塩辛い別れ

横浜県

灰色の街から

 朝のアナウンスが、部屋のスピーカーから流れ出す。

「本日も感覚修正デバイスの点検をお忘れなく。故障や異常が認められた場合は、速やかに当局へ申請してください――」

 いつもの抑揚のない女性の声が響き、私は目を覚ました。すぐ隣には恋人のカナが寝息を立てている。まだ少し早いが、彼女の枕元にも同じアナウンスが届いているのだろう。ベッドサイドテーブルには、私とカナの分のデバイスが整然と並んでいた。


 私たちの暮らす社会は、五感に異常をきたす「反転病」の流行を機に、数十年前から国民への感覚修正デバイス装着が義務づけられている。おかげで、誰もが標準化された味覚・視覚・聴覚を共有し、街には余計な混乱が生まれない――というのが政府の大義名分だ。実際、暴動や大きな抗議運動などは見たこともない。

 それでも、私はふと、この“どこまでも均一な灰色の世界”に息苦しさを感じる瞬間があった。例えば、ビルの壁も看板もあまりに単調だし、スーパーの陳列棚にはどこへ行っても同じ商品と同じ味付けしか並んでいない。「多様性」という言葉が死語になった社会。それでも多くの市民は、これを“平和”と呼んでいる。カナも、私も。


 起き抜けにキッチンへ向かうと、カナはすでにいつものように淡いベージュのエプロンをつけ、トマトスープをかき混ぜていた。

「おはよう。今日はしっかり出汁をとったから、いつもよりコクがあるはずよ」

 そう言いながら、彼女は小さく微笑む。私も微笑み返し、テーブルに腰を下ろした。

 スプーンですくい、口へ運ぶ。やさしい酸味とわずかな甘みが広がり、いつもと何ら変わりない……はずだったが、どこかもの足りない。味が薄いというか、ぼんやりしているというか――。

 「どう? おいしいかな?」

 気づけばカナが私の顔をのぞき込んでいた。

 「うん、うまいよ」

 口ではそう言ったものの、胸の中には「本当はもっと別の味があるんじゃないか」という違和感がうずく。


 その日は職場でも落ち着かなかった。私とカナは同じシステム企業に勤めているが、部署は違う。昼休み、同僚たちと社員食堂でランチをとるときも、周囲には薄い味付けの定食を一心不乱に食べる人々ばかりだった。まるでロボット工場のように無機質な光景。

 ふと、隣に座った後輩が笑顔で言う。

「先輩、これめちゃくちゃおいしいですね! いつ食べても最高っすよ!」

 彼のトレイには、いつもと同じ鶏の照り焼きが並んでいる。私が食べるのと見た目も味も変わらないはずなのに、なぜそこまで“おいしい”と断言できるのか。私にはただの“既視感ばかりの料理”に思えるのに――。そのギャップに、言い知れない焦燥感が募った。


 数日後、ついに決定的な出来事が起きる。夜、カナが作ってくれた味噌汁を口に含んだ瞬間、衝撃的なしょっぱさを感じたのだ。思わず顔をしかめるほどの塩分濃度。

「ちょ……辛くない? これ……」

 そう言いかける私に、カナは怪訝そうな表情を向けた。

「え、いつもと同じ量の味噌よ。むしろちょっと薄めにしたけど……」

 試しに一口飲んだ彼女は「普通だけど?」と首をかしげる。私はその時、ようやく自分の味覚が“おかしくなっている”のだと確信した。デバイスがうまく作動していない。

 だけど、デバイス故障を当局に知られればどうなるか。私の頭には“不安定要素を隔離する”という政府の方針が真っ先に浮かんだ。仕事も失い、家族も恋人も、すべてを失う可能性がある。カナの表情にも、そんな不安がちらりと見えた。


 私はその夜、ベッドに入っても眠れず、スマホをいじっていた。検索エンジンに「デバイス 故障 味覚 ズレ」などと打ち込んでも、有益な情報は出てこない。公式サイトには「速やかな修理申請を」と書かれているだけだ。

 ただ、妙な掲示板を見つけた。会員制らしく、ログインには招待コードが必要らしい。“隠れ故障者の集まり”を匂わせる文言がちらほら。もしかしたら、同じ症状に悩む人が書き込みをしているかもしれない。そう思って興味を持ち始めた矢先、画面に「招待します」というメッセージが現れた。明らかに不自然だ。だが、眠気も不安もピークに達していた私は、思わず承諾ボタンを押してしまう。


 翌朝、スマホに届いたのは「同じ症状ならお話ししたい。よかったら週末に会いましょう」という文面だった。差出人は“Mayumi”という名。それ以外のプロフィールは一切不明。掲示板で私が書いた何かしらの痕跡を辿ってきたのだろう。正直、罠かもしれないと疑ったが、妙な期待感が胸を騒がせた。


 週末、カナには「仕事の外出」と伝えて街外れのカフェに向かった。駅から離れた倉庫街の一角、看板が出ているのかも分からないような小さな店だ。ドアを開けると、中には客が私を含めて二人しかいない。カウンターに座る女性が、私を見つけて静かに手招きした。

「あなたが……あの掲示板を見た人ね」

 声をかけてきたのはショートヘアの女性。年齢は私と近いくらいだろうか。

「すみません、私……実はデバイスの味覚が合わないみたいで。うまく説明できないんですけど……」

 そう告げると、彼女はカップに注いだコーヒーを一口すすり、微笑した。

「よくわかるわ。私も味覚のズレが始まったとき、同じように戸惑ったから。私はマユミっていうの」


 その後、マユミは私を別の場所へ案内した。古いアパートの一室で、壁という壁にスパイスや薬草の瓶が並んでいる。色とりどりのラベルが付いたその光景は、この社会ではほとんど見かけない“派手さ”があった。

「こっちは当局に黙ってるから、絶対に外で漏らさないで。ここでしか味わえない料理があるの」

 部屋全体に漂う独特の香りが私の鼻を刺す。ドキドキしながら奥の簡易キッチンを見ると、真っ赤なトウガラシ、黄色い粉末、緑色のハーブが次々と鍋に投入されていく。

「……危険じゃないの?」

 私は思わず顔をしかめる。いずれも“刺激物”として政府が推奨しないリストに載っているような食材ばかりだ。

「危険かもしれない。けど、何もかも同じ味で満足し続けることのほうが、私は怖いと思うの」

 マユミはさらりと言い放ち、出来上がったスープを私に差し出した。


 スプーンをすくって口に含んだ瞬間、熱い衝撃が走る。辛み、甘み、酸味、それがひとつの料理の中に同居していて、私の味蕾を総攻撃してくるような感覚だった。思わず声が出せず、汗がじわりとにじむ。

「どう?」

 マユミが不安そうに尋ねると、私はそれに応えるすべもなく黙ってうなずくしかなかった。衝撃と歓びが入り混じった、こんな味は生まれて初めて。しかも嫌ではない。むしろ“本物の世界はこんなに刺激的だったのか”という興奮さえ覚える。デバイスの味覚補正など、ここではまったく意味をなしていないかのようだ。


 その夜、自宅に戻った私は、カナの顔を見るたびにどうしても胸が痛んだ。彼女が作る料理を「まずい」と感じたわけではない。けれど、あの鮮烈な味を知ってしまった自分は、もう前のように“同じ味”だけで満足できるのだろうか。

 案の定、テーブルに並んだ夕飯を口にすると、まるで霧のかかったようなぼんやりした味に感じられる。以前には意識しなかったその平板さが、いまは気になって仕方ない。

「また……変な味がするの?」

 カナが不安げに尋ねてくる。私は痛む胸を押さえながら、無理に笑った。

「大丈夫。気のせいかもしれない。疲れてるだけ、だよ」


 だが、気のせいではなかった。私の中では既に一線が越えられている。カナとの愛情は変わらないはずなのに、感覚がズレれば二人の価値観も徐々に離れていくのがわかった。何度も修理申請を提案され、私はそのたびに言い訳をしては逃げた。


 そしてついに、カナは言葉を選ぶように小さく息を吐いてからつぶやいた。

「あなたが危険な故障者だって知れたら、当局に連れていかれるかもしれない。私だって通報したくない。でも、これ以上……」

 視線を合わせようとしない彼女の震える肩を見て、私はもう決断の猶予がないと悟った。修理に応じるか、すべてを捨てて“本物の味と色”を追い求めるか。私の頭には、マユミの言葉がこびりついて離れなかった――「均一であることは、本当に幸せなの?」。


 夜更け、カナが眠りについたのを見計らい、私はこっそり荷物をまとめた。恋人を置き去りにする自分の行為に胸が締めつけられるが、カナは政府の管理下で暮らしたほうが安全だ。きっと私と一緒に逃げるより、ずっと安定した日常を送れるだろう。

 ドアを開けると、冷えた廊下の空気が肌に突き刺さった。外へ出れば、一様にモノトーンの服を着た人々が歩き、どのビルも同じように青白い光を放つ。これが“標準”の街の姿。私はその中で、ひとり鮮やかな味や色を知ってしまった故障者だ。かすかな罪悪感を抱えながらも足は止まらない。スマホを開き、マユミの連絡先を探す。

「そっちの世界に行くしかない」

 つぶやいても、誰も私を振り返らない。通りすがる人々の顔には表情の影が薄く、感情までもが修正されているようだった。私の胸には恐れと期待がないまぜになっている。


 やがて、見上げたビルの壁に映る広告が、ふと揺らいだ気がした。デバイスが再び不調を起こしているのか、あるいは私自身が現実を歪めて見ているのか。どちらにせよ、もうこの均一な世界にとって私は“異端”だ。恋人との日々を断ち切るように踏み出す一歩が、胸をちくりと刺す。しかし、その一方で私は、あのスパイスの香りや、鮮やかな世界を夢見る自分を止められないでいる。

 ――もう戻れない。そんな確信だけが、私を支えていた。


 ビルの谷間を吹き抜ける夜風が、髪を揺らす。灰色の街並みの中でも、私の視界には微かな色彩の痕跡が浮かんだ。空の端をかすめる雲が、淡いオレンジに染まっている。多くの人には見えないはずのその色こそが、私にとっての希望だった。


 カナの眠る部屋を振り返ることなく、私は街外れへ向かうバスに乗り込む。大切な人を裏切るような痛みと、閉じた世界から抜け出す解放感が、私の心を同時に締め付ける。冷たいシートに腰かけ、スマホを握りしめたまま、ただバスの振動に身を任せる。

 こうして見れば、街の光はやけに白々しく感じられる。けれど、これが私の選んだ世界だ。誰もが同じ味を感じ、同じ景色を見つめる“安心な社会”を捨て、本当の五感を取り戻したいと願った。その先に何があるのかはわからない。けれど、あのスパイスの香りに満ちた新たな一歩を踏み出すことだけが、今の私の唯一の意思表示だった。


 車窓に映った自分の瞳が、ほんのかすかな虹色を帯びた気がする。ビルの影が通り過ぎたとき、一筋の涙が頬を流れ落ちた。その涙さえも、これからはもっと鮮烈な味がするのかもしれない――そんな予感とともに、私は静かに目を閉じた。


 灰色の街の果てへ向かうバスが、暗闇に溶け込んでいく。

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塩辛い別れ 横浜県 @makenyoko

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