第4話【終】
「どうかしたの?」
はっと気づくと、トイレから戻ってきたらしい晴香が、いつの間にか前の席に座り、神妙な面持ちで俺の方を見ていた。もうディナーはデザートを残すのみとなっていた。
「顔色が悪いわ」
そう彼女が言うので、俺はぎこちなく微笑んだ。
「慣れないことをして緊張したんだろう」
「なるほどね」
彼女は納得したらしかった。
そのあとは、いつもと変わらない週末がやってきた。少なくとも、晴香とともにベッドへ眠りにつくまでは。一つ違うことと言えば、間接照明の下で彼女の裸を見た時、俺が少し触れるのにためらったということぐらいだ。それは一瞬のことで、彼女に気づかれほどの動揺ではなかった。
晴香が問題なのではない。
問題は先週の土曜日、ホテルのベッドに置かれていた荷物なのだ。
荷物には女の胴体が入っていた。ちょんぎられた首に、細い腰、陰毛の生えていない作り物の恥部。よくできていた。とてもよくできていた。だが段ボールの隙間から、女の乳房がちらりと見えただけで、俺は吐き気を覚え、すぐさま蓋を閉めた。
これはイミテーションだ。
クリスマスの街を照らす明かりは、空に浮かぶ星の光にはなりえない。
俺はベッドに荷物を置きっぱなしにして、何かから逃げるように、慌ててホテルを出た。ホテルと思われる番号から電話が来たが、出ることはしなかった。
荷物は俺を追いかけてくる。もはや逃げることはできない。地球の裏側に逃げても、火星に逃げても、荷物は土曜日の朝、俺のもとへとやってくるのではないか。その考えは、あながち間違ってはいないように思われた。
それからずっと、喉に両手をかけられたかのような息苦しさを覚えていた。もはや俺の頭には、次の土曜日に何が届くのかという考えしかない。
俺には気晴らしが必要だった。何もかもを忘れられるような気晴らしが。俺の将来は明るいのだと、希望は失われていないのだと、信じられるよう何かが必要だった。そうでなければ、気が狂ってしまいそうだった。
ホテルから逃げ帰った翌日、つまり先週の日曜の夜、電気を消してベッドに入ると、俺は呟いた。
「彼女にプロポーズをしよう」
すぐに言い直した。
「いや、まだそれは早い」
そして今、俺の隣では、晴香が規則正しい寝息を立てている。
先週と同じく真っ暗な天井を見つめながら、俺は乾いた唇を舐めた。緊張を感じ、すんなり眠りにつくことができなかった。もうすぐ土曜日の朝がやってくる。きっと次に届くのは人間の頭だろう。とにかくそれが届いてしまえば、すべてが終わるはずだ。荷物は届く。けれどきっと次で終わりだ。
なぜなら次の荷物で一人の人間が、いや、一人の女が完成するからだ。
もし届いたら今までのように捨ててしまえばいい。たしかに気味の悪い荷物ではあるが、呪われた人形でもあるまいし、これまであの荷物が俺に悪さをしたわけでもない。
とにかく捨てて、それで話は終わりだ。何度も寝返りを繰り返し、意味もなく水を飲んだりトイレに行ったりして、ようやく俺は眠りについた。
ふと目が覚める。
暗闇の中に、誰かが隣に立っている感覚があった。
「晴香か?」
そう訊こうとして、身体が動かないことに気がつく。
晴香ではない。彼女は俺の隣で眠っている。身体の右側に彼女の熱を感じている。それでは左側に立っている女は誰だ。
女。それは女だった。
生臭い匂いが鼻をついた。下水のような匂いだと思ったのだが、雨の匂いだと気づく。夕立が降る直前に感じる、湿気の入りまじった雨の匂い。動くことのできない俺は視線だけを必死に左側へ向ける。
朝はまだ遠いのか、外は真っ暗で、窓からもれるかすかな光だけでは、そいつの顔を見ることはできない。俺の隣には、ただひとつの真っ黒な影があるだけだ。女は俺の顔をのぞくように、腰を曲げ、頭を近づけていた。ふと冷たい何かが頬にぽたりとあたった。それは頬をつたって、やがて口元へと垂れた。鉄臭いしょっぱい味が舌をうった。リアルだった。まるで本物の血のようではないか。これは夢だ、夢なんだ。そんな声が頭から聞こえた。だが、次々と女の頭からたれる血は、はっきりと冷たさを感じ、どれも同じようにしょっぱかった。
黒い影はゆっくりと近づいていた。耐えがたい、生臭い匂いが鼻孔をくすぐった。夏場に置きっぱなしだった生ごみの匂い。腐った汚物の匂い。女が腕を伸ばし、俺の首筋に触れた。指先が触れる。彼女の手は冷たかった。まるで人形みたいに。いや、死体みたいに。その手が首に触れた瞬間、俺の身体がびくりと跳ねた。
おのれの叫び声で目が覚める。
最初にカーテンから漏れる光と、カーテンレールから伸びる影が目に入った。数秒の混乱が過ぎると、俺はゆっくり瞬きを繰り返した。
夢? ほんとうに?
息を整え、左側へゆっくりと視線を投げた。見慣れた部屋の風景が広がっている。そこには誰もいなかった。ただ眩しいほどの朝日が床を照らしているだけ。俺は肘をついてゆっくり身を起こし、慎重に視線を下へ、下へと向けた。誰かがいた形跡はなかった。
もし床が濡れていたらどうしようかと思ったのだが、そんなこともなかった。
長いため息が出た。
無意識のうちに、右手が隣で眠る晴香を探る。ほどなくして彼女の身体へと行き当たる予定だった。だがいつもは彼女の頭がある場所には何もなかった。
それから、ふいに先ほどの夢で感じたような、強い血の気配を感じた。
俺は振り向いた。
ベッドの右側には全身の関節を捻じ曲げられた、かつて俺の恋人であった死体が一つ、転がっていた。
- 終わり -
2022.10.02
あなたのお人形 庭野ゆい / niwano @nwnyui8
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