3 前任者
怪訝な顔でジンを見つめるウィルの目が次第に見開かれていった。
「まさか……あいつから何も聞いてないのか?」
「何って、何を?」
「何も知らずにここで庭師として働いているのか?」
さっぱり意味が分からない。ウィルは困惑を隠さず、動く方の右手で乱暴に髪をかき上げると何か考えていた。やがてジンに向き直る。
「庭師として雇われて一緒に暮らしてるなら、あいつが植物の世話も家事もてんでダメなのは知ってるんだろう。じゃあ、これまで一体誰が管理していたと思うんだ? この家、大量の植物」
言われてみればまったくその通りだった。
一度気づけば不自然なほどにジンは今までほとんどその背景を考慮せずにきた。気づかなかったのか。
それともあえて気づかないふりをしていたのか。
ウィルは告げる。
「全てを話そうとすると長くなるからな。簡潔に説明するぞ」
今からほんの半年前まで、この家にはハルトマン・リュッゲベルクという男が住んでいた。シュテフィにとっては父親の兄であり、伯父にあたる。
リュッゲベルク家は代々軍人の家系だ。
ハルトマン以外の親族は皆軍属だった。遠征訓練などで長期間家を留守にするとき、シュテフィと彼女の父親の同僚の息子であった幼馴染のウィルはよく一緒にハルトマンの元に預けられていた。
特にシュテフィはハルトマンによく懐いていた。
「気が合ったんだろうな。ハルトはリュッゲベルク家の長男でありながら軍人にならなかった。武器も戦争も嫌っていた。たまにファニを預かる以外は、リュッゲベルク家からはほとんど勘当同然の扱いだった。彼の代わりに親族の期待を一身に背負った弟――ファニの父親とは真反対の人間だった」
「シュテフィも、軍属を嫌がってたのか?」
「表向きは違うが本音はな。だが、あいつには圧倒的な魔法の才があった」
クーゲル王国は世界でも有数の軍事魔法先進国だ。
とはいえ魔法が使える者はそう多くないから、軍は常に魔法使いや魔女の確保に必死だ。軍人の中でも魔法が使える者はエリート中のエリートだ。
やがて例に漏れず、シュテフィもウィルも軍人になった。
戦争が始まり、ハルトとは疎遠になった。
「どんな人だったんだ?」
ジンが尋ねると、ウィルの口元がわずかに緩んだ。口調に懐かしさが滲む。
「穏やかな人だった。背が高く、痩せていて、いつも縁の丸い眼鏡をかけていた。好きなものは植物や動物、本、詩に絵、音楽。魔法は使えないが調合師をしていてな。いつも大きなトランクをかついで診療に出かけていた」
ジンは以前シュテフィに渡された、女性が運ぶには大きすぎる革製のトランクを思い出した。あれはハルトのものだったのだ。
戦争が終わり、ウィルが気がついたときにはもうシュテフィは軍を辞めていた。
人づてに聞いた噂で、彼女がこの家で伯父のハルトと共に暮らしていることが分かった。
それから一年と数ヶ月が経ち、ウィルの元にハルトの訃報が飛び込んできた。
「その後はお前も知っている通りだ。ファニはこの家で魔法薬の調合師を始め、異世界からお前を連れてきた。そして今日、俺がここに来た」
ウィルは一度言葉を切り、ジンの反応を確かめるように見ると再び口を開いた。
「俺がお前を異世界から来た人間だと見破れたのはな、ハルトが亡くなった後のファニに頼れるものが他になかったからだ。少なくともあいつ自身はそう思っていたんだろう。戦争で、あいつはあまりにも有名になりすぎた。おおっぴらに動けない状況の中、ハルトの遺した植物をなんとか守ろうとしたんだろう。それで誰も自分を知らない場所――本来は禁忌の異世界に有識者を求めた。……まったく、俺に連絡を寄越せばいいものを」
「シュテフィは……ハルトのことが好きだったのか」
「俺の知ったことか。もう死んだ人間だ」
ウィルは忌々しげに舌打ちし、喋りすぎたとつぶやいた。
「とにかくもう分かっただろ。俺はファニを軍に連れ戻しに来たんだ」
ジンは俄かに慌てた。
「ちょっと待ってくれ。シュテフィが自分の意志で除隊したんなら、あいつは戻りたいと思わないんじゃないか?」
「個人の感情は関係ない。あいつが逃げても戦場があいつを逃さない」
ぴしゃりとウィルは言う。まるでそこから自分の感情すら追い出すように。
「仲間内では、あいつを勝利の女神と呼ぶ奴もいた。あいつのおかげで戦争が終わった。自国を勝利に導いた。あいつのおかげで皆が家族の元に帰れたんだ。知っていると思うが、あいつは――」
「聞きたくない」
ジンはついその先のウィルの言葉を遮った。
「悪い。いろいろと教えてくれて本当に助かるよ。でもその話は、俺はいつかあいつ本人の口から聞く」
「言ってろ。理想主義者が」
ウィルは鼻で笑った。苛立ったように言葉を続ける。
「お前を初めて見たとき、ハルトに似ていないと思った。だがそういうところはそっくりだな。自分が聞かなければ、問題から目をそらし続けていれば、事実がなかったことになるのか?」
「そういうわけじゃない。俺はただ……シュテフィの意志を尊重したいだけだ」
「綺麗ごとだろう。自分には彼女の意志を尊重していると言い聞かせて、本当はただ自分の手に負えない問題から逃げ続けているだけじゃないのか? 弱い奴には何も守れない」
その言葉はジンの胸を深く貫いた。
図星だった。クノッヘンのことでアンネとシュテフィが言い争ったとき、なんと言葉をかければいいのか分からずにその場を逃げ出した。
懐が深いようなふりをしてただ見守っていることは、何もしていないのと同じだ。
結局、元の世界で橘を救えなかった頃から自分は何一つ変わっていない。
口をつぐんだジンにウィルは落ち着いた調子で続けた。
「俺だって、何も今日の今日いきなりあいつを軍に引っ張っていこうというんじゃない。そんなことをしたら片腕じゃ済まないからな。今日は二週間後の大叔母様の誕生会の招待状を持って来たんだ」
「誕生会?」
「ああ。賑やかなのが好きな方で毎年盛大にやるんだ。ラング家とリュッゲベルク家は元々家族ぐるみで付き合いがあるから、戦争が始まるまではファニも参加していた。そこに今回は正式に俺のパートナーとして帯同したい」
その瞬間、動揺が顔に表れていただろうか。自分がどんな顔をしているのか想像もつかなかったが、ウィルはこちらを見据えると堂々と宣言した。
「大体、血縁もなく恋仲でもないなら、妙齢の男女二人が一つ屋根の下で暮らすような状況は不健全だろう。ファニは俺が正式に貰い受ける。どのみちお前の手に負える女じゃない。……なぜ俺がお前にここまで手の内を明かすか分かるか?」
ジンは首を横に振った。
「脅威と見なしていないんだ。お前はハルトの下位互換だ」
そのとき、家の方で派手な物音がした。
「何の音だ?」
思わずジンとウィルは顔を見合わせる。そうしている間にも何かが爆発していると思しき断続的な破裂音が続いている。二人ともほぼ同時に家まで走り出した。
わずかにジンが先にたどり着き、扉を開ける。
室内に立ち込めていたもうもうとした白い煙が一気に屋外に流れ出してきた。強烈な刺激臭が目と鼻を突き、反射的に涙が溢れる。
「だめだ! なんかガス系の臭いがする。ウィル、吸うな!」
「おい、ファニは⁉」
言われて焦る。この状況でとても無事でいるとは思えない。一刻も早く助け出さなければ。
「シュテフィー!」
「呼んだかい?」
思い切り叫んだ瞬間、濃霧のような白煙から急に彼女がひょっこりと顔を出した。ジンとウィルを見て驚いたように目を丸くする。
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