「410号室の二上繭子さんにですか?」

 太った女の看護士は言う。二上と警官を見た後、その他の二名へ不審がる視線を向けた。二上が必要な面会者だと説明をする。警戒が解かれ、看護師は四名をフロアの奥へ案内した。角を曲がった廊下の先に直立する警官の姿がある。近づけばパトカーを運転していた警官だという事がわかった。彼が居るのは角部屋にあたる扉の前だ。海老名達が近づくと敬礼をし横へずれる。案内役の警官が二上へ頷いてみせた。二上は頷き返し扉と向かい合う。スライド式のそれを僅かに開け、隙間へ声を吹き込んだ。

「繭子、入るよ」と二上は言う。懸命に和らげた声色だ。間を開けて短い返事が届く。女にしては低くくぐもった響きだ。扉の手すりにかけられた手が躊躇する。二上は縋るような視線を背後の明空に向けた。相手が深く頷いてみせると僅かばかりの安堵を浮かべる。手摺が力強く握り直された。込めた力とは反対に扉はゆっくりと開く。

 病室は広い個室だった。中央のベットは右の壁に頭を向けている。その奥にはホテルにあるような丸テーブルと一人掛けのソファーが一対配置され、ソファーの間にカーテン付きの窓が掛かっていた。ベットの上の女は上体を起こし窓の外を見ている。表情は窺えない。こちらへ向けられた後頭部には何重にも包帯が巻かれ、その上から果物にするようなネットが被せられている。再度二上が呼びかけてようやく頭の向きが変わった。平面的な顔に表情はない。小さく粗末なつくりの口は、一筆で描かれた線のようにぴくりとも動かずにいる。大きすぎる目は瞼を半ば下ろしていた。肉の痩けた頬はまだらに変色し擦り傷が目立つ。増えた人数に反応を示すでもなく、二上繭子はくりぬいて開けた穴のような目で出入り口を見た。沈黙に耐えかねたのは声をかけた側だ。夫である二上はベットの側に立ち、同じ視点から海老名達を見る。無理に明るい声が出された。

「ほら繭子、こちらお寺のご住職だよ。お前が可哀想だからって、全部許してくれると言ってくださったんだ。だから罪にはならないんだぞ。良かったな」

 返事はない。しかし表情に微かな動きが起きた。半ば閉じられていた瞼が徐々に持ち上がる。他の一切は動かないまま、眼球がこぼれ落ちる寸前まで剥き出された。伴って黒目は強い光を放つ。きらきらとして輝かしいものではない。夥しいガラス片を突き刺したかのように見える。

「かわいそう?」と呟きが落ちた。ごく小さな声は沈黙の中において際立つ。繭子は続けて「かわいそう」と繰り返した。

「かわいそう、可哀想。…私が?私が可哀想だって誰が決めたの。そこの坊主がそう言ったの」

 くぐもった声は壊れた人形のような調子で続く。起伏に乏しい声はしだいに苛烈さを帯びた。

「ふざけるな。私は可哀想なんかじゃない。お前なんかにわかってたまるか。私は幸せだ。私は幸せだ。私は幸せだ」

 終いには狂ったように叫びだす。顔全体が大きく歪んだ。至る所に皺が寄り皮膚の下で肉が波打つ。泡の溜まる口角は耳まで裂けた。警官が慌てた様子で扉を開ける。扉の外でバタバタと足音が遠退いた。程なく太った女の看護士と、もう一人体格のいい女の看護士が入ってくる。

「二上さーん、大丈夫ですかー?」

 明るい声を出しながら手際良く処置が施された。ベットの下からベルトが伸びる。もがく体は腕を交差する形で拘束された。腿と膝から下も帯状の拘束具で纏められる。唯一自由のきく顔は歯を食いしばり、膨らんだ鼻から激しく不規則な呼吸を繰り返す。異様な光を放つ目はぐるぐると動き回った。太った看護士がベットに背を向ける。険しい顔つきで海老名達を見た。のしのしと歩み寄り、低く抑えた声を出す。看護士は「皆さん病室から出てください」と有無を言わせない口調で言った。海老名達は揃って病室を出る。ナースステーションから送られる視線を逃れるよう、急ぎ足で夜間出入り口を潜った。

「あの様子は一体どういう事でしょうか」と明空が言う。唯一平常と変わらない様子だった。二上が「すみません」と謝罪を口にする。それから伺いを立てるような視線を警官二人に送った。警官同士が目を見合わせる。助手席へ座っていた方に決定権があるらしく、そちらが頷いてみせた。もう一人がパトカーへと走りすぐに戻って来る。手には無地のクリアファイルを持っていた。中には数枚の紙が挟まっている。

「心中未遂の前に書かれた二上繭子さんの遺書です。こちらはコピーになります」

 警官は明空に手渡しながら告げた。それから自分達は病院への説明があると言い、連れ立って場を立ち去る。残される海老名達は顔を見合わせた。二上が口火を切る。

「こちらからお願いします。それを読んでください。俺からはとてもじゃないが読み聞かせられない」

 このように言う。捨て鉢な口振りだった。その後は読んでいる場にも居たくないという態度で立ち去る。影の中には海老名と明空だけが残された。明空はファイルから紙を取り出した。立ったまま目を通す。例によってすぐに読み終え、海老名へ差し出した。彼はそれを受け取り一枚目から読み始める。紙は全部で三枚あった。ノートのページではない。シンプルな縦書きの便箋だ。やや幅の広い罫線を埋める文字が、やはり改行も段落もなく敷き詰められている。

「彼女について書くのはこれが最後になります」

 遺書はこのような言葉で始まった。


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