第四節 桜のころ
『桜の樹の下には死体が埋まっている』
そんな始まりのお話があったけれど、あれは案外、虚構ではないのかもしれない。
何かの養分を吸い上げて夥しく咲き誇っているとしたら、合点がいく。
桜は何故、あんなに美しいのだろう。
『明日ありと思う心の仇桜』
そして散るときは呆気ない。
明日見ようと思ってたら、桜はもう散ってるよっていうことわざだ。
ほんとそれなって感じがする。一夜で吹き飛んでしまうくらいに儚いもの。
明日はどうなるかわからないのは、桜も人も同じ。
四月上旬。
先日の雨もあって、川沿いの桜並木の花びらはもう半分くらいは散ってしまっていた。週末は桜流しの雨になるでしょうと天気予報のお兄さんが言ってたっけ。
その束の間の美しさが、好きだ。
桜並木道をゆらゆらと歩いていると、風が、ピンクに染め直した髪を靡かせる。アイスブルーのインナーカラーも入れてもらった。もう誰かを引き立てるために、自分を地味にするようなことはしない。
後ろから車の走行音が近づき、その車はあたしのそばに停車した。
「葵、やっぱりその髪の色、よく似合うわ」
「闇村さん! 約束の時間、まだですよ?」
「ふふ。葵に早く会いたくてね」
運転席からそう微笑む闇村さんに、胸がキュンとする。
あの後、あたしは闇村さんのお店の仕事を辞めた。
そして――闇村さんだけの「ペット」になったんだ。
自分のことをあっさりと「ペット」と名乗るのは不思議な感じがする。
でも全然嫌じゃない。あたしはそういう生き方が、嫌いじゃないからだ。
あたしは、好きなことをして生きていきたい。幸せに生きていきたい。
父親みたいに、いつか来るかもしれない幸せに向けて努力なんかしない。
今この瞬間を幸せだと思えていれば、もし次の瞬間に死んだとしても、あたしに後悔はない。
だからあたしは、闇村さんに快楽という幸せをもらう。
代わりにあたしは闇村さんに――あれ?
あたしは闇村さんに何をあげられているのかな。
闇村さんのスポーツカーの助手席に乗り込んで、シートベルトをした。
彼女が、あたしの知らない女性をこの席に乗せていることも知っている。
闇村さんはあたしだけが独占できる人じゃない。
でも、それでもいいと思える恋なんだ。
そっと自分の首元に触れる。
闇村さんにもらったレースチョーカーは、あたしが彼女のものである、証。
あたしが今、抱いている熱情は、誰にも向けたことのない、初めての感情。
「ねえ、闇村さん。あたし女の人には嫉妬しませんけど……。あたしが最後に事務所にいた日、男の人と歩いてましたよね。五十代くらいのおじさん。あれは一体何だったんですか」
車のウインカーの点滅を見ながら、あたしは問いかける。
これは別に疑っているとかじゃあない。ただ、あのおじさんが誰で、何の用事だったのかがシンプルに気になっただけ。
「私が男の人と二人でいたら、嫉妬する?」
左確認のついでとばかりにちらっとあたしに目をやった闇村さん。
「それはその……、嫉妬します。すごくします」
涼やかな表情で運転していた闇村さんは、あたしの返答を聞いてくすくすと可笑しそうに笑った。
「それは困ったわね。仕事柄どうしても、あの年代の方との会食は避けられない」
「会食? 仕事? あのおじさん誰なんですか」
「政治家さんよ。そこそこ名の知れた偉い人なのだけど、葵はそういうの興味ないかしら」
「政治家? な、なんで政治家のおじさんと闇村さんが? しかもご飯食べてただけなんですか」
歓楽街で……という言葉は飲み込んだ。
闇村さんを疑ってるわけじゃない。ただ、不思議だったのだ。
「概ね、私との会食の後に、女の子と『同伴』でどこかのお店にでも行くつもりだったんでしょう」
「あー、ああー……?」
そういう、こと?
でもやっぱりよくわからないことはある。
闇村さんが、政治家さんと接点があることだ。
「私の仕事はね、そうねぇ。正義の味方、はたまた悪の大魔王ってところかしら」
「え、何それ! 全然答えになってない」
はぐらかすような言葉にむくれるあたし。
少しの間を置いて、闇村さんはなんだか曖昧な言い方をした。
「……私は、葵と似ているところがあるの。誰かを愛したいと思うし、愛されるのも好きよ。誰かを幸せにしたいし、誰かを不幸にすることにも躊躇がない。でもこれって、ただ自分の欲に忠実なだけなのかもしれないわね」
「あたしと、似てる? 闇村さんが? ……自分の欲に忠実?」
なんだか意外だった。闇村さんから見たら、あたしなんかまだ青臭いガキっちょで、恋愛対象としても、人間としても、対等に見れるような存在ではないだろうと思っていたから。
でも違った。彼女はあたしを見てくれている。そう感じられて、嬉しい。
闇村さんに愛されたいし、愛していたい。
不幸をする。それはわからない。
あたしは自分の幸せのためなら、他人を切り捨てることもあるだろう。魂の抜けた父親に対して、あんなにも冷えた思いを抱いたあたしは、きっと冷たい人間だ。
「そういうものを広く仕事にしているだけよ。お金は人より持っているけれど、それと幸せとが結びつくのかどうかも、まだわからない」
そう言いながら運転する横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
赤信号で止まった合間に、あたしを見て微笑む闇村さん。
「私は残酷な人間なの。葵を幸せにするどころか、不幸にするかもしれない。それでも葵は私を愛してくれる?」
「はい。それでも、いいんです」
違う。そんな受け身な言葉じゃない。
闇村さんを見て、もっといっぱい色んなことが言いたい。
「闇村さんのことが、大好きです」
違う、まだ足りない。
「あたしが、闇村さんのことを――……」
幸せにしたい。
「――ッ」
不意に、頭の中に、何かがよぎった。
闇村さんのことじゃなくて、それはノイズのような、古い記憶だ。
明日食べる物にも困って、身を寄せ合って暮らした、家族の記憶。
お父さん。
働くばかりで喋ることも少なくなった父親の、ずっとずっと昔の言葉が、蘇った。
「お前たちだけは、お父さんが絶対に幸せに育て上げるからな」
……
…………
………………
幸せ。
もしかしたら、あの人は。
あたしや兄貴が、大人になって手が離れるまで頑張るつもりだったのかな。
あたしを産んですぐに死んだお母さんの分まで、頑張ろうって思ってたのかな。
もしかして、お父さんにとっての幸せって。
あたしたちを幸せにするために、頑張ることだったのかな。
なんで今になってそんなこと、思い出したんだろう。
大好きな人とのデートの最中なのに。
あたしの、馬鹿。
「……葵、どうかした?」
「ううん。なんでもないです。……あのね、闇村さん」
「なぁに?」
優しい顔、その微笑み、綺麗な顔、甘い言葉を囁いてくれる唇。
あたしに快楽をくれる指先も、短く切った爪も、全部が愛おしい。
「ペットにしてくれてありがとうございます」
本当は貴女を想いながら伝えるべきことだけれど。
「――あたしは、幸せです」
車のフロントガラスの向こうに広がる空を見上げた。
空高くに昇って行った煙を、思い出していた。
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