台湾百鬼夜行

カイクウ

第1話 百鬼夜行

 台北市内にあるそのバーに私が入ったのは、ただの気まぐれからだった。


 その夜私は、仕事後の気分転換を兼ねてその歓楽街を訪れたのだが、しつこく言い寄って来る客引き達から逃れるように歩いている内に、いつしか見覚えのない細い路地に迷い込んでしまっていて――そこで見つけたそのバーに、何となく入店したのだった。


 そのバーのマスターは三十代男性で、日本人だった。珍しいことではあるが、あり得ないことではない――台北には何万人もの日本人が住んでいるし、しかもこの歓楽街の店の半ばは日本人向けのものだからだ。


 台北で働く同性同年配の日本人同士、他に客がいなかったこともあって、私とマスターはすぐに打ち解け、お互い身の上話を始めた。


 やがて時間が過ぎ――ふと私は尋ねた。店の名前の由来は何ですか、と。


 ――てっきり、鬼のような面相の女性従業員が大勢いるのかな、と思っていましたが。


 私がそう思ったのも無理はない――何せその店の名前が、『百鬼夜行』だったのだから。


 つまり自虐マーケティングだ。路地の裏の小さな店では、魅力的な女性を集めることも出来ない。そこでこういう店名をつけることで、耳目を引き付けると共に、入店へのハードルを下げさせる――そんな商売なのだ、と。


 ところが、店内にいるのはマスター一人だけ、女性従業員すらいない。そのマスターにしても細身の優男、とても鬼だとは思えない。それに、バーの内装はごく当たり前の落ち着いたもの――鬼の面や人形なんかも存在しない。


 ――鬼はどこにいるのですか?


 私の質問に、マスターは笑って言った。


「――この島では、鬼はどこにでもいるじゃないですか」


 それは角の生えた妖怪のことではない。中国語で言うところの鬼とは、幽霊や妖怪、精霊等、人ならざるものの総称だ。


 そして確かに、この台湾には鬼は溢れかえっている――と聞く。あらゆる人が毎月必ず捧げものをして先祖の鬼に祈りを捧げている、あらゆる街角に鬼神を祀った寺廟があり一日中誰かが願いごとをしている、鬼月と呼ばれる時期にはあの世からやってきた鬼に連れて行かれぬよう皆遊びを慎む、等々。そう、台湾人はいつでも、鬼の存在を身近に感じている。



 でもね、と私は言った。


 ――私自身は、この台湾でそんなものの存在を感じたことは、一度もないんですよね。



 幽霊を見たことがないのは無論の事、超越的な存在を感じたこともない。日本と違いがあるようには思えない。


 いや、むしろ、強い日差しの降り注ぐ南国、夜でも明るく賑やかな街、表裏なく何でも語る台湾人達――ここは余りにエネルギッシュな場所だ。幽霊などとは縁遠い場所であるように思える――綺麗に整えられた、静寂の多い日本などよりも、ずっと。



 私がそんなことを言うと、マスターはまた笑って言った――それは、あなたが台湾の明るい場所しか見ていないからですよ、と。


「目を向けて下さい――陰に」


 光があれば影がある、陽があれば陰がある。酷く明るい――そしてその分、裏側は酷く暗くなる。


――そしてそこには、鬼がひしめき合っている。


 このバーなんてね、とマスターは笑顔のままで言う。


「歓楽街の薄暗い路地の奥にある、小さな夜の店――まさに、陰の中の陰です。だからね、鬼が自然に集まって来るんですよ」


 ――百の鬼が、毎夜毎夜、行進している。



 そんな、と私は苦笑しながらまた店内を見回す。照明の届かない場所――椅子やテーブルの下、棚やカウンターの裏など、陰になっている場所は幾つもある。でも勿論そんな場所には、何もいない。


 ――いや、違う。


 カウンターの脇、物陰で、何か、何か小さい物が蠢いている……。


 私は息を呑んで目を凝らし――その正体を理解したところで、見なかったことにしようと決めてマスターの方に向き直った。


 そう、ここは南国台湾だ。室内をどれだけ清潔に保とうとしても、ネズミやゴキブリはどこにでも現れるものだ。――どうしようもないことだ。


 と、その時、マスターが私の背後を指さし、ほら、と言った。


「早速――一人の鬼が来ましたよ」


 それと同時に、バーの扉が開く音がした。私は驚いて振り返った。



 ――そこに、男が立っていた。




 *



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