12 魔女の過去は
「実は、魔法が使えるのは俺じゃないんだ。本当は彼女の方なんだよ」
「なに?」
「俺はステージ上で演技してただけだ。実際に魔法を使ったのはあっちだ」
ちらりと背後の部屋を振り返る。ジンとドミニクの視線の先では、シュテフィが上等なソファやベッドに片っ端から飛び乗っていた。あいつ手洗ったんだろうな。
「俺は彼女の元で働いてる庭師なんだ。だから、どっちかっていうと雇われてるのは俺の方だな。今まで騙してて悪かった」
「だが、お前たちはとても主従関係には見えないぞ。てっきりお前の方が上で、女の好きにさせているのだと思っていたが……」
「俺たちは主従関係じゃないんだよ。雇い主と従業員ではあるけどな」
「恋人同士なのか?」
「いいや」
「ならば、なおさら謎だ。彼女は
「おお……元いた世界だったらコンプライアンスに抵触しまくって全部伏字になりそうな発言だな」
「こん、なんだ?」
「いやなんでもない」
ジンは思わず苦笑した。文化が違うとこうも感覚が違うものなのか。
アバクスに来る前のイーヴォとの会話を思い出す。ジンの出身地を知らないと言い(当たり前だ)差別的な意図はないと弁明されたり、女が表舞台に立つのは危険だと忠告されたことを。
ジンの感覚からすればドミニクの発言は超差別的だ。
しかし、リヒトではむしろこの感覚が当たり前なのかもしれない。もちろん本来ここまであけすけに口に出すことはないだろうし、内に秘めているのだろうが。
裏を返せば、この世界ではそもそも生活の前提として差別があるのだろう。
大気の大部分を占めているにもかかわらず、誰もがその存在を意識しない窒素のように。ドミニクの生きてきた環境にはそれだけ自然に差別が溶け込んでいたのだろう。
そう考えると、この世界においてシュテフィは実にフラットな人間かもしれないとジンは思った。
上流階級と平民の差はあるのかもしれないが、オリーヴィアよりも年上のシュテフィは結婚していない。そのことを気にしている素振りも微塵もない。街を行く他の女性と比べて派手な服装をしている。おそらく男性の庇護を受けずに手に職をつけて自力で生計を立てている女性というのも、この世界では珍しいのだろう。
フラットな人間という評価はシュテフィ本人の性格にも当てはまる。彼女は人間と動植物の命の重さにすら差をつけているように見えない。
そもそも出自や身分を気にするような人間だったら異世界の人間を雇ったりはしないのだろう。その結論にたどり着き、ジンは再び苦笑した。そう考えると自分が今ここにいるのも奇跡的なことかもしれない。
「結局は俺も運が良かったのかもしれないな」
ドミニクは、はっと息を吐いて笑った。笑うと凛々しい顔立ちがくしゃっと崩れ、より若年に見えた。
「そう思う。己の境遇に感謝した方がいい。普通はそう上手くはいかない」
ドミニクはジンに籠を渡し、長居したなと廊下を戻っていった。その背中にジンは声をかける。
「ドミニク、お前はオリーヴィアのことをどう思ってるんだ」
「オリーヴィア様は私の全てだ」
即答が返って来た。
思わず呆れてしまうような惚気だ。無粋な質問だったなと思いながら扉を閉めて部屋に入る。
目の前に惨状があった。
「な……ちょ……一体、何をどうしたら、この短時間でここまで散らかせるんだ⁉」
あまりにも、ひどい。
綺麗にメイキングされていたはずのベッドはシーツがぐちゃぐちゃで完全にリカバリー不可能の領域だ。毛布は半分以上床にずり落ちている。横並びのベッドの二台ともがそれだ。
テーブルの上に用意してあったと思われる歓迎用の菓子と果物はいくつか食べられ、包み紙や皮が床に散乱していた。野生動物でも入った?
全ての犯人はソファで寝息を立てていた。
元々露出度の高いドレスが着崩れ、あられもない姿で寝転がっている様は西洋絵画を思わせる。ビジュアルだけ見れば煽情的に見えなくもないが、あらゆる感情が邪魔をしてそれを許さない。
「んぅ……む……こっちのベッドは……私のだよ……扉側の方が……弾む」
「お前が寝てんのはソファだよ」
ジンはため息をついた。観念して両腕をシュテフィの背中と脚の裏に差し入れる。
「ほら。危ないからちゃんとつかまれ」
「うん……」
意外なほど素直に頷き、するりとシュテフィの腕が首に回った。髪と頬が首筋に触れる。スイセンのような独特の甘い体臭がふわりと香る。
抱き上げた彼女の身体は思っていたよりもずっと華奢だった。そして驚くほどに柔らかかった。力加減を間違えたらどこか壊してしまいそうで急に恐ろしくなる。
脱力した人体というのは体格にかかわらず重いものだ。落とすわけにいかないので細心の注意を払ってベッドまで運ぶ。男の身体にはない、しっとりと滑らかな肌に指が沈み込んだ。
まったく。一瞬でも同室であることを緊張した俺の身にもなってくれよ。
せめてもの報復に窓側のベッドに寝かせてやった。
寝顔を見る限りはシュテフィも普通の女の子と変わらない。すうすうと寝息を立てている花弁のような唇の端に菓子のくずがついていた。同じ唇で中庭で聞いたような円熟した見解を語っていたとは到底思えない。
個人の思想や人格が培われるまでには相応の背景がある。
だとしたら、彼女はこれまでに一体どんな人生を送ってきたのだろう。
「今日は本当に疲れる一日だったよな。おやすみ」
口の端をそっと拭ってやり、ベッドに背を向けたときだった。
ベストの裾が引かれる感覚。
「……一緒に……寝ないの……?」
「……っ…………はぁ……?」
思わず耳を疑い振り向いたが、シュテフィは両の瞼を閉じたままだった。
どうやら寝ぼけているだけらしい。
無防備なのも大概にしてくれ。
ジンは暫しベッドの脇でやり場のない衝動に身悶えた。
一瞬、脳裏をよぎった邪念を必死に振り払う。
イーヴォやドミニクがおかしなことを言うからだ。
「……あんま寝ぼけてると片付けさせるぞ。ほら、片付けの魔法使ってくれよ」
「ん……そんな魔法……ない……」
好き勝手なことを言ってから、やがて規則正しい寝息を立ててシュテフィは深い眠りに落ちた。
こっちの気も知らずにまったくいい気なものだ。
ただ今日のシュテフィの働きは見事なものだったので目をつぶることにした。
着替えも部屋の片付けも全てを後回しにして、ジンも毛布をかぶった。さすがにもう身体がいうことをきかない。
先程の事件のせいで寝つけるか怪しかったが、余程疲れていたのか、横になるとすぐに瞼が重くなった。
「……ありがと……ト……」
眠りに落ちる直前、隣のベッドでシュテフィが何か言ったような気がしたが上手く聞き取れなかった。
こうして夏至の長い一日が終わった。
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