⑫
海老名は畳の上に落ちる。這いつくばり、嘔吐きと咳を繰り返した。その傍らへ再びしゃがみ込む気配がある。海老名は衣擦れの音に全身をびくつかせた。大きな手の平が彼の肩を包む。「さぁ、話してくれるか」と声がかけられた。
「……似てたんだよ、陽子が」
不承不承といった態度で海老名が嗄れた声を出す。すかさず明空が「似ていた?一体誰に」と尋ねた。
「俺の母親だ」と海老名は答える。
「それは…」と明空が珍しく口淀む。
「自分の母親に似た女性を狙って口説いていたって事か?つまり」
「見た目の話じゃねぇ」海老名は声を荒らげる。落としていた頭をもたげ明空へと向けた。汚名を返上しようと食って掛かるような口調で続ける。「顔の傷だ。口の端と瞼の傷痕はただぶつけて出来るようなもんじゃねぇ。あれは殴られて出来た痕だ」
「じゃあそれは、繭子との行為中に作られたんじゃないか?役割を交代したとかで」
「女の力じゃあそこまで濃い痣は残らねぇよ。拳のでかさも違う。男に殴られないと出来ないもんだ」海老名の口振りはいつになく断定的だ。明空の示す可能性にすら揺らぐ様子がない。しかしその表情に誇らしさはなかった。目は虚ろで、顔から一切の感情が抜け落ちている。
明空はその顔を見返し「なるほど」と頷く。それからすっくと立ち上がった。彼はこちらを見上げる海老名に向け声を出す。
「そこまで分かれば十分だ。ありがとう海老名」明空はこう言うや扉へ向かう。海老名は呆気に取られた様子でいたが、すぐに大声を出した。
「おい、何だってんだよ」
明空は扉の前で立ち止まる。それから首を捻り、横顔を海老名へ見せた。
「まだ心中は終わっていないんだ。繭子さんが危ない」
言葉の後、明空は部屋を出て行く。海老名も慌てて立ち上がりその後を追った。彼が宿の外へ出た時、明空は既に軽トラックへ乗っていた。エンジン音を聞くや海老名は助手席ドアに飛びつく。息を切らしながらシートに座れば、隣から声が届いた。
「着いてくる事はなかったんじゃないか?過去の事は察するが、無理に悪党を演じる必要だってないはずだ」
「何を勘違いしてんだ?お前」と海老名は言う。心底不思議そうな声だ。
明空は顔をそちらに向ける。海老名は正面を向いていた。細長く顎の尖った横顔は西洋で描かれる悪魔に似ている。彼は目を弓形に細めた。
「父親からの暴力で母親が首吊って死んだ。たったそれだけの事で俺の生き方が決まるとでも思ったか?これは俺の元々の性分だ。あの女もお前もまだ俺のカモなんだよ。逃がしてたまるか」
「欲深いな」
ややあって、明空がそう言葉を返す。
海老名は口角を吊り上げ「人間様らしいだろう」と笑った。
車は町の中へ入る。途端賑やかな音と行き交う人々に包まれた。例の羽根を伸ばす日かと海老名は察する。同じ事を考えたらしい明空が口を開いた。
「となると、繭子さんは今家に一人か」と言う。彼は人通りが絶えたところでアクセルを踏み込んだ。中心部を外れると辺りは静かになった。明かりの灯っている家もほとんど見当たらない。尚も車を進めれば、一軒明かりのついた家があった。繭子の住む家だ。水田を挟んで見える駐車スペースに車は一台しかない。おおかた、二上は男衆の寄り合いに駆り出されているのだろう。明空は水田横にある空き地に軽トラックを停めた。車を降りる。二人は窓の明かりを目印に歩いた。やがて目の前にまで近づく。家は静まり返っていた。カーテン越しに明かりが漏れているというのに、生活音のひとつも聞こえてこない。海老名は違和感を覚え、隣の明空を見る。しかしそこに男の姿はなかった。明空は既に一歩を踏み出している。彼は大股で歩き、簾のついた庇の下へ入った。それから簾の下に積まれたコンクリートブロックの一つを手に取る。明空は縁側へ片足を上げ、ブロックを頭上高く掲げた。次の瞬間には窓目掛けて振り下ろす。けたたましい音が耳をつんざいた。
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