⑬
ガラスに空いた大穴から手を入れ、明空は窓の鍵を開ける。閉じていたカーテンをすり抜け、土足のまま家へ上がり込んだ。海老名も駆け寄って後に続く。部屋は和室だった。照明はついていない。隣の部屋とを繋ぐ襖が開き、そこから光が射し込んでいた。和室の中央には布団が一組敷いてある。布団の上では一組の男女が重なり合っていた。色っぽい様子ではない。男が女へ馬乗りになり、紐でその首を絞めている。
女の反応はない。男だけが驚いた表情でこちらを向いている。ごく最近も見た顔だ。陽子の夫の木立だった。彼は予想外の出来事に硬直している。その間に明空が動いた。明空は木立へ歩み寄り、その頭部を蹴り上げる。動作には一切の躊躇いがなかった。木立の頭はサッカーボールのように横へ飛び、引っ張られた首から下が横倒しになる。重しが消え、仰向けだった女の体が初めて動いた。横向きに体を縮め激しく咳き込む。こちらへ背中こそ向けているが、繭子だという事は背格好からもわかった。海老名はそこまでの状況を飲み込む。それから、今一度明空の方を見た。彼は頭を抱え蹲る木立を仁王立ちで見下ろしている。
「何をしているんですか。人の首を絞めるだなんて」
明空は憤った声を出す。海老名はそちらを勢いよく見た。
「そっその女が、その女がどうしても許せないんです」
木立が声をあげる。彼は蹴られた部分を押さえつつ身を起こした。そうして繭子を指差す。
「こいつさえ居なければ陽子は死ななかったんだ。だから、この手で」
「証拠隠滅をしようと思いましたか」
と明空が引き継ぐ。しかしその内容は全く予想外のものであったらしい。木立は凍りついたように黙り込む。あからさまに強張った顔が見えていない様子で明空は言葉を続けた。
「自殺の原因が夫の自分にあると供述されては堪りませんからね。繭子さんを殺した後は、首吊り死体にでも偽装するつもりだったんでしょう。いざ不利な状況になったとしても、妻を亡くした夫の復讐という事で情状酌量の余地がある。しかし木立さん、強い怨恨からくる行為っていうのは、大概が素手で実行されるものですよ」
明空の視線が木立の手に落ちる。海老名もそこへ注目した。繭子を指差したままの手は、季節に合わない革手袋を嵌めている。「無駄な事をしましたね」という台詞をとどめに、木立は水平に伸ばしていた腕を力なく落とした。
明空は「さて」と言い体の向きを変える。正面を布団で蹲る繭子へ向けた。咳をしなくなった彼女は死んだように動かない。布団に半ば埋まりながら丸くなる姿はどこか、腐葉土の上の芋虫じみて見えた。明空は立ったままそれを見下ろす。
「木立さんを誘い出した餌はどこですか?」
彼は繭子へ尋ねた。
海老名は「は?」と声を出す。言葉の意味が全くわからない。そう言いたげな態度だ。事実、彼は直後に「何言ってんだてめぇは」と口にする。明空はちらりと海老名を見た。それからすぐ繭子へ視線を戻す。彼はどちらへ向けるでもなく、「タイミングが良すぎるんだ」と言った。
「月に二度だけの催し日に二人きりで会うなんてのは、双方で示し合わせていないと実現しないものだ。二上さんが退院したばかりの妻を置いて家を空けるのもおかしい。貴女が勧めたんですね?」
明空は二度目の問いかけをする。これに対し、ようやく反応があった。柔らかな土の中で芋虫が蠢くように、横向きの体が藻掻く。それは頭を擡げ、醜悪に歪んだ顔で相手を睨んだ。小さな口が開きギチギチと歯を鳴らす。
「全部上手くいくはずだったのに」
繭子は言う。余程悔しいのだろう。軋むような声だった。かと思えば再び布団に倒れ伏す。そのまま蠢くような気味の悪い動きをし始めた。合間にに軋む声が届く。
「私も殺される事で心中が完成するはずだったのに。なのに、クソ、畜生……」
「自分も殺されるという事は、やはり貴女が陽子さんを殺したんですね」
明空は豹変ぶりと呪詛に動じる様子もなく、ことさら衝撃的な言葉を放った。唖然とする海老名と木立をよそに籠もった笑い声が起きる。
「遅いか早いかの違いよ。二人で滝壺の上に立った時、躊躇った私に彼女、本当に貴女が好き、愛してるから一緒に死んでと縋ってきたわ。でも本当は、私の事なんて少しも好きじゃないって知ってた。一人で死ぬのが怖かっただけ。私を虐めてくれたのも、自分がされたのと同じ事をして、現実逃避したかっただけなの。でも私はそれで良かった。彼女に弄ばれて痛めつけられて幸せだった。そうして幸せの絶頂で、彼女が死ぬ所を見たいと思った。決心がついたと言って隣に立ったわ。こっそり後ろに回した手で彼女の背中を押した。薄い彼女の体が滝壺に落ちて浮き沈みをする様子の素晴らしかったこと!落ち葉みたいにくるくる翻弄されて、水の底に見えなくなったの。…それを見届けてから、体のあちこちを傷つけて、河原に流れ着いたふりをしました」
繭子はとうとう仰向けになり、大声で笑い出した。身をくねらせ、顔中を醜く歪めながら……。
パトカーはそれから程なくしてアパート前に停まった。窓ガラスの割れられた音を誰かが聞きつけたらしい。事情を聞いた警官は慌てた様子で応援を呼ぶ。追加のニ台が到着し、三組は別々の車に連れられた。先頭のパトカーへ向かう繭子の背に明空が声をかける。
「貴女、首を絞められながら笑っていましたね。それは本当に、心中できるという嬉しさからだけでしたか」
繭子は立ち止まった。横顔が微かに覗く。表情までは窺えないまま声が届いた。
「彼女と寝た夜、肌の白い部分だけを舌で辿ったの。真新しい痣ばかりでほとんどなかったわ。その時、そこの男を本物の人殺しにしてもいいかなと思ったっけ」
繭子は独り言のような調子で言う。それから再び前を向き、パトカーへ乗り込んだ。
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