「またね、大好き」

てゆ

「またね、大好き」

 パパの言う「いい」は「い」だった。たった一言で、私の不安を全て消し去ってくれる魔法の言葉だった。私は、パパが「善い」と言ったことに従い、不安があるとその度に相談した。

〈たくさん善いことをした人が、ママのいる天国に行けるんだよ〉

 天国でママと再会できないこと。それは私にとって、何よりの恐怖だったから。


「何をしてるの? やめなさい」

 小五のある日、私は空き教室でクラスの男の子がいじめられているのを目撃した。

「偉そうに言いやがって、なら力ずくで止めてみろよ」

 その言葉に、私は立ち尽くしてしまった。暴力なんて、この世で最も悪いことの一つだ。

「……ああ、わかったよ」

 そんな私の目の前に、君は颯爽と現れた。魚を締める漁師のように手際良く、驚く三人のみぞおちに次々とグーをねじ込むので、私は怖くなって逃げ出してしまった。


「……なるほど、それが彼の正義なんだね」

「……えっ?」

「正義と悪は十人十色。こずえの正義が他の人にとっての悪だってことも、十分にありえるんだよ」

 青天の霹靂というやつだった。


「佐藤さん、黒板消しの当番ですよね。ちゃんと仕事してください」

 あれから一か月ほどが経った頃の昼休みの話。

「ごめん! 今は友達とのお喋りで忙しくて」

「関係ありません」

「……チッ、じゃあ東宮ひがしみやさんがやれば? どうせ友達もいないし、暇でしょ?」

「そんな義理はないですから、早く……」

「あー、もう! ウザいんだって!」

 佐藤さんは大声を上げ、私を思い切り押した。クラス中の視線が私たちに集まって、少しすると各地でコソコソ話が起こった。

「ウザいのはお前だよ」

 君が二度目に現れたのは、その時だった。チョークだらけの黒板消しを、なんと彼女の服に押し当てたのだ。

「えっ、えっ、えっ? ……ちょっと、ふざけないでよ。服、チョークだらけじゃん!」

「顔にかけなかっただけマシだろ」

 佐藤さんは泣き出してしまい、私たち三人はその後、先生に別室に呼ばれた。先生に事の一部始終を話している間、私の脳内には、この前のパパの言葉が渦巻いていた。


 その日の帰り際は、唐突な大雨になった。傘を忘れていた私は、どうしたものか考えながら、玄関の前で立ち尽くしていた。

「東宮、どうした?」

 君だった。

「お恥ずかしながら、傘を忘れてしまいまして」

「そうか。……それにしても、東宮っていつも敬語だよな。どうしてなんだ?」

「天国に行って、母と再会するためです」

 私がそう答えると、君は目を信じられないくらい見開いた。だけど、すぐに平静を取り戻して、

「……あのさ、取引しないか?」

 そんな提案を私に持ちかけた。

「東宮は俺にタメ口で話す、俺は東宮の敵を倒す。どうだ? いい取引だろ?」

「……倉本くらもと君なら、『クソ真面目なのは損をするだけだ』と言うと思っていました」

「ははっ。まあ、実際そう思うけどさ……正しい人が悪者みたいに扱われるのは、なんか悲しいだろ」

「っ……」

 私はその時、やっと気がついた。「私の正義は誰かの悪かもしれない。だけど、同じ正義を持っている仲間もいる。そうか私、変わらなくていいんだ」と。

「……わかった。ただし、暴力は振るわないことね」


 今でも、弱気になると思い出す。

「いつまで親を頼るつもりだ! 少しは自信を持って、自分で判断しなさい!」

 その厳しい声と、やるせない悲しみに満ちた目を。中三の春に判明した事実――パパの肝臓には、ステージの進んだガンがあった。


「修学旅行まであと一週間か。楽しんで来いよ」

 その翌日、いつもの帰り道。笑ってそう言った君は、確かに見えない涙を流していた。「家が貧乏で修学旅行に行けない」と打ち明けてくれた時の、あの気丈な様子が虚勢だったことに、私はやっと気がついた。

 昨日のパパの言葉が脳裏に蘇る。今がきっと「その時」なんだろう。漠然とそう感じた。


 考えた末に私は、修学旅行を休み、君とバスに乗って日帰りの旅行をした。この計画を伝えた時、パパは穏やかに笑って、たった一言「そうか」と言った。

「今日は本当にありがとう。俺、すっごく楽しかった」

「私も」

 楽しい時間は過ぎ、あっという間に帰りのバスの中。

「……と、ところでさ、俺、ちょっと伝えたいことがあるんだ」

「なに?」

 私たちはあの日、大人の階段を一つ上った。


 パパの容体は、その年の冬のある日に急変した。そして、ついに訪れたその時。

「……ごめんな。そろそろみたいだ」

 酸素マスクに耳をつけ、そのか細い声を聞き取る。

「嫌だ。逝かないで」

 痙攣する喉で言葉を紡ぐ。

「大丈夫だよ。梢はもう、色々なことを、自分で決められる。それに、素敵な彼氏も、いるじゃないか」

 君は学校が終わると毎日、お見舞いに来てくれた。

「だけど……」

「最期の父親を、心配させるのは、悪いことだな」

 ハッとした私はギュッと目を閉じた。瞼の裏には、パパとの色々な思い出が映っている。そして数瞬の後、私は根性で涙を止めて、必死に笑顔を作った。


「またね、大好き」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「またね、大好き」 てゆ @teyu1234

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ