第二節 駅

 梅雨に入って、何日目かの雨の日だった。

 平日の仕事帰り、会社の最寄り駅は人でごった返している。

 通勤は嫌いだ。知らない他人の握った吊革やポールに掴まって、電車という乗り物に揺られないと、家に帰れない。朝よりも夕方の方が嫌だ。清潔感のない人が多い。汗をかいて、一日の疲労を蓄えて、匂いがきつい人が近くにいると最悪だ。

 私は通勤時はマスクをしているが、それでも防ぎきれないものはある。

 清潔感で言えば電車よりもバスの方がまだましなのだが、快速電車の時間とバスの時間を比較すると、バスはぐるっと遠回りをするルートしかなく、時間がかかりすぎる。


 しかし今日は、駅の電光掲示板を見て、バスで帰ることになりそうだなとすぐに悟った。

 人身事故のせいで私が使うつもりだった路線の電車がストップしていたからだ。

 どういった事故なのか、誰かが電車に飛び込んだのかは知らないが、こんな雨の日だからこそなのだろうかとも思う。

 晴れていれば、起こらなかった事故かもしれない。


 この駅からバス乗り場に行くまでに外を通らなくてはならない。

 また雨の中、傘をささなくてはならないなと、億劫に思いながら改札に背を向ける。

 そんな時だった。

「もしかして、穂村さん?」

 不意に近くからかけられた声に目を向ける。

 最初は会社の同僚か誰かかと思ったが、そこにいたのは意外な人物で。

「……望月先生?」

 先日、心療内科のカウンセリングで話をしたその人だった。

 この駅はクリニックにとっても最寄駅ではある。会社から比較的近いクリニックを選んだからだが、まさかこんな人の多い場所でばったり会うとは思わなかった。

「ああ、やっぱり。マスクしているから違ったらどうしようと思ったけれど……蝶々のおかげで、そうかなって。お仕事帰りですか?」

 近づいてくる望月先生は、仕事外の時間なのに人の良い笑みを浮かべている。

「ええ、まぁ。電車が止まっているので、バスで帰るところです」

 この時私に、彼女に助けてもらおうだとか、そんなつもりは一切なかった。

 ただありのままに、今起きた出来事、目的を述べただけだったけれど。

「あれ、じゃあもしかして……――」

 事故で止まっている路線名を言われて頷くと、彼女は笑みのような困ったような表情を浮かべて見せたのだ。

「実は私も、同じ方面なんです」


 気まずい。

 望月先生は、嘘でいいから、大変ですねと他人事のように言ってこの場は私と別れるべきだ。もしバス乗り場で偶然一緒になったって知らない顔くらいはするし、なんなら見かけたら次のバスに乗るくらいの気遣いはする。私だってそのくらい空気は読む。だから彼女もバスで帰ればいい。

 同じ帰り道だから一緒に、というパターンは苦手だ。

 彼女はカウンセラーなんだから尚更だ。相手の顔色を読めとは言わないが、知らんふりをする優しさというものも存在するのではないか。

「あの、穂村さんがご迷惑でなければ」

「……」

 迷惑ですなんて言えるわけがない。

 でもこの流れで同じバスで帰るのは、正直気まずい。まだ出会って数日でお互いのこともよく知らない同士。しかも患者とカウンセラーという関係で、どんな会話をしろというのだ。

「私の連れが迎えに来てくれるので、一緒に帰りませんか?」

「え?」

 ――――余計に迷惑だ!


 彼女の連れ――意味合い的に彼氏のことだろうと、思ったのだ。

「流石に、それは申し訳ないです。私、異性の車に乗るのは苦手で」

「……あ! 女性ですよ、女性。大丈夫です、とても清潔で、綺麗な車です。それに、穂村さんに会ってほしい人でもあるんです」

 断ろうとしたが、望月先生にそう言われた時、怪訝にも思ったし、ほんの少しだけ興味が湧いた。

 この女性が連れと言っている人が、女性? 友人という意味なのだろうか。

 それに、会ってほしいという意味がわからない。

 何故、望月先生の個人的な知り合いであろう人を紹介されるのだろう。

 望月真昼という女性が、一体何を考えているのかよくわからなかった。

 ただ、この人はもしかしたら、ただのカウンセラーではなく。

「――……そうなんですか? そういうことなら、……」

 私の救いになってくれる人なのではないかと、ほんの少しだけ期待をしてしまったのだ。






「ごめんなさいね、後ろ狭くって」

「いいえ、大丈夫です」

 この車の後部座席は、大きな体躯の人ならば窮屈だろうとは思ったが。車に乗り慣れない私からすれば、そんなに気にはならないし、ぎゅうぎゅうの電車に比べると、雲泥の差があるほどに、乗り心地が良くて。

 そしてなによりこの後部座席は――

「綺麗にしてあるんですね」

 汚れがない。


 望月先生と私を迎えに来たのは、黒いスポーツカーだった。車に疎くてわからないが高級車なんだろうということくらいは、その見た目からも察せる。

 車から降り立ったのはパンツスーツに身を包んだ女性だ。彼女の背は、164センチの私より少し高いくらい。パンツスーツもすらりと着こなしていてよく似合う。ちなみに望月先生は私たちより少しだけ小さい。

 二人が会って何事か言葉を交わして、それから女性は私に向けて挨拶をした。落ち着いて見える彼女は、闇村真里と名乗った。


 望月先生は、迎えに来た闇村さんに対して、今初めて私が同行することを伝えていたから、示し合わせて私を誘ったわけではないようだ。一緒に乗せてもいいかと問いかけた望月先生に、闇村さんも不思議そうにしながらも快諾していた。

 車は都会の混み合った道を進んでは止まり、進んでは止まり。電車より少しゆっくりな帰路になりそうだが、バスを使うよりはずっと早く帰れそうだ。

「穂村さんは真昼のご友人?」

「いいえ、違います」

 ……。

 否定してふと。車内に漂う微妙な空気。

 この沈黙は私が悪いのだろうか。でもお友達ではないのは間違いない。

 補足するように伝える。

「患者です。……望月先生のカウンセリングを受けていて」

「ああ、なるほど。真昼がさっきから黙っているのは、そういうこと?」

「……はい。すみません。穂村さんとの関係性やお話して下さったことを、私からお伝えすることは実はあまりできなくて」

 そう言って助手席で謝る望月先生に合点がいく。仕事上の守秘義務云々があるから、望月先生から私の正体をバラすことはできなかったのだろう。

「そう。真昼が私に人を紹介したいなんて初めてだったから、驚いたの」

「――私、穂村さんのお力になるのにどうしたらいいかを考えていて……闇村さんに会ってもらえたらいいのかなって、思っていたんです」

 ……。

 ……。

 運転をする闇村さんを見る、望月先生を、後部座席から見ていて。

 その瞳に、今までとは違う雰囲気を感じた。

 望月先生が私を見るときの眼差しとは違う色。

 そもそも。

「望月先生と――闇村さんは、ご友人、ですか?」

 そんな疑問をぽつりと投げかける。

 年齢も少し離れているようだし、接点という接点が、見た感じでは思い浮かばなかった。闇村さんと望月先生はどことなく、住んでいる世界が違うようにも見えたのだ。

「……」

 黙り込んでしまった望月先生。そこに守秘義務はないはずなのに。

 そんな望月先生の反応をちらっと見て、フォローするように闇村さんが言う。

「私たちの関係は……」

 車の外の雨音が、一際強くなった。

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