⑦
「なるほど。物取りではなかったんですね」と明空。
陽子の夫は「はい。それは確かめました」と頷いた。
「売り物である本や雑貨の管理は僕がしているのですぐわかります。レジの金額はもちろん在庫との差もありませんでした。陽子…妻個人の買い取った画集が一冊見当たりませんでしたが、最近本好きの友人が出来たと言っていたのでそちらに貸したんだろうなと。彼女は社交的なようで人見知りをする性格なので、親しい友達が出来て良かったと思っていたんです。あの、それがまさか…」
「うちの嫁だろうな」と二上が言葉を引き継ぐ。こちらもいくらか落ち着いたらしい。顔を顰め腕組みこそしているが、まともに会話をする気はあるようだ。
「嫁いで来たばかりの頃、いい本屋があったとやたら上機嫌に言っていた。でも、その晩俺に抱かれたんだ。あんなふうに考えてたなんて思わないだろう」
話している内に気が昂ったのか、二上の顔は紙を丸めたようになる。こちらは直情型なのだろう。終わりの声は涙で曇った。しんみりとした空気の中、海老名だけは様子が異なる。表情は歯にものが詰まったようだ。懐疑的な視線は明空へ向けられている。違和感の正体に気づいた時、彼はあっと声をあげそうになった。廃墟で明空が読んでいた本も画集だった。ついさっき買ったなどと、よくもぬけぬけと言ったものだ。ガラスを割ったのも十中八九この男だろう。ガラスの方はカモフラージュで、恐らくは裏口から侵入したに違いない。またしても一杯食わされた事を遅れて知る。海老名は歯軋りをして明空を睨みつけた。
当の本人はいかにも善人面をしている。揃って妻に逃げられた夫二人を慰め、涙ぐむ二上の背中を擦っていた。しかし忘れてはいけない。この男は女二人が関係を深めていた事を知っていながら黙っていた悪人だ。海老名はいっその事ぶち撒けてやろうかと企む。しかし痛い腹を探られて困るのはこちらも同じだ。いや、一方の体を狙っていたうえ、もう片方は詐欺のカモにしようとしていた事を考えればこちらの分が悪い。結果として彼は複雑な表情で奥歯を磨り減らすしかなくなる。せめて一刻も早く茶番が終わる事を願った。その後はすぐ警察を呼ぶ事で話が纏まる。既に夜も遅く、また火事の件で応援まで出払っている事情から、捜索は翌早朝から始めるとの連絡が入る。海老名は明空と小百合の店へ戻り、そこで一晩を過ごした。扉が乱暴に叩かれる。嫌な記憶から海老名は飛び起きた。占領していたソファーから転げ落ちるように降りる。狭い店内はカウンターを照らす照明だけがついている。明空は中央のスツールに腰掛けていた。上下共、二上に借りた服を着ている。長袖のポロシャツにジーンズ姿だ。今までが和装であったため、ラフな格好には違和感を覚える。明空は座席を回転させ立ち上がった。けたたましい音は絶えず響いている。彼は慌てた様子もなく、ゆっくりとした足取りで進んだ。数歩で扉の前へ着く。その頃になると音の間隔はいくらか開くようになった。明空は間隔の間に内側から扉を叩く。軽く二度、骨が木の板とぶつかる音が響いた。外側からの音が完全にしなくなる。ようやく扉が開いた。海老名は白い光の射す向こうを覗く。長方形の狭い枠いっぱいに、大きくずんぐりとした人影が納まっている。二上だ。呼吸は荒い。肩が大きく上下している。逆光でもわかる程顔色が悪かった。誰も言葉を発しない。二上に口を開く余裕がない事は明らかだ。明空の方は、相手が落ち着くのを待つ態度だった。耳に届く呼吸音が徐々に静まる。明空は尚も辛抱強く待った。最後に長く息を吐いた後、二上はようやく声を出す。
「妻が、見つかりました」二上は言う。口振りは鉛を飲んだように重苦しい。
それを聞く海老名は最悪の事態を想像した。明空は低く静かな声で「奥様は」と尋ねる。二上の返答は意外なものだ。彼は「妻は無事です」とはっきり答える。本人からすれば、これ以上なく喜ばしい知らせだろう。しかし声は変わらず固い。その理由を続く台詞が明かした。
「ですが、相手の方が…」
彼はこう言ったきり口を閉ざす。以降開く事はなかった。店の外にはパトカーが停まっていた。赤色灯やサイレンは沈黙している。既に話がついているらしく、二上と明空、それから海老名は後部座席に通された。おどおどとした海老名を乗せ車は走りだす。右手に直進し初めの角で左折した。民家の間を通り抜け広い道路に出る。道路を道なりに進む中、右の車窓へ薄い青色の建物が過ぎた。海老名は酷く懐かしい気分でそれを見送る。突き当りで左折。そこからは幾度となく繰り返した景色だ。しかし橋を過ぎた所で進路が左に逸れる。海老名は驚いて隣を見た。明空は横目で視線を合わせる。それから口を開いた。
「大きな街の病院に行くんだろう。ここじゃ人目につき過ぎる」
「合っていますよ」と助手席から声が届く。警官は振り返る事なく続けた。
「隣町の市民病院へ向かっています。奥様がそちらに居ますので。ご主人から何も伺っていませんか?」
「すみません。妻の無事以外何も言わず」
二上が重い口を開く。言葉を続けた。
「妻本人から謝罪をさせたい気持ちはもちろんあります。ですがまずは話を聞いてやって欲しいんです。厚かましいお願いとはわかっています。ただ今だけは、形だけでも許して頂けると…」
「奥様は山中の崖から落ちられたんです。奇跡的に川岸へ流れ着きましたが頭を強く打ったようで、今は病室で安静にしています」
助手席の警官が説明を引き継く。
「我々も事情聴取は時機を窺っている状況です。どうかご理解頂けますと助かります」
「元から責めるつもりはありませんよ」
明空は言う。きっぱりとした口調だ。
「むしろそこまで思い詰めていたとはお可哀想だ。体の負傷はもちろん心がお辛いでしょう。私なんかで良ければお話を聞かせて頂きますよ」
「ありがとうございます。本当に…」
二上は再び声を詰まらせた。座席の端で蹲る気配がある。明空がそちらに体を捻り慰めた。
パトカーは田園を抜ける。比較的賑わう街並みが現れた。とは言えその程度はたかが知れている。四車線の道路沿いにチェーンの飲食店やパチンコ屋、対面に大型書店やスーパーが並ぶ程度だ。海老名はコンビニを挟んで並ぶパチンコ屋へ釘付けになった。おもちゃ屋を前にした子供のように窓へ張り付く。しかし車は非情に進行方向を変えた。中古車ディーラーと書店の間から細い通りに入る。進行方向の左側にモザイク模様の壁をした茶色い建物が建っている。町で見た病院二つを足した程の大きさだ。これが市の病院であるらしい。パトカーは外周を通り裏手へ回る。夜間出入り口の前で停まり、後部座席のドアが開いた。フェンスと壁に挟まれた通路は薄暗く静かだ。助手席から降りた警官が窓口へ近づき声をかける。許可が下りたようで三名を呼んだ。狭い入り口から建物へ入る。蛍光灯の光を浴びるリノリウムの床は死人の肌のようだ。仄暗く沈む白を踏み直進した。エレベーターへ乗り込み四階まで上昇する。エレベーターホールを出て正面にナースステーションがあり、中では看護士達が忙しく動き回っていた。男達を引き連れた警官の姿に一同がぎょっとした反応を見せる。すぐに仕事の顔へ戻り、一人が廊下へ出て来た。
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