14 戦争

「墨谷。お前三日連続欠勤ってどういうことだ。なめてんじゃねぇぞ」

「すみません。準備に時間がかかりました」

「あ? 心の準備でも必要だったか? 尊敬する橘さんに裏切られたのがショックで出社できませんでしたとでも言うつもりか」

「いや違います。橘さんのことはショックですよ。でも、裏切られたとは思っていません」


 所長と対峙して仁は不思議な感覚を味わっていた。


 これまでは所長の前に立つだけで嫌な汗が背中を伝い、緊張で上手く言葉が出なかった。本音など言えるはずもない。

 それが辞めると決めた途端、心が軽くなりすらすらと受け答えできるようになっていた。

 本当は今までだってできたのだろう。心の持ちよう一つで人は良くも悪くも別人になれる。


 所長は面白くなさそうな顔をした。


「とっとと仕事に戻れ」

「そのことですが、お話があります」


 仁は鞄から一通の封筒を取り出し机の上に置いた。表に「退職届」と書いてある。


「本日付で退職させていただきます」


 所長は封筒を一瞥した。

 次の瞬間、ひったくるように手に取るとびりびりに引き裂いた。細切れになった紙片を投げつける。紙片は仁の顔に当たりぱらぱらと落ちた。


「通るわけねぇだろ。橘がいなくなってただでさえ人手が足りねぇってときに。しかも本日付けだと?」


 仁はかがんで紙片を拾い集めた。まとめて手近なゴミ箱に捨てる。


「まあ、破かれてもいいですよ。何にせよ退職するので」

「は? 墨谷、お前俺を馬鹿にしてんのか」

「まさか。大真面目ですよ。それとこちらも差しげます」


 仁はもう一通鞄から封筒を取り出した。先程の標準的な大きさのものと違いA3用紙が入る大きさでハトメに紐を引っ掛けて口を閉じるタイプだ。厚いマチが伸びきるほどずっしりと中身が詰まっている。


「なんだこれは」

「開ければ分かりますよ。本来用意する必要はないんですが、その方が話が早いのと心の準備のために用意しました」

「はっ、まだ心の準備がいるのかよ」

「俺のじゃなくて所長のですよ」


 所長は暫し黙って仁を睨みつけていたが興味の方が勝ったようで、やがて乱暴に封筒に手をかけた。紐を外さず封筒全体を力任せに引き裂くように開け、中身を机の上にぶちまける。


「なんだ……これは」


 それを見た所長の顔色が変わった。


「破かれてもかまいませんが、これは一部しか用意がないのでそのつもりでどうぞ」


 机の上に散らばったのは何十枚もの写真と書類の束だ。写真はすべて事務所内で行われた暴力やセクハラの瞬間を捉えたものだ。所長が写っている物も多くある。書類はエクセルの表を印刷したもので、所内で行われたハラスメントの内容が日付順にまとめられている。

 ここ数年の間に仁がとり溜めUSBに保存していた記録だった。


「弁護士に相談したところ、これだけハラスメントの証拠があれば、やむを得ないということで俺の即日退職は認められるだろうということです。実際、すでに本社から了承を得ています。所長には形式上挨拶に伺っただけでして」

「本社だと……お前、まさか本社にも同じものを」

「送りました」

「ふざけるな! こんなもんどうせ捏造だろ」


 所長は怒りに任せて写真を何枚か破り捨てたが、如何せん数が多すぎたのだろう。机から叩き落とすと仁の胸倉を掴んだ。


「墨谷テメェ、こんなことしてただで済むと思ってんじゃねぇだろうな」

「所長こそ言動に気をつけた方がいいですよ」

「あぁ?」

「そこにカメラが仕掛けてあるので」


 ばっと所長が仁から離れて後ろを振り返った。所長の席の後ろには工具が満載の作業棚がある。狂ったようにそこを漁り始める。


 作業棚にカメラを仕掛け始めたのはもう何年前だろう。元は仁自身に対するパワハラの証拠を残すために始めたことだが、映像を見るに他の同僚たちも同じような目に遭っていることが分かっていた。

 棚板の裏からカメラを見つけ出し、所長が床で踏み潰した。仁は心中でカメラに礼を言った。それなりに値段がしたものだが、もう必要もないだろう。


「無駄ですよ。映像は録ったそばから自動で俺の自宅PCに転送されるようになってます。先程の橘さんへの発言もばっちり録れてます」

「……と、盗撮だろ!」


 所長はわなわなと震えながらようやくそれだけ叫んだ。仁はとどめの一言を告げる。


「ハラスメントの証拠を捉えるという、正当な理由があれば罪には問われないんですよ」


 今やフロア全体の職員が仁たちのやりとりに注目していた。仁の背後では同僚たちがぽかんと口を開けて見ている。

 仁は鞄の口を閉じた。


「では、挨拶も済んだので俺はもう行きますね」


 もはや所長は何も言わず、蒼白な顔面にだらだらと汗をかきながら仁を見つめている。

 部屋の入口付近で仁は足を止めた。その場にいる全員に聞こえるように声を張る。


「俺も、最初は橘さんに裏切られたのかと思いました。連泊して必死に復旧してたデータを消した張本人が橘さんだったんだから当然ですよね。でもいろいろと調べるうちに橘さんが何を考えていたのかが分かりました」


 仁は耳を澄ませた。微かだがビルの入り口で話し声が聞こえる。


「社内を見通せる立場で後輩思いの橘さんは、会社の劣悪な労働環境を誰より憂いていた。しかし証拠になり得る材料を持っていなかった。だから脅迫というハイリスクな手段に訴えるしかなかった。証拠を持っていれば最初からそれを持って労基に行けば済む話ですから。会社が要求をのまないことに業を煮やした橘さんは、実際に社内データを漏洩した。今度こそ会社に改めさせるつもりが、むしろ労働環境は悪化する一方だった。そんな矢先に犯人であることがバレ、精神的に追い詰められた橘さんは線路に飛び込んでしまった」


 ビルの壁に反響して入口の階段を上ってくる足音が聞こえる。仁が想像していたよりもずっと大人数のようだ。


 その場にいる全員の視線が自分に向いているのを感じながら仁は言葉を続けた。


「俺も調べて初めて知ったんですけど、労働基準監督署って忙しいから優先度の低い職場にはなかなか来てくれないらしいんですよね。だから証拠を持っていない橘さんは頼らなかった。でもここにはもう証拠があります。それにこの職場では自殺未遂者が出ている」


 階段を上る足音は次第に激しさを増し、最後はほとんど駆け足になった。複数人の足音がドタバタとなだれ込んでくる。

 仁はコピー用紙のような顔色の所長に勝ち誇った笑みを向けた。


「先方にも全く同じ資料を渡しましたから。せいぜい作戦練って悪足掻いてください」

「労働基準監督署です。この度、臨検調査に参りました」

「警視庁です。どうもこの職場で過労自殺者が出たという話がありましてなあ。その辺も含めて調査に立ち会わせてもらいます」


 スーツと制服姿の集団が一挙に押し寄せ、事務所は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。仁は入れ違いに外に出た。


 ビルの外に出ると真昼間の陽光が頭上から降り注いだ。仁は眩しさに目を細めた。今後の展開がうまくいくことを祈った。


 守られるばかりだった自分から先輩への、せめてもの詫びになっただろうか。

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