④
「で?」と小百合は言う。彼女は定位置であるカウンター奥のスツールに座り脚を組んだ。煙草へ火をつけつつ海老名を見る。
「これから一週間世話になるんだ。それ相応の挨拶があるんじゃないのかい」
「…金を返せ」
海老名は仏頂面で言う。
「ああ?何の事だい」
小百合は空惚けた態度で返した。
「さっきの金だ。あれは俺のモンだぞ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんたは預けられたってだけだ。和尚から店への宿泊費と諸々世話代としてこの金額を渡すと言われてる。お使いもまともに出来ないんじゃ呆れてものも言えないね」
それ以上、海老名に返せる言葉はなかった。
「こんな町もう嫌だ!」
海老名はこう言って泣き伏せる。時刻は進んで夜の九時。店の中は明るく、賑わいと音楽に満ちている。カウンターに突っ伏す肩を叩く手があった。海老名は鼻を啜りながらそちらを向く。歯の抜けた老人の締まりのない笑顔が間近に迫った。海老名は引きつった声を漏らして仰け反る。老人は酔っていて気づかないのか、上機嫌に語りかけた。
「冷てえこと言うなよ甥っ子さんよお。都会育ちにはパッとしねぇかもしれねぇが、ここにだっていいとこはあるんだ。何より俺達のマドンナがいる!お前の叔母様だぞ。羨ましいなあ」
「いけねぇ。義久の爺さんが酔ってるぞ」とボックス席から声があがる。慌てた様子で一人が立ち上がり、こちらへ走って来た。中年の男は老人の腕を掴み海老名から引き剥がす。彼は「すまんな甥っ子さん」と禿げかけた頭を下げた。
「この爺さんは小百合さんと歳が近いもんで、憧れが人一倍なんだ。親父さんが炭鉱夫だったのもあるな」
「そんなに人気があったんですか。…叔母は」と海老名は言う。遠方から訪ねて来た甥という設定はそのまま使われていた。余所者への態度が途端に柔らかくなる。小百合の人望は確かなようだ。それを証明するよう、店のそこここから肯定の声があがる。
「勿論だ。今もそうだが当時も凄かった。気っ風の良い美少女が荒くれの炭鉱夫達を叱りつけてな。真っ黒くてでかい男共も大人しくなっちまうんだ」
「男よりも女連中の方がきゃあきゃあ言ってたぞ。やれ飲み屋街で助けられただの、男なんぞより素敵だのと言ってなぁ」
「んでよ、そのお嬢様がいきなりの駆け落ち騒ぎだ。あの時は町が引っくり返ったかと思った。男は勿論女達の嘆きようったらそりゃもう…」
「駆け落ち?」と海老名は声に出す。驚きを隠せずカウンター奥を見た。小百合は持て囃されている時と変わらず澄まし顔をしている。正反対に、席を埋める男達からはどよめきが起きた。「…小百合さん、甥っ子さんには秘密だったのかい?」一人が恐る恐る言う。駆け落ち発言をした人物だ。
「隠してなんざいないよ。わざわざ話して聞かせる程の事じゃないってだけだ」
小百合は吐き出す煙と共に答える。事実、虚勢を張っている様子は見受けられない。色を乗せた瞼が半ば閉じ、流し目を海老名へ向けた。彼女は「何だ。駆け落ち者を見るのは初めてかい?」と問いかける。この時問われた海老名でない人物が会話の接ぎ穂を取った。先程海老名の肩を叩いた老人だ。
「そんな訳はねぇ。皆のお嬢さんを掻っ攫った野郎があんたの叔父なんだからな。どうだい小百合さん。こいつの面はその野郎と似ているかい?」
老人は禿頭の中年に寄りかかった状態で喚く。男達はいよいよまずいと顔色を変えた。
「おいこら爺さん、飲み過ぎだ」
「いつも酔って絡むんだから手に負えねぇ」
と口々に言い、大勢で店の奥へ押し込める。それからカウンターへ向き直り、大の男達が揃って平謝りをした。
「小百合さんすまんね。この通りだ」
駆け落ち発言の男が言う。顔色が悪かった。
「謝る事なんてない」と小百合は言う。それから悪戯めいた視線を海老名へ向けた。猛禽類じみた目がじいっと彼を見る。彼女は「そうだねぇ」としみじみ声を出した。「確かによく似ているわ。見るからに禄でもない顔なんかは特にね」
一拍の沈黙。その直後、店いっぱいに笑いが起きる。
「流石は小百合さんだ。まさかそう返してくれるとは」
「俺達のマドンナは器が違うな」
男達は口々に褒めそやしながら笑い続けた。ようやく笑い声が下火になる頃、話題は別の所へ移る。男達の一人が海老名へ問いかけた。
「そういえば、甥っ子さんは山寺んとこの二代目と仲が良いんだって?俺のカミさんが言ってたぞ」
「ああ、俺も聞いた。住む場所も世話になっているんだろう」
海老名は露骨に嫌そうな顔をする。どう答えるべきか考えあぐねた。すると、何を思ったか小百合が助け舟を出す。
「寺からはもう追い出されちまったよ。本堂に籠もる修行があるってんでね」
感嘆の声が重なる。ある者は腕を組み、深く感じ入った声を出した。
「あの二代目なら本当にやるだろうな。親父とは大違いだ」
「全くだ」とその隣に座る男が同意する。「檀家からは勿論、そうじゃなくても葬式のたんびに金を巻き上げやがって。その癖ろくに経も読みやがらねぇ。あいつの死因を聞いたか?俺はでかい病院の医者に同窓が居て知ってる。ここだけの話、酔っ払って川に落ちて溺死だとよ。山籠りをするなんて宣伝しておきながら、水筒に入れた酒で酒盛りしてやがったんだ。いかにもやりそうなことじゃねぇか」
「実際にやってるぞ。姉の旦那が亡くなった時、葬式に酒臭いまま来たってんでえらい騒動になったんだ。あん時の姉ちゃん母ちゃんの剣幕ったらなかった」
悪評は至る所から噴き出した。その数たるや夥しく、しばらくの間収拾がつかなくなる程だ。これを鶴の一声ならぬ雌鶏の一喝が黙らせる。
「あんたらいい加減にしないか。みっともないよ」と小百合が言う。
「恨みたくなる気持ちはわかる。しかしもう死んじまった人間じゃないか。立派な跡継ぎを残した事に免じて許してやりな」
多少の歯切れ悪さはあるが、男達はこれに同意する。「確かになぁ」と誰かが言った。ソファー中央に座る年長に近い老人だ。
「二代目になってからは戒名料もほとんど取られんくなった。墓の維持費もだ。これでずいぶん助かっとる」
「んだな。年寄りばっかりの田舎じゃ死んだ後の方が金がかかる。皆自分の死んだ後だけが気がかりだ。俺達からすりゃあの人は神様仏様よ」
言葉を引き継いだ壮年が冗談めかした動作で「なむなむ」と手を合わせる。倣う人間は居ないながら、全員が全員納得の面持ちで頷いた。
海老名は序盤から話題への興味を無くしている。話を半分も聞かず酒をちびちびと飲んだ。小百合は海老名を含めた男達を呆れた目で見ている。
集まりは程なくお開きになった。海老名は店内の片付けを手伝わされる。狭いながらもいくらか時間がかかった。小百合は本日分の売上金をバッグにしまい店の出口に立つ。彼女はソファーへ伸びる海老名の頭へ鍵を落とした。丁度尖った先端が額に刺さり、「痛え」と声があがる。小百合は額を押さえる彼を見下ろし口を開いた。
「店の鍵だ。外へ出る時はそれを使いな。明日の午前中に風呂を使わせてやるから、今日の所は流しで体を拭くんだね」
そう言い残し店を出ていく。ベルと共に響く扉の閉まる音。海老名はそれを聞きながら寝そべったままでいた。流しで行水をする気にもならず、うとうとと目を閉じる。浅い眠りはすぐに深くなった。
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