雪女は子育て中
@ikraegg
第1話
「新潟に住んでいる」と言うと、雪がすごいんでしょ、と返されることが多い。確かに県内の多くが豪雪地帯だが、実は海沿いの新潟市はあまり降らないし、降っても大抵すぐ溶ける。それでも、稀に、数時間でいきなり積もることがある。その日も、そんな突然の大雪の朝だった。
天気予報を聞いて覚悟していたものの、目覚めた時、あまりの静けさに一気に頭がはっきりした。雪は音を吸うというが、雪が積もった時の独特のしんとした音の無さは、窓を開けなくてもわかるのだ。
「雪すごいから、今日は早く出るよ!」
年長の長男ともうすぐ3歳の次男を叩き起こし、どうにかこうにか朝食と身支度をさせ、防水のツナギを着せたら、スタンバイOKだ。あ、自分の化粧?会社に着いてから適当でいいや…。
玄関を出ると、下のチビ助が、歓声を上げた。「おかあしゃあん、ゆーきー、しゅごおい!」ボサボサと、ひたすらにボサボサと、雪が降っている。勤務地が遠いため一人とっとと車で出かけたはずの夫が玄関前の雪は除けてくれたようだが、そこにも既に10cmは積もって見える。子ども達は、「ウキャー」とけたたましい笑い声を上げて新雪の中を転がり始めた。私は屋根に積もった雪よりも重くなった心を何とか奮い立たせ、二人の手をガシッと掴んだ。「続きは保育園でどうぞっ!」
徒歩3分のはずの保育園に10分以上かけてたどり着き、開園と同時に二人を先生に引き渡すと、さて、第2ラウンドだ。
こんな日は、「除雪が間に合わない」「道路が通れない」などなどの理由で、簡単に電車やバスが運休になる。幹線道路では雪が歩道に積み上げられ、歩行者はマイカー達の大渋滞をすり抜けながら、半ば命懸けで車道を歩く羽目になる。それでも確実に出勤するのに一番当てになるのは、自分の二本の足。それから、地元民ならではの、車通りが少なく会社まで最短で到達できるルートに関する知識だ。
いざ、出陣。私の職場はこの保育園から約5キロ、普段なら歩いても1時間くらい。が、雪が積もっていて足場が悪く、さらに降り続けているため視界も悪い今日は、事情が違う。覚悟を決めて、私は住宅街の細い通りを踏み締め始めた。
歩みを進めるにつれ、風が強くなってくる。元来海沿いの砂丘の上にある新潟市は、風が強い街なのだ。我が家ではボサボサ重力のままに落下していた雪が、風に乗ってバシバシ顔を叩き始める。(しんど…)声にならない愚痴が漏れる。これを乗り切ってわざわざ会社行って。私がやっている仕事にそれだけの意味あるのかなあ?夫の稼ぎだけでも何とかなるのに。家でチビ助共の相手をしていた方が、よっぽど生産的なんじゃ。
足を止めて、顔を手で覆って深呼吸一つ。肺がつべたい…。私は、専業主婦は性に合わなそう、と自分で思ったから、二人目を産んでからも会社を辞めなかったんだった。だから、今こうして吹雪の中をマジメに歩いている。それを一瞬でも忘れさせるとは、雪、恐るべし。
ふいに、吹雪でろくに前も見えないはずのその路上に、子どもの姿が見えた。うちの二人の息子達の、中間くらいの年だろうか。こんな朝に一人で外にいるには、まだ小さ過ぎる。近くに保護者は見当たらないが、勝手に家を出てきたのか。そういえば、めちゃくちゃ薄着じゃないか?白っぽいワンピースみたいな物しか着ていないように見える。放っておいていいのやら、思わず足が止まった。その時。
「遊ぼ」その子の口から、それが聞こえた。どうやら、話しかけた相手は私のようだ。
「ごめんね、おばさん、お仕事に行かないと。だから、遊べないの。一人でお外は危ないよ。すぐお家に帰んなさいな。」
私が言い終わるか終わらないかのうちに、その子は「ウキャー」とけたたましく笑いながら、駆け出した。おお、この声、さっきも聞いたぞ。雪が生活を圧迫したり時に人を殺したりする面倒なもんだなんて知らず、冷たくて綺麗で楽しいものだと思える、子どもらだけが出せる声。やっぱり、放っとけない。仕事遅刻するかも、との不安も頭をよぎったが、ここは幼児の安全確保が優先だろう。とにかく、追っかける。
子どもの足は意外と早い。吹雪の中を追いかけても、なかなか距離が縮まらない。雪片がひらひら目に入っては溶け、視界はいよいよゼロに近づいてきた。市街地にほど近い住宅街にいるはずなのに、なんだか、果てしない雪原を彷徨っているような錯覚を覚える。いや、それ錯覚なんだろうか。私、どこにいて、どこに行くんだっけ?雪、すごい。そうそう、寒い日の雪の結晶て、肉眼でもちゃあんと見えるんだよね。子どもの頃は、飽きもしないで、次々手のひらに落ちては溶けていく雪の結晶を眺めたりしたよなあ。…あれ?何か、私、おかしいぞ。
私が我に返るのと、子どもが突然足を止めるのと、同時だった。その子は振り向くと、私ににっこりと笑いかけた。その子は、女の子だったようだ。そして、怖いくらい、幼い頃の私と同じ顔をしていた。
その次の瞬間、子どもの隣に背の高いこれまた随分薄着の女性が現れた。本当に、いきなり、そこに現れたように見えた。子どもが嬉しそうに駆け寄るのをその人はふわりと抱き止め、そのまま二人の姿は吹雪の中に消えてしまった。
と…とりあえず、良かったよ。ちゃんと保護者が連れてってくれた。混乱する自分をそう納得させて顔を上げると、一瞬雪が弱まって、もうすぐそこに市役所が見えた。
何とか勤務先にたどり着くと、同僚のヨウタくんがピロティでコ−トの雪をはたいていた。私も隣で真っ白になった全身から雪を落とす。
「いやあ、今日は久しぶりにひどいっすね。俺ん家の方、バス全然来なくって。」
「こっちもだよ。初めから諦めて歩いて来たよ。仕事始める前に疲れ果てちゃった。」
「俺も。着いたばっかりなのに、もう帰りてえ。」
「愚痴ってるわりには、楽しそうじゃない?」
「まさか。ガキの頃は、雪が降るとなんかワクワクしたもんだけど、今となっちゃねえ。スキー場だけで降ってくれ、です。」
ヨウタくんはそこで言葉を切って、一つため息をついてから、少し声のトーンを変えた。
「久々に吹雪の中歩いたら、小学生の頃流行った都市伝説みたいなやつ、思い出したんすよ。雪女は朝に出る、てやつ。梶川さんが子どもの頃も、ありました?」
「…聞いたことないな。そもそも雪女って、夜現れて狩人を凍らせるイメージなんだけど。」
「だから都市伝説なんすよ。朝に出て、子どもにちょっかい出したがる雪女がいるって。」
ああ、そういうことか、と合点がいった。
「それさ、子育て中の雪女なんだよ、きっと。子どもをよその子と遊ばせるなら、夜より朝だもん。」
「ああ、それならなんかわかりますね。」
ヨウタくんはくつくつと笑った。ふと、彼も雪女に会ったことがあるのかもしれない、と思った。
今日は、なるべく早くチビ共を迎えに行ってあげよう。雪の中をあの子達とゆっくり歩こう。そしたら、こんな大変な日も、いつかは楽しい思い出になるんだろう。そんなことを思った、朝だった。
雪女は子育て中 @ikraegg
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