神さまの飼い方、教えます1 暗黒神(マハーカーラ)の涙
七尾あきら
第1話 千年にひとりのごちそう①
これは、
神に恋した少女と、
ひとを愛した神の物語。
ただし出会いは最悪だった。
◆ ◆ ◆
月が、燃えている。
真夜中の街は明るすぎる月光に闇を
息も絶え絶えにあえぎ、よろめきながら走る
大きな
しかし左右に分けて丁寧に編み、輪にまとめた巻き毛はほつれて乱れ、大ぶりな
もう、走れない。
少女は必死で
「!!」
開いた。
夢中で飛びこんで戸を閉め、掛け金にぶらさがっていた
そこは、墓地だった。
放置されて久しいらしく、信じられないほど荒れはてていた。草ぼうぼうの敷地にこけむした墓石が黒々とひしめき、今にもなにか出そう。反射的に引き返そうと背後の戸を手探りしたが、たった今自分で鍵をかけたばかりだ。開くわけがない。
涙ぐみながらもかろうじて
「!」
なにか
童顔を泣きべそにゆがめて身を起こし、セーラー服についた
あきらめて眼鏡をひろってかけ直し、なににつまずいたのか確かめようとふりかえって──少女はぎょっと息をのんだ。
草むらの向こう、墓石の陰から、人の足が突き出ている。
骨と皮ばかりにやせこけた足であった。ぼろ布がからみついているが
「……あ!」
墓石の陰からひょっこり、
これもひどくやせ、
少女を見るとちぎれんばかりにしっぽをふり、いそいそと近づいてきた。
熱い舌でぺろりと手をなめ、次いでセーラー服のすそをくわえると、キュンキュンと
「そんな……あの……わ、わたし、い、い、急いでるんですけれど……」
相手は犬だ。言い訳などしている間に立ち去ってしまえばいいのだが、よほど気が弱いのかお
「…………」
ぼろ布にくるまって地べたに横たわる人影をみとめて、少女はしかし、いよいよ青ざめる。
あれほど勢いよくつまずいたのだ。
行き
「あの、お……おばあさん? こ、こ、こんなところで
「!?」
やせさらばえた手が
少女は
悲鳴もあげられずに立ちすくむ目の前で、
亀裂はゆっくりと広がり、
「……誰が、ババアだと?」
思いがけず若々しい少年の声を耳にし、少女は自分の
「あっ、す、すみません! ごめんなさい、暗くてよくわからなくて、わたし、あの……」
「ふん」
少女を見つめる白銀の瞳が急に、興味を失った様子で半ば閉じる。白髪の少年はあっさり少女の手を放すと、はしゃぐ老犬をじゃけんに追い
「クソ……
「えっ、い、生き霊!? どっ、どこにですか?」
青くなってまわりを見まわす少女に、少年は背を向けたまま
「アホウ。おまえ以外の誰がいる」
「……え? わ……わたし?」
その時、少年に甘えていた老犬が不意にがばっと向き直り、ぐるるると牙をむきだした。
同時に少女も、自分の背後に集まりつつある異様な気配に気づいてすくみあがる。
(追いつかれた!)
だが、そう直感する一方で、少女の心の中に初めて、
(追いつかれた? って……でも……なにに?)
考えてみればそもそもいつ、どこで追われ始めたのかすらはっきりしなかった。
ずいぶんと長い間、死に物
(わたしは……誰?)
背後で、ぎぎぎがぐう、となにかがふくみ笑った。
ぴちゃくちゃちい、となにかが
老犬が負けじと薄汚れた毛を逆立て、ワンワンワン! と勇ましく
少女はゆっくりと、背後に目を向ける。
燃えるような月のもと、鼻が曲がりそうな
虫の
(……わたし、きっと夢を見てるんだわ)
少女は思った。
(ほら、ぎゅっと目をつむって、ひとつ数えて、ゆっくり開いたら……覚める)
「…………」
目を開いても化け物で
放たれた矢のように
しかし化け物は表情も変えず、おもむろに細長い手をのばして老犬の頭をつまんだ。
他の連中もわらわらと寄り集まり、老犬の
「!!」
ギャッ、という総毛立つような
月光に黒々と飛び散った
「き……」
極限の
なにも考えられなかった。わかっているのはただ、次は自分だということだけ──。
「うるさい、
足もとからぴしりと言われて初めて、少女は自分がのども裂けんばかりに悲鳴をあげていることに気づいた。
「そうだ、黙ってろ。せっかくの空気が苦くなる」
少女には、少年がなにを言っているのかよくわからなかった。
それよりも、目の前で自分の犬が殺されたというのに、少年の声がどこか
「…………」
少女はぼんやりとまばたきした。
ついさっき、あんなにやせ
「やせ犬一
白髪の少年はおののく少女には目もくれず、化け物たちにからかうような声をかけた。
「だがそんなことで腹がいっぱいになるかよ、ええ? 考えてもみろ、どうせなら仲間を出し
無言で顔を見合わせる化け物たちを、少年は
「グズどもめ! 一匹じゃいつメシを食うかも判断できんのか。クソ虫以下だなあ!」
悪臭ふんぷんたる化け物たちにとっても、この言葉は
一匹が侮辱の返礼か、下水の逆流するような
「……!」
「!」
少女は
「!!」
まばゆく
血まみれの肉片があたり一面に飛び散り、墓石にべちゃぐちゃとはりついて
すとん、と少女はしりもちをついた。
月光が
少年が、
(あっ……!?)
そのとたん、少女は息ができなくなった。まわりの空気がいきなり深海の水圧を獲得したかのようで、今にも押しつぶされてしまいそうだ。
石になったように動けない少女の前で、塵の渦へ向かって手を差し出す少年の
「…………」
見れば、小柄な少年であった。ぼろ布の下の上半身は
しかもその
「なんだ、まだいたのか」
ふり向く少年の額に第三の、満月の輝きをたたえた瞳が鋭く縦に開いているのを
あの化け物たちだけでなく、この少年もまた、人間ではなかったのだ。
そしてそう
「クソ、苦いっ」
白髪の少年が不意に
その額で第三の
「このクソアホウ!
ぽんぽんののしる少年も、今は普通の……とは言えないかもしれないが、いちおう人間に見えた。少女はしかし、気持ちが楽になったとたん、あることに気づいてハッとする。
あわててまだ力の入らないひざをはげまし、墓石にしがみついて立ちあがった。
「あっ、あ、あの、た、助けていただいて……その、ありがとう……ございました」
恐怖と緊張にどもりながらも、なんとか感謝の言葉をしぼりだす。
あの
なにをどうしたかはわからないが、少年がやったとしか考えられない。しかも、彼のおかげで
「助けただあ? ケッ、
少年はふり向きもせず、しっしっと追い
「行っちまえ。二度とこのあたりには近づくなよ!」
「……す……すみません」
少女は消え入りそうになってうつむき、
少年は、少女の存在などすでに忘れた様子で、ぼろ布をひろいあげた。
それなりに大事にしているのかどうか、黒っぽい大きな布を片手で器用にひるがえし、マントのように肩に巻きつける。最初に寝ていたのと同じ場所にまた腰をおろそうとして、足もとにゴミでも見つけたらしい。
「……!」
ゆがみのきた自転車の車輪のようにふらふらと少女の前に転がってきたのは、化け物が
血と
そう、この少年は人間ではない。しかもあんなにも
なのになぜ彼は、主人を守ろうと命がけで奮戦した老犬を見殺しにしたのだろう?
いや、それどころか……。
「ど……どうして……」
少女は
ふり向いた少年のうるさそうな表情にひるんだものの、あふれだした言葉は止まらない。
「なんであんないいコの首輪を蹴ったりするんですか! あ、あなたの犬なんでしょう!?」
「バカ言え。俺が犬なんか飼うか。あいつは勝手にそばにいただけだ」
「そっ、そうだとしてもあのコ、あ、あなたのことを守ろうとして死、死んだのに……!」
「それがどうした。俺がたのんだわけじゃねえ」
そのとおりだ。確かにそのとおりだったが、少女はますますかっと頭が熱くなる。
しかし少年は、怒りに震える少女を見て、かえっておもしろがるような
「ふうん、うす
「……こ、この……」
のどもとに熱いかたまりがつかえ、憤りの
「ひとでなしっ!!」
叫んでしまった瞬間、少女の視野をまぶしい光が、真っ白に塗りつぶした。
◆
「!?」
空は確かに夜なのに墓地の中だけが真昼の明るさに包まれ、その
「あ……!」
気がつくと、すぐそこにいたはずの少年が数メートルも遠ざかっており、なおも自分を押しやろうとする見えない力に逆らって身をかがめていた。空気は動いていないのに、少年の
いったいなにが起きているのか。あわてて敵の姿を探しかけた時、
「くっくっくっ、こいつぁ
少年が心底
(まさか、これ……わ……わたしが!?)
その時、少年の額に、あの恐ろしい第三の瞳が開こうとする気配がした。
あの銀色の
「ごめんなさい! す、すみません、許して……あなたになにかするつもりなんかぜんぜんなかったんです、ほんとです! ほ、ほんとに……」
「…………おい」
予想した刃の代わりに、頭の上から降りかかってきたのは少年の、不満げな声だった。
「おいこら。返事ぐらいしねえか!」
「は……はいっ」
「どうしてせっかくのやる気をひっこめちまうんだ?」
「…………はい?」
なにを言われているのかよくわからず、少女は
さっきまでの明るさがウソのように、当たり前の夜の暗さがあたりをおおっていた。
墓石はもう動いておらず、少年の白髪ももう、なびいてはいない。その腕の
「ご、ご、ごめんなさい、ほんとにわた……わたしがそれ……や、やったんですか」
「アホウ! どうせ謝るんなら
「すっ……すみません」
「バカ正直に謝るんじゃねえっ!」
ではどうすればいいというのだろう。なすすべもなく、涙目でがたがた震えるばかりの少女を見下ろし、少年はあからさまに
「なんだぁ、そのざまは! てめぇあんだけの力持ってておびえるしか能がねえのかよ!」
「ち、ち、力なんて……知りません」
少年は皮肉な冷笑に口を曲げただけであいづちも打たない。少女は
「ほんとです! あれはなんか勝手に……だってわたし、な、名前も思い出せないのに」
言ってしまったとたん一気に気持ちがくじけ、こらえていた涙がどっとあふれてきた。
「も、もうやだ、わ、わたし、どうすれば……な、な、なんでこんなことに……」
あとはもう言葉にもならず、しゃがみこんだまま止めようもなくぼろぼろ泣き出してしまう。
そのとたん、少年がいかにも動転した様子で数歩後じさる足音がした。
「なっ、なんてことしやがんだこのクソ女っ! 空気が苦くなるって何度言ったら……」
「?」
目をあげると、少年は、まるで泣く少女から
「ご……ごめんなさい」
「だからいちいち謝るなってんだ! おまえ、そこまでめめしくて恥ずかしくねえのか!?」
「は、恥ずかしいです。ごめんなさ……」
失敗に気づいて口を押さえようとして、少女はきょとんと自分の手を見た。
半信半疑で手を左右に動かしてみたとたん、
「
不意に、少年が険しい表情で言った。
「怒れ! 早く! 理由なんかなんでもいいから……」
言いも終わらず、悪夢めいた速さで瞬時に少女のかたわらに立つ。
いきなり、まだそこに転がっていた老犬の首輪をめちゃくちゃに
「そら、怒れ」
どこか
自分の透けた手は気になるし、少年の足の下でつぶれた首輪を見ても悲しいだけだ。
「なにグズグズしてんだ? さっきはこうしたらすっぱり気持ちよく怒ったじゃねえか」
いらいらとせかす少年に、
「ご、ごめんなさい、でもわたし、今はとてもそんな怒ったりなんかできな……あ!」
また謝ってしまったと気づいて少女はあわて、反射的に出かけた謝罪の言葉をなんとか寸前でのみこんだ。さしもの少年もあきれたのか、むっつり
「えいクソっ! もったいねえ!!」
というわめき声と同時に、少女はぐいと乱暴に腕をひっぱられた。
あっけなく足が宙に浮き、特急にでも飛び乗ったかのような
「!?」
墓地と墓地を囲む
見知らぬ夜道が、かすむ速さで流れて行く。
いや流れるばかりではない。遠ざかっていく。ひっそりと
少女はあぜんとして、つかまれている手の先を見る。
「…………」
耳もとでごうごうとうなる風音を聞きながら、
が、それが悲鳴になるのを待たず、少年がふり向きもせずに
「わめくなっ! いいか、俺のそばでは恐れるな。不安がるな。絶望するな。めそめそするな! 今度クソ苦いまねしやがったらこのままドブ川にたたきこむぞっ」
「は……はい」
この高さから捨てられてはかなわない。
少女は血の気の
だがやはり
「たしかこのへんだっけな」
というつぶやきとともに、少年がいきなり下へと向きを変えた。
「!!」
頭からまっしぐらに地面へ向かうのである。恐ろしい速さでぐんぐん近づいてくる街並みに少女は真っ青になって目をつぶり、あやうくあふれかけた
(こ、怖くない怖くないっ、まさかこ、このままつっこみはしないはずだもの……!)
夢中で自分に言い聞かせる間もなく少年が急停止し、当然の結果として少女は慣性の法則に従い、
「バカか、おまえは」
少年のため息まじりの悪態を頭上に聞いてやっと、少女は目を開き、足もとを見る。
少年が手を放した。少女はあぶなっかしく着地すると足もとの大地の確かさに死ぬほどホッとしたが、身体の重みを支えられず、くたくたとその場にすわりこんでしまう。
「頭の固いやつだな!」
ふわりと、体重などないかのように目の前に降り立った少年がうなった。
「
「え……あ……」
待ってとたのむひまもなく、少年は
「…………」
路地を出ると、ネオンが明るさを
(よ……夜の街っていつもこんななの? ここ、ほんとに日本?)
少女は生きた心地もせず、少年の後ろで半透明の身を縮める。
しかも、こんなに大勢人がいるのに
いや、道ばたで、黒布を張った台にアクセサリーを並べていた若者がひとり、少女の視線に気づいたらしくふり向いた。その無表情な目がぼうっと、
「これはなんと、おめずらしい。
老人の声でつぶやいたのは、売り物台に置かれていた
「とうに
「ではさきほどのただならぬ霊気はやはり、あなた様だったので」
「どうりで
「アイシャはどこだ」
「
木彫りのフクロウがゆるりと首をかしげる。
「用がなきゃ捜すかよ。おまえがここにいるからにはやつも近くにいるはずだ。どこだ?」
はやくもいらだつ気配を見せる少年を前に、木彫りのフクロウは太った身体をひと揺すりするとたちまち本物のフクロウに変わり──いやきっと木彫りのふりをしていただけなのだろう──綿毛さながら音もなく飛び立った。
「ご案内いたしましょう。ここ五十年ばかり、やれ建築基準がどうの、
「店は今もやってるんだろうな? 言っとくが歌の方じゃないぞ」
「もちろんですとも。どちらも姫の大切なご道楽にございますれば」
少年の背後に
入り組んだ暗い路地を三度ほど曲がり、ビルの裏手にまわって
「どうぞ、こちらでございます」
アンティックなデザインのライトに羽根を休めて告げるフクロウを、ねぎらうどころか見もせず、少年は扉を押す。少女はあわててあとについて入りながらふり返り、
「あの、あ、案内してくださってありがとうございました」
代わりにフクロウに礼を言った。
物言うフクロウはよほど意外だったのかぐうっと百八十度首をめぐらし、頭だけ逆立ち状態で大きな目をぱちくりさせる。重い扉は手を放すとすぐに閉じてしまい、おかげで少女はフクロウのひとりごとを聞かずにすんだ。
「はぁて、天地がひっくり返っても姫へ
1 千年にひとりのごちそう②へ続く
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