君に触れた夜

海野雫

第1話

 夜の帳が下りる頃、バー「Night Owl」は静かにその扉を開く。微かなジャズの旋律とウイスキーの香りが店内に満ち、グラスの触れ合う音が心地よいリズムを刻んでいた。


 カウンターの奥に立つ俺、駆は、いつものようにグラスを磨きながら客を迎えていた。ここは常連客の多い店で、特に音楽業界の人間がよく顔を出す。バンドマン、作曲家、ライブスタッフ――夢を追う者たちが集う場所だ。


 その夜、扉が勢いよく開き、見慣れた男がふらふらと店に入ってきた。


かける~……飲ませろ……」


 陽翔はるとだった。彼はいつものようにラフなTシャツにレザージャケットを羽織り、ジーンズは所々ダメージ加工されている。普段なら自信に満ちた笑顔を見せる彼が、今夜は違った。目元が赤く、少し虚ろな表情をしている。


「お前、飲みすぎだろ」


「今日は……ライブだったんだよ。すげぇ盛り上がった。でも……」


 陽翔はそこまで言うと、ぐったりとカウンターに突っ伏した。バンド活動をしている彼が酒を飲むこと自体は珍しくないが、ここまで泥酔するのは見たことがない。


「おい、大丈夫か?」


「大丈夫……って言いたいけど、ちょっとキツい……」


 俺はため息をつき、バーカウンターから回り込むと、陽翔の肩に手を添えた。


「もう閉店時間だ。送ってやるよ」


「えぇ~……悪ぃな……」


 酔いが回っているせいか、陽翔の足取りはふらついていた。俺は彼の腕を引いて店を後にする。夜の空気は冷たく、酔いを覚ますにはちょうどいいが、陽翔の意識は朦朧としていた。


「駆、悪いな。お前、いつもこうやって俺の面倒見てくれるよな……」


「お前が酒に飲まれすぎなんだよ」


 口ではそう言いながらも、俺の胸は締めつけられていた。長年、彼に秘めた想いを抱えながら、ずっと幼馴染として傍にいるだけだった。男同士――それだけの理由で、踏み出せない距離。


 部屋に着くと、陽翔はベッドに倒れ込んだ。靴を脱がせようとすると、「駆……」と微かに名前を呼ばれた。


「ん?」


「お前って、優しいよな……」


「お前が酔ってるからそう感じるだけだろ」


「かもな……」


 陽翔は薄く笑い、そのまま静かに目を閉じた。俺はしばらく彼の寝顔を見つめていた。普段は活発で、周囲を惹きつける存在の彼が、今はただ静かに眠っている。


 その時、俺の心に抑えきれない衝動が湧き上がった。


 ゆっくりと、彼の頬を撫でる。


 そして、そっと唇を重ねた。


 しかし、その瞬間――


「……駆?」


 陽翔が目を覚ました。


 俺は息を呑み、すぐに体を引いた。


「ごめん、今のは……」


 言い訳をしようとする俺を、陽翔は驚いたような目で見つめていた。沈黙が重くのしかかる。俺は目をそらし、苦し紛れに言葉を続ける。


「……気のせいだ。忘れてくれ」


 だが、陽翔は何も言わなかった。ただ静かにベッドから起き上がり、俺の横をすり抜けるようにして部屋を出て行った。


 ドアが閉まる音が響いた。


 俺はただ、立ち尽くすことしかできなかった。

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