エピローグ
ひと月後、八月半ば。海老名はどうしてか緑深い山中に居る。頭上には鬱陶しいばかりに輝く葉が幾重にも折り重なった。足元から行く先には申し訳程度の獣道が蛇行しつつ伸びている。右手は藪に覆われた斜面。左手は崖だ。鼻から空気を吸い込めば、腐葉土の甘酸っぱい臭いと青臭さが充満し吐きそうになる。いよいよ目眩まで起こしかねなかった。海老名は首から下げた水筒の蓋を回し開け、中の水を飲む。氷のぶつかる音が気休めの涼を彼に与えた。
「糞、なんで俺がこんな目に」
海老名は溜め息と共に吐き出す。その元凶は、程なく道の向こうから近づいて来た。全身が黒い。影法師のような姿だ。それは掲げた片方の腕を振りながら徐々に形を大きくした。
「おうい。あんまり姿が見えないから、崖から落ちたのかと思ったぞ。二人しかいないんだから真面目に歩いてくれ」
太く大きな声が響く。目の前で立ち止まる姿は海老名より頭一つ低い。しかし黒の法衣を着た厚みは倍程もあり、剃髪の顔立ちも濃く整っている。今更説明するまでもない海老名の天敵だった。情に厚く品行方正でありながらどこか人を食ったような坊主は、汗みどろで杖に寄りかかる海老名を見る。呆れた態度で口を開いた。
「まだ山に入って一時間しか経っていないじゃないか。滝壺まではあともう一時間くらいかかるんだ。しっかりしろ」
容赦なく喝を入れられ、海老名の額に青筋が浮き立つ。彼は服装同様柄の悪い顔立ちを隠しもせず睨みを効かせた。
「そもそもおかしいだろ。あの女二人もこんな道を通ったのか?無理に決まってる」
「二人は初心者向けのハイキングコースを逸れたんだろうな。俺達が歩いているのは一般の立ち入りが禁止された道だ。主に同業か、林業関係の人達が使っている」
「はあ?何だってわざわざそんな所を歩かされなきゃいけねぇんだ」
「修行や供養というのはそういうものだ。苦しみに耐えてこそ念仏に意味が宿る」
「はいはいそうかよ」と海老名は言う。彼はこれ以上聞く気はないとばかりに横を擦り抜けた。斜面側を通る際、何かの拍子に相手が崖から落ちないかと期待する。しかしそんな幸運が起きる訳もなく、明空には半身を下げて通りやすくする余裕すらあった。前後の並びが入れ替わった状態で歩みが再開される。後方の明空も沈黙し会話は途絶えた。降り頻る蝉の声が、火葬場での読経にも似て延々と浴びせかけられる。音といえばそればかりだ。海老名は段々と、自分が醒めない悪夢の中をさ迷うように錯覚し始める。全ては夏という季節のせいだった。植物も空も、茹だる大気ですら、生命力の絶頂でぴたりと静止してしまったように感じる。うるさいはすが奇妙に静かな、完璧で止まった世界。それはまるで死後そのものだ。嫌な連想に海老名は頭を振る。悪夢から醒めたいあまり、彼は珍しく自分から後方に話題を投げた。
「そういえば、ずっと疑問に思っていたんだけどよ。繭子に陽子を殺したか聞く時、お前やっぱりって言っただろう。どこで確信してたんだ?」
「ああ、それか」と朗らかな声が背に届く。しかしそこから続く返答は奇妙だった。
「もう少し登った先が目的地だ。滝壺を見下ろせる場所だな」と明空は何故か道の説明を始めた。海老名は違和感を覚え立ち止まろうとする。しかし追い立てるような草履の音に押され、やむなく前方へ足を動かした。背後からの声は続く。
「俺の父親もちょうど同じ場所で見つかったんだ。もう言ったかもしれないが、酷く泥酔した状態でな。持たせた水筒に入っていた、無味無臭のアルコールが効いたんだろう。苦しんだ様子はなかったと検死の人に言われたよ」
海老名の足が止まった。彼は体の向きを変える。明空は木漏れ日の中に佇んでいた。影そのもののような法衣から、たった今彫り出した仏像のような首が生えている。その表情は悪意も善意も浮かべていない。狂人の顔だった。
「何でそんな事をした?」
海老名は自らに警鐘を鳴らしつつ尋ねる。
明空は天気を答えるような気安さで「その方が良かったからだ」と言った。
「あれ以上馬鹿げた散財を続けたら檀家の首が回らなくなる。地域全体の供養だって同じだ。どれだけ説得しても父親は考えを改めなかった。ならああするのが一番早い」
こいつは化け物だ。海老名は唐突に理解した。そして、自分は既に逃げ道を失っているのだと気づく。残された道の果てでは、奈落へ続く滝壺が大きく口を開けている。世界は完璧のまま静止し、念仏の声は未だ鳴り止まない。
俺は生きて帰れるのだろうか。背中を冷たい汗が流れた。
【因習村不仲バディシリーズ①】翻弄 疋田匹 @hikigaelu
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