第4話 白菊
次は一人で来るようにと、敷嶋に言われた兵次郎は、二日経ってから言われた通り、友人を伴わず、一人で吉原を訪れた。花見の季節の吉原は、大門から水道尻まで、仲の町の中央に桜が植えられていた。満開の桜は見事であるが、すでに陽の光に褐色が混じり、鮮やかなはずの桜色は褪せていた。しかしもうすぐ夜になる。夜になると、桜を囲う青竹の垣根に備えられた、六角雪洞に火が灯り、周囲の色彩は闇に吞まれ、ただ桜ばかりが、ほんのり闇に浮かぶ様などは、ひと際美しい。若木の多い吉原の桜では、時折枝が兵次郎の頭に当たりそうになる。頭の上に手をかざしながら、仲の町の引手茶屋に向かった。
その途中、江戸町二丁目の方から罵り合う声が聞こえた。近づいてみると、黒羽織に大小を差し、山岡頭巾で面を隠した侍が、和泉屋の店世番と言い争っていた。
「ならば某が嘘を吐いていると申すのか」
「いえ、滅相もない。何かの間違いでしょう。うちの店に桂木なんて女郎はございません。きっと酒のせいで、覚え違いをなさっているのかと」
「覚え違いであるものか。失念するほど悪酔いしたことなど一度もない」
「それじゃあ、伊澤様の相手はどんな女郎でした」
そう訊かれた侍は、顎に手を当て、しばらく考えていた。
「草花や千鳥の風景模様の納戸縮緬、四つ花菱を浮き織りにした帯、透き通るような白い肌、声音はたしか、某が飼っている猫に似ていた…」
「その女郎はどんな顔でした」
「顔は憶えておらぬが、美人であった」
見世番はこの侍が狂人ではないかと思った。
「色白の美人で、猫のように幼い声音の女ですよね。ならやっぱり朝霧さんですよ。そこの張見世にいるでしょう」
「さっきからこの女ではないと、何度も言っているではないか」
「なら覚え違いかと」
「いい加減なことばかり言いおって。シラを切るつもりだな」
ふいに男が語気を荒げたにもかかわらず、店番の若い者はだいぶ鈍感なようで
「いえいえ、そんなものを切っちゃおりません」
と言った。
「きさま、愚弄するか」
この若い者を兵次郎はよく知っている。庄蔵というお調子者で、客引きは上手いが、怒った客を宥めるのが下手だった。
二本差しが息巻いてやがる。
そう毒づきながらも、関わりたくないから、適度な距離を保ちつつ、このやり取りを眺めていた。そのうちこの武士は強引に店に入ろうとしたので、庄蔵は必死に袖にしがみついた。こんな正気を失った客を、店に入れるわけにはいかない。かなり危険な状況に見えたが、他の客が横から入り、吉原細見を見せ、佳木という女郎がこの妓楼にいないことを納得させ、侍を宥めた。始めからこうすればいいのに、知恵の回らないやつだと、兵次郎は庄蔵を内心で嘲笑った。
やり取りから察するに、この武士は敷嶋から聞いていた「狐憑き」のようだった。この世にいない女郎を求める男が、立て続けに現れるというのは気味が悪く、本当に狐憑きかもしれないと思った。
庄蔵は近づいてくる兵次郎に「これは柏屋の若旦那。お久しぶりでございます」と挨拶を述べた。
「大変な目に遭ったな」
「そりゃあもう、大変でございました。そんな大変なわたしを、若旦那は遠くから眺めているだけでしたね」
「甘ったれるんじゃないよ。てめえの尻拭いはてめえでやりな」
疲れ切った庄蔵はため息を吐いた。
「こんな刻限まで侍が吉原にいるなんて珍しいね」
「まだ暮れ六つ前ですから、これから急いで帰るんでしょう。以前伊澤様はこちらにおいでになり、そのときは朝霧さんがあの方の相手を致しました。それがどうして別の女郎に置き換わっているのか、合点がいきません。しかもあの旦那、昼にもここに来たんですよ。そのときも今と同じように、桂木を出せって、執念深く詰め寄るんです。あんな恥も外聞も気にしない旗本、初めて見ましたよ」
「女に狂った男はそうなるのさ」
一度も女に狂ったことのない兵次郎は、悟り澄ましてそう言った。彼は自分をとても愛していたので、女に心を惹かれ、自尊心を揺るがしたことがない。
「しかし旗本の供廻りがいないね」
「たぶん家をこっそり抜け出してきたんでしょう。あの旦那、以前ここで数日ばかり居続けをしましたから」
「居続けなどしたら、家が潰れてしまうだろう」
「伊澤様は急病で休んだことにしたそうです。その後どうなったのか知りませんが」
とんでもないやつがいるものだと、兵次郎は感心した。
「それはそうと、若旦那、ずいぶんご無沙汰でございます。店の者は若旦那がきっと忌中だから慎んでいるんだろうと噂をしておりました。中にはもう二度と吉原に来ないだろうと言い出す者までいたくらいで」
「俺も白菊が死んだばかりのとき、しばらくは外出を控えていたさ。しかし四十九日というわけにはいかないからな。今は松城屋の敷嶋と馴染みになっている」
「こちらにはもうおいでなさらないんで」
「おまえは馬鹿なことを言うね。白菊が死んだからといって、白菊の朋輩と遊ぶわけがないだろう」
失言に恥ずかしくなったのか、庄蔵は決まりが悪そうに首の後ろを搔いていた。
「申し訳ございません。若旦那を見ていたら白菊さんを思い出して、つい口が滑ってしまいました」
「まあ無理もないさ。白菊はこの店の者に慕われていたからね」
「本当に無念でございます。わたしには風流心なんざございませんが、もう春だというのに、雪のように儚く消えた白菊さんを思うと、未だに生きているように思えて、今の時分では、桜を見ていると、こう胸がきゅっと締め付けられて、痛くなるときがございます」
白菊という名前のおかげで、さっきから兵次郎は居心地が悪くなっていた。
女郎買いを続けていれば、事情によっては振られることもある。いちいち気にすることではない。妓楼が女郎に無理な数の客を取らせる限り、変わらないことである。そんなことは兵次郎も分かっていたが、その日割床を当てがわれ、白菊を待っていた彼は、だいぶ苛立っていた。外記の一件が尾を引いて、蟠りを抱えていたからである。布団の上で堪えていると、遠ざかる上草履の音に怒りを覚え、とうとう誰にも言わず、こっそり妓楼を抜け出してしまった。
その後の振る舞いはもっと悪かった。仕舞をつけておきながら、白菊との約束を反故にした。仕舞をつけられると、張り見世には出られないから、彼女は来ることのない客をひたすら待つことになる。そんな姿を同僚に見られる中で、一日中肩身の狭い思いをして過ごす羽目になった。客の無言の非難を浴びていることが、妓楼の者たちに分かってしまうから、晒し者にされてしまう。
急用で登楼できなくて申し訳ないと、兵次郎は手紙を送るが、三回それを繰り返したから、さすがにもう会いづらくなって、このまま別の女郎へ乗り換えてしまおうかと考えた。ところが、白菊からどうか来てほしいと、懇願の手紙が届いた。こうして反省する者の立場が逆転した。そこで彼は、仕方ないから許してやるかと、のこのこ登楼したところ、騙されたと思った。
座敷ではなく、床部屋に通されて、五枚重ねの布団の上に鎮座する白菊を前にして、兵次郎は正座させられた。廻し方の若い者は、兵次郎を部屋に通すと、逃げるようにその場を去った。白菊はしばらく無言で高みから兵次郎を見据えていた。花魁に謝罪され、泣きつかれると思っていたのに、儘ならぬものである。そんな理不尽への不満が消し飛ぶくらいに、白菊の顔つきは厳しかった。
「どのような料簡で、たびたび揚干にしなんした」
桜花の裾模様に、曙染めの紫縮緬の着物、舞鶴の平打簪を挿して、白菊は冷ややかに兵次郎を見据えていた。努めて落ち着いた声音を用いたが、強い口調は覚えず怒気を孕んだ。
「祖母が急に寝込んで、俺が呼ばれたからよ。何度も寝込んだから、そのたびに俺が呼ばれた。年寄は気が弱くていけねえが、これが今わの際の頼みかと思えば、無碍にはできねえだろ」
「そんな言葉を信じるつもりは毛頭おざりいせん。意趣返しでありんしょ」
兵次郎が恐れていたのは、白菊の怒りではなく、彼女に「野暮」だと思われることだった。
「そうじゃねえ。俺が何年廓に通っていると思っている。女郎に振られたくらいで、意趣返しなどするものか」
たしかに意趣返しではなかった。ただの八つ当たりである。
「ぬしの仕打ちのおかげで、わっちはずいぶん肩身の狭い思いをしなんした。女郎衆もはじめのうちは慰めてくれなんしたが、終いには腫物に触れぬよう、避けるばかりで。言葉をかけるのがいっそ気の毒だと思いしたのでありんしょ」
白菊は俯いて、はらはらと涙を落とした。
「ぬしは実のない人でありんす」
自分が悪いことくらい、兵次郎も重々承知をしていたが、それを認めようとはしなかった。
「女郎に実のあるなしを言われたかねえや」
「ぬしはわっちを疑っているのかえ。二世の誓いをしたばかりなのに」
「あんな紙っ切れ一枚ごとき、俺をどうこうできるなんて思わないことだ」
起請文を交わしたときは喜んだが、それはもう過去のことだった。
白菊はきつく口を結び、面を仰いだ。
「指を詰めろとでもおっせえすのかえ」
「そんなものはいらねえよ」
「わっちの誠をぬしに見せてやりたいと思いんす」
「女郎の誠など、知れるわけがねえ」
白菊は下唇を噛んで、兵次郎を睨みつけると、ふいに立ち上がり、舞鶴の蒔絵の煙草盆の引き出しから、剃刀を取り出した。
「ぬしの目に、わっちの誠をお見せしんしょう」
そう言うと、顎を上向かせ、首に剃刀を当てた。
兵次郎は平静を装えず、目を剥いて凝然としていた。白菊はとりわけ意気地の強い女で、一度こうと言い出した以上、本当にやりかねなかった。
このとき、兵次郎の内の深いところで、不吉な欲望が曙光の如く現れ、亡霊の如くとり憑いた。そして欲望は彼の身の内を占拠してしまった。すると本来はすぐに謝罪し、白菊を宥めるべきなのに、彼は何も言わず、期待に胸を高鳴らせ、切れそうな三味線の弦の如く危うい彼女を、ただ見つめることしかしなかった。
首に剃刀を当て、挑むような眼差しで兵次郎を見下ろす白菊を、彼は呆けたように仰ぎ見ていた。
「おーい、兵次郎。もうお繁りかね」
ふいに外から、平吉の声が聞こえた。
張り詰めた緊張はにわかに和らいで、兵次郎と白菊はきょとんとして、互いを見つめた。
「返事くらいしやがれ。この畜生め」
突然襖が開き、平吉が顔を出した。時刻は五つを過ぎたところだが、もはや彼はだいぶ酔っているらしく、顔が蛸のように赤くなっていた。
「濱里に会いに来たのだが、庄蔵からおまえが来ていると聞いて、挨拶をせねばならぬと…、おい、何をやっている」
平吉は他の店に馴染みの女郎がいるけれど、兵次郎との付き合いで、以前和泉屋へ訪れた折、濱里という女郎を気に入っていた。だからこの日も付き合いでここを訪れたという建前を求め、わざわざ挨拶に伺ったのである。
もう首に刃を当ててはいないが、白菊はだらりと垂れた右手に、未だ剃刀を握っていた。
ずり落ちた襦袢から半ば肩が露になった。
「兵さんの鬚が伸びていたので、剃りなんした」
そう言うと煙草盆の引き出しに、素早く剃刀を戻した。
このあと二人がよりを戻すことはなかった。というのも、兵次郎の足がしばらく廓から遠ざかると、そのうち白菊は病を患い、箕輪の寮に引っ込んでしまい、彼が見舞いに行こうか迷っているうちに、彼女が息を引き取ったからである。
喉に剃刀を当てがう白菊を前にして、あのとき抱いた欲望を、兵次郎は幻だと思いたかった。あのときの自分は本当の自分ではないのだと。しかし白菊を思い出すたび、その欲望の記憶も、影のように付きまとう。
兵次郎は熱意を持てないことに苦痛を感じるほど、日々の生活に飽き、倦み果てると、自分の一生がひどく堅牢な牢獄のように感じることがあった。白菊を前にしたときに抱いた欲望は、ちょうどこの牢獄から抜け出そうとする欲望でもあった。日々の生活における自分を破壊し、本来の孤独な自分に立ち返ろうとする欲望である。そうしないと生活全体が、どこか欺瞞に満ちたものに感じられてしまうのである。しかし彼が孤独に耐えられるはずがないから、この欲望はやっかいこの上なかった。
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