第25話 真実(1)

すっかり日も暮れ夜となった。約束の丘はとうに過ぎ、ただひたすらに馬を走らせ続けていた。月明かりが自然を青色に染め上げ、馬が過ぎると同時に草木が風に身を委ねていた。

アゲハ姫もすでに泣き止み、ただ呆然と馬に揺られながら、黙って僕にしがみついていた。


不意に馬が足を遅めた。何も驚くことはなかった。ただ良くやったと労いの意味を込めて、馬の首元を力強く叩いた。


降りた途端、馬は役目を終えたかのようにパタリとそこにしゃがみ込んでしまった。呼吸を荒くして、僕らの方をじっと見つめていた。


「さあ、もう少しの辛抱だぞ」


僕が手綱を握ると、馬は少し不満げな声を上げながらも渋々立ち上がった。そして僕らはどこか隠れそうな場所がないかと歩き始めた。アゲハ姫も後ろから馬を優しく撫でながら後をついてきた。


夜風が優しく吹き抜けた。僕らは自然ともう大丈夫だと直感した。それに安堵すると同時に、どっと体が重くなり、疲れが限界まで蓄積されていたことに気がついた。

それでも僕らは最後の力を振り絞り歩き続けていると、なんとか手頃な森を発見し、そこで腰を下ろした。その瞬間、自然と二人と一匹は大きく息を吐き出した。

辺りは木に覆われて薄暗く、月明かりがほんの少し届くばかりの場所だが、木の隙間からは、月明かりに照らされている草原を見ることができた。


僕らは辺りを警戒するでもなくただ沈黙していた。不思議なくらい静かに感じた。生き物の動きも風の音も彼女の呼吸の音すら聞こえない。まるで時間が止まったような沈黙が暗闇を支配していた。


ただ地面を見つめた。何かを考えているかのような神妙な面持ちだが、何も考えてなどいない。

これからどうしようか。などと最初の問いまでは考えれるが、どうしてもその先に思考が働かない。ただ漠然とした不安や恐怖の問いを展開してはそのまま、展開してはそのままを繰り返していた。

この時だけはアゲハ姫の顔を見ることもなく、ただぼんやりと無限の暗闇を放っている地面を見つめるばかりだった。


突然大きな寝息が僕らの耳に届いた。寝息の方に同時に顔を向けると、先ほどまで僕らを運んでいた馬が、舌を出しながら気持ちよさそうに眠っているのが、暗闇にうっすらと浮かび上がっていた。


それを見た途端、僕らは思わず吹き出した。


「どうしてこんなにもぐっすりできるんだ」


「ほんとに!ふふふ、なんて気持ちよさそうに眠るのでしょう」


「全く、こいつは相当な大物ですね。人間だったらどんな奴だったでしょう」


「人間だったとして、こんな風に寝息を立てられたら、つい呆れてしまいそうですわ」


「僕は馬のこいつにも呆れてしまっていますよ」


するとその馬はうるさいとでも不満を口にするように、ブルルと一つ声に出した。それを見て途端に僕らは目を合わせた。


「少し歩きましょうか」


彼女は可愛らしくクスクスと笑いながらそれを了承した。僕らは月明かりの当たる草原とは逆の方向に歩き始めた。

少しの明かりはあるが、やはり森の中は薄暗い。僕は剣を取り出し、徐に木に傷をつけた。


「何をしているのですか?」


「迷っては危険なので、目印になるよう傷をつけるんです。一応道は覚えながら歩きますが…まあ念の為」


「グラスはこんなに暗くても道を覚えられるのですか?」


僕はその言葉につい息を呑んだ。僕が奴隷になる前は夜が主な時間だった。警備から逃げるためにも、暗い山の中を歩くのは必要不可欠なことだった。

しかし彼女にそれを知られることを戸惑った。自分の過去を後ろめたい思いがあった。


僕は「ええ」と一言だけ彼女に言った。彼女は「すごい」と笑顔をこちらに向けた。

少しだけ自分の過去が誇らしくなった気がした。


そのまま僕らは夜の森の中を歩き続けた。なんてことない会話をしながら歩いた。しかし互いに未来のことは会話に出さなかった。まだこれから先のことは話す気になれなかった。


その間も木に傷をつけながら歩いていると、彼女が徐にこちらを振り返り「次は私がやる」と言い出した。僕は危険だからとそれを断ろうとしたが、彼女は自分だって剣の稽古は受けているのだと、引き下がらなかった。


僕は仕方なく彼女に剣を渡した。彼女はどこか楽しげな顔でその剣を受け取った。そして「おお〜」と剣をじっと見つめ、徐に2、3回剣を振り回した。風圧で地面に落ちてる葉っぱたちが宙へ舞った。


「ひっ姫様!危ないですよ!」


「だって初めて本物の剣をそのまま手に持ったのですもの!」


「…先ほど稽古はしたと言ってませんでした?」


「勿論してましたよ!模擬刀で少しだけ!」


僕はとんでもないことをしてしまったと頭を抱えた。


「すぐに返してください!」


「嫌です!私だってやってみたです!」


子供じみた事を言う彼女に思わず頭を掻いたが、自然と笑みが溢れていた。僕は諦めて手頃な木を探し、一本の孤立している木を発見した。


「ではあれに目印をつけましょう」


「わかりました!」


彼女は一目散に駆け出した。僕もその後を追った。

彼女は一本の木を目の前にすると「よーし」と意気込み徐に剣を振り上げた。


「姫様、それじゃあ傷はつきませんよ」


僕は彼女が剣を握る手を、優しく覆うように手を置いた。彼女は驚いたように静止し、不思議そうに僕の方に振り返った。


「いいですか。剣というものは、うまく角度が合わないと切れないものなのです」


「そうなのですか?」


「ましてやその剣は突きに特化した剣です。勢い任せに剣を振るうと手が痺れてしまいますよ」


「でもグラスは先ほどまでこの剣で、傷を付けてたではないですか!」


「それは僕が訓練を受けていたからです。さあ、構えてください」


もう一度彼女の手を握り、ゆっくりと前に剣を構えさせた。彼女も息を呑みながら、僕の動きに従ってくれた。彼女の背中から軸が真っ直ぐになる位置を探す。その一点を見つけた時、初めて剣は力を発揮する。


「ここです」


僕は彼女から手を離した。彼女は前方に剣を構え、体の軸と剣の位置がピッタリになっている。真っ直ぐ綺麗なその構えに僕も満足し何度か頷いた。


「そのまま真っ直ぐ剣を上げてください」


僕の言葉を聞き、彼女は剣を天に掲げた。姫としての美しい姿勢を保っていただけあって、まだ軸はぶれていない。その構えの美しさに思わず息を呑む。アゲハ姫も真剣な面持ちで、真っ直ぐに木を見つめていた。


夜風が間を吹き抜けた。落ち葉は宙に舞い、長い髪も風に煽られた。とても静かだ。彼女がフーと息を吐いた。舞い上がった落ち葉がゆらゆらと地面に向かって落ちていく。


「今!!」僕は大きな声で彼女に言い放った。

それを合図に彼女は剣を振り下ろす。剣が空を切る音と同時に、激しく木に激突した。


再び沈黙が訪れた。そしてその沈黙は案外あっけなく何処かへ行ってしまった。

彼女は剣を地面に落とし「イッタ〜」と手をぷらぷらとしてしまった。僕は笑いながら剣を拾い、彼女が付けた小さな切り口を指差した。


「ほら、角度がずれたから刃が入らなかったんです」


「う〜いけると思ったのに」


「剣は鍛錬しないと言うことを聞きませんからね」


僕は笑いながら彼女に言うと、彼女はほっぺたを膨らませながら、僕を睨みつけた。しかし途端に笑顔になって、木の方へ指差した。


「さあグラス!我が剣として、この木に立派な後を残しなさい!」


「仰せのままに」


僕は笑いながら剣を構えた。一呼吸おく。剣を構えると、妙に落ち着いた気分になる。剣の重み、草の音、呼吸、彼女の存在感。なんだか全てが目を瞑ってもハッキリと輪郭を捉えたかのように感じることができた。

剣を振り上げた。そのまま目の前の木を切り倒そうと言わんばかりに剣を振り下げる。


しかし刃が木に触れる直前にあることに気がつき、寸前で刃を止めた。

彼女が不思議そうに「どうしたのか」と尋ねる。しかし僕はその言葉に「ええ」などと適当に答えながら、その木に近づき目を凝らしていた。


「やっぱり……」


彼女が不思議そうに僕の元へ近づいてきた。そして僕の視線の先にあるものに気がついた。


「これは……傷ですか?」


「はい、間違いありません」


その木には既に傷が付けられていた。彼女が付けた傷じゃない。もっと昔から既に付けられていた傷だった。そしてそれは、僕が一番よく知っている傷だった。


「一体誰が……」


「……僕です」


「え?」


僕はあたりを見渡した。不思議と目が慣れ、先ほどまでよりハッキリとしていた。しかしそれは目が慣れていたからだけではない。その見慣れた光景は、僕の心の奥底に埋まっていた記憶を呼び覚ますように鮮明に写っていた。


「アゲハ姫、ついて来てください」


「え…?でも、目印が……」


「必要ありません……ここは僕はよく知っている場所です」


そして彼女の手を引き歩き始めた。彼女は驚いた顔を見せたが、なんの迷いなく歩く僕を見て、不思議そうなどこか不安そうな顔をしながら僕に手を引かれていた。


そしてしばらく歩くと、開けた場所に辿り着いた。そこから下は崖になっていて、その下には崩れた町があった。その残骸は長い年月が経ったかのように草や花に覆われていた。


「グラス……ここは?」


「……僕の故郷です」


それを聞きアゲハ姫はハッとし、再び町に目をやった。そう、ここはあの日、家族と一緒にあの燃える町の最後を見守った場所だ。僕の故郷が滅ぶ様を見守った場所。僕が家族と別れたあの場所だった。


(こんなに近かったのか…)


思えばあの日、勢い任せに逃げ出して、どの方角にどの場所に行ったのか覚えていなかった。自分の故郷が馬で一晩で行けたことに驚かされた。草に覆われているが、あの日最後まで見守った町の残骸は今も変わらずそのままだった。


彼女は泣きながらその場に崩れ落ちた。僕は急いで彼女のそばに駆け寄った。彼女は小声で「ごめんなさい、ごめんなさい」と口にした。


僕は彼女の涙になんとも言えない罪悪感を覚えた。

僕の国が滅んだのは帝国のせいではない。ただのくだらない内戦だ。しかし彼女は僕の過去を知らない。僕が奴隷であると言う事実が、帝国によって故郷が滅ぼされたのだと勘違いをさせていた。


僕はそれは違うと否定したかった。しかし言葉が出ない。それを喋ってしまえば、きっと僕の過去を喋ることになる。それだけは嫌だった。自分の汚い過去を彼女に見せたくなかった。自分の後ろめたい過去は、彼女には知らないままでいて欲しかった。

これを知られたら彼女に嫌われるような気がしていた。


彼女に嫌われたくない。大きな犠牲で得たこの幸せを無駄にしたくなかった。

しかし目の前にはただひたすらに涙を流すアゲハ姫が意味のない謝罪を繰り返している。

彼女の涙が僕の掌にこぼれ落ちた。その瞬間自分に対して激しい怒りを覚えた。


(違うだろ!彼女が泣いているんだぞ!それ以上の不幸がどこにある!!)


僕は彼女に顔をあげるよう言った。

彼女は涙を流しながら僕を見つめた。彼女の泣き顔を見て、自分の不甲斐なさに思わず唇を噛んだ。


そして彼女の肩に手を置いて、彼女の目をしっかりと見つめた。彼女も真っ直ぐこちらを見つめている。


「違います、アゲハ姫。僕の国は帝国のせいで滅んだんじゃありません」


「そんなわけ…だってあなたは奴隷で…!そのためにこんな……!」


「違うんですアゲハ姫!僕の国は勝手に滅んだだけです。僕の国は情けないほど愚かだっただけなのです」


「ですが……それならなぜ……」


「僕が奴隷なのか…ですよね。…僕は自ら奴隷になったのです」


彼女が不思議そうな顔を僕に向ける。しかし納得のいかない説明に口調を荒くした。


「そんな嘘を…!私のために……あなたは嘘をついて……!!」


「本当です!僕は自ら奴隷になったんです!僕の過去はあなたには何も責任はない!」


「それじゃあなぜ!!」


体に力が入った。それを口にするのは恐ろしかった。しかしそれ以上に彼女をこれ以上泣かせてしまうことの方が恐ろしかった。

その恐怖が僕に勇気を与えた。その恐怖が、僕の過去を打ち明ける恐怖を打ち消していた。


「僕は……暗殺者でした」


風が強く僕らの間を吹き抜けた。彼女はただ呆然と僕の顔を見つめていた。


「僕は人を殺して生きてきました。……幼少期からずっと、人を殺しながら生きていました」

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