septet 07c 脱出/Long Time Ago…-命令-
palomino4th
septet 07c 脱出/Long Time Ago…
監禁状態でいる内に、彼は外の世界がどうなっているのかまるで分からなくなっていた。
もうどれくらい自分が放置されているのかも分からない。
床に寝たままぼんやりと濁った目で扉を見ているだけだった。
外の世界でどれくらいの破局があったのか、大地震かミサイル着弾か。
とにかく建物もひどい有様だというのに、誰も彼を連れ出しに来る者はいなかった。
もう面倒くさいからこのまま起き上がらずにいよう、と思うくらいに忘れ去られて取り残された。
彼は上半身に拘束衣を着せられて両腕を封じられていた。
元々、身に覚えのない殺人事件の容疑者に仕立て上げられ、証言の支離滅裂さから精神鑑定に回され結局、閉鎖病棟に送られてきた。
頭にあるのは名前なのか管理番号なのか判然としない「B-1013」という呼び名だけ。
大人しい患者であったのに、ある朝、三人に分裂するという異常な出来事が起こり、分身の一人は脱走、一人は入水するというのが続き、病院側は不測の事態をおそれて拘束衣を被せてきた。
とんだとばっちりだ、と彼は嘆いた。
外で爆発音や破壊音がひっきりなしに起こり、人々がこの施設から一斉に出ていったのは分かった。
おそらく緊急の対応で閉鎖病棟の扉も開放され走れる者は自力で病棟から出ていった。
拘束衣のために彼は起き上がれず、投薬のためにはっきりしない状態の頭のため、ドアから出ることが出来なかった。
猶予もなかったろう、部屋ごとの確認をすることもなかった。
おかげでこの通りここに一人残された。
不貞腐れてこのままでいようかとも思ったが、喉の渇きが耐え難くなってきた。
嫌でも飲み水を探さなければいけない。
彼は苦労して脚だけを使い、どうにか起き上がった。
体力も落ちて安定して歩くのも難しい。
壁に寄りかかりながら転倒しないよう歩き、半開きの扉に向かった。
廊下の照明は皆消え、病棟の出入口の方に微かに外光らしき気配があり、それぐらいが光源になっていた。
投げ出された様々のものが廊下に散乱していた。
病棟に給食を運ぶワゴン、リネン類を回収する袋、剥がれ落ちた掲示物。
廊下の壁には亀裂や崩落ががあり、扉の中にはひしゃげているものもあった。
人間の姿が見えない。
ゲートも開放されたままだったで、彼はようやく外界に出ることができた。
階のナースステーションも空だった。
拘束衣の姿のまま立ち尽くし、彼は周りを見回した。
冷水機があったが、通電しておらず動かなそうだった。
窓から外を見ると外は昼間だったが、見える風景がことごとく壊れていて彼はショックを受けた。
同じ敷地内にある別棟の外壁も崩れており、眼下の駐車場や舗装道路も壊れた上に、路上には乗り捨てられた自動車がいくつも放置されていた。
茫然と見ていると、別棟上階の窓の一つに動く人影のようなものが見えた。
まだ誰かいるのか?彼は注視したが、窓から移動したのか姿が見えなかった。
彼は建物を出るために階段まで行き壁に寄りかかりながら一段ずつ降りた。
大地震の後のようにひしゃげた階段は部分部分で穴も開いており、安全を確かめながら時間をかけて進んだ。
建物から出て駐車場の中央に立った。
所々、舗装が壊れており車が走れる状態ではなかったのが分かる。
病院は郊外の山裾にあるらしく、そこから更に下方に民家がぽつりぽつりとあった。
敷地外の方も伺ったが、見える範囲のどの建物も半壊し、ダメージも広く及んでいるようだった。
そしてやはり人影が見えない。
彼は向き直り、さっき人影らしきものが見えた別棟の上の階を目指す。
割れたガラス片を避けながら入り口から入った。
彼がいた棟よりもかなり被害が大きかったのか内部の崩れ方が酷かった。
捻れところどころ抜け落ちた階段を彼は上っていった。
更に階を上がろうとして、彼は足を止めた。
階段の全面に瓦礫と砂埃が覆っていた。
真上の階段が完全に崩落したようだ。
彼は石塊を避けて繋がっているところまで階段を上がり、分断された端に立ち上の階を見た。
最上階の踊り場に深緑のウィンドシェルとカーゴパンツを纏った女性が一人立っていた。
「あなた、ここの人?」女性は言った。
それから拘束衣を着ている彼の姿を見て何かを察したようでしばらく言葉を失ったが決意したように彼に向けて言った。
「ごめんなさい、助けて欲しいの。協力してくれる?」
彼女は最上階を探索している内に起こった地震で完全に階段が崩落してしまい降りられなくなった、と言う。
梯子を見つけたのだが、渡した先に梯子を固定する足掛かりがない、反対側で体重をかけて固定してくれないか、と頼まれた。
彼は言われた通り、梯子を押さえる重石の役割を受けた。
彼女は上階の端から梯子を渡し、片側を手すりに寄せてシーツを回して縛り付けた。
それから別のシーツを繋いで荷物を詰め込んだらしきリュックを階下に下ろした後、彼に梯子の下に体重をかけて押さえておくように頼んだ。
彼が梯子の脚に体重を乗せて抑えると、彼女は向きを変え後ろ向きになりながら梯子に乗り降り始めた。
45度の斜めになった梯子の上に人が載った途端、しなりながら滑りそうなところを、彼は両腿で梯子の足と階段の手すりを挟み込んで必死で固定した。
なるべく早く渡ってください、と彼は声をかけたが、女性の動きは恐る恐るでのろかった。
身体に食い込む梯子の痛みは人一人の体重も加わったもので、彼は早く終わることを念じながら耐えるしかなかった。
梯子の最後の一本から足を下ろし、ぎこちなく立ち上がると彼は足を開いてそのまま寝転んだ。
「ありがとうございます」女性は言った。「その……」
「こちらもお願いがあるんです、水を飲ませて欲しいんです」
女性は回収したリュックから取り出したペットボトルのミネラルウォーターを開け、彼の口元に持っていった。
慌てて飲んでむせないよう、少しづつ。
彼は目を閉じて水が自分の身体に染み込むのを待った。
「ありがとうございます」彼は例を言った。
「あなた、どこにいたの?他に誰か見なかった?」
「僕は向かいの棟の閉鎖病棟にいました。人を見たのはあなたが初めてです」
女性はその答えに落胆したようだった。
「その、あなたは……」言いかけてから彼女はどう尋ねようか迷って詰まった。
「患者でした。これはつまり……そういうわけで」彼は拘束衣の様子を軽く暗示した。「外の方で何か大変なことが起こった時、みんなそれぞれが逃げるのに精一杯で僕はまぁ忘れられてたのかできなかったのか」
「でも、そのままなんて、ちょっとひどいんじゃない」
「僕、殺人犯だと思われてたんですよ」さらりと彼が言うとしばらく場が沈黙した。
少し置いてから彼は続けた。
「来た時はこれほどの待遇じゃあなかったんですけど、脱走したり自死したりされるとまずいから……こうしたのかもしれません。もしかしたら殺人鬼と思われて改めて被せられたものなのか。でも、自分でも外してもらいたいかどうなのか分からないんです。自分が忘れたりしてるだけで本当は危険な殺人鬼なのかもしれないと思うと、これが正しいようにも思えて」
「そんな。もしお母さんがいたら、きっとあなたを助けてた」と彼女は口にした。
彼が不思議そうな顔をしたので彼女は少し止まり、それから泣き出しそうな顔で言った。
「私のお母さんがここで職員してたんです。でもあんなことがあってから街全体が通信とか情報が途切れて。ここの病院とも連絡ができないし、実家に帰っても誰もいない。だから思い当たるところを探してここに来た。でも建物全体を探したけれどお母さんもその他の人もどこにもいなくて。きっとどこかに避難したんだろうと思うんだけど、お母さんがあなたの棟にいたら、きっと一緒に避難できてた。お母さん、見殺しになんかしない人だから」
「うん、そうだろうね」彼はそう言いながら、でも自分は差し伸ばされた手を掴み返さなかっただろうな、とも思った。「ここにいないお母さんの代わりに、こうして君が僕を助けてくれた。君たちはそういう親子だったんだ。僕は助かった。でも不思議だ。人の姿がまるでないんだ。向こうの棟を歩いてきたけれど、酷い被害があったっていうのに亡くなった人の姿も見当たらない。きっとお母さんたちも安全を確保して無事に避難してると思う」
「ありがとうございます」鼻声で目を潤ませながら彼女は答えた。「ここや周辺にも誰も見当たらない、次はどこを探したらいいのか」
「この地域自治体の、防災時の避難所とか……ですかね。病院周りの人たちで固まって退避してるかもしれせんよ。きっと無事でどこかに。病院の人だから多分、怪我した人の手当てとかで忙しくて連絡が取れなくなってるだけなんだと思います」
「ええ、きっとそう」
「私、美容師なんです。道具も持ってきてあるんで、助けてもらったお礼にあなたに散髪と髭剃りをしてあげます。緊急時で申し訳ないんですけど、残された介護用のアメニティグッズとかをお借りして少しさっぱりとしちゃいましょう」
「それはありがたいけれど」彼は口籠ったけれど好意をうけることにした。
陽光の下、壊れた駐車場の真中に椅子を出し介護用の食事エプロンを首回りにかけて彼の散髪が始まった。
彼は忘れかけてた感覚が取り戻されるような気がした。
「そんなにボサボサですか」
「それはもう」彼女はおかしそうに言った。「髪の毛も髭もすごくて。まるで狼男です」
「それに拘束衣なんだからヤバ過ぎますね。よく声をかけてきましたね」
「あそこに取り残されたままになるか飛び降りて両脚を骨折するかのどちらかでしたから……それに眼が優しそうでしたよ」
「あの距離では見えないんじゃ」
拘束衣ではなくても自分の頭の後ろを散髪するのは難しい。
合わせ鏡でもあればどうにかできるかもしれないが。
かき集めた中にあったシェービングクリームでの髭剃りが始まった。
床屋の使う剃刀を見て喉元を無防備に開けながら、もし彼女がその気ならばここで自分の喉を切り裂くこともできるんだよな、などと彼は妄想した。
太陽の下、一文字の傷口から血を流してここで死んでいくラストもいいかもしれない……。
しかしプロフェッショナルらしい仕事で彼女は美容師としてことをやり終えた。
エプロンが取り外され、タオルで首回りのゴミが払われた。
「ほら、野獣が王子様になった」
背後の彼女から携帯用の手鏡を前に出されて自分の顔と対面した。
知ったような、知らないような顔がそこにあった。
周囲の荒れた風景の中、略式とはいえ整髪まで終えてまさしく人間に戻ったような気持ちだった。
「この、拘束衣取っちゃいませんか」彼女は言った。
「……それは分からない。僕が危険なことを誰かや自分にやらないためにこれをつけたんだろうから、外したら何かしでかすような気がして。怖いんですよ」
「それは自分自身が決めることでしょう、命令されてやることじゃない。確実に殺人者だと分からないような人から、あらかじめ誰かがそういう自由を奪うなんてあって良いわけがない」
彼女の考えが正しいとも思えないが、彼は初めてそういう考え方があるのに気付かされた。
「あなたはもう野獣じゃなくなりました」
そう言った彼女にふと彼は答えた。
「じゃあ君は「ベル」だね」
「何ですかそれ。……って『美女と野獣』ですか。でも「ベル」ってなんかやかましそうですね。ジリジリ声を立てて」
「それじゃあ日本的に……「鈴」。フランス語の「ベル」ってそもそも「美女」の意味だから、それも含め名前らしく「美鈴」っていうことにしよう。本当にありがとう美鈴さん。」
「何か照れますね」
「王子様呼ばわりの方が照れましたよ」
二人で笑った後、彼は言った。
「大丈夫、きっとお母さんには会えますよ」
「はい、そう信じてます」
美鈴はそう言うと、ごく自然なことをするように、彼の背中で留められていた拘束衣のベルトをすべて開放した。
長く押さえつけられていた両腕が解かれたと同時に、彼の背後から彼女の気配が消えた。
首を曲げると、椅子の後ろには誰もいなくなっていた。
上半身を更に捻るとバランスを崩して彼は椅子からすべり落ちた。
駐車場には彼一人だった。
久しぶりに使う両腕は痩せ細りこそしていないが、すっかりと力の入れ方を忘れてしまったかのようで、地面に手を突こうとしてもうまく半身を支えられなくなっていた。
脚だけを使い、どうにか地面に座り直した。
……きっと美鈴は母親のいる世界に行ったのだろう、と彼は思った。
少しづつ両手の感覚が戻り、椅子に座り直しながら遠く街の方面を見た。
とりあえずここを出て外に行くことだ。
もう自分をここに留めておく命令も何もない。
放置された自動車の間を抜け、敷地の端まで来た。
病院の周りに植えられた植栽の中に薔薇の植え込みがあった。
季節なのか場違いに優雅なクリーム色の花を咲かせていた。
ベルの父親は野獣の庭に迷い込んでしまい、ベルのために一輪の薔薇の花を手折ってしまった、そのために父親はベルを野獣に差し出さなければならなくなった。
彼は薔薇の茎に指を添え、ゆっくりと力を入れた。
加減を確かめながら茎を折り、ちぎり取ると顔の傍に近づけて香りを確かめた。
野獣の愛したベル、野獣の愛した薔薇の花。
ベルは野獣を呪縛から開放した。
美鈴はB-1013の枷を解き放った。
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