彼女について書くのはこれが最後になります。

 まずは私がどのようにして卑劣な邪魔者共の巣を燃やしたか。その顛末を書かなければいけません。夫が仕事へ出たのを見送った後、私は車で山間の寺を目指しました。こちらに来て初めて取った免許です。教習所の短期講習を受けるために仕事は辞めていました。新しい仕事を始める前に慣れるようにと、夫のお古の車を譲られています。時折ふらつきながらも迷いなく道を進みます。練習という建前で、何度か目的地の近くまで通っていたためでした。緩やかな勾配を上り下りして、なんとかお寺へ到着します。駐車場で降り、石段を上りました。上りきった所で山門を潜ります。正面には墓地を突っ切る形で太い道が一本伸びています。その奥には変わった形の建物がありました。他に目立った建物もありませんから、あれが目当ての本堂に違いありません。確認した私は一度、墓石に沿って伸びる横道に逸れます。この時正面の山から風が吹き降ろされます。涼しい空気を全身に浴びて、私は促されるよう振り返りました。高台から見る眺めは素晴らしいものでした。上から見る田園は碁盤の目のように並び、その奥の山は幾重にも連なる山稜が、遠のくにつれ薄青く空の色へ染まっていく様が見て取れます。最奥には一際高い山が望めました。横幅も広く、堂々と下る大傾斜には、白と濃い群青で雪の斑消えが描かれています。

 一頻り眺めた後、人目を避けながら本堂の裏側に回ります。山の斜面との間に細い道が通り、そこへ一台の白い軽トラックが停めてあります。私は慎重に近づき運転席を覗き込みました。誰も乗っていない事に一安心します。それからお堂の壁に近寄り耳を澄ませました。微かにお経を唱える声が聞こえます。朝のお勤めというものでしょうか。人の逢瀬を覗き見る癖に仕事は真面目なのかしら。変な所に感心しながらその場にしゃがみます。肩掛けの鞄を下ろし、中から物を取り出しました。オイルライターにチャッカマン、それと大量のポケットティシュです。お寺の住職が本堂を出たら火を着ける計画です。ちょっとしたボヤが起きればいい。そう考えていました。私は壁に寄りかかりお経が止むのを待つ事にします。

 …何度目かの時間の確認をします。とっくにお昼を過ぎていました。私は立ち上がり苛々とした気持ちで壁を見上げます。お経は長い間一度も途切れていません。もしかして一日中、果ては一晩中唱え続けるのかと嫌な予感がしました。予感は的中してしまいます。夕方になり、辺りが暗くなり始めてもお経は止みません。最近仕事の変わった夫は夜の八時に帰ってきます。それであっても、運転の不慣れを考えればもう山を下りないといけません。私は泣く泣くお堂を離れました。

 夜が更けます。暗闇の中、私は長い事目を開けていました。携帯電話で時間を確認し起き上がります。午前一時過ぎ。居間の隣にある和室には私一人だけでした。今日は体調が良くないと伝えたためです。夫は一番奥の部屋で休んでいます。耳を澄ませ、物音がない事を確認します。それから布団を抜け出しました。和室には居間と同じく大きな窓と縁側がつけられています。私は窓を慎重に開け、隙間から外へ出ました。こちらの縁側には半透明のトタン屋根を被せた庇が作られています。庇からは簾が垂れ下がり、細かな隙間が電柱に取り付けられた蛍光灯の光を透かしています。その光を頼りに用意しておいたスニーカーを履きました。縁側からアスファルトの地面に降り、足を忍ばせて歩きます。玄関の前を通り家の裏手に回りました。二台の車が停まっている内、地味な色のワンボックスカーに乗り込みます。祈るような気持ちでエンジンをかけ、慎重に、ゆっくりとバックをして敷地から出ました。当然ですが道には人っ子一人居ません。私の運転する車は無人の道路をのろのろと進みました。突き当りで左折し、橋を目指します。橋に差し掛かった時、正面に見えたヘッドライトの光に心臓が止まる思いをしました。

 そこからはどうにかお寺へ辿り着き、お堂に火を着けます。火元から煙が立ち昇ったのを確かめ、急いでその場を離れました。再び橋まで戻って来ます。渡り終わろうという時、脇道から人影が飛び出しました。驚いて急ブレーキをかけます。ヘッドライトに照らし出される姿は陽子さんのものでした。彼女は運転席側の窓へ駆け寄ります。窓を開けると身を乗り出し、私の首に抱きつきました。冷たく濡れた頬の感触が首筋に張り付きます。肩口には荒く熱い息がかかりました。

「やったのね」

 彼女それだけを口にします。私も「ええ」とだけ返しました。沈黙が続きます。それを破ったのもまた彼女でした。

「逃げましょう」

 はっきりとした口調で告げます。私が硬直したのを感じ取ったのでしょう。彼女はゆっくりと体を離しました。黒くつぶらな目の潤みがちらちらと瞬いて見えます。酷く怒ったような、それでいて泣き出す寸前のような表情です。初めて見る複雑で繊細な彩りに、私はこんな時にも関わらず見惚れました。

 提案を飲み、私は助手席へと移ります。空いた運転席には彼女が乗り込みました。車はスムーズに走り出します。橋とは反対側から町を外れました。

「どこへ行くの?」と私は尋ねます。彼女は「県境に温泉街があるでしょう。その手前にいくつか泊まれる場所があるのよ」と答えました。

 最短距離だからと言って、彼女はほとんど真っ暗な峠の道を選びました。ヘッドライトの照らす部分しか見えず恐ろしい思いをします。そのうえ何度も左右に曲がるものですから、私は必死に手摺へしがみついていました。時折横を見ます。彼女はまったく平然とした様子でいました。ハンドルを操作する動きは躊躇いなく大胆で、車はするすると滑るようにカーブを通過していきます。下り坂がいくらか緩やかになった頃、路肩に建物が過るようになりました。黒い木々の間に突如、ピンクや赤色のけばけばしいネオンが現れます。照明に照らし出されるのは安っぽいお城のような建物です。私は自分の心臓が先程までとは異なる動きで暴れだすのを感じました。

「怖い?」と彼女が尋ねます。久しぶりに聞く耳をくすぐったくさせる声でした。緊張が解け、勇気が戻ってきます。私は力強い声で「いいえ」と答えました。車はその次に建物が見えた所で曲がります。お城のようなものではありません。塀に囲われた中へ、戸建ての小さな家が並んでいました。等間隔に一メートルくらいずつ離れています。白く薄汚れた壁がぼんやりと浮かび上がって見えました。それぞれには建物と一体になる形で車庫が備え付けられ、十件の内の五件に車が停まっています。手前から順に埋まっているようでした。塀を過ぎた所で停まっていた車が動きだします。ゆっくりとした速度で敷地の奥へ進みました。バックで車庫に入ります。エンジンが止まり車内が静かになりました。隣でシートベルトを外す音がします。私も強張った手でどうにか金具を外しました。横這いに車庫を出ると、彼女は既に扉の前へ立っていました。取手を回し、押し開いた扉の向こうに姿を消します。私も慌てて後を追いました。閉じる寸前の扉を押し、中へ飛び込みます。空気の籠もった匂いがしました。

室内は照明がついているのに薄暗い印象を受けます。明かりが元から弱く絞られているのでしょう。建物のほとんどを占める一部屋は、これもまた一台のベットに占められていました。それ程大きなベットではありません。部屋が狭いのです。左側の扉は浴室なのだろうなと想像しました。彼女は壁掛けテレビとベットの間に立っています。こちらに背中を向けていました。華奢な背中です。壊れ物のような肩の薄さが遠目からも見て取れました。仕事用のシャツにロングスカート姿で、髪を低い位置で結んでいます。私はどうして良いかわからず部屋の入り口で棒立ちになります。彼女がこちらを振り向かないまま声を出しました。

「先にシャワーを浴びてきたら?私は後でいいから」

 穏やか声色で言います。少しも緊張した所のない様子でした。対する私はバネ仕掛けの人形のように飛び上がります。返事をしようとするも喉奥に何かが詰まったようで、結局は無言のまま左の扉へ向かいました。シャワーを浴びて部屋に戻ります。彼女はベットに腰掛けていました。立ち竦む私へにっこりと微笑みかけます。お化粧を直したのでしょう。汗の光っていた顔は陶器の色艶へ変わっていました。彼女は立ち上がり、入れ違いに扉の向こうへ消えます。すぐにたくさんの水滴が床を打つくぐもった音が届くようになります。私は扉に背中を向け、長い間それを聞いていました。やがて音が止みます。しかし彼女が出てくる気配はありません。まるで誰も居なくなったかのように、一切の音が届かなくなりました。私は床へ視線を落とします。それから目を閉じ深く息を吸いました。限界まで肺を膨らませた所で息を止め、体の向きを反転させます。荒々しく扉を開け、勢いのまま脱衣所から浴室へ入りました。突如踊り込んできた私を見て彼女は驚いた表情を浮かべます。同時に私も彼女を見ました。彼女は裸でした。何も纏わない姿は先程までの私のように立ち竦んでいます。狭苦しいユニットバスの中、私は彼女との距離を詰め、その体を引き寄せました。

 後の事はあまり書きません。私はベットへ仰向けに倒れた彼女へ獣のように覆い被さり、白い素肌を舌で辿りました。一頻りが終わると、彼女は全身をぐったりとさせ、ベットへ深く沈みました。私はそこから這い出し床へ降ります。ベットサイドに置かれる小さな丸テーブルと背もたれのない椅子のセット。その椅子へ腰掛けました。テーブルには深い傘の付いた照明が備え付いています。私はその下に便箋とボールペンを並べました。峠へ入る前にコンビニで買ったものです。テーブルへ齧りつくよう前屈みになり、私は便箋へ文字を書き始めました。ホテルへ入った部分を書いた所でベットの軋む音を聞きます。没頭していた私は顔を上げました。陽子さんがうつ伏せの姿勢で僅かに体を起こしています。そのまま腕を使いこちらへ躙り寄りました。私の手元を覗き込み、彼女は目を丸くします。それから苦笑を浮かべ、少し悪戯っぽい声を出しました。

「それは遺書?」と彼女は言います。今度は私の方が目を丸くしました。今の今までそんなつもりが欠片もなかったためです。しかし言われてみれば、これは間違いなく遺書でした。未完成のそれを手で覆い、私は羞恥の滲む声を出します。

「そうね。でもまだ未完成なの」

「ふうん」と彼女は言います。それから興味深そうな目つきで手に隠れきらない文面を眺めました。「なんだか日記みたいね」そう付け加えます。

 私は益々恥ずかしくなりました。発する声は出会った頃のように口ごもります。吃りながら言葉を繋げました。

「ずっと、貴女のことを書いてきたから」

 どうにかそう言いました。途端、身体中の皮膚の下へ火が回ったように感じます。これは告白でした。私にとって文字に書き表すという行為は、先程ベットでしたものと同じかそれ以上の意味を持っています。輪郭や顔かたちをなぞる事はペンによる愛撫でした。この上なく独りよがりな行為です。自覚があるだけにこの告白は強い羞恥を伴いました。

 陽子さんは真っ赤になる私をさして気にもせず、「私にも一枚ちょうだい」と言います。伸ばされた手に便箋とペンを乗せると、ベットの上に寝そべったまま何かを書き始めました。しかしすぐ飽きてしまったようで、紙をくしゃくしゃに丸め、ベット横のゴミ箱へ落とします。そうして彼女はベットを降りバスルームへ消えました。再び響きだすシャワーの音を聞きながら、私は残りの文を書きます。そしてこれで終わりです。私の愛した彼女について書くのはこれが本当に最後になります。

 彼女に翻弄され続けて、私は幸せでした。



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