⑥
海老名はもう言葉を発しない。ただ呆然と夕日の残照のような空を見ていた。その隣で間の抜けた声があがる。澤邊はたったの一文字「あ」と言った。直後、海老名は隣で人の気配が動くのを感じる。遅れて身に覚えのある引力が働いた。彼の体は再びあらぬ方向へ引きずられる。身を任せていれば駐車場横の母屋へ着いた。澤邊はここで海老名の手を離す。それから家の周囲をぐるぐる回り出した。まるで狂った犬のような挙動だ。海老名は肝を潰された様子でその様を眺める。
程なくして澤邊は戻って来た。忙しない呼吸を繰り返す様もまた犬に似ている。彼は吸い吐きの合間に口を動かした。
「自転車です、海老名さん。自転車がありません」と澤邊は言った。苦しげだが声は明るい。「何の事だ」と海老名が聞き返せば、汗みどろの顔に笑みを浮かべ話しだした。
「先輩の使っている自転車ですよ。いつも母屋のどこかしらにママチャリが停めてあるんです。荷物がない時はよくそれで町まで来てました。それがどこにもないんです。先輩はきっと町に下りてます」
「面白くなってきた」と澤邊は呟く。安堵している台詞としては不自然だ。表情には運転している時と同様のギラつきが表れる。彼は「こうしちゃいられない」と続けた。
「行きましょう海老名さん。いい場面を見逃しちゃいますよ」
二人を乗せた車は猛スピードで麓へ戻る。過酷な往復から生還し、海老名はよろよろと石畳の上に這い出た。そこへ運転席から降りた澤邊が駆け寄る。彼は海老名の傍らにしゃがみ込み声をかけた。
「さぁ海老名さん。心当たりがあるでしょう。俺に構わずそちらに行ってください」
海老名はこみ上げる吐き気と戦いながらそちらを見る。澤邊は子犬のような瞳を輝かせていた。とんでもない場所に来てしまった。海老名は今更過ぎる後悔を抱く。
まるでたちの悪いゲームを無理矢理やらされているような気分だった。村人は皆頭がおかしく、クリアするまで村から出る事を許されない。「畜生が」海老名は毒づきながら立ち上がる。覚束ない足取りで歩き出した。
順を追って現れるのは悪夢のように繰り返してきた眺めだ。石畳の通りを抜け左へ曲がる。誰ともぶつかる事なく商店街の前を通り過ぎた。人気のない道路を斜向かいに渡る。廃墟は今日も怪物じみた姿で聳えている。立ち入り禁止のポールを跨ぎ、暗闇へ足を踏み入れた。だだっ広い空間を直進する。携帯電話のライトで足元を照らし、奥の壁に張り付く階段を上り始めた。頬に風を感じる事で段数の半ばを過ぎたのだと知る。更に上り詰め、屋上へ出た。夥しい遊具が打ち捨てられた遊園地跡。この世から切り離されて浮かぶ眺めはやはり薄気味悪い。海老名は早々に背を向け、奥に建つ御殿へ歩み寄った。観音開きの扉は当然のように開いている。中に入り、足元も見えない暗闇を進んだ。壁伝いに歩き曲がり角を左へ。そうすれば、窓も壁の損壊もない廊下へ一筋の光が差している様に出会す。海老名は縦に伸びる光の前に立った。
覗き込むような真似はしない。手探りでドアノブを掴み手前へ引いた。軋む音をたてて扉が開く。温かみのあるオレンジ色が部屋の底から溢れ出した。明空は光源となるランプの隣で胡座をかいていた。のんびりとした態度で本を読んでいる。格好は最後に見た時と同じ作務衣姿だ。腿に肘をつき、受け皿にした手の平へ頬を乗せている。もう片方の手で床に広げたページを捲る。いかにもつまらなさそうな顔つきだった。ややあって、明空は上目遣いに海老名を見る。彼はわざとらしくたった今気づいたというふうな態度を取った。伏せぎみの顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべて見せる。
「やあ、奇遇だなこんな所で。小百合さんを怒らせでもしたのか?」
「ふざけるんじゃねぇ」
海老名は間髪を入れずに言った。静かな声だ。
これを聞いた明空は笑みを引っ込める。
真顔になった相手に対し海老名は言葉を続けた。
「馬鹿にするのも大概にしろよ。全部お前が仕組んだんだろうが。カモになりそうな餌をばら撒いた事も、女二人のイカれた場面を見せた事も。挙句の果てには俺を放火犯に仕立てあげようとしやがって」
海老名はここで一度言葉を切った。相手からの反論がない事を確かめ、一転勝ち誇った態度になる。彼はせせら笑いを浮かべ言葉を続けた。
「でも安心したぜ。お前にも人間らしい所があったんだな。趣味の悪い本堂をぶっ壊すついでに保険金をせしめようとしたんだろう。あの仏像の分も下りてくるとなれば相当な金額だ。前科持ちの人間を住まわせておけば不審火にも信憑性が増す。まさかそこから計画の内だったとは、慈善ぶった面をしてとんだ詐欺師だぜ。親父にしてこの息子ありってやつだな」
溜めに溜めた鬱憤を晴らすべく相手の気に障る言葉を選んで重ねる。締め括る台詞を言う際、海老名は絶頂にも似た痛快さを味わった。
明空は長らく沈黙したままでいる。表情にも変化はない。いや、微かに驚きを抱いているようにも見える。ある時からその顔に目に見える変化が表れた。刻々と変わる目鼻口はやがて満面の笑みを形づくる。歯を見せて笑う口から血肉の通う声が出た。
「そうか」と彼は言う。続けて「そうか、そうか」と同じ言葉を繰り返した。
「お前はそう考えるんだな」
明空は何かに一頻り納得する。それから唐突に立ち上がった。海老名はびくりと身構える。報復の可能性を考えたのだろう。しかし明空はそうしなかった。むしろ今までになく親しみを持った様子で歩み寄る。彼は怯えきった様子の海老名へ手に持つ物を突き出した。海老名は反射で目を閉じ頭を抱え込む。危害がない事を確認し、ゆっくりと薄目を開けた。明空が持っているのは先程捲っていた本だ。厚みはさほどなく正方形で大判。画集の類だろう。その表紙を間近に見た途端、海老名は顔色を悪くする。視界いっぱいに広がる光景に覚えがあったためだ。トラウマと言っていい。
全身を赤い縄で縛られた女が喉を裂かれ死んでいる。構図から傷の感じまで、この場で見たものと瓜二つだった。違うのは女が上下逆である事。それから和装と洋装の差程度だ。ここまで考えた海老名は違うと思い直す。絵が逆なのではない。あの夜の光景が正解を模しきれていなかったのだ。明空の言っていた「真似事」という単語を思い出す。海老名は表紙の向こうにある顔を見た。
「これはお前の私物か?」と尋ねる。明空は「いいや」と答えた。そうして更に言う。
「ついさっき商店街の古本屋で買ったんだ。店主の女性にずいぶん驚かれた」
「何でだよ」
「前にここで会ったからだろう。お前は気づいていなかったな」
海老名は絶句した。
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