第二章 朔夜の海
第一節 依頼
大型トラックの荷台に荷物と共に乗り込んで、かれこれ五時間程だろうか。
二月上旬、中国の東側のこの地域は肌寒い。荷物を置く空間には暖房などあるはずもなく、海沿いの道であることもあり、時化の海からやってくる風が轟々と音を立てていた。
体が芯から冷えているが、そう文句を言ったところで解決するわけもない。
私――
このトラックが上海に到着したら、木箱は商品として取引先に送られる手筈になっており、そこにいるのは金に汚れた権力者。最近の闇市場を牛耳っている、いわば闇マーケットのドンだ。
かなり悪徳なやり方をしており、弱者から金を搾り取る。人々の不満は爆発寸前。
尤も、この闇マーケットで買い物をする人間たちも違法なものを買っているわけだから、糾弾するにもできない立場の者が多いそうで。
闇マーケットのドンこと、
私の主人である
依頼してきたのは無精ひげが目立つ男だった。だが、暗殺の依頼をしてくるくらいだ、黑社会で低い地位にある人間ではないことは推し量れる。
「あの
主人は話を聞いて腕を組み、依頼人に問いかけた。
「ああ、勿論。金は用意するよ。それにアンタ、リスクがどうのって言うが――実際にやるのは奴隷だろう?」
依頼人の男は不躾な眼差しを、私の主人に、そして私に向けた。
「そうだよ。月黑が危険を冒すんだ、こっちとしても犠牲は出したくない」
「黑社会で勢いに乗ってる女傑の瑞ともあろう人が、奴隷の命を心配するなんてな。アンタその気があるのかい?」
美人なのに勿体無いねと下卑た笑みを浮かべる男に、私は口を開く。
「瑞様への口の利き方がなっていない。お前、死にたいのか」
主人に無礼を働く依頼人への牽制として睨みを効かせた。
「ひっ、怖い怖い。とにかく頼むよ、こっちも金は用意してんだ。仕事はちゃんとやってくれよ」
それから依頼人は主人と共に、俊杰の今後の予定や居場所を割り出し、俊杰が仕入れをするという情報を共有する。
「旧正月終わりの大規模な仕入れだね。その荷物に月黑がこっそり紛れ込む。俊杰は驚くだろうさ。仕入れた品が入った箱を開けたら、暗殺者である月黑が飛び出してくるんだからねェ」
作戦に頷く。荷物に扮して紛れ込む。相手が油断していれば隙を狙える。
問題は俊杰に、そしてその周辺の雑魚に警戒されないかどうかだが。
「何とかします。最悪刺し違えてでも俊杰は殺してくる。それが私の仕事だ」
そう伝えると、私の主人は煙草を燻らせて、それから妖艶に笑った。
「月黑、いい覚悟だね」
私の主人である
黑社会でも最近勢いのある女傑、というのは先程の依頼人も言っていた通り。
そして私はその奴隷であり、暗殺者。
「アンタは用が終わったなら帰った帰った」
主人が依頼人を追い払うように、しっしっと手を振るから「じゃあ後のことは頼んだ」と依頼人は言い残し、そそくさと部屋を後にした。
主人と二人きりになった部屋。
「月黑、こっちに来な」
「はい」
この物騒な国で、幼い頃に私は奴隷商に捕まった。
奴隷として売られた最初の家で、暗殺者としての基礎を叩き込まれたのだ。
今では、失敗することなどまずない。まぁ私のような名の知れていない暗殺者に、大きな仕事が舞い込んでこないということもあるが、大きな失敗はせずにこなせてきたと思う。だから私は今も、こうして生きていられる。
今の主人の元に来てからは、雑用五割、暗殺者としての仕事三割。
「月黑の目は鋭いね。よぉく見ると、深くて綺麗で、宝石のような瞳だ」
「……」
主人は、私の顎に手を沿えて、覗き込むように顔を近づける。すうっと首筋を伝って、私のショートヘアの襟足辺りを撫でた指先。大ぶりの宝石をつけた指輪の冷たい感触があった。
熱っぽい吐息を漏らした主人は私の体を抱き寄せる。
「アタシを楽しませてくれるかい?」
「はい」
主人の欲求を満たす、奴隷としての仕事が二割。
この仕事の発端を思い出しているうちに、外が騒がしくなってきた。
そろそろ荷下ろしをする頃合か。息を潜めて、中に人間が入っていることを悟られないようにしなければならない。
ゴトゴトと他の荷物が下ろされていく気配を、木箱の外に感じている。
「この木箱大きいな。何が入ってるんだか」
「さぁな。ドンの趣味嗜好の数々なんじゃねえの」
「なら女が入ってても不思議じゃねえな!」
……こいつらなんという会話をしているんだ。
私の存在がバレているのか? いやまさか。
「入ってたとしても人形だろうさ。さすがに生身の人間が入ってたら、俺たちでも気づくだろ」
「そりゃそうだな」
こっちは必死で気配を抑えているんだ。
丁寧に運んでくれ、乱暴に傾けられると、体のバランスが取りづらい。
作戦を失敗に終わらせるわけにはいかない。
幸い気づかれることなく木箱はどこかの中継地点に置かれたようだった。
木箱の中では体はほとんど動かせないし窮屈ではあるが、これも仕事だ。
今は上海のどこかに到着しているはず。旧正月の華やかな雰囲気を見たいなと思ったが、生憎そうはいかない。
遠いやりとり、喧騒。あともう一、二時間。
移動中だ。気配を殺せ。雑念を消せ。
私は目を瞑って、眠るでもなく周りの様子に注意を払っていた。
しばらくして、ぐらぐらと揺れていた木箱が、平たい地面に置かれたようだ。
「お疲れ様です、俊杰さん。荷物、全部この部屋で宜しいので?」
「ああ、そうだ。発注したのは八箱だったはずだ」
「ですかね、えーっと……ん? 八箱? でもここにあるのは――」
「九箱か」
低く渋めの男の声が訝しむように言う。
不信感を抱きはじめている。そろそろ、頃合だろう。
ドスドスと遠慮のない足音は俊杰のものか部下のものか。
「お前たち、荷物を開けて不審物がないか調べろ」
「はい」
箱の中で、私は得物を握ってタイミングを図る。
彼らも警戒し始めたか、お喋りはやめたようだった。
そして、私が入っている箱の留め金が外され、天板が僅かにズレた、その小さな動作を見切る。
「ぎゃあああ!」
まず、男の指が私のナイフによってちょん切れる。
「刺客か!? 誰の指図だ!」
「俊杰、アンタを殺したい人間なんて大勢いる。自分の胸に聞いてみれば?」
私は木箱から飛び出し、指がちょん切れた男を肘打ちで思いっきり殴って、泡を吹かせておく。まず一人。
「お前、ドンの部屋に一人乗り込むなんて正気なのか!」
「ああ、正気だ。俊杰も血の通った人間なのだろう? ならば敵わない道理はないな」
「ふざけやがって」
とん、とん、とステップを踏みながら、まずは雑魚を片付けておくべきかとも思ったが――いや、それはまずいな。ドンと呼ばれる俊杰の方へ駆け寄り、テーブルの影でまごまごしている俊杰を狙った。
「終わりだ」
そうナイフを振りかぶった瞬間、俊杰は私に銃を向けた。
ほんの瞬間、瞬間で、戦況が変化するが、これは。
背後には雑魚もいる。このまま発砲されたら私も流石に死ぬか。
いいや、刺し違えてでも、私は俊杰を殺す!
それが私の生きる理由なのだから。
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