全に過去を消し去ることはできない。ただ、今この瞬間にできることを一歩ずつ積み重ねていくしかないのだ。

 そして、日が沈み、夜が訪れるとき、由紀はようやく理解した。自分がどんなに過去に縛られていても、前に進むことをやめなければ、きっと新しい何かを見つけることができるのだと。


 その日、彼女の心に少しだけ、明日香の笑顔が浮かび上がった。


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透き通る闇 松本凪 @eternity160921

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