第7話 退院して娘さんと同居をはじめる。

 その日、僕は小さな診療所を出た。目覚めてから四日目の事だった。まずその前日に女医さんから予後良好の診断を貰った。女医さんはため息をつきながら言う。

「あと二週間ほどすれば以前と変わらないくらいになるだろう。後腐れのない怪我だよ。おかしな話だ」

そういうこともある。

出て行くとなれば服が必要であったが着ていた服は捨てられていたし、もはや面倒なので病衣のまま家に帰ることにした。そんなことが可能になったのは天野ハルコのおかげだった。

「あたしがババアの車で送ってやるよ。あの公園の近くなんだろ。その辺までいけばチヒロも道がわかるでしょ」


 こうして退院の日の朝に僕は女医さんの車に乗ることになった。そこにはなぜか立川ミミも同乗した。なんだか機嫌が悪そうだった。

「退院祝いでもしてくれるの?」と僕はそのむすっとした顔に尋ねた。

「ええ、まあ。いろいろ言い訳をしなくて済むように、あなたのご両親の記憶を改竄しておきました」

「は?」

「あなたは入院なんてしてなくて、ご両親の許可を得て独り旅に行き、今日帰ってきたことになってます。自分探しの旅ってやつです」

「いったいどこ旅してきたことになってんの?」

「中南米あたりですかね」

「遠いな」

「ある程度遠くないとリアリティが損なわれます」

「そういうものなのか」

「そういうもんです。文句ばっか言わないでください。ほんと大変だったんだから」

 そう言い捨てて立川はそっぽを向いた。かわいい奴だ。そんな折に準備ができたらしいハルさんから声がかかる。僕は後部座席に乗って、立川は助手席を陣取った。運転席のハルさんはのんびりと走った。ナビがなかったので立川がスマホを見ながら口頭でハルさんに道順を教えていた。


 そんなこんなで家に着く。庭の木は相変わらずわさわさしてる。

「じゃ、車置いてくるからさ」

「ああ、ありがとう」

 スモールカーは走り去っていき、僕は一人玄関の前に残された。ずるずると足を引きずるようにして歩き、カギが掛かっていない戸を開けて祖父の家の空気を吸った。畳と板の匂いがした。僕はサンダルを脱いで廊下を軋ませた。壁に手をつきながらのろのろと足を進めて行く。居間に入るとソファに人が座っていた。男だった。

「トラさん」と僕は呟いた。

「うん。ああ、こっちでは久しぶりだね、チヒロくん」と彼は晴れやかに笑った。僕はテーブルの近くにある椅子に身を持たせながら聞いた。

「今日はどうした?」

「今日は約束を果たしに来た。ベッドを用意しておいたんだ。隣の和室に運び込んでおいた。病院で使うみたいなやつさ。チヒロくんには必要だろうと思ってね。そうじゃなかったかい?」

「ああ、ありがたいよ」

「そうだろ。チヒロくんが安眠できるようにって思ってさ、買っちゃったんだ。別にお金のことは気にしないでくれ。僕が出したくてそうしたんだから。僕はもう行くよ。ベッドは存分に使ってくれ」とトラさんは僕に優しく微笑みかけてきた。労わるような笑みだった。それから、ソファから立ち上がり居間から出ていった。ぼくはその後姿を見送った。玄関が閉まる音がした。勝手に入って勝手に出て行く。猫のような男だ。

 僕は和室に行って、畳の上にあるベッドを確かめた。僕はぼんやりと腰かける。やわらかな反発が尻に掛かった。そのまま身を横たえてしまいたかった。

枕元に置いてあったエアコンのリモコンを操作して涼やかな風を流す。室内が丁度いい温度と湿度を取り戻したころに、呼び鈴が鳴ってどかどかと足音が響いた。

「チヒロー、かってにお邪魔するよー」

「ああ、こっちにいる」と僕はハルさんに答える。ばたんばたんとドアを開けながらハルさんはどたどたと和室に入ってきた。その後ろから立川ミミも付いてきた。

「あれ、ベッドあるじゃん」とハルさんは言った。

「うん。知人が届けてくれた」

「知人?」と立川は怪訝な顔をする。「どうやって運んだの?」とも呟いた。

「さあね、魔法でも使ったんだろうな」

「でも良かったな、ベッドがあって。これで安心してごろごろできる」

「うん。今日は色々ありがとう」と僕はハルさんに頭を下げた。

「ああ。これから一緒に住むけどよろしくな」とハルさんは笑った。その横では立川がむすっとした顔で立っている。

「え?」

「いやさあ、チヒロはまだまだケガ人だろ。で、当分は介護が必要だろうってあのババアが言ってたからさ、じゃああたしがやろうってことになってたのよ。……ダメ?」

「ダメ? ダメなのか?」

「ダメです」と立川がはっきりと言った。

「いいじゃん。ミミもここに来て遊べばいいんだよ」とハルさんは立川の頭を撫でた。

「いやあ、まあ。人がいてくれるのはありがたいけど」

「なっ、そうだろ。じゃ、今日からよろしくな」

「うん。よろしく」

「よろしくない」と立川は小さく不平を漏らした。

 こうして僕らは同じ屋根の下で同居することになった。簡単なことだった。

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