いよいよ気が遠くなりかけた頃、馬鹿丁寧な読経が止んだ。明空は棺桶と祭壇のそれぞれへ合掌をする。それから祭壇の反対側に立つ男へ視線を向けた。葬儀屋か火葬場の職員なのだろう。男は心得た様子で頷く。棺桶の前に立つ遺族に向け、控えめな声を出した。

「それでは最後のお別れになります。ご遺族様はどうぞお顔をご覧になって、お声をかけて差し上げてください」

「海老名君、棺の覗き窓を開けてあげてください」

 名前を呼ばれ、気を抜いていた海老名はぎくりとする。そちらを見れば頷く明空と目が合った。自分の役割は棺桶の窓を開ける事らしい。遅れて理解をし、厳かな表情を取り繕う。棺桶の横まで行き両開きの窪みへ指をかけた。扉の両方を同時に開く。窓は大きく装束の袷までが見えた。死に顔と対面するとこちらまで心臓が止まるような心地になる。平常心を取り戻すと共に、まじまじと窓を覗き込んだ。陽子の顔は人形じみていた。元の目鼻立ちが慎ましく整っていただけに、雛人形の官女あたりに居そうだと思う。化粧をせずとも白いだろう肌は、変色を隠す為か、濃く白粉がはたかれていた。それでも隠しきれない痣や擦り傷が所々に伺える。

「海老名君?」と呼び掛けられはっとなった。顔を上げる。木立と職員が不審そうにこちらを見ている。無関係の人間が無遠慮に遺体を眺めているのだから当然だった。最後に見る明空は目を丸くし、どこか間の抜けた表情をしている。海老名は小声で謝罪をし棺桶の傍を離れた。

 その後、火葬はつつがなく終わる。封筒を手に迫る木立を躱し、明空は軽トラックに乗り込んだ。先に乗っていた海老名を揺らしつつ車が発進する。

「いやぁ、まいったまいった。木立さんも意外と強情だ。あの調子で立ち直ってくれるといいんだが」

 明空は言う。ややあって海老名が声を出した。

「立ち直るって、参ってる様子もなかったぜ」

 彼は木立の様子を思い返す。棺の横に来た木立は窓へ顔を寄せ、長い事動かずにいた。海老名から見えた横顔に涙はない。無表情で目を見開き、食い入るように窓の中を見詰めていた。

「案外よく見る姿だ」と明空が返す。労りの籠もる声は続けた。

「故人が近しい程悲しみは遅れて来る。葬式の場なんかで、遺族よりも弔問に訪れる客の方が素直に泣いているだろう。あれがいい例だ。諸々の手配に忙殺されるのはもちろん、その人物の居なくなった実感がいつまでも湧いて来ないんだ。思考は混乱状態にあって、精神は変に静まり返っている。そんなものだ」

「へぇ、そうかよ」と海老名は言う。興味がなさそうな声だった。また会話がなくなる。麓の町へ入っても車内は静まり返っていた。車は奥の大通りで曲がり、建物の敷地内に停まる。薄青い壁の二階建てだ。海老名が泊まっていたホテルだった。中に入るとくたびれた中年女が出てくる。いつぞやは大して愛想もなかったが、今日は満面の笑みを浮かべていた。

「まぁまぁ住職さん、大変でしたねぇ。狭苦しい所ですけれど、お好きなだけ寛いでいってくださいね」

 女は言う。大袈裟な台詞と愛想笑いは明空にのみ向けられていた。明空もまた親しみのある表情と声で返す。二人は二階の隣り合う部屋へそれぞれ通された。海老名が腰を下ろしてすぐ、隣から人の出て行く気配がある。寺を焼かれようが仕事を休まないつもりなのだろう。宣言通りの達観ぶりに毒づく事もせず、海老名は天井を見上げぼうっとしていた。そうしている間に日が沈む。照明もつけず暗い部屋の中に居た彼は扉を叩く音を聞いた。億劫なのか返事を返さない。やや間を空け扉がゆっくりと開く。明空は隙間から顔を出し「寝ているのか?」と尋ねた。

「いや」と海老名は答える。それを聞き扉が開いた。影がのっそりと入ってくる。いつの間に着替えたのか、明空はいつもの法衣姿だった。海老名はそれに対し何を言うでもない。いよいよ様子がおかしかった。明空も同じように感じたらしい。素早く部屋にあがり隣にしゃがみ込む。「どうした」と気遣う声を出した。

 海老名はまた「いや」と言う。それから歯切れ悪く口ごもった。微かに「陽子が…」という言葉が聞き取られる。明空の手が相手へ伸びた。大きな手の平が優しく肩を包む。そう思われた手はシャツの襟を纏めて握りしめる。黒衣の姿は垂直に立ち上がった。伴って海老名の体も上に伸びる。いつか明空が二上にされたような格好だ。踵が浮いた所で水平に移動が始まる。視界の両端が滑るよう真後ろに動いた。背中が壁へ打ち付けられる。しかし海老名は痛みに反応を示さない。首を絞められているためだった。襟を掴むのとは逆の手が彼の喉を鷲掴んでいる。気道を圧迫されているのだろう。仰け反った喉奥から不穏な呼吸音が漏れる。音はそれきり途絶えた。海老名は完全な窒息状態に陥る。拳をでたらめに振り回すものの、襟を掴んでいた手によって払われた。支えが首を絞める手のみになった事で圧迫がより強くなる。生白い顔はいよいよ赤黒く変色する。血膨れのように膨らんだ顔で天井を仰ぎ、しきりに口を開閉させた。この時、激しい耳鳴りを起こす鼓膜に遠くから声が届く。

「もしかすると一刻を争うかもしれないんだ。思う所があるなら詳しく話してくれないか」

 明空は言う。実直で真摯な声はいつもと変わりない。だからこそ、一切力を緩めない手の主が別人のように思える。しかしそれ以上思考を巡らせる余裕など海老名にはなかった。彼は顔を上向けたまま小刻みに頷く。ようやく首から手が離された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る