シャーク・シャープナーと金属バット

わく

パンツを脱げ!

 とがった人間にあこがれていたから、えんぴつ削りに指をつっこんだ。

 小学生の手でも、親指、人差し指、中指、薬指の四つは、あの小さな穴には入らなかった。左手の小指をなんとかねじこむと、金属の冷たさを感じる。ピンク色のえんぴつ削り。ぼくは右手でハンドルを回した。えんぴつのように回すことはできない。思い切り力をこめると、爪がはがれ、皮が削げ、肉がえぐれた。


 そういうわけで血まみれになった小指は、今も他の指とはちがう。うまく力が入らないし、爪のかたちもブサイクだ。とにかく他人とはちがう人間になれたわけだが。


 日常生活を送るうえで、左手の小指は動かなくてもあまり困らない。ものを持ったりするときは多少の不便はあるものの、まあ、なにごとにも慣れるものだ。


 しかし、ぼくは野球をやっていた。はっきり言って、ぼくは野球の天才だった。軟式で120キロのストレートを投げたし、百メートル走は十三秒台。一試合で三回のホームランを打ったことすらある。クラスの女子にもモテた。当然のことながら。


 左手の小指が動かなくなっただけで、すべてのバランスが崩れた。


 ひんぱんにボールを取りこぼし、投球フォームは崩れ、バッティングもボロボロ。すっぽ抜けた金属バットが、ピッチャーの額を割ってからというもの、ぼくはバットを握るということができなくなってしまった。


 そうこうしているうちに、ぼくたちは中学生になり、高校生になった。過去の栄光は失われ、ぼくは性根がとがっただけの、左手の小指を動かせない人間だった。


 ぼくはいま、高校三年生だ。卒業間近。友だちはいない。成績も悪い。親にせっつかれて東京の大学を受験し、ギリギリのラインで合格した。Spotifyでニルヴァーナと「金属バットの社会の窓」というポッドキャストを聴くことだけが趣味だ。彼女はいない。友だちもいない。誰とも喋らない。


 とにかく、ぼくは童貞だった。これはまずいと思った。大学デビューをするためには、童貞ではまずい。ぼくの誕生日は三月で、学校卒業までに風俗に行くことはできないから、どうにか周りの人間で卒業するしかなかった。切羽つまっているのだ。

 朝起きても考え、授業中にもずっと必死で考えた。いいアイデアは思いつかなかった。もう母親でも犯そうかという気持ちにもなってきたところで、天野さんが話しかけてきた。


「田村くん。卒業アルバムの寄せ書きのやつ、はやく出してくれへん?」


 天野さんは、なんかそういうのを積極的にするような女子だ。制服は毎日きっちり着ている。髪は黒く、いつもポニーテール。身長も、声も、顔のパーツも、すべてが小さい。


「セックスさせてくれへんか」


 ぼくは顔をあげた。天野さんが笑っている。


「いややけど、ええよ」


 えっ。ぼくは声をもらした。


「ええの?」


「ええよ。卒業アルバムの寄せ書きのやつもって、ウチきて。放課後な」


 きっかり三秒間、ぼくは沈黙した。ぜんぜんわからない。


「おれ、天野さんの家、知らんわ」


「そおやんね。じゃあ、いっしょに帰ろか」


 ぼくは熱くなっていた。昼前の休み時間。教室はシャツを着たサルであふれかえっていた。そのなかでも、ぼくはとびっきりのサルだった。


 チャイムが鳴り、ざわめきはそれぞれの机に帰っていく。ぼくは次の授業の準備をまったくしていない。天野さんはシワひとつない教科書を広げ、几帳面な字が収められたノートをながめていた。お手本のように背筋を伸ばして座っている。ぼくには胸を強調しているように見えた。放課後はまだまだ遠い。


 寄せ書きの推敲をする時間はたっぷりあった。天野さんは文面を見てうなずいて、クリアファイルにいれた。天野さんの目を見ることは不可能と言っていい。


「じゃ、いこか」


 ぼくは彼女のうしろを、ぎくしゃくとした足どりでついていった。心臓の音は大きすぎて聞こえないほどで、体のあらゆる部分が硬直する。これが童貞を卒業するということなのだ。ぼくは思った。


 彼女の家は、学校からほど近い場所にあった。清潔感のあるマンションの一室。


「そんな緊張せんでええって」


 扉を開けながら、天野さんが言った。ぼくはうなずき、喉を鳴らす程度の返事をした。


 部屋は真っ暗。玄関の扉が閉まると、なにも見えなくなった。ぼくは靴を脱いだ。


「じゃ、全部脱いで」


 天野さんの声が近くから聞こえた。


「ここで?」


 ぼくの声は妙に遠ざかって聞こえる。


「田村くん、童貞やろ。任せてや」


 ぼくは言われたとおりに全裸になった。なにも見えなくって、少々手こずった。


「じゃあ、ここ座って」


 天野さんの手が触れ、ぼくを椅子に導いた。木製の椅子に座ると、天野さんがぼくの体をまさぐった。なにかざらざらしている。


「天野さん、これなに?」


「塩」


「塩すりこむの?」


 いくら童貞といえども、AVくらいは見たことがある。塩をすりこむモノは一本くらいしか見たことがない。天野さんは答えなかった。


「天野さん?」


「田村くん、童貞やろ」


 ぼくは黙った。


 手首が握られる感覚があった。その感覚が残ったまま、足首にも同じような力がくわわった。どうやらぼくは椅子に縛り付けられているみたいだった。


「天野さん?」


「ちょっと待ってな、もうちょいでできるから」


 手足はきつく縛られた。再び抗議しかけたが、その前に口をテープでぐるぐるまきにされた。なにも喋れない。


「はい、おまたせ」


 照明がついた。まぶしさに目を細める。

 部屋のど真ん中にはずんぐりむっくりなサメが鎮座していた。ぼくの顔くらいの大きさしかないが、たしかにそれはサメだった。


 よく見ると不自然な形をしている。体は台形だし、尾びれの代わりにハンドルのようなものがついていて、ひとりでに回っている。ぜんまい仕掛けのようにゆっくりと。


「ごめんなあ、田村くん。この子、お腹すいてるらしいねん」


 サメは口を開けた。中には鋭い歯がびっしりと生えていて、ハンドルと同じくらいの速度で回転している。


 ゆっくりと、サメは前進していた。


「よく噛んで食べるんやで」


 ぼくは叫んだ。


 サメが足元まで来ている。どうやら右足から食べることにしたらしい。生ぬるい。


 ぼくの右足の親指に歯が触れた。爪がはがれ、皮が削げ、肉がえぐれた。ぼくの親指が削られている!


 そのとき、体のなかのバランスが噛み合ったような気がした。


 手足の拘束を引きちぎり、ぼくは立ち上がった。ねちっこく親指を食べているサメを引き剥がし、口を塞いでいたテープをとった。


 天野さんのほうを振り向く。彼女は金属バットを振りかぶっていた。


 左足で床を蹴り、天野さんを押し倒す。体がやわらかい。


「ちょっと、触らんでよ塩くさい」


 ぼくは天野さんの顔面に張り手をくらわせ、金属バットを奪い取った。


 体がずいぶん軽く感じた。


 何度か天野さんの胸をもんで、サメに目を向けた。まだ生きている。


 サメが飛びかかってきた。すごい跳躍力だ。ストライクゾーンど真ん中。


 ぼくはサメがスローモーションに見えた。すでにバットは構えている。


 ジャストミート。


 鈍い音と共に、サメは天井に張り付けられていた。

 フローリングは血で染まっている。ぼくの足の指から出血していた。


「ほな、やろや」


「まってや、やるけど、まってや。シャワー浴びてや。塩まみれやで」


 たしかにそうだ。


「パンツ脱いでまっててや」


 ぼくは金属バットといっしょにシャワーを浴びた。バスルームの床も血で染まった。


 右足の親指は、左手の小指と同じような傷つきかたをしていた。同じようにねじれている。これでバランスがとれたんだ。ぼくは思った。


 バスルームから出ると、部屋には誰もいなかった。白いパンツだけが脱ぎ捨てられている。


 ぼくはそのパンツを拾って、ニオイを嗅いで一発抜いた。


 その布切れで右足の親指を止血して、ぼくは家に帰った。


 明日にでも天野さんの家に戻って、服を取りに行かないといけない。

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シャーク・シャープナーと金属バット わく @okurayamanoue

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