眠りが破られたのは甲高い唸り声を聞いたためだ。くぐもってこそいるが、防音であるはずの壁を突き破る程の大音量。消防車のサイレンだった。海老名は暗闇の中体を起こす。音は連続し、所々重なっている。複数台出動しているようだ。彼は野次馬根性から外を覗こうとする。記憶を頼りにドアノブへ手をかけた時、板の向こう側から激しい衝撃が叩きつけられた。海老名は飛び上がる。触れる寸前で手を引いた扉は轟音と共に振動する。衝撃は立て続けに繰り返された。海老名は衝撃の合間にくぐもった声がする事に気づいた。リズムと抑揚からして同じ言葉を叫んでいるらしい。低い男の声でない事を確認し、扉へ隙間を開ける。そこへ四本の指が捩じ込まれた。

 海老名は引き攣った悲鳴をあげる。慌てて閉じようとすると今度は靴先が挟まれた。全体重をかけドアノブを引く。しかし靴と指のどちらも退く様子を見せない。この時扉の隙間から目が覗いた。やや垂れたどんぐり眼だ。見覚えのあるそれに海老名の力が緩む。同時に隙間から指と靴先が抜けた。扉は勢いよく外側へ開く。手からドアノブがすっぽ抜け、海老名は盛大に尻餅をついた。

「あいたたた。酷いなぁ」

 こう言ったのは海老名ではない。入り口に立つ影が彼を見下ろしていた。シルエットに威圧感はない。下から見上げてもわかる程背が低かった。

 海老名は自信を取り戻し立ち上がる。彼は自分から影へと近づいた。目の前に立つとより身長差がはっきりする。海老名は低い位置にある胸ぐらを掴み、相手を外へ押し出した。押し出された側はバランスを崩す。不規則なリズムで石畳を踏み、どうにか転ばずに持ち堪えた。

「ガンガンうるせぇんだよ。何のつもりだ?」

 海老名は低い声で凄む。

 やや高く掠れた声がそれに応えた。

「緊急事態なんです、海老名さん。仕方なかったんですよ」

 街灯に照らされる小男、タクシー運転手の澤邊は言う。両手を上げ降参のポーズをとっていた。「緊急事態?」と海老名が繰り返すと、年齢の割にあどけない顔が鬼気迫る表情を見せた。

「そうです、大変なんですよ。寺が火事なんです!本堂が燃えていて、明空先輩が見つかっていないって…」

 澤邊は言葉を途切れさせる。海老名にポロシャツの襟を掴まれたまま顔が俯いた。海老名も言葉を無くす。しかし、ややあって抜き出される言葉は様子が違っていた。

「本堂が」と彼は言う。その視線は宙へ浮いた。計算をする際のように視線が宙を泳ぐ。動きが定まったかと思いきや、ゴマ粒大の黒目が下を向く。海老名は掴んだままの襟を強く引き寄せた。

「うわっ」と澤邊が声をあげる。海老名は背を丸め、相手と鼻先が触れる所まで顔を近づけた。見開かれた目は尋常でなく血走っている。喉から血の滲むような声が絞り出された。

「俺を寺まで連れて行け。今すぐにだ」

 海老名は言う。有無を言わせない口調だった。

 澤邊は驚く。それから使命感に燃えた顔つきになった。いつか見た表情だ。彼は「わかりました」と深く頷く。そうして襟を掴む海老名の両手首を持った。次の瞬間から、海老名は物凄い力によって真横へ引きずられる。力の出どころは小柄であるはずの澤邊だ。先程よろめいていた足は一切揺るぎない歩調で進む。海老名は何度か足をもつれさせながら、転ばないよう必死になった。

「こんな事もあろうかと、駐車場に車を停めてあるんです。プライベートの車ですけどね」と澤邊。その声はどこか活き活きとして感じる。真偽を確かめる余裕が海老名にあるはずもなく、彼は暗闇の向こうへ引かれて行った。

 車はろくに街灯のない道を走る。田園の中を突っ切り、大きく蛇行した後木々に囲われた橋を渡る。スピードは一切緩まなかった。車内は体が斜めになる程天井が低い。そうでなくても前からの圧によってシートに押さえつけられた。海老名は顎を引いたまま身動きが出来ない。助手席から隣へ視線だけを動かした。運転席の澤邊は悠々とした態度でハンドルを握っている。しかしその横顔は尋常でなかった。食い入るように前方を見る目は先程の海老名にも増して血走っている。頬が大きく持ち上がり、吊られて上がる口端からは鋭い犬歯が剥き出しになった。口が一際大きく裂ける。そこから高揚に上擦る声が出た。

「心配しなくてもすぐに着きますよ。この前よりも近道を通っていますから」

 澤邊は言う。顎を動かす度犬歯と下の歯とがガチガチ音をたてた。フロントガラスに真っ黒な山肌が迫る。「今からここを越えます」と宣言され、海老名は死を覚悟した。

 またこのこれだと海老名は思う。気づくと車はスピードを落とし、平坦な道をトコトコと走っていた。車窓は黒く塗り潰されている。やがて左手窓の端へ赤い色が滲んだ。それはじわじわと範囲を広げる。伴ってけたたましいサイレンの音が近づいた。徐々に濃くなる燻されたような悪臭。今や窓は一面眩い金色から緋色、そして赤へ移ろうグラデーションに塗り替えられた。車が停まる。立ち込める悪臭は耐え難いものになっている。海老名はそれから逃れるよう外へ出た。凄まじい熱気が体を取り巻く。強烈な悪臭で満足に息も出来ない。海老名は手の平で口と鼻を覆った。黒く霞む視界に目を細め上を向く。今にも崩れ落ちそうな山門が、赤黒い空を背に立っていた。

 複数台の消防車は狭い駐車場から道にまで溢れている。太いホースが地を這い斜面の上へと伸びた。オレンジ色の服を着た隊員達がその間を駆けずり回っている。その内の一人が海老名達に気づいた。汗の光る顔を強張らせこちらへ走って来る。

「下がってください。ここは立ち入り禁止ですよ!」

 隊員は大声で言った。

 海老名が答えるより早く、背後で声が張り上げられる。

「電話を受けた者です。伝えていた関係者を連れて来ました!」と澤邊は言う。やや高い声は喧騒の中でもよく響いた。澤邊の言葉を聞いた隊員ははっとし、途中で止めていた足を動かす。海老名の目の前に駆けつけるや再び大声を出した。

「一緒に住んでいた方ですね。火元の本堂は火の勢いが強くて近づけないんです。他の場所に居るなど、知っている事はありませんか」

「い、いえ俺は、一週間本堂に籠もるとしか…」

 海老名は剣幕に圧されしどろもどろに答える。隊員の顔が苦しげに歪んだ。しかしその表情筋はすぐに引き締まる。彼は、「ありがとうございます。危ないですから遠くへ避難していてください」とキビキビした口調で返した。海老名は遠ざかっていく背中を眺める。この時無意識に口が開き、彼自身も予想しない言葉が出た。

「軽トラックが、軽トラックが停まってなかったですか。持っている車はそれだけだと言っていました。それがなかったらここにも居ないって事です」

 海老名は言ってしまってから驚いた表情を浮かべる。「そうか、それなら」と澤邊が希望を得る声を出した。しかし隊員の顔色は変わらない。むしろ一層暗く痛ましいものになった。

「残念ですが」と重苦しい声が届く。

「軽トラックは本堂の裏手で見つかっているんです。人が乗っていた形跡もありませんでした」

 隊員は告げる。それから一礼をし、今度こそその場から走り去った。

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