ファムファタールごっこ

 夫に初めて出会ったのは9歳になったばかりの季節だったと思う。震災のあと、何度か転居し、居ついたところに夫が営む喫茶店があった。繁盛しようという意識の見えない内装、外観で、少女趣味な陶器のオルゴールが飾られていた。体調を悪くした母親の介護のために、大阪から移り住んできたのだと言う。咥えたばこで客の使用した食器を洗いながらカウンターの向こうからこちらをじろりと見る。無遠慮な大きな目をしていた。「にせものだ」と言われたことを今でも覚えている。どうしてそんなことを言うのか、発言の意図を問うのではなく、なぜわかったのか、と聞いたのは自覚があったからなのだろう。しつこくなぜ?と問いかけ続けていたら、遅かったから、と言われた。考えている人間の間合いだったから。と。ふっと憑き物が落ちた感覚がした。図星だったからだ。

  生まれもった障害があって他者の感情に同調できない。感情に同調できないため目に見えるもので他者の内面を推定して自分が推定した他者の感情を脳内で再現して自分事として再演したものを反応として提供している。だからどうしても、天然の反応よりも遅くなる。天然の人間は自然に他者の感情に同調している。夫にはその遅さを指摘されて見抜かれた。見抜かれたとき、私は確かに安堵したのだった。すべては私の妄想ではなく、差異は確かに時差として存在しており、第三者から了解可能な現実の事象であった。


  このような性質を持っているため、幼少期から私は他者が要求する役割に敏感だった。ニーズを察して擬態し、役割に徹することで、感情表現の代わりになる。自閉形質を持つ人間は、集団内の相互理解に基づくある種の合意を簡単に反故にすることがあり、そのちからが私には尊く美しいものに見えた。だから夫に惹かれたのかもしれない。私にとって人間関係のお約束を反故にすることはかなり難しい。困難、不可能に近い。逆に言うとどのような理不尽な内容でも合意を得さえすれば再現可能ということでもあるのかもしれない。


 幼児や児童が持つロール、役割、社会的合意に基づくお約束を反故にした前提の上で、あたらに得たのはアンファンテリブルとしてのロールだった。夫の前でだけ。自己破壊的に振る舞い、倫理や道徳を鼻で笑い、物語の中の小利口で鼻持ちならない少女として生きる。


 自己制御の方法として性的サディズム傾向を獲得していたのも良くなかった。弁が立つ人間であったため同級生相手に本気で立ち向かうと力の差があってうまくいかなかった。反感を買うばかりでむやみに恨みを買い無意味に早死にしてしまうと思った。だから本気の悪口は愛している人間にだけ向けると誓った時期があった。夫の悪口を面と向かって言っているときだけ生命のダイナミズムを感じることができた。好きな男の悪口を言うのは楽しい。悪口が的を射ていて、男が膝から崩れ落ちる様子を見るのはなおのこと嬉しい。同級生相手だとプライドを折ってしまったあとの対処が大変だった。その点年上の男相手にたとえば腕力で相手が向かってきたら私は簡単に死んでしまうが、そのようなことになれば相手が社会的に死を迎えることは免れず、また法も世論も私の味方をするのは必然、天の道理と考えてよく、私は夫の言われて嫌がりそうなことを積極的に口に出しては相手の反応を見てけらけら笑っていた。

 書いていてこんな最悪なことってあるだろうか、自分事として考えると、なんていうか醜悪すぎる、と思ったがまあいい。自分のことをよく書きすぎていま、人間関係がはちゃめちゃになっている。どうせなら正直に書いて人間たちに嫌われたい。


 それでなんだ、どこまで書いたっけ。つまり私はロリータごっこをけっこう楽しんでやっていた。夫はしばしば、「俺にはお前を本気で殴る権利があると思う」「一回で言い、捕まってもいい、殴らせてくれ」などと言っていたがいざ実際に殴る段階になると日和ってなにもしないに決まっているので私は余裕をぶっこいていた。現に今まで一度も殴られたことがない。「どうぞ」と言って顎を差し出しても、夫は卑屈そうに笑うばかりだった。


 でも結婚してこどもができたときに、私は以前までの生活習慣をすっかり改めて真人間として生きる覚悟をしたのだ。両親の関係性がいびつすぎて生まれてくる子がかわいそう。真人間に、おれはなる。もうあんな不健全な人間関係は築かないぞ。


 しかしどうしたことか。夫の隷属する意思の強さ、むやみやたらな忍耐強さ、一旦安定した軌道を変更することの困難さ、などが作用し私の意志の強さだけでは軌道修正が不可能だった。バタイユやフーコーやいろいろな人間がSMを説いているが、結局一番強いのは隷属するというマゾヒスティックな主体の意志の力に他ならず、使役、服従させる側の人間は踏みつける側の人間の都合に沿うように生きている。


 最近も夫は私の昔の傍若無人なふるまいを思い出し、あのころあなたはどれだけひどかった、どれだけ自分が追い詰められた状態だったか、などを嬉しそうに話し、結局わたしはこの男の選んだロールから逃れることなどできないのだ、永遠のアンファンテリブルとして、もういい年なのに。ただの中年女なのに。怖すぎる、中途半端な覚悟でファムファタールごっこなんてやるんじゃなかった。と深く深く後悔することになっている。たとえば二十五年前の夏休み、数学のドリルが終わらず夫の店に持ち込んで説いていた時、どう考えてもこのままでは宿題が終わるはずもない、というときにほとんど手のついていないドリルを夫の手元に押し付けて帰ったことを夫はまだ覚えていて、夫の視点からすると三日や四日眠れていなかったときに自分で組み立てる予定のPCパーツが届き今から組み立てる、静電気で電子部品がダメになる繊細な作業を行わなければならないというときに私が押しつけた宿題を更に寝ずに完成させた忘れがたい思い出、夫がくりかえし語り思い出すせいで記憶に深く刻み付けられているその思い出、人間を一つの閉じた情報集積回路だと想定した時に、特定の人間関係で発生する思慕の場や恋愛感情を考えるとすると、どれだけ一次記憶領域を占領できるか、量的、質的な占有、一種のクラックに近い発想で人間の感情あるいは関心、を獲得することができるかもしれないとした雑な仮定が立証されてしまったようなうすら寒さを感じて、「それ以上思い出さないほうがいいよ」とわたしは言ったが、言ったところで後の祭り、どうしてわからないものに手を突っ込んで引っ掻き回してどうにかなると思ってしまえるのだろう?なんという愚かさ、あのときあんなことをするのではなかった。私に出会いさえしなければ、この男にはもっとましな人生があったかもしれない。申し訳なさが先立ち、謝ろうかと思ったが、謝罪の言葉よりも態度で行動で示すべきだ、という夫の言葉を思い出して心の中で謝るにとどめた。


 あのころ少女漫画を読むのにハマっていて、望月花梨の『笑えない理由』(今はやっている氷の微笑に少し似ている)、あるいは典型的なBL作品、反動形成、キュートアグレッション、好き除け、相手の歓心が得られないならいっそ二度と立ち直れないくらいに壊してしまいたい。というような感情、描写から導き出すに好悪の区別なく衝撃的な記憶を形成することは記憶のフィードバックループの形成を促し記憶の定着を促進、さらに時間が経った後の肯定的な意味づけ、価値づけから相手の認識をハックすることが可能なのではないか?と思いついたのがすべての終わりのはじまり、思いついたことはやってみないと、軽い気持ちで実行すると痛い目を見る、というのは何度も体験しているはずなのに治らない。というか思いついたらそこで終わりなんだよな。実行するしないに関わらずそうなってしまうから。私と似た障害をもつ人間に向けて忠告しておくけど、わからないものを素手で触ってしっちゃかめっちゃかにするの、よくないよ。最後には絶対に痛い目を見るよ。わからないものはわからないままにしておいたほうが絶対にいい。喉から手が出るほどそれが欲しいと思っているだろうけど、手に入れたところで価値なんかわからないから、壊れそうだなと思いながら遠くから眺めているのが一番いい。手に入れたって同じものを返せるわけがないんだから、賽の河原でずっと泣いている子どもと同じだ。下手に通じるなんて思わないほうがいい。

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